赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

勧進帳の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史―「越中吉岡庄」「五位庄」

🔴🔹「東大寺文書」に見られる「越中吉岡庄」⇒京都の「下鴨神社(賀茂御祖神社)」への麻布等の献納!!

2017-09-13 | æ—§ç”ºå 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●平安時代の「後白河上皇」~南北朝時代の「後醍醐天皇」迄、「越中吉岡庄」は「後院領」と呼ばれた皇室庄園で在り、その中心に在った「川人山鞍馬寺」、「延喜式内社赤丸浅井神社」には皇室所縁の寺社として絶大な権威を認められており、神社前の街道を通過する者には「下馬」、「拝礼」が義務付けられていたと伝わる。




「延喜式内社赤丸浅井神社」は「元正天皇二宮」(※実は文武天皇の二宮)が創建され、祭神には皇室の主要な神の「正一位 高皇産霊神 タカミウブスナノカミ (高木神)」が祀られている。






京都聖護院派山伏の末寺で「延喜式内社赤丸浅井神社」の別当「川人山鞍馬寺」は「越中五位庄53ケ村」から米一升を集める権利を皇室より認められていた。



■各神社に対して、庄園に対する課役・神服綿の納入を徴収する様に天皇からの倫旨が在り、文中3年(1374年)、「下鴨社」の祐坊に「下鴨社領越中吉岡庄」に付いて確実に実施する様に官庁から指示が在った。
この時期に美濃茜部庄、越中吉岡庄、越中倉垣庄から税を取り立てて「下鴨社」に寄進していた事が解る。(※「天気如此 テンキカクノゴトシ」は天皇の倫旨に使用される言葉。)




赤丸村舞谷の山林には「麻畑」と言う地域が在り、奉納する「麻」を産していたと伝わる。
恐らく、この土地が赤丸浅井神社の隣接地である為に、神官の服を作る為の「麻」を「下鴨社」や「貴船社」に納める様に朝廷から指示が在ったが、山伏で別当の「川人山鞍馬寺」が拒否していた様だ。
赤丸村舞谷には「赤丸浅井神社」の末社の「下加茂社」が勘請されており、そこは現在も「加茂宮」と呼ばれ、この神社は現在は「舞谷村八幡宮」に合祀されており、この二社は赤丸浅井神社配下の青木神官が奉仕していた。この時期にはこの「下加茂社」の本社の京都「下鴨神社」に麻布の献納が朝廷から指示されていた様だ。



▼皇室庄園の「越中吉岡庄」は南北朝末に「後醍醐天皇皇子宗良親王」が「赤丸浅井城」に入城されて「五位庄」と改名されたと伝わるが、過渡期には「吉岡庄」、「御位庄」、「御ゐしょう」、「五位庄」等と記載されている。(※「宝永誌」)、(※「東寺百合文書」)
南朝の長慶天皇の時代にこの庄園は天皇家の支配が緩んで、「室町幕府第三代将軍足利義満」の支配と成り、一時期には「東大寺庄園」として寄進されていた様だが、足利義満が死去する二年前には義満の室の日野業子の追善料として菩提寺の「相国寺」へ寄進されている。足利義満は長く続いた南北朝の分裂を纏めて合一を果たしている。
(※「相国考記」、「万山編年精要」)
足利義満は五位庄の管理を「守護畠山満家」に委ねており、畠山満家の三回忌は元、赤丸村に在った「黄金の千手観音像」を祀る「濱総持寺」で雅楽の演奏が行われて盛大に執り行われた。(※「富山県史 中世」)、(※「大須観音文書」名古屋市大須、真言宗)






▼足利義満の母「紀良子」(※月海夫人)は富山市太田の蜷川郷に蜷川城を構えた「越中蜷川氏」の血を引く事から、義満の時代には蜷川氏から出た室町幕府政所代蜷川新右エ門親当(※一休さんに登場する新右エ門)が、越中新川郡と利波郡を統治したと言う。
(※「蜷川の郷土史」)、(※「相国寺記録」)





▼様々な記録を担当した文筆書家の貴族で在った「柳原家文書」には同じ記録が在る。

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