赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

勧進帳の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史―「越中吉岡庄」「五位庄」

📚📘「東大寺庄園越中国礪波郡杵名蛭村墾田地図」と「利波臣志留志・石黒氏」⇒「越中五位庄」の古代!!

2017-06-16 | å¯Œå±±çœŒé«˜å²¡å¸‚福岡町赤丸村



「東大寺庄園杵名蛭庄」※越中国礪波郡
⇒「杵名蛭庄地参拾柒町柒段玖拾捌歩. 見開参拾柒町柒段玖拾捌歩. 神分壱段. 荒壱拾弐町伍段弐伯陸拾陸歩. 全佃弐拾伍町壱伯玖拾弐歩 」
(杵名蛭庄37町7段94歩、未開地37町7段94歩、神田1段、荒地12町5段266歩、佃25町192歩)

⇒総合計75町4段252歩で、内37町7段94歩は東大寺庄園だったが未だ未開地で在った。 又、神社に奉納される田は一段歩、荒地は12町5段266歩、「佃」と呼ばれる荘官・地頭の直営田は25町192歩で在った。 この「佃」とされるのは「杵名蛭庄図」に記載される「石黒上里」「石黒中里」等と記載される住民が住んでいた部分と見られる。荒地は敷地内の沼地等を指すか?
※「佃」;佃(ツクダ)は、中世日本の荘園公領制において、荘園領主や荘官・地頭らによる直営田をいう。年貢や公事の賦課が免除され、収穫物をすべて領主が収取した。正作・用作・手作・門田とも。本家・領家など上級領主による直営田を佃とし、荘官・地頭など下級領主によるものを正作・用作として区分することもあるが、中世当時は必ずしも明確に区分されていたわけではなかった。(ウイキペディア参照)

〇「平安遺文」古文書編東南院文書 に、東大寺文書として、「大和国十市庄 越中国礪波郡杵名蛭庄長 船木弟虫 給付状」が有り、『杵名蛭庄の庄官は船木弟虫』で在った事が記される。
『船木氏』は伊勢を拠点としたらしい。
[神八井耳命(カムヤイミミノミコト)]神武天皇の次男を祖とする。
「日本書紀」には意富(多 オオ)氏の祖。
⇒ [多(意富、大生 オオ)氏]の同族
《古事記》: 意富臣、小子部連、坂井部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫の三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊予国造、科野国造、陸奥の石城国造、常道(ヒタチ)の仲国造、長狭国造、伊勢の船木直、尾張の丹羽臣、島田臣ら19氏
















「小矢部川流域図」(※富山県立図書館蔵)







「延喜式神名帳」とは、延長5年(927年)制定の『 延喜式』の巻九・十に記載される当時の「官社」とされていた全国の神社の一覧である。

「延喜式神名帳」記載の「越中砺波郡 七社」(※国幣小社は国司から幣帛を受ける国幣社)
・高瀬神社 タカセノ 国幣小社
(富山県南砺市高瀬 越中国一宮)
・長岡神社 ナカヲカノ 国幣小社
・林神社 ハヤシノ 国幣小社
・荊波神社 ウハラノ ヤフナミ 国幣小社
・比売神社 ヒメノ 国幣小社
・雄神神社 ヲカミノ 国幣小社
・浅井神社 アサヰノ 国幣小社
(富山県高岡市福岡町赤丸)
(※越中にはこの他に、射水郡十三社、婦負郡七社、新川郡七社が在る。)
(※「延喜式」皇典講究所、全国神職会 校訂 国立国会図書館近代デジタルライブラリー)

「能越道高岡インター」を出るとすぐに高岡市和田地区が在る。江戸時代の記録では、「和田、是迄礪波郡なり、是より射水郡なり。」と記載され、和田迄が礪波郡であった。ここは往古、庄園「福田荘」(現在は「和田」という。)と呼ばれた。この地域の神社の「延喜式内社荊波神社」については「高岡市史」は「式内社を称するのはいささか疑わしい」と根拠も説明も無く否定している。地元では「延喜式内社荊波神社(ウバラジンジャ)」として信仰している神社について「高岡市史」は「十禪師社という比叡山山王七社の一つの神社」と主張しているが、地元の和田地区では、「延喜式内社荊波神社」は「天台宗妙法院領」になってから神仏混淆の「十禪師大明神」になったとし、現在は「延喜式内社荊波神社」と唱えている。
●最澄は797年,十禪師の一人として內供奉に任命されている。宮中で天皇の安穏を祈る事を職務とし天皇の病気平癒を祈り正月の御斎会で読師を勤めた。原則として地位は終身で、後に空海の甥の円珍も就任している。
●「荊波神社」は延喜式諸本で「宇波良」と有り、カナは「ウハラノヤフナミ」となっている。「荊波」書いて「ウバラ」と呼ぶのは何故か? カナの通りに考えれば、「ウバラの里に在ったヤブナミ神社」となる。
⇒日吉山王七社権現の一つの「十禅師」とは、「瓊瓊杵尊」(ニニギノミコト)を権現とし、国常立尊(クニノトコタチノミコト)から数えて第10の神であり、「地蔵菩薩」の垂迹神(スイジャクシン)とされている。両部神道で「垂迹」とは、本地垂迹説(本地仏・垂迹神)に基づき人々の救済のために仮に神の姿をして現れた仏・菩薩とされ、本地仏も神の本来の姿の仏・菩薩をいう。比叡山の山王七社の一つ。
「延喜式内社荊波神社」について県内では争論が在るのは事実だが、「高岡市史」はその根拠も示さない。「延喜式内社荊波神社」については富山県福光町岩木、砺波市にも有り、この神社は石黒氏の祖の「越中利波臣の先祖」の「日子刺肩別命」を祭神にしている。浄土真宗大谷派金色山慶誓寺の近くには「荊波神社」が鎮座し、昔は山伏「石黒山寛勝寺」が別当を勤め、この神社後方の山中には福光町指定史跡の「志留志塚」(利波臣志留志の墓)が在り、宝歴二年から大正八年迄の167年間、石黒氏が石動山修験道の山伏として別当を勤めた神社である。1653年(承応二年)「越中国式内等旧記」に「岩木富士神社 同郷(石黒郷)岩木村鎮座、称富士権現 旧社地」と有り、当初は「富士権現」(※富士山本宮浅間大社の事で本地仏は大日如来)と呼ばれたこの神社は、「1759年(宝歴九年)神社改書上帳」にはじめて寛勝寺と共に「荊波神社」として記されたと云う。加賀藩士森田柿園はその著作「越中志徴の岩木富士社」の項で、「荊波はヤブナミと呼び地元にウバ桜と云う巨木が在り、この桜から誤って荊波神社(ウバラジンジャ)と言った事著明也」と記載してこの縁起に疑問を示し、本来「ヤブナミ」と呼ぶのが正しいと云う。大正時代に寛勝寺が無くなり、宮司が城端町北野の利波氏が宮司となり、宮内省諸陵寮が「記塚経塚」(志留志塚)を調査して「利波臣志留志」の塚と認定されると、一躍、この神社に「延喜式内社荊波神社」としての認定運動が起ったと云う。この神社も当初は「富士権現」と呼ばれたが、大正になって一躍、「延喜式内社」とされた神社で有り、この神社にも明確な資料は無い様だ。しかし、福光町岩木の「荊波神社」の祭神が一時期、「富士権現」とされた事については、氏神としていた石黒氏が一向一揆に破れて福光町を追われた為に一向一揆の勢力により「日子刺肩別命」が排除されていたのではないかとする意見も有り、興味深い。しかし、利波臣志留志が荊波神社の祭神とは何にも記載されていない。(※「砺波散村地域研究所研究紀要第18号 」尾田武雄氏論考、「越中志徴」 参照)
安栄四年(1775年)三月の高山彦九郎の「乙未 イッピ の春旅」に拠れば、倶利伽羅山から越中側に降りた際に「松長よりこなたに巴と山吹が塚とて二ツ有。天池より下がる。となみ山、関の清水、ぐみの木林、卯の花山、山吹塚、塚の東に蓮沼あり。ー町の右に八幡の社あり。」と記載されている。ここで注目するのは「ぐみの木」の林が砺波山に在った事だ。「ぐみの木」は富山県内の各所に野性のものが自生しているが、この木には沢山の「荊」が生えており、赤い小さな食用の実を付け、群生して一面が緑色の野原になる。砺波山の山並みは福光に連なり、江戸時代には正にこの山並みに「荊波」が在ったらしいのだ。(※「越中、能登と北陸街道」深井甚三著)

●「荊」は明治時代に発行された漢字辞書によれば、フリガナには「スハエ、オドロ、スハブキ、ハマバエ」と記載され、オドロ(棘)とは[蕀や雑草が生い茂った]、スハブキとは[ツワブキという黄色い花が咲き葉の表面が光っている草花]、ハマバエとは[海岸の生物の死骸等に発生する蠅]、スハエとは広辞苑によると[すわえ【楚・杪】スハエ(古く「すはゑ」とも表記)
①木の枝や幹から細く長くのびた若い小枝。しもと。
【枕草子】に
[名おそろしきもの]
名おそろしきもの。青淵。谷の洞。鰭板(はたいた)。鉄(くろがね)。土塊(つちくれ)。雷(いかづち)は名のみにもあらず、いみじうおそろし。疾風(はやち)。不祥雲。矛星(ほこぼし)。肘笠雨。荒野(あらの)ら。 強盗(がうだう)、またよろづにおそろし。らんそう、おほかたおそろし。かなもち、またよろづにおそろし。生霊(いきすだま)。蛇(くちなわ)いちご。鬼わらび。鬼ところ。荊(むばら)。枳殻(からたち)。炒炭(いりずみ)。牛鬼。碇(いかり)、名よりも見るはおそろし。
②刑罰の具。杖じようやむちの類。笞しもと。
宇津保物語蔵開下「百荊してよく打たばや」]
となっており、近年考えられていた「棘のある植物、蕀」とは少し異なり、雑草、雑木、ツワブキ等の草花等を指していた様だ。又、古代の(記紀ー古事記、続日本紀)によると[荊(シバ) (紀・欽明天皇・岩波大系)]と読んでおり、雑木を指したようだ。

奈良東大寺正倉院に「東大寺庄園越中国礪波郡杵名蛭村墾田地図」が在る。この場所は独立行政法人国立文化財機構監修の「日本の美術NO521」に拠ると、「高岡市戸出伊勢領、狼、市野瀬、市野瀬新付近に比定される」としている。(※「東大寺の越中国内の庄園位地推定図」に詳しいー富山歴史館 富山新聞発行 参照)
「越中国三郡墾田野地図」には「伊加留伎村図」の左手に記載されている。図面には、東杵名蛭川、西石黒川と記載され、庄園内には「石黒川」と「速川」が走り、「石黒川」は敷地内で「速川」と分岐している。神護景雲元年の墾田地図では伍拾捌町伍段伍拾陸歩(58町5段56歩)であり、図面の南側境界線の中央部に[廿二條石黒上里]、図面中心部に「石黒中里」、左端には[廿三條荊原上里]と記載されており、この庄園は「石黒の里」を中心に開発され、東側に「荊原里」が在った。この庄園には神社が三ヵ所在った事も記載されている。高岡市内には「早川」という地区が在り、石黒氏の居城の木舟城の近くには「黒石川」が在る。これがそれぞれ「速川」「石黒川」の転化したものなら、この庄園「杵名蛭村」の位置はもう少し小矢部川沿いの立野、高田嶋地区に在った可能性がある。小矢部川が西山の麓を走っていた頃は小矢部川の対岸に在った現在の赤丸村向野新村辺り迄「杵名蛭村」は広がっていたと考えられる。小矢部市保管の古図「越中四郡絵図」と照合するとその位置関係が推定できる。天皇家の庄園「越中吉岡庄」は赤丸村から西五位を含み、後の五位庄の内「東五位」と呼ばれた地域はこの「杵名蛭庄」の地域と重なる事が考えられる。福光町吉江村自治振興会発行の「吉江の昔と今」に、「木舟城城主石黒左近の家臣高田孫兵衛は(高岡市の)高田嶋地区に住まいした。」と記されている。この様にこの地域も石黒氏の所領だったと云う。小矢部川を挟んだ「赤丸村」の対岸に在る「高田嶋」は加賀藩時代は「赤丸村領高田嶋」で五位庄の一部で有り、ここには聖武天皇の祈願社と伝わる「五位庄神社」 が今も鎮座し、赤丸浅井神社の神官が奉仕されている。赤丸村の「浅井城」は石黒氏の居城であったと云う。
(※【五位庄は、加越能三州地理志稿には東福田郷、西能登羽咋郡南庄、糸岡郷、北射水郡の間に展開せる五十六ケ村の地域を称し、以前は吉岡の庄を指称するものにして、後鳥羽院の後院から五位庄と転化したものである。】「宗良親王」越中宮奉讃会編 富山県立図書館蔵書 参照)

この図面には「利波臣志留志」が立ち会った署名が在る。利波臣は石黒氏の祖と云われるが、この時に既にこの庄園図に「石黒の里」「石黒川」の記載が在り、同図に「利波臣志留志」の署名が在った事はどのように考えれば良いのだろうか? 福光町の「石黒庄」が「石黒氏の発祥の地」とされている事との関連性はどうか? 又、新しい歴史の謎が現れた。
(※「石黒荘」は「黒い石」が在った事から「石黒荘」になり、利波臣は石黒氏を名乗ったと云う伝承がある。「速川」は「早川」とも考えられる。)
中世の福光、福野町地域には「石黒庄」と呼ばれる広大な庄園があったという。当初は、後三条天皇の祈願寺の円宗寺領であったが、鎌倉期には[山田郷・弘瀬郷]、[石黒上郷・中郷・下郷]、[吉江郷・太海郷・院林郷・直海郷・大光寺郷]の三荘に分かれていた。石黒庄は利波臣の子孫の石黒光弘等の石黒氏の本貫地とされている。石黒系図の中の「石黒信家」の一族が「石黒下郷」を根本の所領地としていたと云う。元々、武内宿彌の子孫(古事記では同族とされる。)の利波臣は蘇我氏と同族だが、藤原利仁の子孫の加賀の林氏と婚姻して、林氏の名跡を継いで以後、林氏の「藤原氏」を名乗る様になる。十三世紀半ばにはこの石黒庄弘瀬郷に「藤原定朝」と言う地頭が登場する。この一族は元々この地の開発領主だったが、円宗寺家人となり下司職に任じられていたが、木曽義仲の進出の時には所領を安堵され、鎌倉幕府では後家人となり、弘瀬郷の地頭職に任じられていた。その後は、地頭として勢力を拡げ当初は弘瀬郷41町歩強の中に地頭給田一町と一町の「重松名」を得ていたが、十三世紀半ばには十三町歩に迄し、税も二割から三割に引き上げて私腹を肥やす様になる。「領家」と呼ばれた庄園の所有者の京都仁和寺菩提院も藤原定朝の不法を幕府に訴えるが地頭は越中守護名越氏と組んで領家を圧迫したと云う。(※「改定郷土史事典 富山県」広瀬誠著)
しかし、これ等の事から見ると、年代は異なるものの、福光、福野の辺りには[石黒上郷・中郷・下郷]が在り、東大寺庄園杵名蛭庄の中には「石黒上里・中里・下里」が在った事になる。

延喜式内社のフリカナから推定すると、「荊波神社」と「延喜式内社荊波神社」は元々、別のものであり、和田の「荊波神社」は「杵名蛭村」の東側の「荊原里 ウバラノサト」、後の「福田荘」に在った神社で、福光の「荊波神社 ヤブナミジンジャ?」は福光町の石黒荘の「利波臣」の氏神であった可能性が高い。どちらも「石黒」所縁の土地と考えられ、明治以降に廃仏毀釈と国家神道の影響が強くなった為、「延喜式内社」の認定と神社の昇格運動が活発になった背景がある。「延喜式神名帳」の古記註記に「ウハラノヤフナミ」とフリガナが有るものが有り、その為に論議を呼んでいる。この註記に拠ると[「荊波神社」は「荊原」に有る。]となる。この註記に拠れば荊原里(後の福田郷)に在った荊波神社が「延喜式神名帳」記載の神社になる。高岡市の和田地区は暴れ川の庄川と小矢部川に挟まれた下流域にある。「荊」はトゲのある野バラ等の植物を指し、山野には「野バラ・野イチゴ」等が繁茂している。和田地区では、大伴家持の歌が残る「夜夫奈美能佐刀」は福田庄の「延喜式内社荊波神社」が在った地域だとしている。「杵名蛭村墾田地図」を調べるとこの庄園の中は「足原田」(葦が生えている。)、「柴田」(山野に生える小さな雑木や雑草を芝草と云う。)、「野」「未開地」となっており、農作物や、屋根材、雨具の簔等に用いた「葦」と、「燃料にする雑木」・「肥料にする雑草」を生産していた事が判る。何れも当時としては生活上の必須の資材で有り、寺社も専用の畑や山林を所有していたと云う。
【※「足原田(葦原田)」については、和田地区の「荊波神社」(高岡市和田954番地)の祭神が「瓊瓊杵尊ニニギノミコト」で有り、この神は「日本神話で、天照大神の孫で天忍穂耳尊の子。天照大神の命令で「葦原の中つ国」を統治する為に高天原から日向高千穂峰に天降ったとされる。木花開耶姫を妻として彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)=(若狭彦神社祭神)を生んだとされる。「足原」は「稲」を指すとも思われる。「葦原中国」とは日本神話においては天上の「高天原」と地下の「黄泉の国」の間にあるとされる世界ですなわち日本の国土の事であると言う。「瓊瓊杵尊」は富山県では「二上神」とされる「二上射水神社」の祭神でもある。「若狭彦神社祭神」は福井県若狭地方:小浜市所縁の神で有り、石黒氏の祖の利波臣志留志は「角鹿臣 ツヌガノオミ=敦賀」を祖とすると云われる。(古事記では両者は兄弟とされる。)高岡市和田の「荊波神社」、「二上射水神社」には「彦火火出見尊」の父の「瓊瓊杵尊」を祭神としている事から一族の「利波臣」「射水臣」の影響が窺われる。[※若狭彦神社祭神(若狭国一宮)の「彦火火出見尊」は「海幸彦・山幸彦」の物語の「山幸彦」の事。】

※「角川日本地名大辞典」には【立野村は礪波郡五位庄のうち。特産品は菅笠。立野村の隣接地に高田嶋村、渡り村、樋詰村、下開発村の他に「柴野内島」が有った。】と記載される。菅は沼地・河川に繁茂した「菅」を加工して傘にしたもの。昔は野山の雑草を腐らせて肥料にしたらしく、加賀藩の時代も「小矢部川対岸の石堤、麻生谷、柴野地区から山の柴草を運んでいた」記録がある。ここで云う柴草は山野や河川敷の雑草や山合いに流れていた「谷内川」の周辺の「葦」等も含まれていたと見られる。「葦」は同じ環境に育つ川辺の雑草の「菅」を指したかも知れない。谷内川には「赤丸清水山」から流れ出ていた京都の清水山に因んだ「愛宕の滝」が流れ込んでおり、相当な水量があって観光地ともなっていた。その谷合には観光客、保養客目当ての「谷内の湯」が開かれ、著名な温泉地で在った。従って、谷合には広大な山野草が自生していた沼地も広がっていた様だ。
※高岡市博労町の「安養山極楽寺由緒」に「五位庄に二百数十年在った」事が記載されており、「後醍醐天皇の第八皇子宗良親王が創建され、その時に地元の郷士の柴田、柴、本間氏等がお仕えした」と記載される。この地域には古くから「柴田」「柴」等と名乗る一族が繁栄し、現在も高岡市石堤周辺に柴田という一族が多い。加賀藩の時代には豪農一族がおり、村役を努めていたと云う。
※石黒氏は木舟城に「貴船神社」を祀ったとされているが、京都の貴船神社の祭神は水神である「淤加美神、または、たかおかみ神タカオカミノカミ」を祀り「たかおかみ」(※文字化けの為ひらがな記載)は「雨の下に龍」を書き、龍神を祀っている。しかし、木舟城の「貴布禰社」の祭神は水神の[罔象女命(みつはのめのみこと)]で有り、「大伴家持の後胤大伴右京持定の勘請なり」と言う由緒を持つ。この神社の神官は福岡町の佐伯神官で有り、大伴氏の一族である。石黒氏の氏神は福光町岩木の荊波神社の祭神の「利波臣志留志」の筈である。石黒氏は貴布禰社の祭神を犬に繋いで川に流して何れが助かるか競わせたと云う逸話がある。貴布禰社は石黒氏の祭神と言うより赤丸浅井神社の脇社の石堤浅井神社と同じ祭神を祀っている。「吉岡庄の地頭吉岡成佐」が木舟城の周辺の「大瀧地区」を開発したと言う伝承から、赤丸と加茂集落の間に在った吉岡谷の吉岡氏が勘請した神社であったのかも知れない。


「柴田彦四郎寄贈の赤丸浅井神社の大鏡」


五位庄立野村周辺には「柴野内島村」、小矢部川対岸には石堤村の隣地に「柴野村」が有り、古代荘園図の呼び名「柴田」の名残りを残している。推定される高岡市立野、高田嶋地区の域内には現在も三ケ所の古い神社が在り、「荊波神社」の在った和田地区の西に位置する立野地区に「福田神社」、上渡りに「八幡宮」、高田嶋地区には「五位庄神社」が在り、この周辺には60町歩位の農地は在ったであろう。(明治4年の立野村には畑2町歩、田62町歩が有ったという。未開地が多い古代にはもっと広範囲の荘園で有ったと思われる。この荘園図には但し書きに、「未開田地42町1段234歩(荒地19町6段60歩、定地22町5段174歩)、未開16町3段182歩」と記載される。)高岡市立野の鎮守「福田神社」は元「八幡宮」で八幡神を祭神とし、上渡りの「八幡宮」も現在は天照皇大神を祭神としているが八幡宮を名乗っている。高田嶋地区には「五位庄神社」が有り、「聖武天皇の御宇勅使門部連某卿が社殿を建てられ規模宏大」とする由緒を持ち、祭神は伊勢の「天照皇大神」と境内末社として諏訪神社の祭神「建御名方神」を祭る。この三社は何れも聖武天皇、東大寺との繋がりを持ち、併せて高田島地区は東大寺大仏建立に貢献した利波臣志留志の後裔の石黒氏の所領であった。この地域を開発したと推定される国人領主の池田氏は木曽義仲を埴生護国八幡宮に案内した「池田次郎忠康」の末裔と考えられており、木曽義仲は各地に諏訪大社を勘請している。この池田氏は高岡インター近くの池田地区、赤丸の総持寺旧地の周辺の池田島地区の開発を行い、高岡総持寺の敷地も寄進したとされている。この池田家には古く「イバラノ宮」と呼ぶ持ち宮が在ったが、今は旧地も農地に変わっている。この場所は高岡インター周辺の池田地区周辺と推定され、今も高岡市細池の自宅の庭にこの神社に在ったと云う「石碑」と「旧地の写真」が残されている。(※「池田家」には高岡市の総持寺に祀られている国指定文化財木造千手観音座像の鎌倉時代の「僧型の胎内仏」と、加賀藩八家の奥村家から池田与三吉に嫁いだ姫が持参した「奥村家の兜仏ー観音像」と「懐剣」も伝わっていたと云う。)
【※高岡市柴野内島の隣接地の東石堤地内に八幡社の小さい社と小さな森が在り、古老に聞くと、昔は集落の墓地になっていたと云う。この森には鬱蒼と野イバラが繁茂し、池田家に残るイバラの宮の写真と酷似しているようだ。この隣接地は池田家が開発した高岡市池田地区である。】この「石碑」とされるものは中央に円が有り「徳明」と彫られる。両部神道では「瓊瓊杵尊」の本地仏は「地蔵菩薩」である所から、元は仏像の「板光背」と見られ、一部に「バラ?」の花の模様が刻まれている。「十禪師大明神」の本地仏が「地蔵菩薩」で有り、神道では「瓊瓊杵尊」を御神体とする事から、和田地区の人達の伝承が正解で有り、高岡市史の編集者には両部神道への理解が無かっただけの様だ。場所的にもこの池田地区は和田地区の隣接地で在り、旧地が不明とされている和田の「荊波神社」の旧地がこの池田家の持ち宮の「イバラノ宮」と推定される。(和田の「荊波神社」の由緒に「福田庄10ケ村総社」とされており、古の福田庄は、現在の和田から福田六家、立野地区迄を含んでいたと思われる。)この池田家が総持寺の敷地を寄進したと伝わり、高岡市郊外の鴨島地区の一帯が古くは石黒一族の鴨島七郎の領地で在った事から、池田家は石黒氏との親族関係とも推定される。武内宿祢の系統図からすると石黒氏の祖の利波臣志留志は池田氏の祖の紀氏等と同じ「武内宿祢」を祖とする。又、木曽義仲に従った越中の国人は石黒氏の他、鴨島、向田、池田、福田等とし小矢部市から高岡市に至る国人領主が総て義仲軍に参戦していた様だ。小矢部市の今石動もその昔は「池田」という地名で有ったと云う。(※「治承・寿永の内乱論序説」浅香年木著参照、「源平盛衰記」、「池田市衛門家伝承・写真・石碑」参照)
【※「八幡宮」は応神天皇(誉田別命)の神霊で神功皇后、玉依姫を祀り、元々は「東大寺の鎮守」で有り、大仏の傍らに祀られていたと云う。東大寺大仏造営の時に九州の「宇佐八幡宮」が聖武天皇に全面協力を申し入れた為に、天皇は感謝の意を示して宇佐八幡宮に庄園を献じて東大寺大仏の鎮守社にしたとされる。高岡市福田周辺には八幡神を祭神とする神社が多い。東大寺庄園に東大寺鎮守の八幡宮を祀ったと見られる。(※「故事類苑 神祇部一」参照)→平家が東大寺を焼いたのは源氏が八幡太郎義家にちなんで八幡神を氏神とした為か?】
又、この地域には石黒氏の居城の在った福岡町「木舟」付近を通過する「黒石川」と、礪波、庄川近くから流れてくる「祖父川」が流れ、この川の下流域の小矢部川河口の高岡市内には「早川地区」が在る。「祖父川」は古い絵図(小矢部市史参照)には「ソフ川」と表示されており、明らかに「早川」「速川」から読み名が変化したものである。この辺りは小矢部川が氾濫して河川敷だった事もある。この地域こそ「東大寺庄園杵名蛭村墾田地」の絵図にほぼ条件が当てはまる様に思われる。小矢部市の江戸時代初期の「越中四郡絵図」に拠ると、木舟城の至近距離を流れていた川が「黒石川」と見られ、古い時代には現在と流れが相当異なっていた事が判る。ただ古の小矢部川は西山の麓を流れていたと浅井神社由緒に記載されており、庄園の範囲や川の位置が大きく変わっていた可能性がある。(※「越中四郡絵図」小矢部市図書館蔵 参照)
又、「祖父川」と「庄川」の間には、後に高岡城の水利となった「千保川」が流れているが、位置的にこの川の事を「杵名蛭川」と呼んでいる様だ。この河川も時代により蛇行を繰り返したとすれば、現在の「荊波神社」の周辺には水郷、河川敷が広がっていた事も想定されるのだ。



小矢部川沿いの「高岡市上渡り地区」には「五位の渡し場の石仏」と「神社跡」が残っている。




「小矢部川沿いに開発された直後の赤丸村向野新村絵図」(※「杉野家文書」福岡町歴史民俗資料館蔵)当時の河川敷は混沌としていた様子が判る。
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