赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

勧進帳の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史―「越中吉岡庄」「五位庄」

🔴📃「越中吉岡庄」~「越中五位庄」と京都の「上賀茂神社」・「下鴨神社」 !! ⇒「郷社 延喜式内社赤丸浅井神社」の域内に勘請された京都の信仰。

2017-10-15 | æ—§ç”ºå 富山県西礪波郡福岡町赤丸
「越中吉岡庄」、「越中五位庄」の中核施設「延喜式内社赤丸浅井神社」と「赤丸浅井城(※イメージ)」(※「越中吉岡庄」は南北朝時代に「後醍醐天皇八宮宗良親王」が「浅井城」に入られた時に「五位庄」に改名されたと言う。→「宝永誌」)








「宝永誌」(※加賀藩の奉行の記録)








「越中吉岡庄」には古くから「加茂社」の存在が語り継がれており、「上加茂社」は元々、旧の五位山村西五位の加茂集落(現在の加茂超願寺--富山県高岡市福岡町加茂844)に在ったと伝わる。往古、「下加茂社」は高岡市福岡町赤丸村舞谷地内に在り、現在も「加茂宮」の地名を残す。下加茂社の旧地の隣接地には「馬場」という地名も残る。現在、上加茂社は近くの「鳥倉八幡宮」に、下加茂社は赤丸村舞谷集落に在る「舞谷八幡宮」に合祀されている。京都の上賀茂神社では現在も「競馬の神事」が行われており、出走は必ず1番が京都所司代の馬を献上していた岡山県久米町倭文の美作国倭文荘から献上された馬、2番には加賀国金津荘(石川県河北郡宇ノ気町、川北郡七塚町)の2頭が走ることになっており、必ず1番が勝つ事になっている。其の後2頭づつ走り、合計20頭が走る。この競馬の維持費の為に1093年年堀川天皇(在位期間;応徳3年、1087年~嘉承2年、1107年 )により19か国20か所の荘園が寄進された。
(※京都では「上賀茂神社」、「下鴨神社」と書くが、赤丸村では「上加茂社、下加茂社」と書き慣わし、又、「上加茂、下加茂社」は延喜式内社赤丸浅井神社の末社である為、「●●社」と書き慣わしている。)

■この他にも、京都鎮護の神社の上賀茂・下鴨神社には多くの荘園が寄進され、白河上皇(堀川天皇)の1090年には上・下両社に御供田として各600余町の不輸祖田与え、越中では下鴨神社には「倉垣荘」を、上賀茂神社領として富山市の「新保荘」、高岡市福岡町赤丸周辺の「越中吉岡庄」が設定されている。(※「山野川湊の中世史」久保尚文著)
(※「白河上皇;応徳3年(1086年)から「堀川、鳥羽、崇徳天皇」の時に上皇、法王として院政を敷き、大治4年7月7日、1129年に崩御 )


「倉垣荘」は現在の富山市呉羽から射水市下村の辺りで、長く神社の所領として続き、現在も「流鏑馬の神事」を継承している。一方、「吉岡庄」はその後、藤原摂関家の荘園になり「保元の乱」(※保元元年、1156年に崇徳上皇、藤原頼長と後白河天皇、平清盛、源義朝が対立して、後白河側は上皇の屋敷を襲撃。崇徳上皇は讃岐に流され、藤原頼長は殺害された。)以後は、後白河上皇の「後院領」となり、三十三間堂で有名な「蓮華王院」に寄進され、後醍醐天皇迄、天皇家荘園として続いたが、南北朝の末期には一旦、下鴨神社領となり、南北朝期から「五位庄」と呼ばれていたこの荘園は、室町幕府足利義満によりその半分が京都の金閣寺で有名な「相国寺」に寄進され、その後は足利家菩提寺の「等持院」に寄進された。
(※「三十三間堂」は平清盛が寄進して、後白河上皇はそこに一千一体の千手観音像を祀られた。)



五位庄の加茂社は、伝承では「後醍醐天皇第八皇子の宗良親王が遠征の際に赤丸村の浅井城に在城された時に、京都を懐かしんで勧請された」と伝え、「かぞふれば七とせもへぬ頼みこし ななの社のかけをはなれて」と歌われて、後には自らの「李花集」にも掲載されたと云う。「ななの社」とは赤丸浅井神社の周辺に勧請された神社で、「浅井神社三社記」では「熊野社を十一面大士とし、八幡、清水、加茂、山王(愛宕権現社か?)、天王(北野社)」と浅井神社を加えて「七つの社」としている。この「七の社」については、海岸寄りの「牧野の地」の事であるとする説もあるが、実際にこれだけの著名な神社が在ったのは赤丸浅井神社の周辺だけで有る。(※「五位庄に於ける長慶天皇の御遺跡」赤丸浅井神社神官 川人貞良著)

加茂村と赤丸村の間に在る「馬場」は競馬の馬を養った場所と伝わり、「舞谷村」は下加茂社へ舞の奉納を行った「舞屋」が在った事から「舞谷」になったと伝わっている。上加茂社の近くの集落には、春の田植えの後の「春祭り」には、必ず「ぜんざい」を作り、その中には「丸い団子--稲の穂、細長い団子--稲の藁、平たい円形の団子--稲の株」を示す団子を入れた。「ぜんざい」は由緒として出雲では「神在祭」で食べた「神在餅」を起源とすると云う。いわゆる神事でお供えしてから各々が頂く食べ物で有る。京都の下賀茂神社では土用の丑の日に手を洗う「御手洗祭」の神事の時に団子を神棚に備えたと云う。又、鎌倉時代に後醍醐天皇がこの御手洗池で大きな泡が出た事を起源として「御手洗団子」から「みたらし団子」になったと云う。
又、吉岡庄国吉には「手洗野」という地名が在る。往古は西山丘陵の山裾を小矢部川が流れており、この場所は神事で手洗神事を行った際についた地名と思われる。
【※上賀茂・下鴨神社への荘園寄進の年代が離れているが「越中吉岡庄」は、白河上皇の時代に「上賀茂神社領」として寄進され、後の南北朝末期の長慶天皇の時代と室町時代足利義政の時代に「下鴨神社領」となった。(※「賀茂御祖神社神戸記」、「山野川湊の中世史」、「越中における中世信仰史の展開(増補)」久保尚文著、桂書房刊)参照】




■南北朝時代の「長慶天皇」の時(1374年)、「越中吉岡庄」は「下賀茂神社」(※賀茂御祖神社)の庄園に成った。


■室町時代の「第八代将軍足利義政 (在職:1449年 - 1473年) 」の時(1456年)、「越中五位庄」は再び「下賀茂神社」の庄園に成った。しかし、長禄3年(1459年)の「蔭涼軒曰録」には「足利家菩提寺の等持院、等持寺への五位庄からの年貢未進」の記録が在り、下鴨神社への寄進が短期間で在ったか、或は、射水郡内の「般若野庄」に含まれていた「五位庄の東庄」が下鴨神社に寄進され、砺波郡の「五位庄の西庄」が等持院、等持寺に寄進されていたものか?

[足利義政は長禄3年(1459年)、烏丸殿から父の足利義教が住んでいた室町殿(花の御所)へ移り将軍親政を目指したが、畠山氏の紛争等に立ち入った為に後の応仁の乱[(応仁元年、1467年~文明9年、1477年)]に繋がった。


「東寺百合文書」には「射水郡の内」として「五位庄の東庄」が含まれていたとされる。
室町時代には「五位庄」が足利義満によって「相国寺」に寄進され、その範囲は高岡市野二上山麓から福野町の野尻郷迄含まれていたとされ、この時期の「五位庄」は砺波郡の殆どと射水郡の一部迄含む広大な庄園で在った様だ。(※「東寺百合文書」)

「第3代将軍足利義満」は「越中五位庄」を「相国寺」(※塔頭「鹿苑院金閣」)に寄進した。



「五位庄」に「福野町野尻郷」が含まれていたとする「東寺百合文書」


室町時代には「五位庄」の範囲は高岡市の二上山の麓迄広がっていた。
(※「富山県の歴史」)



「第4代将軍足利義持」は「五位庄の半分を等持院に寄進した」とされる文書







徳大寺家庄園「般若野庄」の記録に在る「射水郡の内、五位庄の東庄」の記載(※年不詳)

(上記解読文)(※「東寺百合文書」)



●上賀茂神社の摂社に「貴布祢神社」がある。赤丸浅井神社の前で庄川と小矢部川が合流していたとされるが、その庄川の支流を赤丸村から遡った木舟村には石黒氏の居城の「木舟城」があったがその隣接した所に「貴船神社」が在り、この地区の「大滝村」(✳大竹村)は越中吉岡庄の地頭の「吉岡成佐」が開発したと伝わる。(※「木舟城古今誌」) 吉岡成佐は後白河上皇の「後院領吉岡庄」の地頭として源頼朝から任命され、規定通りの年貢を納めなかったとして後白河上皇から頼朝に苦情があり、頼朝により交代させられた人物である。(※「吾妻鏡」)
この開発された時に木舟に貴船神社が勘請された可能性が大きい。この頃には下鴨神社も吉岡庄に勘請された可能性が高い。下鴨神社は吉岡庄に「下加茂社」として吉岡庄の馬場地区に勘請されている。
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