赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

勧進帳の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史―「越中吉岡庄」「五位庄」

📙📃『由比正雪事件』と加賀藩⇒加賀林氏の系統に見られる「板津一族」!!

2017-09-01 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
上杉謙信から越中五位庄を安堵されていた「柴野城主 寺島牛介」の子孫の『寺島蔵人』は高岡町奉行や算用場奉行等を歴任したが、その金沢の自宅に隣接して「由比」の家が見られる。


『板津氏』は藤原利仁流加賀林系図に掲載されており、石川県小松市に「板津地区」が在る。
「慶安の変」で徳川幕府の転覆を図った「由比正雪」は本姓は「板津氏」だと言う。




「加賀藩と由比正雪反乱事件」
・「慶安の変」[慶安4年7月23日;1651年]で由比正雪・丸橋忠弥の乱が発覚し、丸橋忠弥は捕縛されて鈴ケ森で磔になる。この「槍の丸橋忠弥」は一時期、加賀藩に仕えていたと云う。加賀藩の寺嶋蔵人の知人に丸橋忠弥の知人がいた事から、蔵人はこの乱に同情を感じていたと云う。
由比正雪(―1651年)は江戸前期の軍学者で、号は正真。駿河(静岡県)の岡村弥右衛門の子。軍学者高松半兵衛の養子になり高松与四郎と称する。養父の死後江戸へ出て、浅草の菓子屋の鶴屋弥次右衛門の養子となり、楠木正成の末裔と称する楠木流軍学者の楠木不伝に師事してその養子となる。1633年(寛永10年)養父を毒殺して家伝書を盗み、牛込榎町の道場を横領して、中国の兵法家張良、諸葛孔明の名から「張孔堂」を開く。旗本、大名家の家臣、改易浪人等約3000人の門弟を集めて幕府の転覆を図ろうとするが、事前に洩れて小雪は自殺する。系図では、この由比や丸橋は加賀林氏の系統の「板津氏」の流れを汲むと云う。加賀藩侍名簿には数名の「由比姓」が見られ、当時の金沢城下の絵図を見ると「五位庄領主寺島牛介」の末裔で高岡町奉行等を歴任した「寺島蔵人」の自宅の隣人も「由比」になっている。

加賀藩算用場奉行等を歴任した「寺島蔵人」の先祖「寺島牛介」は能登守護畠山氏の家臣で、高岡市柴野城を居城とした。上杉謙信の家臣としても記録される。富山県高岡市で高岡町奉行も勤めていた「寺島蔵人邸」は金沢市の兼六園と近江町市場の中間に在り観光地となっている。













★加賀の林氏系図と越中石黒氏の関係を検証した時にこの「板津氏」が登場している。
「越中砺波郡石黒系図」に登場する「石黒光景」の子「石黒光久」は別名「福満五郎」と名乗り、「石黒光弘の弟」で、兄弟には「光延」(高楯次郎)、「成真」(泉三郎)、「安高」(水巻四郎)がいた。
(※「石黒光景」は赤丸浅井城を築いた石黒氏として歴史書に登場している。)
この「石黒光久」(石黒権大夫)※別名「福満(光)五郎」は「加賀の林貞光」の猶子となり、藤原氏を名乗った。この人物は同時に「利波臣系統の豊久」の後継者となり、その息子の太郎光興は林貞光の娘を妻としたが、その後継には叔父の(父光久の兄)光弘がなっている。光弘は木舟(貴布禰)城に住して林六郎光明の娘を妻とし、その子の弥太郎光房も林六郎光明の娘を妻としており、石黒氏と林氏は何代にも亘り婚姻を重ねていた事が判る。尚、利仁系加賀斎藤系の加賀林氏の直系は林貞光の長子の光家が直系を継ぎ、その子孫は大桑、豊田、松任、石浦、藤井、飯河、弘岡、安田、山上、横江、近岡の祖となり、光家の弟の成家の系統は倉光、白江、【板津】、宮永の祖となっている。又、越前斎藤系に加藤、後藤、美濃斎藤氏等が有る。「石川県史」の「林氏系図」に拠れば、利仁ー叙用ー吉信ー忠頼(代々加賀介ー加賀斎藤)と続き、その長男則高ー為輔(石浦氏)の系統は越中寄りの石浦荘に拠り、越中側の石黒荘の開発も進め、3代後の光景は石黒姓を名乗った様で、為輔の次男吉宗は加賀介の家系を継ぎ、林、富樫等の祖先になったとされている。これ等の姓は今も金沢近郊に町名として残り、石川県に展開した一族と富山県に展開した一族とはここで分岐した事も推測できる。加賀斎藤氏、「越中砺波郡石黒系図」の藤原氏の祖は同じ藤原利仁を祖としているが、「越中砺波郡石黒系図」(石黒荘の開発に派遣された藤原氏)の藤原氏は利仁直系で、加賀林氏は加賀介忠頼の子吉宗から分岐した流れを汲んでいると云う。(藤原叙用が「斎宮頭」となり、子孫は「斎宮頭になった藤原氏」から「斎藤」を名乗る。「石川県史」の系図では「石黒氏」は登場せず、「石浦氏」しか登場しない。いくつかの「石黒系図」では「石浦氏」の系統から石黒氏が出たとし、「石黒光久」から石黒氏を名乗ったとする「越中石黒系図」や、「石浦(石黒)五郎為輔」が初めて石黒を名乗ったとする「越中砺波郡石黒系図」がある。)

★世界大百科事典 第2版参照
【丸橋忠弥】?‐1651(慶安4)
江戸前期の浪人。慶安事件の参加者の一人。俗書では出羽の人とするが,下級幕臣の子であったと思われる。一時加賀前田氏の家臣に奉公していた。宝蔵院流の槍の達人で,江戸御茶ノ水に道場を開いていた。1651年由比正雪の幕府に対する謀反計画に加わり,江戸城攻撃を受け持つが,訴人があって,同年7月23日捕らえられ,8月10日品川の刑場で磔刑(たつけい)に処せられた。【藤井 譲治】 実録本《油井根元記》(1682年序),《慶安太平記》(幕末成立)などのほか,講談でも早くから事件を潤色,丸橋忠弥は主要人物の一人として描出された。

★中津川市蛭川の「南朝神社」に残る「板津若狭守 由井正雪」の文字
由比正雪は「楠木流軍学」を講じて南朝の復活を夢に見て、紀州徳川家を巻き込んで反乱を企てたが、事前に計画が漏れて自刃した。
中津川市には「南朝神社」が在り、その神社の鳥居には「板津」・「由比正雪」の寄進者の名前が彫り込まれている。
(※YouTube参照)



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🏯🌄 越中国「二上荘」の高岡市(關野)と石黒氏 ! !

2017-09-01 | 富山県高岡市



















「高岡開町之図」(※「高岡史料」)



●総持寺や瑞龍寺の一画は、五位庄赤丸村の代々池田市衛門と名乗る「市衛門家が寄進したもの」と伝わる。この一画には赤丸村から移転した「総持寺」「天景寺」や宇多刀鍛冶の氏神の「鎚の宮」、國吉村(細池村)からは「光慶寺」が移転している。恐らく、瑞龍寺の敷地にも赤丸村から移った寺が在ったので、この一帯は全て「市衛門家」の領地で在ったものと考えられる。前田家は能登末森城で利家と戦った赤丸勢の池田氏の用地を占領して、意図的に赤丸村から動いた寺院を強制的に移転させたものと見られる。赤丸村の肝煎池田氏は加賀藩から難癖をつけられて「所払い」になり、國吉村の四十九村に動き、更に現在地の細池村に動いたと云う。赤丸村の領地や財産は全て弟の五右衛門が継ぎ、肝煎を務めたが、納税額を記した「村御印」と云う命令書を紛失したとして「手鎖の上入牢」の罰を受けて、結局身体を壊して亡くなった事が「高岡市福岡町民俗資料館」の「杉野家文書」に記録されている。
尚、この細池村には、現在、赤丸村から移った「市衛門屋敷」がある。
【註】「瑞龍寺」は金沢から移った「法円寺」が改称したもので、旧地には「天景寺」、「雲龍寺」、「広乾寺」、「宗圓寺」、「繁久寺」の五つの曹洞宗寺院が在ったがこれ等を強制的に移動させて建立されたものだ。従って、この寺はこの一帯を占領した前田家が「みせしめ」の為に造られたと言う背景が在った様だ。
⇒「天景寺」、「雲龍寺」、「宗圓寺」は五位庄赤丸村、加茂村からこの地に動いたが、加賀藩は元々在った五つの寺院を強制的に移動させて、その跡地に瑞龍寺を建立した。「宗圓寺」はその「寺院由緒」で「赤丸村から移った。」と記載し、「瑞龍寺を建立した時に移転させられた事」を記載している。ここには、前田家の宗教政策、占領政策が垣間見られるのだ。これ等の各寺社は、その由緒で「瑞龍院様より用地を賜って移転した」と記載しているが、実際は狭い敷地に追放されていたのだ。事情を知らない市民や高岡市は、後世、この事を「加賀藩の善政」として伝え、破れた佐々成政は「愛妾の小百合姫を嫉妬に駈られて惨殺した」とする「小百合伝説」を流布したものだ。現在も高岡市の伝説としてこの物語が高岡市の文書に見られる。「高岡市の歴史」は「加賀藩の歴史」であり、「曳山祭り」や「銅器産業の歴史」が語られる時には必ず「前田家の善政」として 誇張や時には笑止な嘘を交えて語られる。従って、高岡市の歴史は表向きの、嘘も交えたこの歴史しかあり得ないのだ。
●現在の高岡市は「射水郡」と「礪波郡」の各一部を含み、何れも「武内宿彌」の末裔「射水臣」「利波臣」の開いた地区とされる。(※「福井県史」中世)




「越中石黒系図」に拠れば藤原利仁系の藤原氏を祖とすると言い、別系図では孝霊天皇系の「日子刺方別命」の子孫とされる。石黒氏は、諸系図を合わせ検討すると、石黒荘の荘官として派遣された藤原利仁系藤原氏を祖とし、傍流の福満五郎の系統の「石黒光久」は加賀富樫氏同族の藤原利仁系の加賀林氏と縁組して「加賀林氏」(石浦氏)を引き継ぎ、併せて越中の皇室系古代氏族の「利波臣」の名跡を継いで、藤原系、利波臣系両方を継いだ。この系統は織田信長に本家筋が暗殺された後も、前田利家に従い加賀藩士として存続した。一方、本家の系統は先祖を藤原氏と名乗り、一向宗門徒と争い福光城で滅亡している。又、越中に後醍醐天皇の皇子宗良親王を御迎えした石黒重之の系統は宗良親王に従い尾張に逃れて長谷川大炊助重行と名乗り、現在の名古屋市北区に「如意郷」を開いて「如意城」を居城として、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に臣従した様だ。「如意城」の跡には「瑞應寺」が建っている。又、すぐ近くには佐々成政の故城の「比良城」の跡がある。(※「浪合記」参照)
安土城古図には「長谷川屋敷」が見られ、織田信長の重臣だった様だ。又、長谷川氏は兄弟で織田信長に仕え、信長が弟の信行を討った時にも長谷川氏が手を下したらしい。
守山城の神保氏張の家臣として魚津で上杉軍と戦い、後に加賀藩に士官した石黒釆女の子孫は秋田県角館に逃れて、その系統は現在も存続している。)
※石黒諸系図を統一したものは無く諸説がある。


平成28年金沢市の古書店で発見した「石黒釆女」の知行記録。金沢の大衆免村(現在の元町。肝煎本岡三郎右衛門)で石黒釆女は加賀藩から60俵の加増を受けている。


高岡市の二上山山麓の二上射水神社に祀られている「二上神」の祭神「瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)」は「射水国造」の祖神とされる。
現在は高岡市の古城公園の一画に「射水神社」が有り、二上山の地には「二上射水神社」が鎮座する。

昭和47年発行の「高岡史料」に拠れば、「上古、塞口ノ郷と称し、中古に關野又は關野ケ原等と称し、[二上ノ荘]の一部たりしなり」とし、「越登賀三州志](※富田景周 著)には「關野ケ原 在射水郡關野 又 志貴野 トモ舊記ニアリ 今ノ高岡ノ舊號ナリ」とし、「郷庄考」には「狭野なるべし 狭き事を古言 セキ といへり 」として「狭い野原」の事と云う。
これから、「上關」、「下關」、「狭野」と分かれ、石黒一族の鴨島七郎の所領の「鴨島町」、庄川支流の千保川周辺の「川原町」等が残っていると云う。
注目すべきは、高岡市が「射水郡」の「二上ノ庄」の一画でありながら、「射水臣」の同族「利波臣」末裔とされる石黒一族が地頭として繁栄した事だ。
射水臣は氷見方面で松原氏やその一族の小浦氏等が残っているが、氷見は八代氏(屋代)や肥後の菊池氏の末裔が繁栄し、中央では射水氏の三善為康の子孫が鎌倉幕府評定衆として活躍しているものの、越中では石黒氏が海岸線の牧野、二上、關野等の小矢部川、庄川の水運や海運の拠点を地頭として押さえていた。→千保川沿川の「鴨島地内」には寿永年間(1182年~1183年)に石黒氏同族鴨島七郎の所領が在ったと云う。その隣地の「關町」は源平盛衰記に登場する五位庄赤丸村の国人池田氏の所領で在ったと見られる。⇒総持寺用地は池田氏の寄進と云う。池田氏は古代氏族「利波臣」の同族の紀氏から出たと云う。(※「治承寿永の内乱序説」浅香年木) ⇒古来、「赤丸浅井神社」の周辺にはこの池田一族と石川一族が住み、浅井神社の神域には墓地もある。赤丸浅井神社の創建は石川朝臣広成と云われ、「続日本紀」には、文武天皇の「嬪」で在った蘇我氏の「石川刀自娘」と紀氏の「紀竈娘」は藤原不比等の陰謀で廃されて息子の石川朝臣広成も追放されている。石川朝臣広成は元正天皇の配慮で親王として恭仁京で「内舎人」となり、後に「高円朝臣」と賜姓されている。
又、「高岡」命名について「越登賀三州志]は、【諸説があり、通説の「鳳凰鳴けり高き岡に]から来ているとする説も、「何是證哉」(証拠が無い)】としている。加賀藩の歴史学者が述べた意見は真摯に検討する必要があるだろう。

※【三善為康】永承4年~保延5年(1049‐1139)平安後期の文人官吏。本姓は越中国の射水氏。上京し算博士の三善為長に師事して三善家の養子となった。少内記,算博士,諸陵頭などを歴任している。

【「高岡史料」記載の石黒氏】
「越登賀三州志」;越中の士…加茂嶋七郎…井口三郎光義ハ越中ニテ中古諸氏ノ祖 其ノ先斎藤氏ヨリ出ズ 石黒、高楯、野尻、福満、向田、泉、水巻、中村、福田、吉田、鴨嶋、宮崎、南保、入膳、皆是井口氏の庶流。

「越中舊記」;鴨嶋七郎ハ礪波郡福光ノ城主石黒太郎ノ別レニシテ 此ノ所ノ地頭トナリテ 在住ス 今ノ高岡鴨島町ノ後ロニ 其第跡アリ

⇒關野の原は戦国時代、即ち、永祿より元龜、天正の間において幾度か上杉謙信の馬蹄に蹂躙せられ、越中郷土の軍兵能く之と對陣し、一勝一敗の戦場たりしことありしと傳う。

石黒氏の傍流として射水郡二上庄(鎌倉期、庄域に二墓保[二塚保 フタツカホ ]を含む )の地頭として鎌倉幕府に訴えを起こした石黒弥三郎の訴状に対する執権北条経時からの呼び出し状が残されており、射水郡二上庄は鎌倉時代に石黒氏が地頭であったことが判る。

【二上荘の記載】(角川日本地名大辞典)
『※「関東御教書」寛元二年十二月二十四日 ⇒ 当荘雑掌より申し出された問注について幕府は、当荘預所と石黒弥三郎との参決を命じている。(久能木文書/大日本史料)』
『※「室町幕府奉行人連署奉書案」寛正六年三月二日 ⇒ 「土御門三位有季申 越中国二上荘領家職御譲位以下要脚段銭之事」と有り、幕府は当荘を菅掌している土御門有季の言上を受け入れ、御料所である当荘の段銭を免除している。(土御門文書/県史 中世)』
『※「土御門有宣言上状案」文明十八年四月 #戦国期 ⇒ 「越中国二上庄年貢運送之時、去 文明十六年十二月仁本願寺門徒於賀州号国質、無謂押置之、干今不渡之条言語道断次第也」
…運送途中の当荘年貢が加賀一向宗門徒に押領され、かつ波多野因幡守らが荘内請口の地子(利息)を滞納するなどで、有宣の知行分収納賀困難になってきた事が知らされる。』


又、石黒氏が後醍醐天皇の皇子宗良親王を射水郡の牧野に迎えたと云われ、隣接の「二上荘」の鴨島は石黒一族の鴨島七郎の所領であり、高岡市(五位庄)高田島地区は同族の高田孫兵衛の所領であったと伝わる所から、鎌倉時代には海岸から高岡にかけての射水郡も石黒氏の勢力下にあったものと見られる。(※「福光町吉江村の昔」)
しかも、古く立野、高田島辺りも「東大寺杵名蛭村荘園図」を精査するとこの辺りに比定され、この図面の中には「石黒上里・石黒中里」という地名が記載れており、古くからこの辺りに石黒氏が展開していた事が推定される。

【加賀藩統治下の二上庄】
加賀藩士富田景周(平の景周)の著書の「越登賀三州志」(※「圖譜村籍巻之三」)に拠れば、加賀藩時代に「二上庄」は以下の範囲で在った。


「二上庄六十五村曁オヨビ垣内二十七處 外無家。十二町分・二塚新村」

三ケ新、六渡寺、中伏木、六渡寺新、吉久、吉久新、下牧野、上牧野、宮袋、高木、川口、大門、田町、大門新町、東廣上、西廣上新、西廣上、上伏間江、下伏間江、深澤、赤祖父、大野、井口本江、出来田、百米木、枇杷首、川原町、蓮花寺、三女子野、上野下田、野村新、石瀬、上石瀬、角、新田、能町、橋場、来島、上来島、鷲北新、北村、荻布、江尻、掛開発、向野、湶分アワラブン、高湶、中川、端、下田町關、鴨島、上關、京田、下黒田、上黒田、林新、東藤平蔵、林、二塚、三木松 鎧 三屋、十二町島、北蔵新、西藤平蔵、紅屋 龜島、佐野、上佐野 雙川佐野ソウカワサノ 西佐野、木津、東村、羽廣、出村、北島、早川、島、横田、新田、内免新、四屋川原、長慶寺、河野、波岡、長江新、大屋、高岡町、木町、土器町、
「二上庄内下四條二十村曁垣内九處」
五十里、道重 百橋 板屋、須田、西海老坂、東海老坂、守山町、渡、下八ケ新、守護町、守護町新、二上、上二上 谷内、二上新、城光寺、矢田、谷内手、矢田新、串岡、矢田串岡新、古府、石坂、伏木、定塚、國分、一宮、新村

⇒この中には「福田・立野地区」は含まれていない。現在、旧立野村の町中の地域に「福田神社」がある事から、古くは「立野村」と「福田村」は密接で、立野村が村立される前には「福田郷」の一画で在ったと見られる。高岡市佐野は古くから開けていた地域で、福田地区も「福田郷」として古くから開けていた地域の様だ。









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🔴『赤丸浅井神社』の古い墓碑銘と越中での石川朝臣の展開!!

2017-09-01 | 富山県高岡市福岡町赤丸村
「延喜式内社赤丸浅井神社」の神官を47代も務めた川人家の墓所には「郎女」の名前が入った墓碑銘が有る。創建は700年代に元正天皇の第二皇子が創建されたと伝わる所から、この墓碑銘も皇族に連なる女性かも? ……と思ったら、神道では亡くなった女史には[郎女 イラツメ]の尊称をつける様だ。



「赤丸浅井神社」の創建は「元正天皇の二宮」とされ、元正天皇は文武天皇の姉で、文武天皇が早逝された為に、皇統譜上では文武天皇の中宮に擬せられて女性で有りながら、女帝に就任されたと云う。
元正天皇は未婚で、聖武天皇の母代りになった方で、二宮というのは文武天皇の第二皇子の「石川朝臣広成」が該当する。「石川朝臣広成」は万葉集に3首の和歌が掲載されており、この石川氏は蘇我氏の一族で蘇我石川麻呂の子孫である。蘇我氏は蘇我入鹿や蝦夷が誅殺された為に、以後、慎んで「石川氏」を名乗った。石川朝臣の一族が大伴家持の前後に越中国司をしていたり、左大臣を務めた「石川朝臣豊成」が高岡市と射水市大門町の間に在ったとされている「東大寺庄園鹿田荘」の隣地に名前が記載されている事から、当時は、越中には[石川朝臣]の一族が展開していた様だ。「石川朝臣広成」は後に更に「高円朝臣広世」と賜姓されている。
ちなみに、「石川県」と云う名前は、蘇我氏の末裔が「石川郡」に住み着き、「石川県」の名前の由来になっていると云う。

『赤丸浅井神社』には「宮様、京のみやびをこの地に移され…」と伝承されている。『赤丸浅井神社』の背後の『清水山』には、京都清水寺の千手観音像を写した石像が祀られる『観音堂』が在り、その右には清水寺の『音羽の滝』と名付けられた大滝が在った。又、近くには、『下加茂社』や『上加茂社』、『熊野社』、『愛宕社』等の都の著名な神社や『鞍馬寺』等の仏閣も勘請された。加賀藩第十三代前田斉泰公は「赤丸浅井神社」を信奉されて『浅井神社』の額を寄進し、加賀藩の板橋宿「江戸下屋敷」には、この山並みを模して「赤丸山」と名付けた築山も造られている。




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