文理両道

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文学の読み方

2017-07-16 12:45:17 | 書評:学術・教養(人文・社会他)
文学の読み方 (星海社新書)
クリエーター情報なし
講談社

・さやわか

 実は私は、「文学」という奴がよく分からない。大学には「文学部」というのがあるくらいだから、なんとなくそんなものがあるのだろうというのが世間一般の考え方ではないのか。しかし、これを少し突き詰めて考えると果てしなく疑問が湧いてくる。いったい「文学」とは何なのか。フォークシンガーのボブ・デュランがノーベル「文学賞」をもらってしまう世の中だ。こうなると、「文学」というものが、ますます分からなくなってくる。

 いったい何を持って、「文学」とそうでない小説を区別しているのか。一般的な小説と「文学」には、どのような違いがあるのだろう。その中でも特に謎なのが、「『純』文学」というものだ。『純』とは、どのような意味で『純』なのか。また、一般に文学作品と呼ばれるものは、どうしてあれだけ面白くないのだろうか。私にとっては、ミステリーやSF(ファンタジー含む)、ラノベの方がよほど面白い。

 私は日本の「文学」作品など、ほとんど読む気が起らない。単純に面白くないからだ。多少の例外はあるが。文学好きというような人が褒めたたえる、漱石だって、太宰だって、春樹だって、まったく食指が動かないのである。

 世の中には、色々な「文学賞」というものがある。中でも、「直木賞」と「芥川賞」はその双璧といってもいいだろう。しかし、選ばれた作品を読んでみようとしても、多くは、あまりにもつまらないので、途中で放り投げてしまう(これにも、若干の例外はあるが)。同じ作家が書いたものでもっと面白いものがあるのに、どうしてこの作品が選ばれたのか。文学賞というのは、その作家の作品で特に面白くない小説を選ぶ賞なのかとたまに毒づいたりもする。

 本書を読んでその原因の一端が分かったような気がする。著者はそもそも文学とは明治時代に、二つの錯覚から始まったという。その二つとは、

< ①「文学とは人の心を描くものである」
  ②「文学とは、ありのままの現実を描くものである」 >(p50)

 確かに日本には物語の伝統がある。しかし、源氏物語の光源氏にしても、ありのままの現実を描いているものではない。竹取物語などはもっとこの定義から外れる。月から来て、月に帰ることに、どのような現実があるというのか。そして、この誤解をつきつめていけば、日本の文学とは、(日本的)自然主義だとか、私小説といった変な方向に突き進んでいくことになるだろう。そしてSFなどは文学ではないということになってしまう。

 もっとも、このような定義が今根付いているかということになると少し疑問だ。本書中には、文学賞選考委員たちの選評なども紹介されているが、「文学」というもに対して共通の認識があるようには見えない。結局皆が「俺流」なのだ。要するに先に権威を勝ち取った者の勝ちとなるような世界で、そこには絶対的な基準など存在しないのである。つまりは、「文学」の世界とは「言った者勝ち」の主観文化が支配しているようなところなのだろう。

 著者は、あとがきのなかでこう述べている。

<文学とは曖昧なものだ。むろん、それに気付いている人も多い。ただ、文学に確固とした姿があるように思っている人も、いまだに多いのだ。>(p249)

 だから私たちは、人の評判など気にする必要はない。もともと曖昧なものだから、自分の基準で、気に入ったものを読んでいけばいいのである。それが「文学」であるかどうかなど、人に決めてもらう必要などないし、そもそも「文学」かどうかなんで考える必要もないのだろう。

☆☆☆☆

※初出は、「風竜胆の書評」です。
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