石油の内外情報を読み解く

内外の石油・天然ガス関連のニュースをウォッチしその影響を探ります。(元ジェトロリヤド事務所長 前田高行)

ニュースピックアップ:世界のメディアから(9月28日)

2016年09月28日 | 今日のニュース

・米からシェールガスの第1船、英スコットランドに到着。国内シェールガス田開発に一石

 


この記事をはてなブックマークに追加

見果てぬ平和 - 中東の戦後70年(39)

2016年09月28日 | 中東の戦後70年
3.イラクのクウェイト進攻と湾岸戦争(西暦1990年、ヒジュラ暦1410年)
 ヒジュラ暦1400年、西暦1980年に始まったイラン・イラク戦争は、地上戦では一進一退の消耗戦の様相を呈し、またペルシャ(アラビア)湾では互いが相手の石油積出施設を空爆、さらにイランがペルシャ湾を航行する石油タンカーを攻撃し、ペルシャ湾の入口であるホルムズ海峡の封鎖をほのめかすなど事態はエスカレートしていった。しかしようやく1988年になって両国は国連の調停案を呑み停戦にこぎつけた。この時、イランのホメイニ師が停戦の受諾は「毒を呑むよりつらい」と語ったのは有名である。
 
 イラン・イラク戦争はイラクにも大きな犠牲を強いた。内政は崩壊の一歩手前であった。しかしフセインは一筋縄ではいかぬ独裁者である。彼は災いを逆手にとって権力保持に突っ走った。国内では強権的手法を一層強め、二人の息子を使って部下には忠誠を強要し、南部のシーア派、北部のクルド族それぞれの住民を弾圧した。フセインと彼の忠実な部下たちは国内では少数派のスンニ派である。彼らは権力を失うと過酷な報復が待っていることを自覚している。だから部下たちはフセインの命令に絶対服従を誓い、反政府勢力を弾圧した。絶対的独裁政権が意外と強固なのはそれなりの理由があると言えよう。
 
 対外的にもイラクはクウェイトやサウジアラビアに多額の負債を抱え財政破たんの状態であったが、フセインは両国からの借金返済要求も無視した。彼に言わせれば、今回の戦争はスンニ派を代表してシーア派のイランと戦ったのであり、イラクは兵力を供出し、スンニ派産油国が戦費を負担するのは当然である、ということになる。過去の歴史を見ても戦争に費やした金は常に戦勝国が敗戦国から搾り取るものであって同盟国が他の同盟国に戦費の返還を求めた例は無い。それが国際外交で通用しなくなったのは第二次世界大戦後、豊かで鷹揚な米国が敗戦国を搾取することを禁じたからである。そこには第一次世界大戦で戦勝国フランスが敗戦国ドイツを搾り取り、その結果がナチスの台頭を許し第二次世界大戦につながったという苦い経験もあった。フセインの言い分は無茶苦茶なものではあるが、それなりの理屈が無くはない。「盗人にも一分の理」とでも言うべきであろうか。
 
 停戦の翌年イランのホメイニ師が86才で波乱の生涯を終えた。イランはその後ますます国際的孤立を深める。フセインが次に狙ったのは南の隣国クウェイトであり、さらにアラブの覇者となるための絶対条件ともいうべきイスラエル打倒であった。彼はまず手始めにクウェイトを狙った。クウェイトは貸し付けた戦費の返済をしつこく迫っており(クウェイトにすれば当然の要求だったが)、また同時に当時のOPEC(石油輸出国機構)加盟国の中で安値販売の先頭を切っていた。戦災復興を急ぐためできるだけ高値で原油を販売したいイラクにとってクウェイトは目障りな存在であった。フセインは兵力をクウェイト国境に集結し圧力をかけた。
 
 しかし当のクウェイトを始め国際社会はこれを単なる脅しとみなし、フセインがまさかクウェイトに進攻するなどとは考えていなかった。アラブ連盟の緊急会議が開かれたとき、弁明に立ったイラク外相は極めて穏やな話しぶりであったと言われる。アラブ諸国は話し合いで事態が解決すると信じた。さらに当時の米国大使もフセイン大統領と面談したが、大統領の物腰は極めて紳士的であったため、大使はイラクに戦争の意思なし、と本国に誤ったシグナルを送った。
 
 状況を見誤ったのはフセイン大統領も同じであった。彼はイラクがクウェイトに進攻してもアラブや欧米諸国が強硬手段をとらないと踏んだ。こうして1990年8月未明、フセインは国境に配備した部隊にクウェイト進攻を命じた。寝耳に水で慌てふためいたのはクウェイトの支配者サバーハ家である。寝込みを襲われた首長を始めとする王家一族は命からがら国境の南サウジアラビアに逃げ込んだのであった。クウェイト国内では戦闘らしい戦闘もなく、わずか半日でイラク軍に制圧された。イラクのクウェイト占領は翌年1月の湾岸戦争まで約半年間続く。この間、日本人を含むクウェイト在住の外国人はイラクに拉致され「人間の盾」とされる災難に遭うのである。
 
 イラクのクウェイト進攻が国際社会の誤算だったとするなら、その後国際社会が一致してクウェイト解放を唱えたことはフセインの思わぬ誤算だったと言えよう。フセインはクウェイトがもともとイラク南部バスラ州の一部であったと主張したが、戦後半世紀が経ち世界各地に生まれた国民国家を尊重する国際社会の中にあっては力ずくの領土併合は到底認められないことであった。11月には国連安保理で武力行使を容認する決議が採択された。米国を中心とする多国籍軍が編成され、アラブ諸国からはサウジアラビアなど湾岸君主制国家やイラクと同じバース党が支配するシリアも連合軍に加わった。イラン・イラク戦争では巧妙な戦略で全世界を味方に引き込んだイラクが、今度は全世界を敵に回したのである。
 
 翌1991年1月多国籍軍はバクダッドを始めイラク軍の陣地を空からミサイル攻撃した。ミサイルが標的に向かう一部始終はテレビ中継され、世界中の人々はそれをまるでテレビゲームのような感覚で眺めていた。「湾岸戦争」の始まりである。2月には地上部隊がクウェイトそしてイラクに怒涛の如く進撃した。イラク軍は潰走、100時間後には多国籍軍は戦闘行動を停止し停戦を宣言した。
 
 この時多国籍軍はイラクの首都バクダッドを目前にし、あと一押しでフセイン政権を倒すことができた。敬虔なキリスト教徒であり十字軍気取りのブッシュ(父)米国大統領は異教徒の独裁者フセインを葬り去ることを強く願ったはずである。しかし国連決議はあくまでクウェイトの解放であってイラクのフセイン体制打倒を認めたものではなかった。イラクのことはイラク国民に任せるという内政不干渉の鉄則が戦闘を停止させた。付言するなら父ブッシュ大統領の悲願は10数年後に息子のブッシュ大統領が「イラク戦争」という形で実現したのであった。
 
 フセインはよくよく運の強い男である。彼は湾岸戦争を生き延びてさらに10年以上イラクで独裁者として君臨することになる。
 
(続く)
 
本稿に関するコメント、ご意見をお聞かせください。
 荒葉一也
 E-mail; areha_kazuya@jcom.home.ne.jp
 Tel/Fax; 042-360-1284, 携帯; 090-9157-3642
 
 

この記事をはてなブックマークに追加

減少に転じた埋蔵量:BPエネルギー統計2016年版解説シリーズ(石油+天然ガス篇7)

2016年09月27日 | BP統計

(伸びる天然ガス、2015年の石油と天然ガスの比率は60対40!)

(3)1990年~2015年の生産量の推移

(図http://members3.jcom.home.ne.jp/maedaa/3-2-G02.pdf 参照)

 1990年から2015年までの世界の石油と天然ガス合計生産量の推移を追ってみると、1990年の生産量は9,954万B/Dであり、その内訳は石油6,539万B/D、天然ガス1.98兆㎥(石油換算3,415万B/D)であった。その後1992年には合計生産量が1億B/Dを突破、2008年に1億3,575万B/Dに達するまで一貫して増加している。2009年には若干減少したが、2010年から再び増勢に転じ2015年の石油と天然ガスの合計生産量は過去最高の1億5,265万B/D(内訳:石油9,167万B/D、天然ガス3.5兆㎥)を記録している。

 

 1990年と2015年の生産量の伸びを比較すると、合計生産量では1.53倍、石油と天然ガスのそれぞれの増加率は石油1.40倍、天然ガス1.79倍であり、天然ガスの生産が急速に伸びていることがわかる。これを比率で見ると1990年には石油と天然ガスの比率が石油66%、天然ガス34%であったものが、その後天然ガスの比率が徐々に拡大し、2015年には石油60%、天然ガス40%となっている。現在天然ガスについては米国におけるシェールガスを含め世界各地で開発生産が活発に行われており、またパイプライン、LNGによるサプライチェーンも急速に整備拡充されている。従って生産に占める天然ガスの比率は今後更に高まるものと思われる。

 

(続く)

 

本稿に関するコメント、ご意見をお聞かせください。

        前田 高行         〒183-0027東京都府中市本町2-31-13-601

                               Tel/Fax; 042-360-1284, 携帯; 090-9157-3642

                               E-mail; maeda1@jcom.home.ne.jp


この記事をはてなブックマークに追加

減少に転じた埋蔵量:BPエネルギー統計2016年版解説シリーズ(石油+天然ガス篇6)

2016年09月25日 | BP統計

(石油、天然ガスともに米国が生産量世界一!)

(2)国別生産量

(表http://members3.jcom.home.ne.jp/maedaa/3-2-T01.pdf 参照)

 生産量を国別に見ると、世界で石油と天然ガスの合計生産量が最も多い国は米国である。内訳は石油が1,270万B/D、天然ガスは7,673億㎥(石油換算1,322万B/D)、合計では2,593万B/Dで、同国は石油生産量、天然ガス生産量ともに世界トップである。

 

 米国に次ぐ世界第二位の生産量を誇るのはロシアである。同国は石油は世界3位、天然ガスは世界第2位であり、石油生産量は1,098万B/D、天然ガス生産量は5,733億㎥(石油換算988万B/D)、石油と天然ガスの合計生産量は2,086万B/Dである。2014年の米国とロシアの生産量はそれぞれ2,419万B/D及び2,081万B/Dでロシアの生産量が伸び悩んだのに対して米国は200万B/D近く増加しており両国の差は拡大している。

 

 両国が世界全体の生産量1億5,265万B/Dに占める割合は米国17%、ロシア13.7%であり、2か国で世界の3割を占めている。因みに埋蔵量については(前章参照)ロシアは世界4位に対して米国は世界9位である。

 

 生産量第3位はサウジアラビアの1,385万B/Dである。内訳は石油1,201万B/D、天然ガス1,064億㎥(石油換算183万B/D)でありロシア或いは米国に比べて石油の比率が圧倒的に大きい。4位から10位までの生産国は、4位イラン724万B/D(内訳:石油392万B/D、石油換算天然ガス332万B/D。以下同じ)、5位カナダ720万B/D(石油439万B/D、天然ガス282万B/D)、6位中国669万B/D(石油431万B/D、天然ガス238万B/D)、7位カタール503万B/D(石油190万B/D、天然ガス313万B/D)、8位UAE486万B/D(石油390万B/D、天然ガス96万B/D)、9位イラク405万B/D(石油403万B/D、天然ガス2万B/D)、10位ノルウェー397万B/D(石油195万B/D、天然ガス202万B/D)となっている。

 

 11位以下20位までの国を列挙すると、メキシコ、クウェイト、ナイジェリア、ベネズエラ、アルジェリア、ブラジル、インドネシア、カザフスタン、マレーシア、アンゴラの順である。

 

(続く)

 

本稿に関するコメント、ご意見をお聞かせください。

        前田 高行         〒183-0027東京都府中市本町2-31-13-601

                               Tel/Fax; 042-360-1284, 携帯; 090-9157-3642

                               E-mail; maeda1@jcom.home.ne.jp


この記事をはてなブックマークに追加

今週の各社プレスリリースから(9/18-9/24)

2016年09月24日 | 今週の新聞発表

9/20 出光興産 ノルウェー領北海 探鉱鉱区で試掘に成功 
9/21 経済産業省 IEA(国際エネルギー機関)による国別詳細審査報告書が公表されました 
9/22 Gazprom Gazprom discovers new field on Sea of Okhotsk shelf 


この記事をはてなブックマークに追加

ニュースピックアップ:世界のメディアから(9月23日)

2016年09月23日 | 今日のニュース

・ドル安で原油価格上昇: Brent $47.27, WTI $45.81

・イラクSOMO総裁、来週のアルジェ産油国会合に期待感。但し専門家は懐疑的

・ロシアGazprom、サハリン沖Kirinskoye鉱区で天然ガス発見。 *

・リビアLanuf港からの出荷、2014年暮れ以来の再開

 

*Gazpromプレスリリース参照。

http://www.gazprom.com/press/news/2016/september/article284451/

 

 

 


この記事をはてなブックマークに追加

減少に転じた埋蔵量:BPエネルギー統計2016年版解説シリーズ(石油+天然ガス篇5)

2016年09月22日 | BP統計

2.世界の石油と天然ガスの生産量

(中東、欧州・ユーラシア、北米が20%台で拮抗!)

(1)2015年の石油と天然ガスの地域別合計生産量

(図http://members3.jcom.home.ne.jp/maedaa/3-2-G01.pdf参照)

 2015年の世界の石油生産量は日量9,167万バレル(以下B/D)であり、これに対して天然ガスの生産量は年間3兆5,386億立方メートル(以下㎥)であった。天然ガスの生産量を石油に換算すると6,098万B/Dとなり、従って石油と天然ガスを合わせた1日当りの生産量は1億5,265万B/Dとなる。両者の比率は石油60%、天然ガス40%である。

 

 生産量を地域別に見ると、中東が4,075万B/Dと最も多く、北米がこれに次ぐ3,663万B/Dで、第3位に欧州・ユーラシア(3,452万B/D)が続いている。中東が世界全体に占める割合は27%で、北米は24%、欧州・ユーラシアは23%である。これら3地域で世界の生産量の4分の3を占めている。各地域の石油と天然ガスの比率を比較すると、中東は石油3,010万B/D、天然ガス6,179億㎥(石油換算:1,065万B/D)と、石油の生産量が74%を占めて圧倒的に多く、北米は石油生産量が1,968万B/D、天然ガス生産量が9,840億㎥(石油換算:1,696万B/D)と石油が天然ガスを上回っている。そして欧州・ユーラシアは石油生産量1,746万B/D、天然ガス生産量9,898億㎥(石油換算:1,706万B/D)であり石油と天然ガスはほぼ同量である。

 

 その他アジア・大洋州、アフリカ及び中南米の3地域の生産量は上記3地域の半分もしくはそれ以下である。石油と天然ガスの比率はアジア・大洋州(石油換算合計生産量:1,794万B/D)は天然ガスがわずかに多いが、アフリカ(1,203万B/D)と中南米(同1,079万B/D)は中東と同じく石油生産が全体の7割以上を占めており天然ガスの比率は小さい。

 

 前回の埋蔵量で触れたとおり世界の石油と天然ガスの埋蔵量の比率は59%対41%(石油埋蔵量1兆6,976億バレル、天然ガス埋蔵量1兆1,754億バレル)である。このことから欧州・ユーラシア、北米及びアジア・大洋州では埋蔵量に見合った石油と天然ガスが生産されているのに対し、その他の3地域(中東、アフリカ及び中南米)では今後さらに天然ガスの開発生産に拍車がかかるものと考えられる。

 

(続く)

 

本稿に関するコメント、ご意見をお聞かせください。

        前田 高行         〒183-0027東京都府中市本町2-31-13-601

                               Tel/Fax; 042-360-1284, 携帯; 090-9157-3642

                               E-mail; maeda1@jcom.home.ne.jp


この記事をはてなブックマークに追加

減少に転じた埋蔵量:BPエネルギー統計2016年版解説シリーズ(石油+天然ガス篇4)

2016年09月21日 | BP統計

(石油と天然ガスを合わせた可採年数は52年!)

(4)可採年数の推移(1980~2015年)

(図http://members3.jcom.home.ne.jp/maedaa/3-1-G04.pdf 参照)

 可採年数(以下R/P)とは埋蔵量を同じ年の生産量で割った数値で、現在の生産水準があと何年続けられるかを示したものであるが、2015年末の石油と天然ガスの合計埋蔵量を同年の合計生産量(次章参照)で割ると、石油・天然ガス全体の可採年数は51.6年となる。

 

 1980年から2015年末までの推移をみると、1980年の可採年数は35年であった。この年の石油の可採年数は30年、天然ガスは50年であり、石油と天然ガスの間には20年の差があった。当時、石油の埋蔵量は天然ガスの1.5倍であったが、石油の生産量が天然ガスの2.5倍であったため石油の可採年数が低く、石油と天然ガスを合わせた可採年数も石油に近い数値となったのである。

 

 その後、1980年代は石油、天然ガスの埋蔵量は共に増加したが、生産に関しては天然ガスが伸びる一方(天然ガス篇2-(3)参照)石油は停滞したため(石油篇2-(3)参照)、石油の可採年数が伸び、天然ガスのそれは停滞した。1990年代は石油、天然ガス共に可採年数は横這いとなり、両者を平均した可採年数も40年台後半で推移した。2000年代に入り可採年数は2002年に54年のピークを記録した後、2006年には49年に下がり、2011年末には再び55年と緩やかな波を打っている。

 

 この間に石油と天然ガスの可採年数は収斂する方向にあり、2011年末は石油55年、天然ガス56年と殆ど差がない。1980年のそれが石油30年、天然ガス50年であったことと比べると大きな変化であり、これは石油と天然ガスが同じ化石エネルギーとして相対優位の市場原理で取引されるようになっていることと無関係ではないであろう。

 

 2011年以降可採年数は漸減傾向にあり、2015年末の可採年数は石油51年、天然ガス53年、石油と天然ガスを合わせた平均可採年数は52年となっている。近年の可採年数の減少は世界的な油価の低迷およびヨーロッパ、中国の景気低迷により石油・天然ガスの開発意欲が減退していることが大きな理由であろう。

 

(石油+天然ガス篇 埋蔵量完)

 

本稿に関するコメント、ご意見をお聞かせください。

        前田 高行         〒183-0027東京都府中市本町2-31-13-601

                               Tel/Fax; 042-360-1284, 携帯; 090-9157-3642

                               E-mail; maeda1@jcom.home.ne.jp


この記事をはてなブックマークに追加

ニュースピックアップ:世界のメディアから(9月19日)

2016年09月21日 | 今日のニュース

・OPEC事務局長警告:石油産業の投資、昨年-26%、今年-22%削減で原油供給に赤信号

・ナイジェリア、石油無許可輸出容疑でShell、Totalなど石油企業に127億ドル請求

・サウジ、7月の石油輸出量762万B/Dに増大

 


この記事をはてなブックマークに追加

見果てぬ平和 - 中東の戦後70年(38)

2016年09月21日 | 中東の戦後70年

第5章:二つのこよみ(西暦とヒジュラ暦)

 

2.ヒジュラ暦1400年(西暦1980年)前後

 西暦622年7月16日に始まったヒジュラ暦は西暦1979年11月21日にヒジュラ1400年1月(ムハッラム月)1日を迎えた。ヒジュラ暦14世紀最後の年である。ヒジュラの14世紀は西暦1883年に始まっている。前回説明した通りヒジュラ暦の1年は西暦より111日前後短いから1世紀の長さも西暦に比べ4年ほど短いことになる。

 

 19世紀以前キリスト信仰が篤かった西欧諸国では1世紀の終焉に対する畏怖心、恐怖心が様々な迷信を呼び起こしたが、20世紀近代科学の時代になるとさすがにそのようなことは無くなり、西暦1999年から2000年に暦が変わる時にコンピューターの「2000年問題」が騒がれた程度である。

 

 ムスリムもヒジュラ暦1400年についてとやかく騒いだ訳ではない。そもそも彼らはラマダンやハジ(大巡礼)のような月々の行事には敏感であったが、年の移り変わりには余り頓着しない。従ってヒジュラ暦1400年(西暦1980年)をヒジュラの14世紀から15世紀に移る年としてことさら強調するのは避けるべきかもしれない。しかしこの年の前後に中東イスラーム諸国で相次いで大きな出来事が発生したことは歴史的な事実である。

 

 例えばヒジュラ1399年(西暦1978年)にはエジプトのサダト大統領とイスラエルのベギン首相が米国大統領の仲介で歴史的なキャンプデービッド会談を行い、二人はその年のノーベル平和賞を受賞、翌年両国の平和条約が締結された。しかしこれは他のアラブ諸国の反発を招き、エジプトはアラブ連盟から除名される。エジプトは和平の見返りとしてアラブ・イスラムの盟主の座を追われたのである。

 

 翌1979年(ヒジュラ暦1400年、以下わかりやすいため西暦で表す)1月にイラン革命が発生、7月にはイラクのサダム・フセインが大統領に就任、エジプトに代わるアラブ盟主の座を狙う。8月にはサウジアラビアでマッカ神殿占拠事件が発生、サウド家を震撼させた。そして翌1980年(ヒジュラ暦1401年、すなわちヒジュラ15世紀の最初の年)には9月にイラン・イラク戦争が発生、イランのホメイニ師がイスラームという宗教の盟主を目指し、他方イラクのサダム・フセインはエジプトに代わるアラブ民族の盟主を目指して宗教と民族が地域の覇権を競う。

 

 この時、サダム・フセインはこの戦争をイスラームのシーア派とスンニ派の争いと規定し同じスンニ派のサウジアラビアなど湾岸産油国から軍資金を引き出した。しかしサダム・フセインのイラクもサウド家のサウジアラビアなど湾岸の君主制国家も実態は世俗国家そのものである。イラン・イラク紛争は宗派間の争いではなかった。緒戦で苦戦したイランで国民の志願兵が雲霞のごとく戦場に繰り出したのは宗教的使命感に駆られたイラン国民がアラブ人の世俗国家に戦いを挑んだ「聖戦(ジハード)」と見るのが正しい。

 

 サダム・フセインはスンニ派ではあるがイラク南部には多数のシーア派住民が住んでおり、イラク全体でみてもシーア派の方が多い。サウジアラビア、クウェイト、バハレーンのスンニ派君主制国家も国内に多数のシーア派を抱えており、バハレーンは人口の大半がシーア派である。イランのホメイニ師がこれらシーア派住民に蜂起を呼びかけたことで各国は危機感を募らせた。湾岸6か国が1981年(ヒジュラ暦1402年)にGCC(湾岸協力機構)を結成したのはとりもなおさずシーア派住民が蜂起して君主体制を打倒するのではないかという恐怖心に駆られたからに他ならない。フセインはイラン・イラク戦争に宗派対立の構図を持ち込んで湾岸産油国を戦争に巻き込んだ。GCC諸国はフセインの術策に陥ったとも言えるのである。

 

 イラン・イラク戦争勃発と同じ年の12月にはソ連がアフガニスタンに侵攻しアフガン戦争が勃発している。1980年代、すなわちヒジュラ14世紀の最後の10年間はこれら二つの戦争が続いた時代であった。

 

 このようにヒジュラ暦という尺度で歴史的事件を並べてみると、ヒジュラ暦1400年前後は中東イスラーム世界の大きな地殻変動、パラダイムシフトの時代であったと言えよう。その原動力はイスラームという宗教である。ヒジュラ15世紀の最初の10年の間(西暦1980~1989年)にムスリムたちはイスラームの教えに反する敵対勢力、背教者たちとの闘いを開始した。最初の敵が無神論の共産主義者アフガニスタン中央政府との闘いであった。その後現在に至るヒジュラ15世紀前半は、ムスリムの戦いはスンニ派対シーア派というイスラーム二大勢力の対立からイスラーム穏健勢力と原理主義が対立する構図となり、さらに今日ではイスラム国(IS)と呼ばれるカリフ制の仮想国家が既存の世俗国家に戦いを挑んでいる。

 

 日本の一向一揆のように宗教の鎧をまとった運動は始まったが最後どんどん過激化して行くものである。現代のイスラム運動もその様相を色濃く帯びている。この運動は過激の極に達し、大衆の支持を失ったときに自滅して終焉する。仏教思想では「盛者必滅」ということになる。ただ争いがいつ終焉するかはわからない。まさに「神(アッラー)のみぞ知る」である。

 

(続く)

 

本稿に関するコメント、ご意見をお聞かせください。

       荒葉一也

       E-mail; areha_kazuya@jcom.home.ne.jp

       Tel/Fax; 042-360-1284, 携帯; 090-9157-3642


この記事をはてなブックマークに追加