日々思うこと

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思い出の自由研究 (修平編1)

2007-06-26 13:02:06 | Weblog

  子ども達が小学生の夏休みに自由研究(実験)をした。その時の報告書が残って

いる。修平と浩平のものがあるので何回かに分けて記載する。今回は5年生の時の

とき研究したものを載せる。

 mとyの自由研究は実験ではなく別のことをしたと思うので報告書は残っていない。

 

 

 


人を赦す

2007-06-24 17:07:41 | Weblog

 6月のある早朝4時半頃、ラジオ深夜便からこんな曲が流れてきた。戦後の復興期最中の昭和27年に流行した渡辺はま子の歌った「あーモンテンルパの夜は更けて」である。  悲しみに溢れる曲であり、私にとっては懐かしい曲でもある。小学生から中学生の頃、盛岡に出ると開運橋、駅前などで戦災や兵役のとき負傷した身体でアコーデオンを弾きながら歌い、物乞いをしている人を何人も見かけた。

  この曲はフィリピンのB,C級戦犯の死刑囚などの特赦をもたらし、大きな働きをすることになる。先ずはその歌詞を挙げる。

 

 1(男)  モンテンルパの 夜は更けて    つのる思いに やるせない 

   遠い故郷(ふるさと) しのびつつ    涙に曇る 月影に    優しい母の

   夢を見る

 

  2(女)  燕はまたも 来たけれど    恋し我が子は いつ帰る    

   母の心は ひとすじに    南の空へ 飛んでゆく

   さだめは悲し 呼子鳥(よぶこどり)

  

  3(女)  モンテンルパに 朝が来りゃ    

   (男) 昇る心の 太陽を   胸に抱いて 今日もまた

   (男女) 強く生きよう 倒れまい  日本の土を 踏むまでは              

 

 

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  昭和27年6月のこと、このやるせない心を抉るような歌が大ヒットした。「何の歌だろう?」いぶかった人々も直ぐに知ることとなった。この歌はフィリピン、マニラ郊外のモンテンルパ刑務所の死刑囚の作った歌だったのだ。作詞がB級戦犯死刑囚:代田銀太郎元大尉、作曲がB級戦犯死刑囚:伊藤正康元大尉、歌ったのが 「支那の夜」や「何日君再来」などを歌った渡邊はま子。この歌はモンテンルパ刑務所の教誨師加賀屋秀文から送られてきたものだった。

  戦後7年も経過し、サンフランシスコ講和条約から1年もたって、A級戦犯も免責されんとしている時、まだ異国で処刑されていくBC級戦犯がいることを知った渡邊はま子は驚愕し、レコード化に奔走して、遂に大ヒットさせたのである。これにより、自分の生活に追われていた日本人の多くが悲愴な現実を知ることとなり、集票組織の無かった当時としては異例の、500万という助命嘆願書が集まったのであった。

  戦時中の慰問で自分も戦意を煽ったためと感じた渡邊はま子は、どうしてもモンテンルパに行って謝りたいと思い、渡航の困難だった時代に手を尽くしてフイリピンへ渡った。当然フイリッピン政府からヴィザなど降りない。単に戦犯の慰問というだけでなく、終戦時には宣撫慰問の途中で虜囚となり一年も収容所に入っていた女性である。許可など出る筈もなかった。それでも渡辺はま子は香港に向けて出発して行った。香港経由でフィリピンに強行入国しようというわけである。たとえ逮捕されて、戦犯と同じ刑務所に入れられようとも・・・

  昭和27年12月24日、歌手・渡辺はま子の歌がモンテンルパのニュービリビット刑務所の中を流れた。熱帯の12月。40度を超す酷暑の中で、渡辺はま子は振袖を着て歌った。もう随分と長い間見たこたことがなかった日本女性の着物姿は、死に行く者への別れの花束だった。この歌は、この刑務所の死刑囚達が作詞作曲したものである。この歌が流れると会場の中からすすり泣きが聞こえた。会場にいたデュラン議員が、当時禁じられていた国歌「君が代」を「私が責任を持つ、歌ってよい」と言った為、全員が起立して祖国日本の方に向い歌い始めた。多くの人は泣いて声が出ず、泣き崩れる者もあったようだ。そして、この「ああモンテンルパの夜は更けて」は、これらの人々を救い出す事になったのである。

  昭和28年5月、教誨師(特赦を請い願う師)加賀屋秀文のもとに渡辺はま子から一つのオルゴールが届いた。曲は「ああモンテンルパの夜は更けて」だった。オルゴールの音色は心を抉るような響きをもっていた。  そのころ、加賀屋はやっと時のキリノ大統領に面会する約束を取り付けることが出来た。初対面の挨拶と、面会の時間を貰えたお礼の後、加賀屋は黙って大統領に例のオルゴールを差し出した。加賀屋の涙ながらの助命嘆願と、哀訴の言葉を予想していた大統領はいぶかったが、オルゴールを受け取って蓋をひらいた。流れ出るメロディー。暫く聞いていた大統領は「この曲はなにかね?」加賀屋は、作曲者がモンテンルパの刑務所の死刑囚であり、作詞をした者もまた死刑囚であることを語って、詞の意味を説明した。尚もじっと聞いていたキリノ大統領は、漸く自身の辛い体験を語り始めた。

  大統領自身も日本兵を憎んでいたし、日米の市街戦で妻と娘を失っていたのだった。「私がおそらく一番日本や日本兵を憎んでいるだろう。しかし、戦争を離れれば、こんなに優しい悲しい歌を作る人たちなのだ。戦争が悪いのだ。憎しみをもってしようとしても戦争は無くならないだろう。どこかで愛と寛容が必要だ。」

 

アンタレス Antares

                       

 太平洋に浮かぶ7000を超える島々~フィリツピンは島々の群れで成り立っています。   アンタレス Antares

 輝く太陽の下で緑が溢れ、、、花々が咲きみだれる、、、そして海には珊瑚礁が、、、。

 そのようなフイリツピンも第二次世界大戦では、日米最大の激戦地となり、民間人を含めて多くの人々が戦死した。

 戦闘要員・60万人の日本人のうち生還者10万人”遺骨はわずかに13万柱”しか帰国できなかつた。

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  神殿で「死者のための身代わりの儀式」を通して私に先祖がこの曲をとおして「赦すとはこのようなことだ。」と教えてくれたと思っている。

  人を赦すこととはどんなものであるかということをキリノ大統領の行いから分かる。人を赦すとはどういうことなのか。ということを自分に当てはめてみるといろいろ考えられる。

  人を赦す最も身近なものでは神殿推薦状を持つことだと考えている。推薦状がどのようにして人を赦すということになるのだろうか。人を赦さないで神殿推薦状を頂く面接をパスすることが出来るだろうか。出来ないと思う。

  イエス・キリストは十字架で「父よ、彼らをお許し下さい。彼らは何をしているか分からずにいるのです。」(ルカ23:34)と人を赦すことを教えている。

 

  尚、曲はインターネットで「あ~、モンテンルパの夜は更けて」と検索すると聞くことが出来る。


父の日のメッセージ有難う

2007-06-19 15:31:18 | Weblog

 

私の5人の子ども達、父の日のメッセージを電話やメールで頂きありがとう。

 

  最近は畑をやっていて一週間に1~2回出掛けるよ。借りている畑にはトウモロコシ、キウリ、水菜、ミニトマト、レタス、赤ジソ、夏大根、ピーマンなどの野菜を植えている。その中で育てるのが難しいのもあるけれど、次々に生えてくる雑草に悩まされ、くじけることなく収穫を夢見て頑張っている。

 

 借りている畑からはおいしいビワを採って食べている。最近は烏骨鶏(ウコッケイ)に餌をやり、卵を一週間に10個くらい頂いている。飯田兄弟と高橋兄弟はこの卵を食べて、持病の血糖値や数値が下がると言って大喜びである。

 

 畑以外に家の掃除や野菜の片付け、家計簿をつけたり、先祖の略史作りなどで忙しく過ごしている。

 

今、証を書く計画をしている。もう少ししてからブログに載せる予定だ。

 

 


公子姉妹告別式

2007-06-18 07:55:51 | Weblog

太田公子姉妹が6月13日亡くなり、告別式が16日浜松wで行なわれました。

写真を3枚添付します。

1.礼拝堂横の廊下に置かれた公子姉妹の写真パネル(弟の宣弥兄弟が作成したもの)

2.石井泰子姉妹のお話

3.お兄さんの宣克兄弟が出棺前に御礼しているところ