雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南で暮らして感じた不思議なこと、おいしい食べ物などなど

雲南の書記と副書記6 電力業界のドンの太子(こども)たちとのつながり

2017-04-23 11:47:27 | Weblog
写真は硬貨を入れると木馬のように動く子どもの乗り物。子どもっぽい歌と音楽はその間流れ、子ども達は乗りながらうっとり。単純なおもちゃだが、どんな国の子どものすきなようだ。

【今も続く暗闘-閲覧制限つづく】
1965年、23歳の高厳が吉林熱電廠団の委員会書記だったころ、東北電管局に所属する豊満水利発電廠、阜新発電廠で仕事をしていた李鵬と知り合いになり、李鵬の出世とともに高厳も出世街道に乗ったようです。

つまり李鵬の失脚の足がかりとするための高厳の失脚というのが実情なのかもしれません。ちなみに彼が逃亡したとされるオーストラリアは李鵬が国務院総理時代に親密だった国です。

2002年から15年もの間、逃亡し続ける高厳を中国政府が追い詰めて逮捕していないのは、高厳がうまく逃げているだけではないでしょう。2008年に李鵬が脳梗塞をわずらい、政界への復帰の可能性が消えたことにあります。李鵬の息子の李小鵬は2002年に一度、地位は落とされたものの、2016年9月には交通運輸部長の役職で政府中枢の一角を占めるに至っています。

 その一方で李鵬の長女、李小琳が、長らく電力業界で強力な権限を握っていたのですが、2016年には、香港へ出かけようとした李小琳が出国禁止の命令を受けたり、という事象が起きています。

(2017年4月20日までは、彼女の様々なスキャンダルがインターネットで閲覧できたのですが、4月23日に改めて文章にするために確認しようとしたら、すべて削除され、見られなくなっていました。)
(つづく)
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雲南の書記と副書記5ー電力系の人・高厳

2017-04-16 10:58:10 | Weblog
写真は高厳が雲南省党書記着任時に各種電力プロジェクトが認可された文山州を流れるメコン河(瀾滄江)。

【北京中央の政治家とのつながり】
前回、雲南省党書記の年表を掲げましたが、その中で、中央の政争に巻き込まれた人が少なくとも二人います。一人が1995年から1997年の間、つとめた高厳。もう一人が、先ごろ死刑判決を受けた白恩培です。二人の経歴をじっくり見ると、共通するおもしろいことが分かってきました。まず、高厳からみてみましょう。

 高厳は1942年、吉林省の楡林出身。楡林は革命の聖地、延安のお隣の街です。学歴は長春電力学校卒業。中国共産党員として出身地の吉林省で吉林省長まで上り詰め、雲南省党書記となりました。
 雲南省党書記を辞した後は、さらに出世して国家電力公司総経理となっていたのですが、2002年に取り調べ対象となり、その年の9月にオーストラリアに逃亡。
 現在も逃亡中で、海外に逃亡した人の中で最高級官吏だったの一人です。2003年には中国共産党員を除籍させられました。

 彼の在任中の、国家主席は江沢民。
 当時、国家プロジェクトとして雲南から東南アジアへの交通回廊と電力開発に重点がおかれた時期です。1996年には「雲南が東南アジアと南アジアの国際道路を貫通して建設させることで中国を成る(雲南建設成中国面向東南亜、南亜的国際大通道)」構想が掲げられ、交通とエネルギー分野での領域展開と実務での合意がなされました。
 つまり中国の利益のために雲南が要(かなめ)となって東南アジアやインドに向けて交通インフラと電力インフラを整えるという構想です。おそらくこの国家プロジェクトのために高厳は、吉林省から、今まで縁もゆかりもなかった雲南省に党書記として赴任することとなったのでしょう。

 そして2002年に彼がかけられた嫌疑は雲南の企業の中でも全国的ブランドで知られるたばこ会社「紅塔集団」に雲南省書記時代にたばこ1万2800箱購入する契約をして、それを960万香港ドル(約1億3400万円)で売り、利ざやを稼いだ疑惑。党書記の嫌疑としては、最重要の罪とは思えない罪に思えます。
 ただ、表だって言われてはいないのですが、ここには中国の中枢の政治家に連なる罪となりうる、という点が重要なようです。

 当時の「紅塔集団」の副手には、李鵬の息子の李小鵬が、助手には李鵬の娘の李小琳が着任していていました。つまり李鵬に連なる嫌疑ということが深刻でした。

李鵬といえば鄧小平当時の国務院総理であり、その時、第2次天安門事件がおこった際に、武力で鎮圧したことで知られています。彼の後ろ盾は周恩来。中華人民共和国初代総理の周恩来は多くの孤児を養子としましたが彼もその一人でした。2003年に政界を退任していますが、高厳の失脚時期とぴったり同じ年です。これは偶然ではないでしょう。
(つづく)

参考文献:陳秋生主編『雲南財政研究報告(2008-2009)』(中国財政経所出版社、2009年)
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雲南の書記と副書記 -歴代書記の出身から関係を見る

2017-04-09 10:45:14 | Weblog
写真はシャングリラで見かけた兄妹。いまは一人っ子政策ではなかったが、少数民族は当時から一人っ子の制限はかけられていなかった。このように雲南の政治には弱冠の特殊性がある。

【副書記からは7人中4人】
中国には党と国家の二つの組織があり、党を代表するルートに名前がつくのが「書記」国ルートが「主席」になります。1949年に中華人民共和国が成立まもなくは地方組織を強力にして国固めに力を入れていましたが、その3年後の1952年よりソ連型の中央集権的計画経済システムに大きく舵を切りました。

 このとき人材を北京にある中央人民政府のもとに集約しはじめ、鄧小平は5人目の政務院副総理に就任しています。つまり「副」は次の人材として目をかけられるチャンスのある部署だったわけです。その後、中央政府を強力にするために地方の権限をそぐよう、配慮を始めた、ともいわれています。

 では、実際に雲南省の書記と副書記はどのような人々がその座についていたのでしょうか。この一覧がとくに発表されていないので、調べて作りました。

 文革の影響が終わった1985年からの雲南省党書記の役職を並べてみます。

1985~1995 普朝柱 父親の普希賢は国軍将領で戦時下、雲南航空司令部作戦科長。普朝桂は、雲南生ま           れ。副書記からの昇格。
1995~1997 高厳 吉林省出身。雲南省書記の前は吉林省長。雲南省党書記後、国家電力公司総経理で、       巨大蓄財の嫌疑で処罰、直前にオーストラリア逃亡。現在も逃亡中。海外逃亡最高級貪官と       言われる。

1997~2001 令狐安 山西省出身。副書記からの昇格。

2001~2011 白恩培 陝西省出身。内蒙古、青海省で省委員会書記まで勤めてから雲南省党書記に。現在           死刑判決下る。

2011~2014.10 秦光栄 湖南省出身。2014年の雲南省の官場地震の対応の鈍さで北京中央の怒りを買             い、雲南省副省長、昆明市市長市長らとともに党書記を罷免される。(2015.1月            に白恩培が巨大賄賂収受の件で党からの永久追放と公職解任が決定するので、そ            の事件に巻き込まれたともいえる。)

2014.10~2016 李紀恒 広西チワン族自治区出身。現在、内蒙古自治区委員会書記。雲南省省委員会副書         記からの昇格。
2016~現在 陳豪 江蘇省出身。副書記からの昇格。

上記の多くは雲南で党副書記に任命された後、内部選挙によって雲南省長(つまり中央政治局の主席に相当)に選ばれています。
そして、党書記に副書記から昇格の場合はその前に勤めていた党書記がなんらかの事件を起こして、罷免などされた時に、急場しのぎで昇格していることがわかります。それが7人中4人なので結構な人数ですが。
 そして雲南省出身者は普朝柱ただ一人。それも将軍として雲南に赴任した父から生まれた漢族です。これでは、雲南の人よりの政策はなかなか生まれそうにありませんね。
(つづく)
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雲南の書記と副書記3 劉伯承と鄧小平

2017-03-26 15:13:33 | Weblog
写真は雲南省シャングリラで見かけた子ども。母親の服装からするとチベット族のようだ。刺繍入りのタイツが自慢らしく、わざわざ見せてくれた。

【建国初期では】
今、インターネットで雲南省の党の歴史をひもとくと、歴代党書記の名前は出てきても、副書記の名前までは出てきません。副書記というのは、軽い存在なのでしょうか?

たとえば3月10日の日経新聞国際面では全人代のレポートが書かれています。「習主席と親密な地方指導者」として写真入りで経歴を紹介されているのは、地方の市長と党委員会書記。副は蚊帳の外です。

 「副」の役割とはどういうものなのか。

まず、中華人民共和国が建国された一九四九年にさかのぼってみました。中国全土は東北、西北、華東、中南、西南と分けられていました。このなかで雲南を統括する地域を見てみると、以下の通りです。

西南大行政区
西南軍政委員会 主席 劉伯承     副主席  鄧小平
中央西南局   第一書記 鄧小平   第2書記 劉伯承
西南軍区    司令員 劉伯承    政治委員 鄧小平
第2野戦区   司令員 劉伯承    政治委員 鄧小平

劉伯承も鄧小平も同じ四川省の出身。二人は第2野戦軍を指揮して、たびたび国民党に勝利し、中華人民共和国の設立に大きく貢献しました。紅軍の長征の総司令官も劉伯承です。つまり「副」はしっかりと主席を補助する重要な役割を担っていたことがわかります。ちなみに二人は生涯、強い絆が続いていたそうです。

※たびたびですが、来週の更新はお休みします。春は何かと忙しいです。紫外線も強くなってきたので、目の保護にはとくにお気を付けください。肩もみ、目に聞きますよ。
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雲南の書記と副書記2

2017-03-11 15:46:33 | Weblog

写真は、かごの鳥の鳴き声を競う集い。昆明動物園内にて。早朝からどこからともなく、鳥かごを持ってやってきて、木の枝にかけたりして、鳥の声を競う。愛好家は多く、少し緑のある公園だと、どの町に行っても、このような光景が見られた。
 鳥の声あわせにしては、少しドスの効いた人々の光景にも見えるのだが、とくに売買をしている風情もなく、不思議であった。


【雲南印象から東洋のハリウッドまで】
当時の新聞に大きく名前が書かれているのは党書記の白恩培ではなく、党副書記の丹増という名前でした。しかも好意的な文章で。

じつは死刑判決報道をしっかり確認するまで当時の党書記は丹増だと、勘違いしていたほどにマスコミでの存在感がありました。

丹増は、様々なセレモニーでテープカットを行ったり、有名タレントが雲南に来るというと歓迎行事の中心にいたり、とにぎやかな場面の中心で、たいてい胸を張って拍手をしていました。

また、日本でも舞踊公演が好評なヤン・リーピンの公演名「雲南印象」という言葉や雲南独特の様式「雲南模式」などのスローガンを生み出したアイディアマンでもありました。

地元新聞ではしょっちゅう、「丹増、○○する」と書かれ、愛されていました。

さらには「雲南を東方のハリウッドにする」という計画を掲げて、なんとジャッキー・チェンが出席する「中国文化産業国際論壇期間」に丹増も出かけて雲南がいかに映画の撮影に向いているかを売り込みに。

ジャッキーから「雲南の文化産業の発展、民族文化の繁栄、文化大省の建設を全力で支持します」との言葉を引き出し、彼の出世作『酔拳』の模型をもらい、実際に彼の映画『神話』の撮影の最後の戦闘シーンを雲南で行わせてしまったこともありました。(2004年12月20日・都市時報)

これがどれほど雲南の人を喜ばせたか。

今、考えてみると、マスコミ受けするところにばかりいて、実質は別の人、という可能性もありますが、そもそも書記、副書記とはどういう関係なのでしょうか? そして白恩培とはどういう経歴の人で丹増とはどのような人だったのでしょうか? これらを探ることで雲南の政治のしくみを考えてみます。    (つづく) 
※たびたびですが、次週の更新はお休みします。世界はいろいろとたいへんなことが起きていますが、ぶれずにゆったりとしたひとときを過ごしていただけたらいいな、と思います。
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雲南の書記と副書記

2017-03-03 11:38:25 | Weblog
写真は雲南省政府に近い広場の正月風景。鮮花が雲南の特産品ということもあり、飾り花コンテストが賑々しく行われていた。
【元雲南省トップが死刑に】


昨年、10月10日付けの日経新聞に小さな記事が出ました。

「元雲南省トップに死刑判決
中国国営新華社によると、河南省安陽市中級人民法院(地裁)は9日、収賄などの罪で雲南省や青海省のトップを務めた白恩培被告に執行猶予2年付きの死刑判決を言い渡した。同被告は約2億5千万元(約38億円)相当の賄賂を受け取ったとされている。」

白恩培は2001年から2011年まで雲南省トップの党雲南省委員会書記を務めていた人物です。私が2004年に雲南省に滞在していたときの省のトップです。

じつは当時、うっかり観光客気分で党雲南省委員会の看板と後ろの建物の写真を撮ろうとしたところ、守衛さんに「禁止です」と言われたことがありました。最近ではその行為だけで日本人でもスパイとして摘発される事件が起きているので無知といえば無知だったのですが、国会議事堂のような建物を背景に美しい花がその前景に咲き乱れていたのですから撮りたくなる気持ちも見ればわかるでしょう。

このように党雲南省委員会は、一般人には厚いベールの向こう側にありました。

(つづく) 
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雲南の酒・無形文化財の酒 青稞酒と楊林肥酒

2017-02-18 17:24:51 | Weblog

雲南北部のシャングリラの青稞酒工場。工場の敷地内には人がすっぽり入ってすまうほどの大きな黒い甕が何十も置かれていて、蒸留の時を待っていた。

【青稞酒の造り方】
醸造酒で、伝統的な造り方はとても簡単。青稞を洗って、煮た後、人肌まで冷まして、草麹を割って加え、陶器の入れ物に詰めたら、密閉します。このまま2,3日待って、水を加えてできあがり。微炭酸で淡黄色。度数も10度前後。ビールの元祖のような造り方といえるでしょう。

2,3年埋蔵すると蜜のようになり、濃い味と香気がたまらない、といいます。

2007年には青稞酒とその醸造技術が雲南省の第2批1類非物質文化遺産に登録され、2011年には中国3類非物質文化遺産に登録されました。非物質文化遺産とは日本の無形文化遺産のことで、中国で2006年から登録が開始されたものです。歌や劇、音楽、祭り、伝統芸能など開始当時は漢民族関係の登録が多く、開始後5年目にして雲南省の少数民族の食物文化にまで目が届くようになり、現在、国家4類までで1300以上が登録されています。

雲南では、ほかに食品分野ではプーアル茶や過橋米線などが登録されていますが、酒では唯一、非物質文化遺産の国家級に登録されている酒です。

もう一つ、雲南省級の非物質文化遺産に登録されているお酒があるのでご紹介しましょう。

2013年に新たに昆明市嵩明県楊林鎮の特産である『楊林肥酒』が登録されました。このお酒は明代の医学者蘭茂が記した【滇南本草】(明の李時珍の【本草綱目】の100年前に書かれた薬草の本。本草綱目に取り込まれた筆記が多いことで知られる。)に取り上げられた薬用酒です。

原料はトウモロコシ、米、大麦で蒸留酒の「白酒(パイチュウ)」を造り、そこに党参、陳皮、ウイキョウなどの10種類以上の漢方薬にも使われる原料と蔗糖、蜂蜜を加えたお酒で1880年に蘭茂がこの地でたしなんでいたというお酒を楊林県出身の陳鼎が創り上げました。さらに1987年には日本人にとっては十分高いのですが38度の度数に抑えたお酒を開発し、昆明市から特産品の称号を得た、という比較的新しいお酒です。

このお酒が省級の非物質文化遺産にお酒では2例目の登録、というところからすると、雲南独自で全国に名をなす銘酒がない、ということがわかります。まさにこれが雲南の密かな悩みでもあるようなのですが、人々は構わず、自家製のお酒や近所のお酒をおいしく楽しくいただいているのでした。
(この章おわり)
※次回の更新はお休みします。いよいよ受験生は大詰めですね。
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雲南の酒・チベット族の酒【青稞酒】

2017-02-11 15:45:36 | Weblog


写真は青稞(ハダカムギ)を壁に並べるシャングリラ付近の家の壁と、青稞を煎っている様子。これを粉にすって、チベット族の人々は「ザンパ」という名で食す。香ばしくて、固いが炒り豆の味がして、懐かしい味がした。

【青稞酒】
チベット族の多く暮らす雲南北西部のシャングリラ、徳欽あたりで愛飲されている酒に青稞酒があります。チベット族が暮らす西蔵自治区、青海省、四川省そして雲南省北部が産地です。

青稞は中国語で「チングー」と発音し、チベット語では「羌」(チアン)の文字を当てることもあります(インターネット百科事典「百度」より)。

これはハダカムギのこと。標高2000メートル以上で地味が肥えていなくても、稲作のようにライステラスを作らずとも、ただただ、山の斜面の粗放栽培のように播いて、ハダカムギを収穫まで導きます。収穫時の六月、急斜面に女性でもかごを背負って登り、ザクザクと根元から刈っていきました。とくに整地された土地ではなく、しかも滑り落ちそうな斜面、その上、高地なのでときおり、冷たい強風が吹き付けるので、労働で額に汗が出ると、それだけで冷え込みそうな重労働に見えました。

刈り取ったハダカムギは、いったん、穂を外側に向けてきれいに円形に並べ、それらを積み上げて円柱に置いて、水分を飛ばして保存しやすくしていました。また、家の壁にきれいに並べて干している家もありました。

チベット族の暮らしに青稞はかかせず、彼ら独特のバター茶に、ハダカムギをお釜で丁寧に煎って、すって粉にしたものを入れて食べるのは、大事な食事の一つとなっていました。

ハダカムギの粉が香ばしく、口の中の水分を全部吸い取ってしまいそうなところに熱々のバター茶を流し込む。簡単でおいしいシリアルを、昔から食べていたのでした。
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明の徐霞客の酒

2017-02-04 13:29:52 | Weblog
写真は雲南省文山州富寧県の白酒「壮糧宴」。コウリャン、トウモロコシ、米、蕎麦をブレンドさせた「清香型」。度数は50度。この地はベトナム国境に接し、中華独特の香りにかかせない調味料「八角」の主産地でもある。壮(チュアン)族が多く暮らすので、お酒の名称につけたのだろう。
 現地では、このお酒をコップになみなみと注いで、乾杯しては飲み干していたが、日本人のように酔っ払って記憶をなくしたり、へべれけになって失礼なことをしたり、ということにはならない。ひたすら陽気になっていた。日本人のように酒席の上だから特別に許される、という風習はなく、たいへんみっともないことと思われる。総じて日本人より酒に強いようだ。
 中国で仕事をする人は、お酒に慣れておく方がよい。もしくはかつてのように乾杯攻勢はさすがに礼儀としてよくない、という風潮もあるので「随意(スイイ」と、言い合うと、飲みたい人はのむ、という空気になる。

【明末の大理の地酒】

もう一つ、明末の大冒険家で地理学者として知られている徐弘祖(1586-1641)、号は霞客の書いた『徐霞客遊記』で大理から永昌(今の保山)に行く途中、山を越える場面に地元の酒の記述がありました。

「数家が南峡にあり。湾子橋で漿を売る者あり。連糟し、これを啜る。およそ地元の酒醸也。」(「滇遊日記9・『徐霞客遊記下』上海古籍出版社、2007年 p962」

どろどろした地元のお酒。甘酒か、発酵して漉していない醸造酒でしょう。このように元以降、蒸留酒が盛んになっていく中でも、連綿と醸造酒が愛され続けていたことがわかります。

農村ではやがて蒸留酒が主流として定着していきますが、昆明周辺の通海の甘酒(甜白酒)ブーム、1980年代以降のビール競争も唐突に訪れたわけではなく、重層的な酒の世界は昔から定着していたことがわかります。   (つづく)
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明の楊慎の酒4 陶淵明とのつながり

2017-01-28 14:39:39 | Weblog

写真は雲南の文山地区の白酒の一つ「小村姑」。村の娘、という素朴なネーミングだが、じつは地名でもある。トウモロコシと八宝香米と水で発酵されたもの。「小曲清香型」と小さく書かれているのは、酒の特徴を記したもの。

曲は音楽のことではなく、麹(コウジ)を穀類を砕いて水で溶いて固めて煉瓦状にし、クモノスカビを生やせた「麯」をつくるのだが、その簡体字が「曲」。小曲は餅麹が一般に小さい形をしていて、お米を主体にして香草(薬材)を混ぜ込んだもの。香草は地域により蔵により異なり、数十種類をブレンドしたものもある。大曲は煉瓦状の大きなもので代表的なものは麦、エンドウ豆などでつくられる。ほかふすまを固めた麸曲との3つが代表的な餅こうじだ。
雲南の西南地区はたいていが「小曲」。家内制工場には使いやすいタイプなのだ。

白酒は香りが特徴なので香りにもいろいろある。「清香型」はさわやかな香り。ほかに「醤香型」「濃香型」「兼香型」「米香型」など、さまざまな呼び名がある。

【陶淵明の酒】
六朝時代の陶淵明の詩の一つ「飲酒」の第20首に

「若(も)し復(ま)た快飲せずんば、空(むな)しく頭上の巾(きん)に負(そむ)かん〈快く酒でも飲まなければ、せっかくかぶっている酒漉しの頭巾に申し訳がたたぬ〉」

と書かれています。つまり自分の頭巾で酒を漉していたのです。

当時、自家用の酒などは甘酒のようにどろどろとしたまま、熟成させていました。頭巾は麻など、目の粗い素材。漉して飲む、ということは蒸留酒ではなく、醸造酒だったことがわかります。

陶淵明といえば、日本でも中学や高校の国語の教科書で田舎に帰って自由な生活をおくろうという『帰去来の辞』や桃源郷の言葉の起源ともなった『桃花源記』が有名な詩人。当時の政治の腐敗を嫌い、官僚から身を引いて、田舎暮らしを楽しもうとした詩で知られています。

楊慎は自らの境遇を重ねて、陶淵明をきどって酒を頭巾で漉したのかもしれません。
※茂田井円・松井康子「陶淵明と酒」(『日本醸造協会誌』第86巻、第8号、1991)

(つづく)
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明の楊慎の酒3 酒を漉す

2017-01-21 14:42:13 | Weblog
写真は大理の名刹・弘聖寺(旧名・王舎寺)塔。楊慎らはこれらの寺詣でをしつつ、酒と詩作に明けるくれる旅をした。本文の宝華寺とともに上記の寺も詣でている。
上記は楊慎が訪れる300年以上前の大理国時期(938-1253)の塔で、今はなくなってしまった寺院は明代に建設されていた。にぎわっていたのだろう。

【「巾」が「中」に】
楊慎が雲南に流されて6年目の旧暦2月。春の初めに雲南は大理の友人・李元陽[字は中谿1490年―1580年]の案内で大理の點蒼山のお寺や名所を訪ねました。嘉靖9年(1530年)のことです。

「名山巌洞泉石古蹟」の中の一篇「遊點蒼山記」は楊慎が記した気ままな旅の記録です。40日という長期の旅のうちの8日ほどを記したものですが、名所に行っては「酌酒」をする様子が楽しげに綴られています。

沿溪而西過獨木橋、升寶華寺。其地多花卉、紅紫膠轕乃移枕簟以息。中谿弟仲春、叔期、季和預煮罇酒於叢薄巾、忽從滴乳巖傍出見、不覺、驚喜拍手、大笑因引滿盡醉。
(『中国西南地理史料叢刊 第24冊、p80』及び文字解釈は「漢籍リポジトリ」京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センターより)

「渓谷にそって西に進んで獨木橋を過ぎると、宝華寺に着く。多くの花が赤や紫色に入り乱れて咲いているので、そこに枕を移して休むこととする。

中谿の弟たちがあらかじめ酒樽ごと酒を煮て(あたため)、(コーヒーフィルターのように先のすぼまった)薄い頭巾で入れると、たちまち(漉されて)しずくが乳の腫れものから出るようにあふれ出るのを見て、思わず驚喜して手を叩き、大いに笑って杯に酒をなみなみと盛って、ついに酔う。」

私が薄い頭巾と訳した箇所は、いくつか記された原文が不鮮明なため、「薄中」と印字する書籍が主流となっています。が、今回は明の万暦4年刻《天下名山諸勝一覧記》の影印本を見たところ、明らかに「中」ではなく「巾」字だったので、その文字で解釈しました。

おそらく、「巾」では読み解けない、と思って「中」の字にしたのでしょうが、じつは頭巾と酒の関係は、中国の六朝時代から記されているのです。
(つづく)
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明の楊慎の酒2

2017-01-14 15:57:38 | Weblog
写真は昆明にほど近い安寧温泉の入り口の摩崖石刻群。
明清、二つの時代の文人墨客がこの温泉に来ては、開放的な気分に浸り、文字や詩を残していった。全部で160余幅、刻まれてる。 明の時代より、有名な温泉地となっていて、近くには寺もあり、昆明からもほど近く、雲南の文人のあこがれの遊湯地だった。
流人として雲南になってきてほどなく、この場所に移れたなら、どんなにほがらかな気分になったことだろう。

【雲南を愛し、愛された楊慎】
まだまだ雲南で学問をするのに書物も限られ、先生も限られていたときに、流人としてスーパーエリートが雲南にやってきました。ミャンマーにも近く、まだまだ治安も不安定な永昌の地ではたいへんだと、雲南の人士は、すぐに対応します。

流された翌年の1525年春に温泉地として今でも有名な安寧の地に彼を招いて、自由度の高い生活環境を整えました。

ここで楊慎は温泉つきの家を持ち、人々の尊敬のまなざしを受け、それなりに快適な生活を送りました。

栄達の望みは絶えたものの、雲南で彼が記した本などを読むと、じつにほがらかで、人生を楽しみ、雲南でできた友人らを大切にしていた様子が見て取れます。

そればかりか当時、雲南の地位の高い人でも、知ろうとはしない少数民族の言葉も自ら学んで、彼らとも挨拶を交わすなど、心の奥底はともかくとして、伸びやかな雲南ライフを送りました。

有り余った時間を使い、その境涯の中で記した著作は3000巻。どれだけ執筆をしたのか、と思うほどの半端でない量です。彼のおかげで残った雲南関係の歴史書も数多くあります。
他に彼に私淑する人々に詩の指導なども積極的に行って楊慎派、とよばれる雲南の文学界を後に牽引する人々を何人も育てたのです。

その彼が愛したことが、詩作と酒。酒の描写が、とても具体的です。次回はその話を。(つづく)

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雲南の酒・明の楊慎の酒 1

2017-01-02 10:55:17 | Weblog

写真は雲南・建水で大量に作られている陶器の一つ。酒樽、漬け物、植木鉢、なんにでも使われる。
建水では紫砂陶とよばれる赤みがかった陶器が有名でコレクター内で高値で取引されるものもあるほど、陶器生産がさかん。普段使いの温かみのある雰囲気がよく、昆明など各地の市場でも気軽に買うことができた。(建水の街角にて。売り物ではなく、個人宅の窓辺に置かれていた)

【スーパーエリートが飲んだ酒】
元から明の時代となると、モンゴル民族中心の世界から漢民族中心の社会になりました。元の最新飲料の蒸留酒はその後、どうなったでしょう。

 その一端として手がかりとなるのは雲南でのお酒の記述をよく残しているのが明の楊慎(明孝宗弘治元年1488-1559)です。

 彼は、雲南の文学に大きな足跡を残しました。現在の成都に近い四川省新都県に生まれ、24歳(正徳六年1511)の時に科挙の最終試験(殿試)で状元(首席のこと)となり政界入りしたスーパーエリート。

そんな彼が雲南に来たのは、当時、自堕落な生活で政治の乱れを作っていた明の皇帝・武宗に何度も諫言をしたためでした。
ついに37歳(嘉靖三年1524)で平民に落とされて雲南の永昌(今の保山県・ミャンマーに近いあたり)に流されました。そして72歳(嘉靖38年1559)、雲南にて病没します。(※)
(※『明史』列伝巻192)

かつて明の時代、中国にとって雲南は流刑の地でもあったのですね。ともかく、当ブログの「雲南の牛」の項でも書いたように明は政策的にどんどん漢民族を雲南各要衝に屯田兵として大規模に送り込んでいました。
楊慎が雲南にやってきたのは、大規模移民がはじまってから百数十年が経過した頃です。
なかで永昌は明の時代となった後でも金歯族など各民族が強行に漢族の侵入と支配に抵抗し、その征圧に苦労していた土地でした。楊慎が配流されたころ、1522年と1524年に相次いで永昌は行政区を大幅に変革しています。明朝支配地のマージナル(境界域)の地だったのでしょう。
(つづく)

◇新年おめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
先の見通しにくい世の中ですが、そういうときこそほんとうの歴史は大切です。
とはいえ、差し迫った話ではなく、このブログでは、ほっと、肩の力が抜ける内容を目指します。

次週の更新はお休みします。
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雲南の酒・パイチュウ編11 最新の飲み物!

2016-12-20 10:18:39 | Weblog
雲南各地に根付く蒸留酒の一つ。上記の酒・那榔(ナーラン)酒は雲南省中南部の文山の銘酒。那榔村で700年以上前から造られてたという。原料はトウモロコシ、米、小麦と水。米は大粒で知られる文山州広南県の特産の八宝米(清代の宮廷御用達米)を用い、名水と評判の高い水を用いて、低温発酵させたもの。1996年には中華人民共和国酒文化研究会より「中国地方歴史銘酒」の称号を得た。
清代皇帝の道光帝の家庭教師が広南知府に任じられて行ってしまったので、先生を偲んで、皇帝が取り寄せて飲んだため、当時の宮廷でも名声が高まったという。
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【熱くて早く酔う】
「ワイン」の水割り話で脱線しました。
さて「パイチュウ編7」からの続きです。

この昆明の記述は、フビライ・ハンの使節としてマルコ・ポーロが「大都」(北京)より西の地域に四ヶ月かけて旅したとされる文章の一節です。この旅では北京の盧溝橋から山西省の太原、平陽をへて、陝西省の西安、四川省の成都、チベット、そして雲南からミャンマー付近までの行程が書かれています。

山西省太原が葡萄酒の生産地であること、あとは各地で葡萄酒の消費地について細やかに記述されていますが、不思議なことに酒の味まで言及されているのは昆明だけです。よほど、お酒が印象的だったのでしょう。

昆明の酒を考えるために『東方見聞録』全体を俯瞰してみましょう。すると、四ヶ月の西への旅の直前に書かれた元の都・大都(北京)での酒の描写が詳細です。

「彼らは米と他の多くの美味しい香料から飲み物を作り、それをとても上手く作るから、飲むと他のどんな酒よりも美味しい。それは、とても澄んでいて綺麗だ。またとても熱いから、他の酒よりもはやく人を酔わせる。」

セラド稿本も、この箇所については一致しています。

大都の酒は「澄んで」いて「とても熱いから、他の酒よりもはやく酔う」。ほぼ、といっていいぐらい蒸留酒を表したらしい記述です。

じつはモンゴル帝国期に蒸留酒造りが中国で盛んになったという説が歴史学、考古学でも最有力なのです。(※)10世紀ごろに西アジアのアラビア世界ではじまり、それが元代に中国に伝播したというもの。モンゴル帝国として、チンギスハンの家系が中国から西アジアを一つの世界にまとめ上げていたことから考えると、伝播は当然の帰結です。

※楊印民『帝国尚飲:元代酒業与社会』(天津古籍出版社、2009年p9)

蒸留酒がマルコ・ポーロはいうまでもなく、ヨーロッパの人にとって、また中国の人にとっても、新鮮な香りと味を持つ、珍しくて新しい飲み物だったのです。

つまり、大都の西方の紀行文でわざわざ昆明1カ所のみで酒の味わいまで触れているのは、当時の新モード・蒸留酒に出会った驚きが記した動機と考えるのが妥当です。その点ではこの箇所はセラド稿本の方が、よりオリジナルで書かれている可能性が高いでしょう。
                                     (つづく)
※次回の更新はお休みします。風邪、その他、はやっております。体調にくれぐれもお気を付けてお過ごしください。
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雲南の酒・パイチュウ編10 マルコポーロのワインの味

2016-12-11 14:55:42 | Weblog

ヴェネツィア名物の飲み物スプリッツ(SPRITZ)。白ワインに炭酸水とアペロールというリキュールで割った飲み物。食事とともに、というよりも夕暮れ時に店先で軽く一杯飲む感じ。ワインを割る風習は今も続いていた。ただし、食事の際はワインそのものを楽しむことは周知のとおり。

【古代ギリシャは水割りで】
 古代ギリシャではワインは水割りが普通でした。

 たとえば古代ギリシャのホメロスの長編叙事詩『オデュッセイア』(松平千秋訳、岩波文庫、1994年)にはワインに水を割る様子が頻繁に登場しています。

「酒に水を割っていただけぬか。ポセイダイオンならびに他の神々に神酒を献じた上、眠りにつくとしましょう。」(P75)

「給仕役の若者たちが、混酒器になみなみと酒を満たし、先ず神々への献酒のために、数滴を一同の盃にたらす。生贄の舌を火にかけると、一同は立ち上がってその上へ神酒を注ぐ。献酒を終えて一同が心ゆくまで盃を傾けた時、」(P75)

「すでに給仕人たちは料理を分け、酒に水を割っているところ、」(P210)

ごくごく自然にワインを水で割っていますね。


やがて、ローマ人の時代になると、ワインの製法が飛躍的に向上し、そのものの味を楽しむようになっていったようです。イタリアでの料理の味の深さ、繊細さ、素材の味を重視するあたりが日本人の舌に似ているように思っていたのですが、味へのこだわりが飲み方を変えていったのかもしれません。

そして、マルコ・ポーロの時代。アントニー・ローリー著、池上俊一監修、富樫 瓔子訳『美食の歴史』にはこのように書かれています。

「13世紀料理研究家の医師たち(イタリア)はさらに多くの食に関する勧告を行った。たとえば、ワインは若者には滋養に、老人には治療になるので、両者には勧められるが、気持ちを和らげるというワインの性質は、困難な職務を成し遂げることとは相容れないので、成人はむしろ水で割って飲むべきである。女性に関しては水にワインを一滴たらすのは大目に見られる。」

医師が成人は「水で割って飲むべきである。」と強く推奨していると言うことは裏返せば、それはあまり行われていなかった、ということ。
 
 マルコ・ポールは13世紀の人なので、まさに現代風の「割らない」ワインを飲んでいたといえるでしょう。

参考文献
奥田和子「ぶどう酒をワインで割る-神との関わり」(甲南女子大学研究紀要第39号 人間科学編、2003年3月)
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