授業を構成する上で,まず目標(めあて)をはっきりさせ,
その目標が達成できたかどうかを評価するということが,
重要な位置を占めている。
そこのところがはっきりしているかどうかが,
授業の良否を決めるとまで言われる。
確かにそれはそうであろう。
しかし,もっと大切なことがあるのではないか。
授業をしたことのある者ならおそらく理解できるであろうが,
目標は達成できなかった,
あるいは当初の目標からは全くずれてしまったが,
それでも,「よい授業」というのがあるのである。
授業中のふとした雑談から,
子どもがその雑談にひきこまれていって,
時間を忘れて,教師も子供も楽しんだということが
あるのではないか。
授業はちっとも進まなかった,でもおもしろかった,
という授業である。
こういう授業の中で,教師と子供の間に
純粋な知的な空間が生まれているということもあるのである。
むしろ,これは「よい授業」という枠を超えているのかもしれない。
教科書もカリキュラムもなく,
ただ大人が子供に教えるという,
人間が長い歴史の中で自然に行なってきた教育の本質的な形が,
授業という場に現れたのかもしれない。
近代学校は合理的であることを期待されている機関である,
がしかし,そのなかに,
合理的である以前の人間の営みがなければ,
学校の存在価値はない。
最近は,学校経営そのものにおいても,
PDCAサイクルの重要性が言われるようになって久しいが,
学校というところは,目標を設定し,
目標を達成できたかという合理的な考え方では
割り切れないところに価値があり,
それがもっとも大切なところであるということを,
教育に携わる者はもう一度考え直すべきであろう。
その目標が達成できたかどうかを評価するということが,
重要な位置を占めている。
そこのところがはっきりしているかどうかが,
授業の良否を決めるとまで言われる。
確かにそれはそうであろう。
しかし,もっと大切なことがあるのではないか。
授業をしたことのある者ならおそらく理解できるであろうが,
目標は達成できなかった,
あるいは当初の目標からは全くずれてしまったが,
それでも,「よい授業」というのがあるのである。
授業中のふとした雑談から,
子どもがその雑談にひきこまれていって,
時間を忘れて,教師も子供も楽しんだということが
あるのではないか。
授業はちっとも進まなかった,でもおもしろかった,
という授業である。
こういう授業の中で,教師と子供の間に
純粋な知的な空間が生まれているということもあるのである。
むしろ,これは「よい授業」という枠を超えているのかもしれない。
教科書もカリキュラムもなく,
ただ大人が子供に教えるという,
人間が長い歴史の中で自然に行なってきた教育の本質的な形が,
授業という場に現れたのかもしれない。
近代学校は合理的であることを期待されている機関である,
がしかし,そのなかに,
合理的である以前の人間の営みがなければ,
学校の存在価値はない。
最近は,学校経営そのものにおいても,
PDCAサイクルの重要性が言われるようになって久しいが,
学校というところは,目標を設定し,
目標を達成できたかという合理的な考え方では
割り切れないところに価値があり,
それがもっとも大切なところであるということを,
教育に携わる者はもう一度考え直すべきであろう。












目標、特に手近な目標の設定は、本質的に、重要なことと思いません。むしろ、手近な目標の設定と達成ばかりを目的に教育を進めると、間違えます。
なぜなら、目標を設定すると、あらゆる活動が、その目標の達成しか目的にしなくなるからです。
何であれ、活動をすると、必ず、当初の予想に反する「付随的に生じてくるさまざま事柄」が出てきます。それで、奇妙なことに、そっちの方が重要になることだってしばしばあります。
言語化された明解な目標達成を目的に活動をすると、付随する、こうした有意義なことが捨て去られます。なぜなら、目標とは関係がないから。
子どもが学ぶのは、さまざまな、こちらが予想しなかったことからであることも多いでしょう。
この意味で、目標の設定、達成は、本来の教育的な目的から外れることが出てきて当然です。
最近,目標だの評価だのを重要視し過ぎる傾向にあるような気がして,それだけじゃないだろうという思いでエントリーしてみました。