学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

教師の学力

2012-02-02 | 教育
 真剣に考えなければならなくなってきたことは,教師の教養あるいは知識レベルということである。教職の専門性ということを言い立てる割には,教師の教養あるいは知識レベルは保証されていない。
 その影響は特に小学校教諭において顕著である。御存知のように小学校教諭は全教科を教える。しかし,現行カリキュラムや入試制度,免許法制度やあるいは教員採用試験の方式によっては,例えば,日本史に触れたのは中学校が最後とか,数学や化学にはまともに取り組んだことがないというような先生がすでに教壇に立っているのである。大学でも,教養課程が多くの大学で廃止されて久しく,広く浅い知識教養を得ることは学校教育の中では難しくなっている。それに加えて,教科書の記述も,児童の主体性を尊重したり調べ学習を尊重したりするためか,非常に薄っぺらな子どもに迎合したかのような漫画のキャラクター入りのものまで出ている始末である。このような状況において,子どもの主体性を発揮させたり,子どもの「よさ」を重視したりすることは極めて危ういことである。それは,子どもに学ばせないのと同義である。なぜなら,教師の方も,その教科内容についてさほど深くは理解できておらず,教科書にも詳しく書いてあるわけでもなく,授業は子どもの興味関心を重視して進められる,それは子どもを遊ばせているのと同じである。「さあ,班になって,何を調べるかを話し合いましょう」,「それではグループごとに調べましょう」,「調べたことを発表しましょう」「調べたことを新聞にしましょう」,「それぞれの班にそれぞれよいところがありましたね。すばらしい」。こんな授業で,子どもに何が身につくのであろうか。独りよがりで自信過剰な中身のない人間を量産しているにすぎないのではないか。
 教育というのは,我々が先祖から受け継いだ文化的な遺産を次世代に誤りなく伝えていく営みである。そのためには,時には知識をたたき込むことも必要であろうし,子どもの興味関心をより伸ばしていける方向付けを教師がしてやることが必要であろう。子どもの「よさ」を認めるのではなく,子どもを「よりよく」するためでなければ,学校の存在価値はない。子どもを新しい世界に引っ張り出す力が教師になければならない。それこそが本当のeducationの意味である。
ジャンル:
学校
キーワード
小学校教諭 教員採用試験
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