学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

道学先生

2011-06-22 | 教育
いま学校に必要なのは,
愚直に道を説く先生である。

世事に疎く,融通がきかない,
ただひたすらに己の信ずる道に生きる,
そんな先生である。

とにかく変えることに意味があると思っている改革論者や,
これからはICTやデジタルの時代だなどと思っている新しい物好きや,
アンケートでもってファカルティーを
デベロップしたりなんかできると思っている単純な連中は,
結局,天下に大道あるを知らぬ輩である。
つまり,お子ちゃまである。

お子ちゃまが幅をきかせる学校は,
すぐに結果の出ることや
見栄えのよいことばかりに熱心になる。
浮かれているうちに,薄っぺらな学校になる。

よく見て御覧なさい。
いつの間にやら,
結構ダメになっている。

今はただただ,
道学先生を待ち望むのみ。
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目標・評価より大切なこと

2011-06-21 | 教育
授業を構成する上で,まず目標(めあて)をはっきりさせ,
その目標が達成できたかどうかを評価するということが,
重要な位置を占めている。
そこのところがはっきりしているかどうかが,
授業の良否を決めるとまで言われる。

確かにそれはそうであろう。
しかし,もっと大切なことがあるのではないか。

授業をしたことのある者ならおそらく理解できるであろうが,
目標は達成できなかった,
あるいは当初の目標からは全くずれてしまったが,
それでも,「よい授業」というのがあるのである。

授業中のふとした雑談から,
子どもがその雑談にひきこまれていって,
時間を忘れて,教師も子供も楽しんだということが
あるのではないか。
授業はちっとも進まなかった,でもおもしろかった,
という授業である。

こういう授業の中で,教師と子供の間に
純粋な知的な空間が生まれているということもあるのである。

むしろ,これは「よい授業」という枠を超えているのかもしれない。
教科書もカリキュラムもなく,
ただ大人が子供に教えるという,
人間が長い歴史の中で自然に行なってきた教育の本質的な形が,
授業という場に現れたのかもしれない。

近代学校は合理的であることを期待されている機関である,
がしかし,そのなかに,
合理的である以前の人間の営みがなければ,
学校の存在価値はない。

最近は,学校経営そのものにおいても,
PDCAサイクルの重要性が言われるようになって久しいが,
学校というところは,目標を設定し,
目標を達成できたかという合理的な考え方では
割り切れないところに価値があり,
それがもっとも大切なところであるということを,
教育に携わる者はもう一度考え直すべきであろう。
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ほめすぎ

2011-06-19 | 教育
近頃の学校,とくに初等教育の世界では,
とかく,「ほめる」ことが重視されている。

よく,「どの子供にもよいところがあるから,
それをみつけてほめましょう」というようなことが言われる。

しかし,これは少し行き過ぎではないだろうか。
探して見つけなければならないような美点は,
本当は「ほめる」に価しないのではないだろうか。

「ほめる」という行為は,
他者の行為が賞賛に価する場合に行われることであって,
賞賛に値する行為というのは,自ずから客観的に見ても
優れた行為であるというのが前提であろう。

とはいっても,「ほめる」という行為を,
教育効果を高める目的を持って,
意図的に行う場合においては,
必ずしも客観的に見て賞賛に価するというほどではない
子供の美質について行われることはあるであろう。

しかし,それも限度がある。
あくまでも,「ほめる」とか「しかる」というのは,
子供を社会的存在として成長させるための行動規制の意味を持っている。

だから,あまり「ほめる」ことを安易に行なっていると,
社会的に何が優れた行為であるのかというのが
子供にとって見えにくくなってくる。

そして,「ほめられない」自分を,
認めることができなくなる。

よいところを見つけてもらって,
いつもほめてもらってきた子供が
成長して大人になってからも,
ほめてもらえることを求めるようになる。

「がんばったのに,ほめてもらえない」などという不満を感じる
若者も増えてきているように思う。

社会は結果で判断し,プロセスをいちいちほめるようなことはない。

その社会の在り方に関して,不満を持ち,自信を失う若者がいるとすれば,
それは,初等教育の「ほめる」教育の在り方にも一因があるのではないだろうか。
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学習指導要領解説における「原子力」

2011-05-19 | 教育
平成23年度は,小学校の新学習指導要領の全面実施の年である。

さて,原発事故問題は未だ予断を許さない状況であることを踏まえて,
新学習指導要領解説において,原子力がどのように取り扱うこととされているかを
社会科と理科について検証してみた。

まず,社会科は以下の通りである。

小学校学習指導要領解説 社会編
火力発電所や原子力発電所においては環境に配慮していることや安全性の確保に努めていることについて取り上げることも考えられる。

高等学校学習指導要領解説 公民編 政治・経済
環境負荷を最小限にとどめ,持続可能な社会を構築するためには,省資源・省エネルギーの推進,原子力の活用,太陽光や風力などの新エネルギーの利用など,様々な方策を検討する必要があることを理解させる。


中学校については,「原子力」という言葉は見当たらないが,小学校と高等学校の政治・経済で扱うことになっている。小学校においては,原子力は「環境に配慮」して,「安全性の確保」に努められているものであるという位置づけである。原子力発電の危険性については,触れる余地のない記述である。高等学校においても,環境負荷という観点から,原子力の活用は推進されるべきものとされている。今回の事故を踏まえると,このまま取り扱うことは非常に難しいし,このまま取り扱うべきではないように思われる。

次に理科についてみてみよう。

中学校学習指導要領解説 理科編
原子力発電ではウランなどの核燃料からエネルギーを取り出していること,核燃料は放射線を出していることや放射線は自然界にも存在すること,放射線は透過性などをもち,医療や製造業などで利用されていることなどにも触れる。

高等学校学習指導要領解説 理科編 物理基礎
原子力については,関連して,α線,β線,γ線,中性子線などの放射線の特徴と利用,線量の単位など,放射線及び原子力の利用とその安全性の問題にも触れる。その際,放射線がその性質に応じて,医療,工業,農業などで利用されていることに触れることが考えられる。

電力の総消費量と水力,火力,原子力,太陽光などの各発電量の時間的な推移の調査を行い,それぞれの発電の仕組みや特性との関連から効率的な電力の利用について探究させることや,霧箱や放射線測定器を用いて放射線の観察,測定を行い,放射線の利用や安全性の問題について探究させることなどが考えられる。


小学校については,「原子力」という言葉は見当たらないが,中学校と高等学校で扱っている。中学校では,核燃料が放射線を出していることはしっかり扱っているが,「放射線」とは自然界にも存在し,医療や製造業などでも利用される役に立つものという位置づけであり,あまり危険なものであるという印象は受けない文章である。高等学校の物理基礎でやっと放射線の性質及びその「安全性の問題」に触れることになっている。しかし,気になるのは,ここでも,「危険性」ではなく,「安全性」である。

今回の原発事故を踏まえて,文部科学省は早急にこの学習指導要領解説の文言を再検討すべきであろう。もし,このまま何の修正もないとすれば,公的な「解説」なのであるから,このまま学校現場で教えなさいよという意味にとれてしまう。このコンセプトで原子力を扱うのは,今となっては,いくらなんでも無理であろう。

【追記】
この記事を書いた後,日本原子力学会から,「新学習指導要領に基づく高等学校教科書のエネルギー関連記述に関する提言」と「新学習指導要領に基づく小中学校教科書のエネルギー関連記述に関する提言」が出されていることがわかった。この提言が考慮されたかどうかはわからないが,これらの提言も,今日の視座で読むと誠に興味深い。http://www.aesj.or.jp/information/session.htmlからたどっていけば見られる。




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教育実習の矛盾

2011-05-15 | 教育
教育実習生が来ると,必ずといっていいほど,
実習校では,将来,教職に就くつもりがあるのかどうかを聞く。

そこで,教職に就くつもりはない,将来役に立つかもしれないから
免許だけがほしいのだなどと答える実習生には,
教育実習はお断りしたいというのが本音である。
実際にお断りするケースも多々ある。

なぜなら,教育実習というのは,実習校の好意で行っているところがあり,
附属校でもないかぎり,実習生を受け入れる義務はない。
教育実習とは,実習校の好意と児童生徒の犠牲のうえに成り立っているのである。

ところが,よくよく考えてみると,
教育実習は,教職免許を取るための単位として定められており,
教育実習をやらないと通常,教職免許は取れない。
しかしながら,戦後の教員養成改革によって,
「開放制」原則がとられ,教員養成系ではない一般大学でも
教職課程の単位さえとれば教員免許の取得が可能になっている。
もともとの「開放制」の意義からいうと,多様な専門領域と広い教養を持った
さまざまな人材が学校教員となることを目指していたはずである。

ということはすなわち,教育実習を受けに来る学生が,
必ずしも教職に就くつもりが明確にあるとは限らないということを
制度的にはもともと許容していることになるのではないか。

そうすると,
教職免許のために実習を受けに来たという学生の答えは許容されるべきで,
冒頭に書いた実習校の質問は野暮な質問ということになる。

しかし,児童生徒を犠牲にしてまで,
その程度の動機で教員免許を取得しようとする学生の
相手をしなければならないのかと考えると,
そのような学生の実習を受け入れたくないというのが現場の本音ではある。

この制度的矛盾が解消されていないから,
もともと教職に就く気のあまりない学生に,
「必ず教職に就きます!」という嘘を
強いることになっているのではないかと思う。

教育実習は,このように矛盾した制度である。

教育実習期間を1年間に延長したいなどという議論をする人は,
だいたいにおいて,このような矛盾に無頓着か,
あるいは,「開放制」よりも師範学校制度をよしとする人たちであろう。

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メディアリテラシーのジレンマ

2011-05-08 | 教育
大小様々のメディアの情報に接することが日常化した今日,
学校教育におけるメディアリテラシー教育の必要性がクローズアップされている。

しかし,メディアリテラシー教育の目的の一つである,
情報の真偽を判断する力をつけさせるというようなことが
本当に可能なのだろうか?

そもそもこの考え方は,
情報には真実が含まれているという前提に立っている。
すべての情報が偽りであった場合,
我々はすべての情報を偽りであると判断する力を持ちうるであろうか?
おそらくは,偽りの情報の中から,
自己の知識と経験に照らして,
もっとも確からしいと思われる情報を信頼することになるであろう。
しかし,そのように選び取られた情報は,真実ではないのである。

また,仮に真実の含まれている情報を入手できたとして,
その情報が真実であるという確証はいかにして得られるのであろうか?

日頃,マスメディアの情報あるいはインターネット上の言説に触れていれば,
感覚的に分かることなのだが,その情報が真実であるとする根拠を
ほとんどの場合,我々は得ることが出来ない立場にいるのである。
例えて言えば,部屋の中に閉じ込められていて,
壁にあいた穴から外の世界(と思わされているもの)を見てはいるが,
実際に外に出ることができない状況と同じなのである。
このような状況下で,
どうして,自分が見ているものが,
真実であるか虚偽であるかを判断することが出来るのであろうか。

結局のところ,我々は,多くの情報の中から,
自分の知識と経験,あるいは嗜好に応じて,
自分にとって好ましいと感じる情報を,
真実だと信じているに過ぎないのである。
そして,その情報が真実であるか虚偽であるかは,
かなり時間がたってから客観的に明らかになるか
(その時にはもうその情報は情報としての価値を失っていることが多い),
もしくは,永遠に明らかにならないかのどちらかである。

また,知識が多ければ,あるいは経験が多ければ,
虚偽の情報に惑わされないというものでもない。
知的エリートや人生経験豊かな人が騙される事例には事欠かない。

したがって,
我々には情報の真偽を判断する力もないし機会もないということを,
自覚していることぐらいしか,
有効なメディアリテラシーとして有効に機能するものはないのである。

かくして,
メディアリテラシー教育によって
情報の真偽が判断できる力がつくという言説もまた虚妄であるということになる。
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学校教育の転換点

2011-03-30 | 教育
大震災及び原発の状態を教訓として,
学校教育の在り方も今後考えなおしていくべきであろう。

防災意識の涵養は勿論必要であるが,
すべてを失ってしまった状況のなかで,
生き抜くのに必要な知恵や知識は何かということを考え直し,
学校教育に生かしていかなければならない。

もちろん,電力消費の増加が前提条件であるデジタル化やICT化は,
学校教育にとって,もはや不要不急のものと心得るべきである。

さらに,冷暖房や照明の使用を前提とした校舎のつくり方も
今後,改めるべきであろう。

学校においても,かつてと比べ,
我々はあまりにも電力その他各種資源を消費し,
さらにその消費を当然のこととしてしまっている。

学校教育が,今までの方向性では立ちゆかない,
転換点にきたということを
今,しっかりと認識し,考え直すべき時である。
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学級崩壊は行政の問題である

2011-02-13 | 教育
学級崩壊現象は,もはや珍しいことではなくなった。

この学級崩壊に関して,不思議でならないのは,
教育委員会などの教育行政が実効ある対策を何ら打ち出さないことである。

学級崩壊を教員の指導力の問題に帰着させることが,
教育行政の無為無策の隠れ蓑になっているように思えてならない。

教育行政が教員の指導力強化に目を向けている結果,
教員研修や教員養成などに対する施策は多いようであるが,
学級崩壊そのものに対する人的物的資金的な対応は全く不十分である。

学級崩壊が,学校において異常事態であるという認識が,
教育行政において薄すぎるのではないか。
どうも本気で学級崩壊をなくそうとしているとは思えない。

いますぐ,指導主事に充てられている優秀な教員を,
全員,人手不足の現場に戻し,教員として配属して対応にあたるべきである。
もともと指導主事に教員を充てる必要などないのである。
さらに,専任教員の数を大幅に増やして,
学級に複数担任制を敷いたり(もう二人では足りないかもしれない),
学校にいつでも派遣できるベテラン教員を待機させる,
あるいは,保護者対応専門教員を配置するなど,
いろいろ学級の秩序回復の方策は考えられるではないか。
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改革志向の愚かさ

2011-02-06 | 教育
 これはなにも教育に限ったことではないが,やたらと「改革」を言い立てる人がいるものである。近頃は世間も,少々「改革」という言葉に食傷気味,「改革」疲れの感はあるが,無理もないことであろう。
 これは,そもそも「改革」ということの本質を見極めていないことが原因であろう。物事には,メリットとデメリットがある。「改革」とは,そのメリットとデメリットの位置関係を一気にずらすこと,すなわち,いままでのメリットが消えて,新しいメリットができ,今までのデメリットが消えて,新しいデメリットが生まれることであり,実は,メリットが増え,デメリットが減ることを直接には意味しない。「改革者」は,必ずメリットを協調し,デメリットを無視するが,「改革」の恐ろしさは,「改革」当初には,デメリットが見えにくく,したがって,デメリットに対する対処が遅れること,あるいは,「改革」によって,実際には,気づかないうちにデメリットが増えてしまっていることなのである。我が国の教育改革などを長期的スパンで見れば,このことはよく理解できると思う。もしあのとき,大きく舵をきらなければ,こんなひどいことにはなっていなかったのでは,と思われる「改革」が数多くあることは,「改革」を経験した現場の教員ならば実感できるであろう。
 そもそも,本当に教育をよくしたいのであれば,「改革」をしないことである。「改革」ではなく,小さなめだたない改善を積み重ねていくことである。つまり,メリットとデメリットの位置関係をずらさず固定しておいて,一つひとつデメリットをつぶしていく工夫をするのである。あるいは,デメリットがつぶせなくともデメリットがあることをよく理解しておいて,ことにあたることができるだけでも,そのデメリットの悪影響を最小限に防ぐことができる。例えば,ものづくりを考えてみても,新製品よりも長く作られ続けている製品のほうが安定性や信頼性が高いのと同じである。教育は,人づくりである。ものづくり以上にデリケートな営みである。そのデリケートな営みに「改革」は似合わないのである。日々の改善への意欲を各自が持ち続けるための工夫のほうがより大切である。学校において言えば,校長の我が身を省みない確固たる教育理念に教員の同僚性(同志性と言い換えてもよい)がうまく機能すれば,大きく崩れはしないものである。
 ともかく,「改革」を言い立てる人の腹の底を探ってみれば,「我こそは改革者なり」という自負があるのだろうし,他人から「汝は改革者なり」と言われたいのであろうと思う。「改革者」の称号には麻薬的魅力がある。
 学校教育を考えてみれば,例えば,教育の本質について本当には考えてみたこともない野心家の校長などであれば,あるいは学校のことが本当には分かっていない外部からきた民間人校長などであればなおのこと,その学校の年譜に,「改革者」として特筆大書されることの誘惑には勝てないものである。畢竟,「改革」とは,「改革者」個人のためのものである。
 
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メディア・リテラシーを考える

2011-02-03 | 教育
昨今メディア・リテラシー教育の必要が叫ばれ,小学校段階から,多様なメディアに触れ,メディアの情報をどのように使うか,その利便性と危険性について,さまざまな機器を使った教育が提唱されている。しかし,よく考えてみてほしい。小学校段階では,リテラシーそのものが未熟なのである。そもそもリテラシーそのものが不十分な子供にメディアのリテラシーを理解させようとするのはそもそも無理があるのではないかと思われる。
 メディアにはさまざまなものがあるが,ここでは,インターネットを例にあげて,この問題を考えてみたい。子供にインターネットを活用させる際に,なぜフィルタリングするのかを考えてみれば,わかりやすい。フィルタリングは,子供自身がインターネットの危険性を本当には理解できていないであろうから,大人が子供を保護してやらなければならないという前提に立っている。想像すればすぐに分かることなのだが,例えば,メディア・リテラシーの観点から,小学生にインターネットのリテラシーを教えたとして,安全にフィルタリングなしにインターネットを活用できるようになるであろうか。おそらく無理であろうことは容易に想像がつく。このように考えると,義務教育段階では,インターネット・リテラシーよりも先に,リテラシーそのもの,すなわち読み書き能力を鍛えあげること,そして,その背景となる望ましい道徳的特性,すなわち健全な倫理観や慎重さ,熟考する態度などを育成する必要があるのである。これまたよく考えれば当然のことなのであるが,インターネット情報を賢明に取捨選択できる人間というのは,すでにインターネット以外からさまざまな知識を得ていてそれらを十分活用できている人間である。
 このように考えてみると,メディア・リテラシーの教育とは,メディアそのものを対象とした教育を大規模に取り立てて行う必要はなく,それほどのコストをかけずとも通常の従来から行われている教育の充実によって,技術的な側面に関する部分を除いては,ほぼ完成されるものと考えられる。
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あわてることはない

2011-01-31 | 教育
 市場原理が学校に侵入してきて困ることの最大のものは,市場原理が短期的な目前の利益しか追い求めないということである。いま何をすれば儲かるかということが,市場の行動原理になっている。明日になれば,また明日儲かる手段を考えればよいのであって,常に「今」が一番大切なのである。ところが,教育の場合は,そのような短期的な利益をそもそも求めていない。そこに価値観の違いがあるのだが,市場原理主義者から見ればまことにグズグズのんべんだらりとしているように見えるらしい。学校の教師たちは,そんなことでは生き残れないぞと脅かされ,おろおろと目先の利益のようなもの,つまり入学者の数だとか,卒業者の進路だとかというものに目を向けさせられている。しかし,本当はそんなものには,学校教育の価値などは現れてこない。よく落ち着いて考えてみればわかるのだが,教育や教育者が「生き残れない」ことなどあり得ないのである。歴史を落ち着いてみてみれば,真の教育者はなんとか生活をたてて生きているのである。教育の原点に戻れば,そうばたばたあわてることはないということである。
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学校教育の空洞化を危惧する

2011-01-31 | 教育
 新自由主義的教育改革の進展の結果,義務教育諸学校までもが競争に駆り立てられることが当たり前になってしまった。各々の学校はなんとか特色を出そうと苦心し,またその特色を地域や社会にアピールする必要に迫られるようになった。学校はこぞってホームページを開設し,日々の学校生活の様子や学校行事,特色ある実践などを掲載するようになった。ところが,改革が進んでいるように見えるこれらのことが学校教育に極めて本質的な部分で悪影響を与えていることはあまり論じられていない。
 本来,教育活動の成果というものは,教師個人のあるいは教師集団の長年にわたる地道な教育実践の積み重ねがあってはじめてぼんやりと現れてくるものであって,何かを始めたから劇的に効果が現れるといった性質のものではない。したがって,今日メディアでよく取り上げられるような効果的な教育方法や内容というものは一種の「物語」にすぎず,もしそれが現実であったとしても極めて特殊な例といってよいものである。
 ところが,いま学校は,そのような「物語」を求められている。そのため広報的な「物語」として価値のある教育活動を行うことに腐心することになる。その教育活動が,本当にその学校や子どもたちにとって意味のあることかを教師間でじっくり議論することもなく,最近注目を集めているとか,よくメディアに登場するといった理由で教育活動が選択されがちになっている。国際化,情報化,キャリア支援,体験活動等々,考え方そのものは意味のあることであろうが,それが,自分の学校とそこに通う子どもたちにとって意味があるかどうかが精査されることなく,とりあえずやってみようということで実施され,ホームページに掲載されるのである。子どもたちに感想を聞けば,当然目新しいことに関しては好意的な感想が寄せられる。そのことをもって,「やってよかった」ということになり,意味のある教育活動をしたかのような錯覚に陥ってしまうのである。その教育活動を行うことで,圧迫され削減された他の日常の教育活動,本来は教師が子どもと接したり授業準備をしたりするはずであった時間の損失,あるいはその教育活動のなかでの子どもたちの様子などを細かく吟味しようという批判的視点は封じられるのである。なぜなら,競争原理のもとでは,学校は,学校外に教育活動をアピールできるかどうかが最も重要な問題になるからである。「よい教育」であることを盛んにアピールすれば,それがどんな教育であれ,「よい教育」として認知されるのである。かくして地道な教育活動が圧迫され,子どもたちがじっくりと腰を落ち着けて学習する時間や環境がどんどん失われていく。目新しい活動に活発に取り組んでいる子どもたちは,その活動が教育課程の中で他の教育活動の緊密な連携をもって取り組まれている活動でないことを知る由もない。
 これらの問題点に現場の教師はだれもが気づいているが,それを言うことは許されていない。なぜなら,それは,「よい教育」に対する反逆であるからだ。
 今のままでは学校教育の空洞化は着実にすすんでいってしまうであろう。
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デジタル教科書を問い直す

2011-01-27 | 教育
デジタル教科書の導入への機運が高まっている。

デジタル教科書を小学校や中学校に導入するということに
どのような理念があるのか,今ひとつわからないのである。
近視眼的な発想に過ぎはしないかと危惧するのである。

義務教育学校で行う教育は,
子供がその後の人生を生き抜く力を与えるために
行われるべきものである。

子供の人生がその後70〜80年続くと仮定して,
70〜80年後の世の中は,
現在と同じような豊かな生活が可能であり,
IT環境が持続されたり,発展したりしているのか,
それとも,さまざまな地下資源も枯渇し,
水の供給や食料環境も不安定で,
さらに電力の供給もままならないような世の中になっているのか,
本当には誰にも予測できないのではないか。

そうすると,学校教育で,
子供に今与えるべき力は,
よりプリミティブな力,
すなわち,
できるだけ原始的な道具で学び,生活する力ではないか。
つまり,話を聞くことで学ぶ,本を読むことで学ぶ,
字を書くことで学ぶなどの,
歴史的にみて安定した方法で学ぶ力を与えることである。

世の中がどんなに変わっても,
生き抜いていくために使える方法を身につけさせること,
これが,未来の世の中を見ることのできない大人が
未来の世の中で生きていかなければならない子供に
残してやれる遺産なのではないだろうか。

学校教育の意味を根本的に問い直してからでも
デジタル化は遅くないのではないか。
多少便利だからといって,
性急に導入するのはいかがなものか。

学校教育をそのような視点から見直してみれば,
デジタル教科書がいかに危ういものであるかが見えてくるであろう。

さらに言えば,デジタル機器はまだ不安定である。
パソコンを日々使っている人なら分かるであろうが,
デジタル機器の不安定さや信頼性のなさを
カバーするためにどれだけの投資が必要かは考えてみればわかるであろう。

本気で学校のデジタル化を進めるのであれば,
子供が使う機器なのであるから,
少なくとも,各学校に専門のSEを複数常駐させなければ
まともに機能しないことぐらいは
わかりきったことであるように思われるのだが。

事実,20年ほどまえ,当時のマルチメディア教育を調査していたとき,
当時の最先端のある私立学校の先生に聞いたところ,
その先生は,ITの専門的な知識を持った方であったが,
コンピュータ教室に寝袋を持ち込んでおられた。
生徒用のパソコンに生じたトラブルを解消し,
明日の授業できちんと機能するようにするために,
夜通し調整する必要があることがたびたびあるからだというのだ。
その先生は,使命観をもってやっておられたが,
これが全国の学校でできるのだろうか。
それとも,いまのIT機器には,トラブルは起こらないのだろうか??

ただ,機器を備え付ければこと足れりとする発想ならば,
デジタル化など,たんすの肥やしを増やすだけであろう。


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子供の気持ちを理解する?

2011-01-24 | 教育
よく,子供の気持ちを理解することが大切だということが,
親や教師へのアドバイスとして言われることがある。

この場合,子供の気持ちに寄り添って,
共感的に理解するというニュアンスが強い。

この子供へのアプローチは,
子供の年齢によっては
適切なこともあろう。
しかし,いつまでもこれではいけないのである。

そもそも大人が,このような意味で,
子供の気持ちを理解することが
本当にできるのだろうか?

大人は,大人の立場で子供を見ている。
したがって,もしも子供の気持ちを理解したという大人がいても,
それは,子供に共感したというよりもむしろ,
大人の文脈の中に,
子供の気持ちの有り様を位置づけたに過ぎない場合が多い。

よく考えてみれば,教育にとって大切なのは,
大人が子供の気持ちを理解することではなくて,
子供が大人の気持ちを理解するようにさせることである。

大人は,子供の気持ちを理解しようとするのではなく,
子供のことを親身に想うのであれば,
子供を大人にするために教え諭すべきである。
もし,大人が子供に共感したとしても,
共感に終わる限り,子供は決して成長できない。

子供が,大人の考えと自分の考えの違いに気づき,
内省を深めるように促さない限り,
子供は決して大人にならないのではないだろうか。
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こわい先生

2011-01-24 | 教育
今必要なのは「こわい先生」なのではないか。

何も,怒りまくったり,
怒鳴りまくったりする先生のことではない。
そんな先生はこわくない。

ここで言いたいのは,
近寄り難い威厳のある先生である。

言葉遣いはあくまで丁寧で,
いつもおだやかで隙がなく,
それでいて,
人の内面を見抜くかのような
眼光鋭い先生。

子供の頃,そんな先生が一番こわかった。

そんな先生を最近あまり見なくなったような気がする。
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