たにしのアブク 風綴り

85歳・たにしの爺。独り徘徊と喪失の日々は永い。

たにしの爺が待っている「ゴドー」は既に通り過ぎた??

2017-01-15 13:58:40 | 本・読書

最近、こんな本を読みました。
サミュエル・ベケット「ゴドーを待ちながら」(訳者、安堂信也・高橋康也)2009年1月10日・白水社刊。

何故この本を、この時期に、読むことになったのか、
長文になりますが、そのきっかけを書いて見ました。

昨秋から暮れにかけて、毎日新聞紙上で複数回、目に留まったフレーズがありました。
――「ゴドーを待ちながら」――



*①2016年12月17日、毎日新聞朝刊、コラム「危機の真相」。
同志社大・浜矩子教授が毎月書いているオピニオンコラム。
「日露首脳会談 ウラジーミルを待ちながら」と題した記事。

多岐にわたる内容でしたが、表題の当該部の要旨は――
安倍首相は長門市の温泉旅館でプーチン大統領を待っていた。
ウラジーミルは予定より2時間半ほど遅れてやってきた。
ウラジーミルを待ちながら、晋三さんは何を考えていただろう。

筆者・浜教授は「ゴドーを待ちながら」という芝居について述べて、
いま世界中が「ゴドーを待っている」として、
アメリカにはトランプという「ゴドー」が来るが、何者か良く分からない。
総選挙目白押しのヨーロッパ各国でも「ゴドー」を待っている。
「ゴドー」に期待しながら、結局、不条理な結果になるのか、
「良きゴドーが来てくれますように」と筆者は結ぶ。
「日露首脳会談 ウラジーミルを待ちながら」



たにしの爺、「ゴドーを待ちながら」について調べました。
サミュエル・ベケット(アイルランド生れのフランスの小説家・劇作家)の
二幕の不条理劇の戯曲だと知りました。

登場人物は、
エストラゴン(ゴゴ)
ヴラジーミル(ディディ)
ラッキー、ポッウォ
男の子

エストラゴンとヴラジーミル、2人の浮浪者が田舎の一本道でゴドーという人物を待ち続ける。
二人は待ちながら、脈絡もない、帰結もないセリフを、エンドレスにしゃべり、
そして沈黙、またしゃべりを続ける。



そこに、ラッキー、ポッウォの乞食同様の二人が登場する。
さらに、論理的非連続なおしゃべりと、奇妙な動作が繰り返される。
二人が去った後、少年が登場して「ゴドーは今日は来ない」という。

日が変わって「二幕」――
登場人物は同じ、同じように、脈絡のない不連続なセリフが続く。
そして結局、ゴドーは現れなかった。
また、ゴドーは何者であるかもわからないで終わる。



解説によりますと(要旨)、
「この芝居が現代演劇最大の傑作(あるいは問題作)であることを疑う者は、おそらくいない。
匹敵するのは唯一の『ハムレット』あるのみかもしれない。」という。



*②この不条理演劇が直近、演じられることを知りました。
2016年12月28日、毎日新聞夕刊、カルチャー芸能面。
柄本明、佑、時生父子「ゴドー」には宝の山がある――の記事をみました。
劇団東京乾電池が来年1月5日から10日柄本明(えもと・あきら)演出で、
ベケットの「ゴドーを待ちながら」を上演するという前触れ紹介記事でした。

記事によりますと、佑と時生は1年半前にも演じています。
「すぐにもう一回したいねと時生と話しました」と佑。
今回は父明に演出を依頼したという。
息子2人には「ゴドーができるのは、大変なぜいたく。長くやることで、
その中に隠された宝の山があると思う」と父明のアドバイス。



「ゴドー」をひたすら待ち続ける、ヴラジーミルに柄本佑(たすく)、
エストラゴンに時生(ときお)の兄弟が出演する。
そこへポッツォ(ベンガル)とラッキー(谷川昭一朗)が現れる。
「ゴドーを待ちながら」は1月5~10日、東京の下北沢ザ・スズナリ。(以上、記事の要旨です)

劇評、出来栄えについては分かりませんが、切符完売で公演は終わっています。
劇団東京乾電池

 父・柄本明、息子の佑と時生親子。
テレビ、映画作品で、特異な風貌で異彩を放つ役者ぶりは知っていますが、舞台劇もやるとは知らなかった。
二人の息子もテレビの朝ドラにも出ていて、個性的というか、
不気味さの中に、おかし味を感じさせる芸能人だと思っていましたが、
こういう戯曲まで演じるとは知りませんでした。



*③2016年12月25日、毎日新聞、今週の本棚
保坂和志著『地鳴き、小鳥みたいな』(講談社・1620円)の書評のなかで、
評者の鶴谷真さんが、カミュの小説「異邦人」やベケットの戯曲「ゴドーを待ちながら」を引き合いに出して、作品を解説していました。



 たにしの爺、演劇とか、戯曲・舞台劇については全く不案内です。
関心もなく、これまで見たこともありません。
記憶にあるとしたら、何かの招待で行った「明治座」で、
梅沢富美男一座のバタバタ劇を見たくらいです。

今回読んだ戯曲「ゴドーを待ちながら」は実に面白くありませんでした。
最後まで読むためには大変な辛抱をしました。
幸いというか、不幸にもというべきか通院がありましたので、
病院の待ち時間という閉鎖的時空の中で、
何かに集中するしかない状況において読み終えました。



戯曲は読むのと、舞台で芝居として観るのでは、感じるものが違うのでしょうね。
しかし、たにしの爺が思うには、
芝居とか、演劇は役者にこそ身体的エクスタシーがあるのであって、
観る側には、どのようなエクスタシーがあるのか、
よく、「総立ちのカーテンコール」とかと言われますが、
経験したことがないのでわかりません。
この歳になっても演劇とか舞台の感動を知らない。
自己顕示には引っ込み思案の「たにしの爺」です。

たにしの爺が待っている「ゴドー」なんだろうか――。
80年近くも待っているが「ゴドーは何者かわからないし、まだ現れない」
それとも、すでに来て、去って、しまっているのだろうか。
皆さん「ゴドー」は待っていても、決して来ないでしょう。

2 コメント

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分かりやすい解説ありがとうございました (雨曇子)
2017-01-15 22:22:48
題名だけは知っていたこの演劇
谷氏の明解な解説でなんとなく分かりました。

不条理は「絶望的な状況」を意味するのだそうですが、
安倍さんはゴドーを待っていたわけではなく、
一縷の希望にすがっていたと思いますよ。

ともかく、よくぞここまで読みこなして解説してくださいました。
ヴラジーミル「ヨントー」を待っていた安倍さん (谷氏)
2017-01-16 08:26:37
そうなんです。
日本人が皆待っていたのはウラジミール「ゴドー」ではなく、
北方4島「ヨントー」なのです。
でも、「ヨントー」は決してやって来ない。