Today's BANANA and other stories.

出たとこ勝負のスラプスティック終末小説「Today's BANANA」他を連載中。言うまでもなくフィクションです。

冬のはじめ。

2011年12月04日 | 野帳
●窓の外を眺めながら、

時々、駅前の喫茶店でお茶を飲みながら勉強する。周囲のテーブルの会話が、喫煙席から流れてくるタバコの煙とともに雲になって襲ってくる、ケーキの味は一流だがせわしない、ターミナル駅下の店で。いつでも、どこかで必ず病気の話をする人々がいた。点滴のこと、手術のこと、介護にまつわるあれこれの気疲れ、財産の相続に関する親戚間の噂。人々は駅前の喫茶店でそのような話題を大声でするものだろうかと思っていた。そしてある時(つまり今)、気がついた。ここはとある大病院の最寄り駅でもあるのだと。
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蝉とビア。

2011年09月03日 | 野帳
●堰を切る。

 歩道のはたに幾つも落ちているものがあった。手に取ると、それは精巧な模型めいた茶色の物体で、葉脈のような筋の入った二枚の羽根を扁平な頭部のすぐ下から生やし、その背後にはやはり葉のかたちをした短い胴を持っている。流線型を組み合わせたかたちはつまむのに丁度よい大きさで、裏返すと六本のかぎづめが折り畳まれていた。それらの多くは動かなかったが、動いているものもあり、軋む音をたてながらバウンドしているのもあった。その一つが足にまとわりついてきたので、私は服を揺すって後ろに下がった。
 「ああ、失礼。しかし危険はありませんよ」
 冷えた飲み物の入ったジョッキを盆で運んでいたウェイターが私に言った。木立に囲まれたその公園はビアガーデンになっていて、沢山の男たちと女たちの手がせわしなくテーブルと口とを往復している。私は中に入らず、入口に佇んで風景を見回した。公園の木々はすんなりとした幹を空に向かってのばし、梢の向こうの白い雲は、街の上をゆっくり流れてビルのガラスに溶けた。建設中の高層ビルの屋上でクレーンがゆっくりと回転していた。工事現場の騒音があたりを覆っていた。戻ってきた彼は私の視線を追って私の関心を知った。
 「あなたは夏の風物に詳しくない。あれは夏の汁を絞っているところです。それをああやって冷やして飲むんです」
 彼は木立の下に歩いて行って、一本の木についていたコックをひねった。コックは大きな音をたてて激しく振動したが、彼はかまわずコップを差し出した。とろりとした液体がコップの底にたまりはじめた。半分ほどのところで彼はコックを離し、私にコップを寄越した。目の高さで陽光にかざすとそれは淡い黄金色のシロップのようだった。鼻を近づけると、少し、夏草のにおい、腐葉土と草いきれと虫たちの体臭の入りまじったあのにおいを感じた。それから熱せられたアスファルトのにおい、工事現場の土ぼこりのにおい、海から来た湿った空気のにおい、摂氏三十五度をもたらす太陽光線のにおい。口にふくむと、ほんのり甘く、鋭い刺激と苦みがその後に続いた。複雑な味だった。美味しいというより、私には混ざりすぎだった。
 私たちは周囲のものすごい騒音を聞いた。
 「夏の間はフル稼働です。おかげさまで」
 「いつまでやっているんだ?」
 「この夏の蝉が死ぬまで」
 向こうの方で何人かがコックをひねって自分のジョッキに液体を流し込んでいた。
 「あのコックは便利だね。使い捨てなのかい」
 彼は私を見て言った。「あなたは夏の風物に詳しくない。あれが蝉ですよ。羽化して一週間で死ぬんだが、五月蝿いばかりで人気がなくてね。夏の汁を集めるには便利だから」
 私はビアガーデンでさんざめく男女を眺め、夏に対する嫌悪を新たにした。
 戻ると、友人たちは準備万端ととのえて私の帰還を待っていた。私は堰の向こうにまんまんとたたえられた清冽な水と、時おり水面にはしるさざ波とを満足を込めて見た。
 「堰を切れ」
 私が合図すると、一つの季節の間溜められていた秋の水が奔流となって流れ落ち、轟音とともに夏の街を充たした。
 やがて空に巻雲が出た。秋がこの地を制圧した。
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歩く歩道。

2011年07月08日 | 野帳
●節電の街で。

 小走りにつき従う歩調めいた口ぶりで松田君がしきりとささやきかけるので、どうやら自分が「歩く歩道」と言い間違えているらしいことに気づいたが、私はかまわず話を続けた。地下道の入口は今やくろぐろと私たちの前にひらけ、その奥に、私たちの議論の対象が設置されている筈なのである。
 松田君はたえず私の先回りをしようとしながら、その実私の足取りについて行かれずに半歩後ろを急いでいる。「幽霊が出るという苦情なんです。つまり、その」そのようなことがある訳がないのだが。「でも、確かに聞こえることは事実なんです。その、何といいますか、悲鳴のようなのが」彼の声音はうわの空になる、私もまた耳をすます。「ほら、ね。犬の遠吠えのようなのが」
 風が鳴っているのだろう。あるいは業務用カートの軋る音が増幅されているのか。この地下通路を利用する者は多く、さまざまな雑音が響きあう。私の部下はむきになる。彼はこの時のためにあらかじめ申請してあった権限にもとづいて、地下通路の封鎖にかかる。倉庫からカラーコーンが引き出され、トラテープを巻かれたバーがその間に差し渡される。一方通行の道であるから、その間にも通路からは、潮が引くように人の気配が消えてゆく。私は石畳様の路面や、ところどころひび割れて修繕が必要な柱、三本のうち二本が消えた蛍光灯、そのうすぼんやりした明かりの背後に不機嫌にわだかまる埃まみれの壁がにわかに近景に立ち現れたのを感じ、そして(私は隠しとおすことができない)それらにもはや拭いがたくしみついたアンモニア臭に辟易しながら、部下のこころみの効果を待つ。
 「ほら」と松田君は、その数メートル後ろに立つ作業服の職員を真似るように軽く両手を広げて私に注意をうながす。確かに細いドローンのような音が止んではいない。このことは、私には「幽霊の正体見たり枯れ尾花」ということわざを連想させるが、都市の神秘に魅入られた松田君のような若者には異なる結論を根拠づけるように思われる。私は耳をすましながら言葉を探したが、そうするうちに、風の音に明らかに奇怪な響きが混じるのに気がついた。それは人の声のようであり、さらに言えば音節を聞き取ることができる。その声は何かを命じ、もしくは依頼している。
 私が見たのは、閉鎖された動く歩道の背後の壁であった。そこには目立たぬように工夫されながら、維持管理の必要のため、通路と幾つかの小部屋が隠されている。何かを命じるような声がそこから響いて来ると考えることは妥当であろう。小部屋は数人の人数を難なく収容する筈である。
 「この歩道はどれほど封鎖されているのかね」部下の目が泳ぎ、作業服姿の管理課の職員をとらえて戻ってくる。「六か月。いや、三か月。室長もご承知のとおり、節電の励行のため、」なるほど、三か月前に定期検査があったのだろう。節電にかかわらず、この歩道が動いているところを私は見たことがない。管理課の職員が不満そうに唇を震わせて言う、「まったく、動く設備を使わないなんて、土地の無駄遣いだとは思いませんか。この地価の高い都心で」
 「それで、いたたまれなさのあまり、動く歩道は幽霊になったと言うのです」
 「誰が」
 「通行人は誰もが」
 私は管理課の係員に不審な声のことを告げた。私が慎重に対応を(というのは彼らが私の想像どおり、武装せる反政府勢力だとしたら、どのような反撃を受けるかも知れず、私が隠し持つ拳銃では対処しきれないと思われたからだが)と口にするよりも早く係員はシャッターを開け、小部屋の中で舌打ちをした、「何てことだ。案内放送のスイッチを切り忘れている」三か月分の電気代が、と彼は前任者をののしった。私は部下を見た。
 「松田君、幽霊の正体はこれだな」
 彼は黙ってうなずいた。「しかし、せっかくあるのに使われないなんて、これも残念でしょうね。揚句に無駄と言われて」
 私はラザロよ起きろ、と命じた訳ではない。「もし、残念だと思うなら、自ら立って、どこか役に立つ場所に行けばいいのさ」
 すると、私たちの目の前で歩道が立ち上がり、歩きはじめた。
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空間利用効率の問題。

2011年07月06日 | 野帳
●虫たちの沈黙。

一つ、この質問に答えてみたまえ。ある夜、君は寝室のカーテンの陰に、名を秘すさる黒い物体を見出す。翌朝、名を秘す黒い物体が台所の床を歩いているのを見る。さて、この二つの事実は何を意味するか。
その二つの事実は二つの解釈を可能にします、と君は口ごもりつつ言う。その一つは、我々が名前を出すことを好まないかの物体は、一晩のうちに私の寝台を横切って移動しうる能力を備えていたということ、別の一つは、かの物体が私の室内に二匹存在するということです。
そのどちらも君にとってはのぞましくない。
そのどちらの解釈も、私にとっては忌むべきことです、と君は同意する。
君は思い出さなければならない。君はかの名を呼ぶべきでない物体と住居を共有しているが、そこには一つの暗黙の協定があり、お互いはお互いの前に姿を現してはならない。
ええ、そうです。私たちは暗黙のうちにその原則に同意したのでした。すなわち私は真夜中を越えて夜更かしをすることなく、彼らは私が明かりを消すまで現れてはならない。この協定はこれまで、おおむねにおいて守られてきました。
違反には制裁があるのだね。
私が起床しているうちに彼らが私の視野に入った場合、私は彼らを殺害する権利を保留しています。
大都市部において、空間利用の効率とプライバシーの保護を両立するための適切な生活態度だ。ところで、適切な生活を維持するためには、ルールが遵守されなければならない。違うかね。
ええ、ルールは必要です。しかし、と君の唇は動くが、君は言葉を発した訳ではない。君は次の問いを無力に待ち受ける、さて、君がそれを見たのは何時だったのかね。
それは夜の九時と朝の六時でした。しかし、君はかろうじて指摘する。しかし、実のところ、それはそれほど黒くありませんでした。黒曜石の矢尻のように黒光りすることも、幅広であることもありませんでした。むしろそれは柔らかな褐色で、細身の優男で、
眉がひそめられるのを君は見る。惚れたのか。目の前の唇が歪む。君はゆらゆらと揺れていた、あの細長い二本の触角を思い浮かべる、人間的であるためには、私はこの偏見を捨てるべきではないか。
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【連載】Sci-Fi-nostalgica(目次)

2011年02月22日 | 事務局通信
まあつまり、昔懐かしのスペオペ風味を目指しています。コンセプトは「大宇宙のグレート・ゲーム」。さてその首尾やいかに‥‥

●episode 1:エロトラバ
○第1回 ○第2回 ○第3回 ○第4回 ○第5回 ○第6回 ○第7回 ○第8回
○第9回 ○第10回 (続く)
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エロトラバ(10)

2011年02月22日 | Sci-Fi-nostalgica
一体何年ぶりかのSci-Fi-nostalgica、突然の再開です。



承前。

 ツアー客の御一行様が潮が引くように隣の部屋に立ち去ると、出口のところにハリーが真面目くさった顔で立っていた。
 「鼻の下伸びてますよ、先生」
 「これも料金のうち?」
 彼はくぐもった声が響いて来る前方を眺めやって肩をすくめた。「文化施設の役割の一つは上流階級の社交場ですからね。夜はここで演奏会が開かれたりもするんです。彼ら、シーズン中はずっと入り浸っていますよ。あなたもしばらく滞在するつもりなら覚えておいた方がいい」
 わたしは植民地のスノッブな役人のコロニーに紛れ込むのは真っ平だと身振りで示してやった。次の展示室は長い内乱の末、ドゥム=サカの帝国が崩壊し、銀河セントラルの秩序に組み込まれるまでの経緯で――今やかつての中継港は辺境の忘れられた一星系にすぎない――先客たちは残ってもいなかった。色さえも褪せた廃港のイメージ画を眺めながら、わたしは案内人にささやいた。「それで、君が言っていた大反乱はいつの話だって?」
「何ですって」背後からの声が問い返した。振り返ると錆び付いた機械のような(どうしてそのような印象を持ったのかは分からない)偉丈夫が立っていた。
「マスター・ロメイ。博物館の学芸員です」ハリーがすばやくわたしたちを紹介した。「彼に案内してもらったのです。宙港で、酒場を、ほらエル・トローバ」わたしは言った。
ロメイ修士はわたしに注いでいた視線をわたしの案内人に向けた。相手は悪戯を見つけられた少年のようににやり笑いを浮かべながら帽子を直した。「ガイドに許可証を呉れるのは市長であってあなたではないからね、学芸員さん」
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【連載】Today's BANANA(目次)

2010年05月30日 | 事務局通信
古典ギリシア語の試験の朝、アイザック・エイブラハムセンはカンニングの疑いをかけられて教室を追い出される。その日、首都では大規模な反政府暴動が発生していた。街をさまようアイザックは革命の陰謀に巻き込まれて‥‥
学年末試験の朝、バナナの皮に滑って転んだ大学生アイザックの受難からテロと革命と世界崩壊の幻想へなし崩しにつき進む、出たとこ勝負のスラプスティック終末小説。



■第1部
 ●chapter.1:試験日
 ●intermission:a night-flight
 ●chapter.2:コンサートへ
 ●chapter.3:革命家たち
 ●intermission: a midnight-greentea-time
○第1回 ○第2回 ○第3回 ○第4回 ○第5回 ○第6回 ○第7回 ○第8回 ○第9回 ○第10回 ○第11回 ○第12回 ○第13回 ○第14回
 ●chapter.4:アルハムラーウ
○これまでのあらすじ
○第1回 ○第2回 ○第3回 ○第4回 ○第5回 ○第6回 ○第7回 ○第8回 ○第9回 ○第10回 ○第11回 ○第12回 ○第13回 ○第14回 ○第15回
○第16回 ○第17回 ○第18回 ○第19回 ○第20回 ○第21回 ○第22回 ○第23回 ○第24回 ○第25回 ○第26回 ○第27回 ○第28回 ○第29回 ○第30回
○第31回 ○第32回 ○第33回 ○第34回 ○第35回 ○第36回 ○第37回 ○第38回 ○第39回 ○第40回 ○第41回 ○第42回 ○第43回 ○第44回 ○第45回
○第46回 ○第47回
○灰の水曜日(第一部のあとがき)

■第2部
 ●chapter.5:審問会
○これまでのあらすじ
○第1回 ○第2回 ○第3回 ○第4回 ○第5回 ○第6回 ○第7回 ○第8回 ○第9回 ○第10回 ○第11回 ○第12回 ○第13回 ○第14回 ○第15回
○第16回 ○第17回 ○第18回 ○第19回 ○第20回 ○第21回 ○第22回 ○第23回 ○第24回 ○第25回 ○第26回 ○第27回 ○第28回 ○第29回 ○第30回
○第31回 ○第32回
(続く)
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審問会(32)

2010年05月30日 | Today's BANANA
承前。

 三十年前に増築された七階は、かつても今もニコルソンの研究室のみがある。段差の果てた先の扉は、薄暗がりに金属の質感をむき出しにして固く閉ざされ、アイザックは扉に近づき、隙間からわずかに漏れる光を確かめた。ノックし、ノブを引くと、鍵はかけられていなかったことが判った。
 夥しい書物の向こうに、かつてのとおりに老教授はこちらを向いて座っていた。その机上にも専門書と書類とが乱雑に積み上げられ、使い込まれたマグカップが放置されていたが、ニコルソンの手元は空白のままだった。アイザックはゆっくりと歩み寄った。入口近くの書棚の下段をまるまる占拠して、あの発掘の報告書が並べられていた。彼の目は大型の写真集の背をとらえもした――原マゴニアにおける古典古代彫刻。残余の棚はギリシア古典の校訂本、写本のファクシミリ、あまたの研究書が埋めていた。「何の用だ」しわがれた声が言った。
 アイザックは答えに詰まった。老人の背後にのぞまれる空はくらくかげっていた。雲は今や大地の肌を欲するごとくに低く垂れ込め、樹々の黒はオイルで薄められたか、パレットナイフで削り取られたように頼りなく揺れていた。だが雪は未だ。建物と木立の向こう、博物館公園にカラフルな点が蝟集していた。今日は休日なのだ、建国記念の。アイザックは思い出した。あそこにいるのは、この一日限り、学校から解放された子供達に違いない。パレードは終わったのだろうか? いや――彼は訂正した。パレードはもう始まっているのか?
 「アトキンスは死にました」
 アイザックの舌が歯と歯の間を離れて言った。
 「それがお前に何の関係がある」
 「彼は僕を審問会に告発した――彼もまた今日の審問会に出席する筈だった」
 ニコルソンの薄くなった白髪は後頭部に向かっては長く伸びていた。その流れをたどり返した下に、アイザックの目は分厚い封筒の存在を認めた。すでに封を解かれたその赤い紐はあらぬ方にのたうち、表面に貼られたシールにはボドニ体で、
 「僕は彼の友人でした」



あちゃー、という場面に登場人物を放置するのは本意ではないが。
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審問会(31)

2010年05月16日 | Today's BANANA
昨日が本ブログ開設1000日目だったらしいです。引き続き、崩壊してゆくBANANA世界ほかをお楽しみください。



承前。

 事務吏員は後を追って飛び出した。廊下に出たアイザックが目にしたのは、右手の階段を上ってゆくニコルソンの背中だった。あわれな事務吏員はなすべきことを決しかねて立ち尽くしていた。「彼は自分の研究室に行くつもりらしい」彼が絶望的な身振りで示すまでもなく、事務室は反対の方向だった。アイザックは自分よりあるいは若いのかもしれない相手を一瞥した。「俺がニコルソンを追いかける。あんたたちは先に避難しろよ」
 「あんたたち」事務吏員は鸚鵡返しに繰り返した。
 「あんたとエルラッハとアトキンス」
 「アトキンスは死体だ」
 アイザックは階段を上った。踊り場の窓から見える落葉樹の黒ずんだ梢が光景に罅を入れていた。人の姿はない。四階の廊下には非常灯ばかりが心細く明滅し、黒い扉の列にてんてんと白い染みをつくっている。鉄の手摺は上へ向かって四角ばった螺旋を描き、二層上にニコルソンの靴が動くのが見えた。再び踊り場。運動場に十数人の人影が散らばっている。五階。ガタン。上方で重い扉の閉まる音が響いた。はるか下に、鉄の螺旋に囲まれた一階の黄土色の床があった。その一方が白く抜けているのは入口から外光が流れ込んでいるからに違いなかった。アイザックは下着を蒸らす汗に気がついた。周囲は静まり返っていた。外でサイレンが鳴っているのだった、耳を澄ますと、吹き抜けの空間をつたって小さく割れた警報音の欠片が上って来た。踊り場の窓から眺めると、運動場の人影らしい黒い粒は、思い思いの方向に走っているようだった。アイザックは最後の行程を上りはじめた。
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審問会(30)

2010年05月13日 | Today's BANANA
承前。

 事務吏員は床を蹴った。「糞。変更だ。全員で事務室へ」だが誰も動かなかった。事務吏員はもう一度繰り返し、それからニコルソンの向かいに屈み込んだ。「先生、避難命令が出ています。早く出て下さい」相手が反応を示さないのを確かめると、彼は強引に老教授の腕を取り、立ち上がらせようとした。アイザックはニコルソンがよろめき、次いで事務吏員につかみかかり、我が身を相手の束縛から振り放したのを見た。リリアは小刻みに重心を動かしながら二人の男の下で身動きをしないアトキンスを凝視していた。
 「避難だと? 何のために?」弾んだ息の間から発せられる軋んだ声は悪意の塊だった。その言葉がまとわりつかせているであろう口臭を思ってアイザックは顔をしかめた。事務吏員は果敢に職務を遂行しようとした。「恐怖が出現したので、――御存知でしょう」
 「恐怖とは何だ。恐怖が出現するとはどのような状況を指す。誰が何を恐怖の出現と認めるのか」スタカートで繰り出される畳みかけは確かにかつての名物講義を写していた。問いかけられた学生は衆人環視の中で言葉を失い、同輩たちの頭上でなすすべもなく立ち尽くすのだ。哀れな事務吏員は答えを持たなかった。恐怖の出現は彼の担当業務ではなかった。確信の持てぬままに、結局彼はいつも馴染んだ言葉を選んだ。「規則で決まっています」
 「根拠なき規則に何の意味がある」老教授は事務吏員を嘲笑した。それら無慈悲の刃は重力に従って下に落ちた。ニコルソンの視線はその向かう先を見た。老人の目は涙を吹き出した。「ああ愚か者、愚か者どもめ」色の薄い、罅割れた唇が呪詛を吐いた。「恐怖だと。お前たちにとって、規則の外にあるものは全て恐怖なのだ」彼は事務吏員を荒々しく突き飛ばし、盲いた者のように廊下によろめき出て行った。
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審問会(29)

2010年05月11日 | Today's BANANA
承前。

 「動くな」その甲高い声は事務吏員のものだった。アイザックは染みが暗く浮き上がった男の白い顔を見た。栗色の整えた髪を逆立てた彼はまだ若かった。眉毛の下で瞼に切り込まれた穴である目はせわしなく手元の紙を追い、その間に状況が変わっていることを恐れるかのようにすぐに他の者たちの顔に戻って来た――状況は変わりはしなかった。窓の外は、音があろうとなかろうと、曇りガラスの向こうのように白かった。室内では蛍光灯の光が、乱れたままの椅子にいろどられてにわかに広くなった寄木細工の床に飴色の艶を与えていた。アトキンスの遺体の前に頭を垂れるニコルソンの背中は奇妙に小さく、そして損傷の痕跡をとどめた遺体は、棺から取り出されたファラオのミイラのようにあからさまに床に横たわっている。
 「君たちは」アイザックとエルラッハをねめつけながら事務吏員が言った。「先程ニードマン教授は審問会は中止だと言われたが、今日の会を延期するのか、審問会そのものを中止するのかはっきりされなかった。確認して来るから、三名は私が戻るまでここで待て。ニコルソン先生、カーン先生とこの教室の管理の件で相談がありますから、一緒に事務室にいらして下さい」
 「全員すみやかに避難せよ」スピーカーが命じた。
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審問会(28)

2010年05月09日 | Today's BANANA
承前。

 教卓の後ろのニードマン教授は事務的な速度で背を伸ばし、教壇の下に立つギャラバンを見た。相手は同僚から視線を戻し、一座の最上席である人物を見上げた。ミルトンは折り重なった灰色の布地から用心ぶかく両の足と靴を引き抜き、ズボン下を撫でつけるようにしながらゆっくりと身を起こした。
 「審問会は中止だ。我々は避難しなければならない」ニードマンが落ち着き払った調子で宣言した。
 「窓際に近づくな」ギャラバンが注意した。窓ガラスの向こうに描かれた絵のように非現実のもののように思われる遠くの音声から考えて、おそらく構内のどこかで騒動が起こっているに違いない。「カーテンを閉めましょうか」リリアの声に彼は素早く同じ指示を繰り返した。「窓の外から見える位置には行くな。姿勢を低くして廊下に出るんだ」
 「カーン准教授はどうします」事務吏員が訊いた。
 「規則ではどうなっている?」
 「ニコルソン教授の指示に従い、救護等の措置を行い、教室の床を洗浄すべきです」
 「この状況においても規則は尊重されるべきなのかね」ミルトンが呟いた。ギャラバンはミルトンが内股のまま向きを変えようとするのを助けながら言った。「さあ、どうなんだ」
 事務吏員のハート型の顔は白くなった。「規定はありません」
 「それは君たちの手落ちだな」ギャラバンは音韻学の教授の脱ぎ捨てたズボンを爪先に引っかけ、クリード・カーンだった水溜まりを丸く囲った。そして教授たちは膝を折り、尻を突き出し、前屈みに、両の手を宙に泳がせて扉の向こうへ出て行った。アイザックは柱の死角に一歩二歩と移動し、時計を見上げた。故障中の張り紙が丸い盤面を横切り、その隣にスピーカーが四角く壁から張り出していた。ヴヴヴ。それは泡のようにかすかな音を発し続けている。恐怖が出現した。不意にアイザックの耳の中で先刻の声が繰り返した。反射的に彼は窓に近寄ろうとした。
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審問会(27)

2010年05月09日 | Today's BANANA
承前。

 クリード・カーンの名称の下に統合されていた種々の物質は、ざわめきたつ桃色の泡と化して寄木細工の床を這いひろがる。その舌の先をあぶくが滑る。蝟集しつつ次々に弾ける葡萄の房を引き出しながら。何かを言おうとしているのかとアイザックは考えた。しかし何にせよ、大したメッセージではあるまいと彼はすぐに結論を下した。目の前の人物があまりにあっけなく消滅したので。「その液には触れるな」不意にギャラバンの力強い声が響いた。「ミルトン、ズボンを脱ぐんだ」音韻学の教授は、中腰の姿勢のまま、横皺を寄せた額の下から上目づかいに、にわかにきびきびと立ち回り始めた同僚を見た。「君もだ、ええと。その靴は脱いで――スリッパがどこかにあるだろう」
 リリアは首を振り、靴底を床にこすりつけて後ろに下がった。アイザックはその色褪せたジーンズの裾に桃色の染みをみとめた。女よズボンを脱げ。その声はどこからか遠いこだまとして響いて来た。アイザックは柘榴の色に変わりつつある溜まりの向こうで、老人の尻からズボン下を残してずり落ちて来る筒の動きが止まったことに気づいた。サイレンが彼らの聴覚野を(何度目かに)山頂まで駆け上がり。
 彼らは静止して耳障りな音が鳴り止むのを待った。しかし赤い音は高いところで最早動こうとしなかった。ヴヴヴ。スピーカーが雑音を撒き散らした。怒号と悲鳴のかすかな湿りとともに。「全員――警告――」人工音声が唸り、それから不意に明晰になって、「恐怖が出現した」
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審問会(26)

2010年03月22日 | Today's BANANA
承前。

 スピーカーがヴ、ヴ、とどもった。ニードマンが聞いた。「それで、通報を受けたら彼は何をやるのかね」
 「どのように対処すべきかを判断し、事務室にしかるべき指示を出します」
 「成程」ニードマンは一つ頷き、気軽な調子で同輩の背に呼びかけた。「さてジョゼ、君の役目を果たしたまえよ、この係員にクリードを連れ出して、しかるべき――」
 「溶けている」音韻学の教授が呆然と呟いた。
 その通りだった。数分前まで巻き毛の、舌足らずな口調のクリード・カーンであった物体は、回転するうちに何か蝙蝠傘を思わせる形状に変容しつつあった。顔の造形は油膜のごとき七色の中に沈み、腕からは肉がきらめく滴となってしたたり落ち、金属質の輝きを帯びた骨が奇妙な角度にねじれて胴体の周囲で跳ねていた。一同は、肩の支えを失ったセーターがドラムの中の洗濯物のように胴に巻きつき、他方ベルトがゆるんでズボンごと足踏みを続ける腿をずり落ちてゆくさまを、その濡れて重くなった布地に足を取られてクリード・カーンが大きくよろめくのを、視野いっぱいに確認した。
 「それは駄目」
 リリアが甲高い叫びを上げた。クリードは両腕を宙に泳がせ、バランスを崩して遺体のアトキンスの上に(そしてニコルソン教授の頭上に)倒れ込もうとしていた。アイザックが来るべき災厄を予感して身をかわした時、リリアがクリードのうごめく虹色の腹を蹴り上げた。ギャラバンが何か怒鳴って飛びすさった。クリードの残骸はギャラバンと音韻学の教授の間にあおむけに倒れ、音韻学の教授の灰色のズボンの裾がさっと桃色に変わった。
 「種子人間だ」ギャラバンの声が言っていた。
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審問会(25)

2010年03月21日 | Today's BANANA
うかうかするうちに、今夜は春の嵐。



承前。

 「アイザック――」不意をつかれて彼は言いかけた。「事務局!」音韻学の教授の声が語尾を押しのけた、ハート型の顔が素早く裏返った。「失礼ながら教授、わたくしは審問会開会のための手続きを粛々と進めておるところです。申し訳ありませんが邪魔をしないでいただきたい」
 「だがこれは、一人の人間の生命にかかわる問題だ、異常事態だぞ」
 「しかしながら教授、あなたが意見をおっしゃることはご自由ですが、わたくしに指図することはできません。審問会はまだ始まっておらず、あなたは委員として発言できないのですから」
 「勿論事務局はいかなる例外も許容すべきではない」ローマ史の准教授が口をはさんだ。「茶化すなギャラバン」音韻学の教授は一喝したが、ギャラバンは尖った靴先を真っすぐに事務吏員に向けてたずねた。「いいだろう、通常の場合で行こうじゃないか。教室に異常事態を認めた時、我々はどうすればいいのかね」
 事務吏員は鉛筆の尻をなめた。「教室の責任者に通報する必要があります」
 「この教室の責任者は誰だ?」
 「クリード・カーン准教授です」
 二人の教授と一人の准教授、二人の学生は、事務吏員の視線の先の回転する物体を見やった。それは今や蛍光灯の下で虹色の光を撒き散らしている。窓の外でサイレンは鳴り続け。リリアが一瞬ガラス窓を振り返り、すぐに視線を戻す白い頬が見えた。
 「教室の責任者に連絡がつかない時は」
 「学科の施設管理責任者に通報します」
 「誰だ、それは」
 ニードマンがうなった。事務吏員のハート型の顔が鮮やかなピンクに変わった。「ニコルソン教授」
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