高等学校情報科での毎日の作業記録です
情報科作業日誌
自分で「書けない」のは何故か
「情報科blog」のyoshi-satoさんが、
> 昨年や一昨年の生徒に比べて明らかに書けない生徒が増えています。
と現状を指摘されております。また、先日の記事「だから,何?」にも突っ込みを入れたかったのですが、タイミングを逸してしまっていたので、今回まとめて私の考えを述べさせていただきたいと思います。
私は2つの視点(もっとあるとは思いますが)を指摘したいと思います。
1つめは生徒の側によることが大きいと考えられる問題、即ち、生徒の「国語力不足」の上に、さらに「指示待ち」「お手軽」傾向が強いのではないか、という予想です。
「ゲーム」「ディジタル」世代で、「便利さ」「手軽さ」に埋もれてしまっており「その場だけ」で考える傾向が強いため、じっくりと本を読んだり、段取りよく物事を考える場面が少なくなってきているのではないのかな、と感じています。むしろ、ある程度「不便」な方が、それをクリアするためにいろいろなことを考えたりするものですよね。
また、小中学校の時から「〜をやりなさい」という指示を待っている傾向が強くなっているが故、自分で物事を考え判断しない生徒が多くなってきているということ、さらには、「情報活用」は「ネットで調べること」ということがほとんどになってしまっており、「ゆとり教育」上の時間的な制約からも、「調べただけで終わっている」という点が挙げられると思います。それを無難にお手軽に「パワーポイント」にまとめたら、見た目もいい物ができて「すごいねー、よくできたねー」という所で終わってしまっているのではないか、ということが考えられます。
2つめは教員の課題設定によることで工夫する余地があるのではないか、と考えられる問題、即ち、「書くべき内容」を段取りよく考える力をつけさせていく必要があるのでは、という点です。
これは、自分の考えを固めるベース、即ち「テーマ決め」と「そこからの展開」の方法を意識的に指導していく必要があるのではないのか、という私の考えでもあります。
うちの生徒も、前期の「アンケート調査」の実習では私に散々に言われており、ボロボロのコメントがつけられることが多いです。「事実」を「報告」しただけで終わり、まさに「だから、何?」なんですよね。
これは、教科「情報」でいうところの「問題解決」に大きく依るところだと考えています。これらの生徒は「問題解決」の第一歩「問題発見」が十分でないのではないか、と感じています。
「問題を感じていない」から、いきなり「自分の意見を」と言われても3行くらいしか書けない、さらには、ご指摘のように「著作権」も習っていて「下手なこと」はできない、といった状況ではないかな、と推測しています。
いかにして「問題意識」を持たせるか、ということは、指導として非常に重要なのかな、と感じています。
私の所では、特に今年の総合実習で「テーマ決め(問題の設定)」は非常に丁寧に指導を入れました。
「身近な疑問」として、「どうしてだろう」「なんでかな」といった点をたくさん挙げさせて、そこから派生する内容も含めてテーマ(問題や疑問点)を決めさせました。思い浮かばない所は、興味がある内容をある程度調べさせてから、思いつく「疑問点」をたくさん挙げさせ、話し合わせました。
その結果、自分たちの「テーマ(疑問点)」がはっきりしているため、それを「解明」するために調べる、という流れができ、「だから、何?」は相当減ったような気がしています。身近な所に「疑問」や「問題」意識を持つ、ということは、非常に大切なんだな、としみじみと感じた1年でした。
「なんとなく」調べるだけだと、そこから「問題意識」や「疑問」を感じなければそれで終わってしまうのかな、と思います。
その「問題発見・疑問発見」の部分を重点的に指導し、それを解明していく段取りを考え、「解明」するために「情報機器」を駆使して情報を収集し、それによって得られた自分なりの「答え」をわかりやすく発信する、という流れが、実は高校での「情報活用」であり、すごく大切なのかな、と私は思っています。
よく「情報Aは『情報活用』が中心でありこれは小中学校で行うので、高校では必要なくなる」という話を耳にしますが、このような状況を鑑みると、本当に小中学校の「情報活用」だけで十分なのかな、と感じざるを得ません。
#だからといって、とことんまで「情報A」をやる、というのも
#どうかとは思いますが・・・
今の生徒たち、いや、教員にとっても、実は「問題発見」→「解決の合理的な段取り」→「実際の解決」という流れを構成すること、とりわけ「問題発見」は非常に難しいことなのかな、と私は感じています。だからこそ、生徒にも意識的に指導する必要があるのかな、とも思っているわけです。
もちろんこれは私が勝手に感じ、勝手に思っていることですので、もしご異論等あれば、議論して頂ければありがたいと思っております。
> 昨年や一昨年の生徒に比べて明らかに書けない生徒が増えています。
と現状を指摘されております。また、先日の記事「だから,何?」にも突っ込みを入れたかったのですが、タイミングを逸してしまっていたので、今回まとめて私の考えを述べさせていただきたいと思います。
私は2つの視点(もっとあるとは思いますが)を指摘したいと思います。
1つめは生徒の側によることが大きいと考えられる問題、即ち、生徒の「国語力不足」の上に、さらに「指示待ち」「お手軽」傾向が強いのではないか、という予想です。
「ゲーム」「ディジタル」世代で、「便利さ」「手軽さ」に埋もれてしまっており「その場だけ」で考える傾向が強いため、じっくりと本を読んだり、段取りよく物事を考える場面が少なくなってきているのではないのかな、と感じています。むしろ、ある程度「不便」な方が、それをクリアするためにいろいろなことを考えたりするものですよね。
また、小中学校の時から「〜をやりなさい」という指示を待っている傾向が強くなっているが故、自分で物事を考え判断しない生徒が多くなってきているということ、さらには、「情報活用」は「ネットで調べること」ということがほとんどになってしまっており、「ゆとり教育」上の時間的な制約からも、「調べただけで終わっている」という点が挙げられると思います。それを無難にお手軽に「パワーポイント」にまとめたら、見た目もいい物ができて「すごいねー、よくできたねー」という所で終わってしまっているのではないか、ということが考えられます。
2つめは教員の課題設定によることで工夫する余地があるのではないか、と考えられる問題、即ち、「書くべき内容」を段取りよく考える力をつけさせていく必要があるのでは、という点です。
これは、自分の考えを固めるベース、即ち「テーマ決め」と「そこからの展開」の方法を意識的に指導していく必要があるのではないのか、という私の考えでもあります。
うちの生徒も、前期の「アンケート調査」の実習では私に散々に言われており、ボロボロのコメントがつけられることが多いです。「事実」を「報告」しただけで終わり、まさに「だから、何?」なんですよね。
これは、教科「情報」でいうところの「問題解決」に大きく依るところだと考えています。これらの生徒は「問題解決」の第一歩「問題発見」が十分でないのではないか、と感じています。
「問題を感じていない」から、いきなり「自分の意見を」と言われても3行くらいしか書けない、さらには、ご指摘のように「著作権」も習っていて「下手なこと」はできない、といった状況ではないかな、と推測しています。
いかにして「問題意識」を持たせるか、ということは、指導として非常に重要なのかな、と感じています。
私の所では、特に今年の総合実習で「テーマ決め(問題の設定)」は非常に丁寧に指導を入れました。
「身近な疑問」として、「どうしてだろう」「なんでかな」といった点をたくさん挙げさせて、そこから派生する内容も含めてテーマ(問題や疑問点)を決めさせました。思い浮かばない所は、興味がある内容をある程度調べさせてから、思いつく「疑問点」をたくさん挙げさせ、話し合わせました。
その結果、自分たちの「テーマ(疑問点)」がはっきりしているため、それを「解明」するために調べる、という流れができ、「だから、何?」は相当減ったような気がしています。身近な所に「疑問」や「問題」意識を持つ、ということは、非常に大切なんだな、としみじみと感じた1年でした。
「なんとなく」調べるだけだと、そこから「問題意識」や「疑問」を感じなければそれで終わってしまうのかな、と思います。
その「問題発見・疑問発見」の部分を重点的に指導し、それを解明していく段取りを考え、「解明」するために「情報機器」を駆使して情報を収集し、それによって得られた自分なりの「答え」をわかりやすく発信する、という流れが、実は高校での「情報活用」であり、すごく大切なのかな、と私は思っています。
よく「情報Aは『情報活用』が中心でありこれは小中学校で行うので、高校では必要なくなる」という話を耳にしますが、このような状況を鑑みると、本当に小中学校の「情報活用」だけで十分なのかな、と感じざるを得ません。
#だからといって、とことんまで「情報A」をやる、というのも
#どうかとは思いますが・・・
今の生徒たち、いや、教員にとっても、実は「問題発見」→「解決の合理的な段取り」→「実際の解決」という流れを構成すること、とりわけ「問題発見」は非常に難しいことなのかな、と私は感じています。だからこそ、生徒にも意識的に指導する必要があるのかな、とも思っているわけです。
もちろんこれは私が勝手に感じ、勝手に思っていることですので、もしご異論等あれば、議論して頂ければありがたいと思っております。
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高校で小論文かけるようになっているからといって,大学できっちりレポートや卒論が書けるというわけでもないですし.それぞれのステージに合った教育が必要だと考えます.
そういう意味では情報Aはあっていいと思いますが,「情報Aだけ設置」というのは勘弁してほしいと思う今日この頃です.
これらのような内容を書くにつれ、「情報」と「国語」の境界について考えざるを得ない、といつも感じてしまいます。
「情報」と「芸術」の境界については、自分では何となく線引きができているのですが、「伝える内容」となると、どうしても「国語」の領域に入らざるを得ないのかな、と感じています。
「情報」はいろいろな方面へのアプローチがある(逆に言えば、いろいろな方面から「情報」へのアプローチがあるのかな)が故、どこにポイントをおくのか、ということだけでも大変ですね。
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