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776 北橘(群馬県)出土する遺物はここに集められ

2017-07-19 06:34:52 | 群馬・栃木
赤城山西麓には北橘(ほっきつ)村もあった。赤城村の南隣りである。やはり渋川市と合併して、渋川市北橘町下箱田などと地名にその名を留めている。その丘陵地に群馬県の埋蔵文化財調査センターが建てられたのは、私が群馬を離れた40年ほど昔のことである。列島改造の勢いが県土を掘り返した時代、埋蔵文化財の調査は教育委員会の一係では手に負えないほど忙しくなったのである。遺跡の発掘は事業団が請け負う時代になった。



その後、調査センターに出土物の公開展示館が併設された。一般に民俗資料は生々し過ぎて私はあまり好まないのだが、土中から現れる古代人の造形にはしばしば創造的刺激を受けるものだから、行って眺めたくなる。だから記憶が薄れかけている道を、行きつ戻りつして調査センター「発掘情報館」に行く。修復を終えた土器や埴輪などのうち、代表的資料は高崎の県立博物館に展示され、二番手?資料がここで公開される仕組みらしい。



二番手であっても重要文化財があるし、ハート形土偶とクレーの絵を比較した解説もあったりで、なかなか工夫された情報館だ。目下の目玉は渋川市金井の東裏遺跡で5年前に発見された「甲を着た古墳人」だ。6世紀初頭の榛名山の噴火で埋まった男性が、甲冑を身に付けたまま発掘された。火砕流が覆う当時のままのムラと、ムラの王とみられる男。全国的に話題になった大発見で、本体は博物館、ここにはレプリカが展示されている。



群馬県はもともと古代遺跡の宝庫であるが、それにしても利根川を挟んで、赤城山と榛名山が裾野を広げるこの一帯は興味深い。赤城山側には滝沢遺跡で見たように、多くの縄文集落が連携して祭祀を執り行ったであろう遺跡や、弥生式土器の指標様式である樽式土器の出土地がある。一方、榛名山側は噴火による軽石層で覆われているため、古代の生活空間がそのまま閉じ込められている可能性があり、今後、何が発見されるかわからない。



修復を終えた土器が並ぶ収蔵展示室を見ていると、縄文式、弥生式、須恵器と、時代とともに造形の奔放さが失われていくことがよくわかる。新潟県に多く見られる火炎式土器に似た縄文中期の甕は、くどいほどの文様を見事にまとめあげている。縄文の陶工の技量に感嘆させられる。弥生時代になるとそうした面白さは消えるものの、石田川式土器など、整然とした姿が際立って来る。他に見学者がいないものだから、じっくり観察する。



こうした土器群を眺めていて、新たな疑問が湧いてきた。それは古代の土器は、すべて円筒を基本に成形されているということだ。轆轤はまだ発明されていなかったと思うから、粘土紐を積み上げて円筒を作る方が手っ取り早かったわけではあるまい。現代陶芸には「たたら作り」という技法があって、板状に整形した粘土を張り合わせて角形の壺などを作る。自由奔放な古代の陶工たちが、たたら作りに思い及ばなかったのは何故か。



調査センターの向かいは県の小児医療センターだ。そちらの広大な駐車場は外来者の車でいっぱいだが、こちら側に駐めているのは私の車だけである。特別のイベントでもなければ、考古遺物に対する関心はこの程度ということだろう。だがしかし、これだけの埋蔵文化財を有する土地は、わずかな関心にでも応えられるよう、発掘情報館のような施設を整えておく責務があると私は思う。できれば「発掘全貌館」ならもっといい。(2017.7.13)


















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