今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

743 飯坂(福島県)湯煙に消えてしまった遠い日々

2016-12-07 15:11:40 | 山形・福島
写真の裏に「飯坂温泉 昭和28年11月22、23日」と書いてある。母のアルバムに残っている1枚だ。右手前の生意気そうなチビが私で、母と兄が一緒だ。右奥の女性は母の同僚なのだろう、勤務先の職員旅行に兄と私も連れられて、新潟市から温泉郷に到着したところである。1953年の秋だから私は小学1年生、兄は4年生、母は30代半ばを超えたころだ。今回、福島市を訪れた折に飯坂まで行ってみた。実に63年ぶりになる。



7歳になっていたのだから、幾ばくかは思い出すことがあるだろうと期待して電車を降りる。橋が架かっていて川沿いに旅館が立ち並んでいる。摺上川と十綱橋と言うらしい。その情景はほのかに見覚えがあるような気がするけれど、それも写真によって刷り込まれた記憶なのかもしれない。旅館は全てビルに建て替えられ、背景の丘は隠れてしまっている。いくら歩いても、いかなる記憶も蘇ってこない。63年とはそれほどのことなのだ。



経済白書が「もはや戦後ではない」と高らかに詠うのは3年後のこと。朝鮮特需で経済復興の機を掴み、サンフランシスコ条約の締結で国際社会に復帰したばかりの当時、新潟市から飯坂温泉にやって来るには磐越西線を郡山で東北本線に乗り換え、福島で飯坂までの私鉄電車に乗り継ぐという、なかなか骨の折れる旅程だったはずだ。1泊2日では強行軍と思われるが、小学校の教職員にとっては数少ない、楽しみな旅行だったのだろう。



飯坂温泉は、特段の景勝地ということはないけれど、豊富な湯量と福島駅から電車で20分程度という便利さで、人気の温泉地だったようだ。西行が歌を詠み、芭蕉が蚊と蚤に悩まされた温泉でもある。伝説がすべて正しいとは思われないが、湯の歴史は2世紀に始まるとされる大変な古湯で、江戸時代の「諸国温泉功能鏡」では前頭の中ほどに番付けられている。経済成長に連れての旅行ブームで、さらに賑わうのはこの後である。



旅館街は川の左岸が中心で、右岸は山あいの小さな街の住宅街といった風情だ。泊まり客が去り、次の客がやって来るまでの温泉街というものは、どこか気だるく間の抜けた表情になるものだが、街はすでにテキパキと朝の仕事を済ませたらしく、道路にはチリどころか枯葉1枚落ちていない。そんな街の中心に、長い土塀から巨木が枝を覗かせる屋敷があって「旧堀切邸」の看板が掲げられている。「入館無料」の案内に誘われて入ってみる。



堀切家は、織田信長が安土城に君臨していたころの1578年(天正6年)、若狭からこの地に移ってきた分限者で、江戸時代を通じ豪農・豪商として蓄財した。その豪壮な蔵や母屋が復元されて公開されている。ただこの一族に特筆されるのは、財を地域開発や起業、さらには飢饉救済に積極的に投じていることである。その遺伝子によるものか、昭和恐慌や関東大震災では、財政再建や街の復興に当たる国会議員や東京市長を輩出している。



温泉がなければ福島最北部の寒村に過ぎなかったであう飯坂で、これほどの家系が維持されたことは奇跡である。若狭では「梅山」を名乗っていたというこの一族が、そもそもなぜ陸奥の僻遠へ移住してきたのか。奇跡の根源を知りたいと屋敷の説明板をいろいろ読むのだが、そのことについては何も書かれていない。堀切邸の公開は、飯坂が単なる湯治場ではない趣を伝えてくれるだけに、この疑問にもなんとか応えてほしい。(2016.11.30)













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