今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

268 夕張(北海道)・・・炭鉱も街も眠るか雪の下

2010-02-17 19:17:59 | 北海道

スキー場に「積雪250センチ、降雪0センチ、しまり雪、気温1℃」と表示されている日、夕張の街を歩いた。たまに車が行き過ぎるけれど、歩いている人は見当たらない。市美術館も石炭歴史村も幸福の黄色いハンカチ想い出広場も、すべて冬期休業中だ。仕方がないから市役所に行って、最近3ヶ月の「広報ゆうばり」をいただいて帰る。巻末に前月の人口が掲載されていた。-49人、-37人、-20人。市民の流出が止まらないようだ。

市の人口統計によれば、炭鉱経営が始まった1891年(明治24年)は69世帯307人とある。それが1920年(大正9年)には5万人を突破して北海道で6位の規模の街に膨張している。この間に夕張、新夕張、大夕張と炭鉱開発が進められたからで、1960年(昭和35年)には11万6908人というピークを記録する。小学校は児童の急増で教室が足りなくなり、午前午後の2部授業が実施されたのだとか。

しかし閉山が本格化する昭和50年代になると人口は減り始め、昨年末の夕張市は6128世帯、1万1355人の街になった。「遠からず、1万人を割り込むだろう」と語る市民の辛そうな声を聞いた。夕張は、石炭が産業として成り立ったから出現した街だ。しかし産業は、経済合理性を失えば自ら消滅する。だが「街」はそうはいかない。人の暮らしがあり、多くの人生が継承されているから、やすやす消えたり移ったりはできない。

だから市民は、次なる糧を観光に懸けた。意欲的な取り組みは「美しい都市づくり賞」「北海道街づくり100選」「ふるさと産業50選」など、華々しい評価を得て、メロンとともに街の名を高めた。しかし市のホームページの「おもなできごと」を追って行くと、21世紀に入るとともに「撤退」「廃止」「閉鎖」といった文字が多くなる。そして2007年3月、財政再建団体入りとなり、市営プールの廃止、図書館の閉鎖が続く。

歴史上「消えてしまった街」はある。津軽の十三湊はその一例だ。中世、日本海交易の拠点として栄華を極めた港湾都市が、支配勢力の交代によって湊が放棄された時、街は砂に埋もれて永い眠りに就いた。しかし21世紀の日本で、100年続いた街にそんなことが起きていいはずがない。夕食の席でいっしょになったおじいさんが「水道代は日本一高くなったけど、いまさら行くところはないよ」と言うと、隣のおばあさんも深々と頷いた。

「ゆうばりキネマ街道」の看板が架かった通りを、十三夜の月光が照らしている。雪は、眺めているだけでその重さに疲れを感じるほど、屋根も道も河原もしっかり覆っている。家電メーカーのロゴを付けた小型トラックが、黄色いハンカチで飾られた坂をのろのろ登って行く。有線放送が大きな音量で、聞き慣れないメロディーを流しながら商店の宣伝をしている。聞いているのは私と三船敏郎、それに仲代達矢の3人だけである。
         

通りの正式名称は「342本町中央通り」というらしく、まさに繁栄夕張の中心街だったのだろう。信用金庫と郵便局と仏壇店が並んでいて、橋を渡ると医院、肉屋さんなど閉鎖された空き店舗が続く。「夕張青年婦人会館」という建物があって、ジェームズ・ディーンが『エデンの東』の看板から虚ろな眼差しを向けている。しかし入口はシャッターが下りたままで、そのシャッターも半分以上が雪に埋もれている。

帰る前に「ユーパロの湯」に浸かった。「きれいな水の湧き出る土地」という、夕張の名の基になったアイヌ語を掲げる温泉だ。市の財政破綻で閉鎖されたものの、再開を望む声に押され、委託を受けた民間事業者が運営を続けている。敷地に建つ巨大な煙突は、高さ63メートル、地上径5メートルのコークス工場の施設で、昭和35年に建てられた産業遺産だ。ユーパロの湯は塩辛く、山の中で海を想わせる「いい湯」だった。(2010.1.28-29)
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