今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

774 赤岩(群馬県)七夕は雲上蒼天憂いなし

2017-07-12 17:37:54 | 群馬・栃木
私はいま、群馬県北西部の標高1000mの山中にいる。所在地をいえば吾妻郡中之条町赤岩となるが、赤岩集落からは遠く離れ、森の中に3世帯ほどの家屋が点在しているだけの奥深い地である。今夜は月が低く、森の支配者は闇だ。だが天空では、北斗七星が輝いている。梅雨前線が呼び込んだ豪雨のため、特別警報が発令されている山陰や九州北部には申し訳ないほど、穏やかに澄んだ夜空である。しばし星に見とれる。



東京の、しかもマンション群の谷間で暮らしているものだから、普段は星空に縁遠く、夜空を見上げることを忘れて久しい。子供のころから「宇宙」を思うとときめく癖がある私だが、きちんと勉強したことがないから憧れるだけで知識はない。子育てした街の郊外に国立天文台があって、子供たちが幼いころは天体観測のイベントに連れて行ったものだが、それは私自身が大型望遠鏡を覗いてみたかったからでもある。



北斗七星は、だれに教えてもらったのだったか、一番初めに覚えた星座だ。ヒシャクの形をした七つ星という、見つけ易い星座だからだろう。そしてその七つの星のどれかを延長した先に、北極星が輝いているのではなかったか。母と一緒に、星座がプリントされた丸い厚紙を持って満天の星空を見上げ、それぞれの形を探したことがあった。あれはいつ、どこでだったのだろう。覚えているのは「星を探したこと」だけだ。



小学校の6年生だったろうか、夏休みの自由研究で友人と「宇宙」の共同研究をして発表したことがある。二人で「宇宙の果てはどうなっているんだろう」と考え始め、やがて「果ての先はどうなる?」との疑問に突き当たった。果てがあればその先があるはずで、考えているうちに怖くなった。星が固まって星雲を形成し、その星雲がいくつも浮かぶ宇宙。「その先?」は、60年を経た今も、大いなる疑問のままである。



明日は七夕。織女と牽牛は無事に逢えるといいのだがと、子供心に戻って七夕飾りを思い出していたら、《雲上在蒼天》の言葉が浮かんで突然気がついた。雲の上にはいつも蒼空が広がっている。だったら織女と牽牛の天の川デートは、下界から見えるかどうかに関わり無く、毎年、粛々と執り行われているわけではないか。こんな単純な事実に気がつくのに70年もかかってしまったとは、私もずいぶんと迂闊である。



「来年こそは逢えるといいね」と、笹の葉に短冊を結びながら、私の純な心に祈る癖を植え付けたのは、母だろうか、婆ちゃんだろうか。星空を眺めていると、地球の、ましてや人間のいかに小さいかを思い知らされるからだろう、しきりと幼いころを思い出す。都会に暮らす孫たちは、星を見上げることがあるだろうか。できることなら多感な時期に、満天の星の下、宇宙を地球を人生を、瑞々しく感じ取って欲しいものだ。



映画『2001年宇宙の旅』は、私が思う映画の最高傑作だ。あの宇宙船はペニス、その先端から放出される探査カプセルは精子、そして木星は卵子なのだ。宇宙(といっても太陽系の中に過ぎないが)を壮大な生殖行為の場に見立てた映画だと私は分析している。西洋科学文明が、ようやくにして東洋的輪廻にたどり着いたことを描いているのかもしれない。明日は七夕。やはり「晴れて欲しい」と願う自分がいる。(2017.7.6)














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