人間は考える葦である。(パスカル)
われ思う、ゆえに我あり(デカルト)
真我は、「私はあれでもない、これでもない」・・という、
否定を通してしか見いだせない(ラマナ・マハルシ)
-----
「私とは何か?」と、問うている、その<わたし>とは何か?
と考えること、つまりこれは「思考」である。
次に、その思考によって、
<わたしの知覚する対象は、わたしではない>と仮に定義すると、
この世界のあらゆる事物、現象、そして宇宙の何事も「観察対象」であって、
それらすべて私ではない・・ということになる。
これはきわめて、知的、論理的ではないか?
私はAだとすると、
A≠B、A≠B、A≠F・・・である。
私は・・あれではない、これではない・・だ。
ここで実に面白いことがわかる。
わたしとは何か?と問うている<わたし>は・・
つまり、私は・・実はわかっていない。
にも拘らず・・わたしは○○○ではない!・・としているのだ。
A:わたしが知られていないにもかかわらず、
A≠B、A≠C、A≠F・・・も定義できるわけはないのだ!
・・
一体全体、どうしたことだろうか?
もちろん、わたしはあれだ、これだ・・というのは、
A=B、A=C、A=X・・は、
明らかに間違いであることは直感的に分かる。
つまり、
私は花瓶だ!、私はパソコンだ!になってしまうからだ。
それはあんまりだろう。(笑)
なので、消去法である「わたしは・・ではない」は妥当と思える、
「私は花瓶ではない、私はパソコンではない」・・そりゃそうだ。
しかしながら、
<わたし>が知られていない・・はずなのに、
「それはわたしではない!」と識別できる・・はずもないのである。
(OH、MY GOD!)
これはどういうことだろうか?
古今東西の覚者、聖者、悟った者たちが提唱する、
この「・・はわたしではない」という自問自答プロセスは、
何かの間違いであったのか?
いいや、そうではない。
それはつまり・・・、
何をどう’考えようと’、
決して<わたし>は見つけられない!ということなのだ。
A=Bも・・不成立、
A≠Bも・・不成立・・・
なぜならば、
A=わたし・・は”知られていない”からだ。
私個人、わたし・・我、俺などと言っているそれ、
俺が、俺が・・と世界で騒いでいる個々の人格も含め・・、
突き詰めてゆくと、その<わたし>なるものは、どこにも見つけられない、
あるいは「存在していない」・・と言えるのである。
だって、知りようもない何かが、どこに存在しているといえる?
いやいや、きっとわかるはずだと・・そういう思いだけはあるかもしれない。
だから、また・・「私とは何か?」と問い始めるのである。
永遠に分かりようもないことを、繰り返していることに、
<気付ける>・・まで・・だ!。
言い換えれば、存在しているように見えて、
実際には存在していない・・<私>・・に、
気づくまで・・・だ。
なんだか、わけがわからなくなってきたかもしれない(笑)。
しかし、深く真剣に・・考えて・・ゆくとそうなるのである。
ニサルガダッタ・マハラジも、
「まず、あなたがなんであるか熟考しなさい」と言っている。
私がなんであるか・・熟考した果てにあるのは・・、
わたしはどうしても定義できない、それということになる。
そして、ふと気づけば・・そこには思考のみがある。
わたしは何か、あれかこれか?いいやそれではない、あれでもない・・
<そこにある>のは何かといえば、熟考・・つまり「思考」のみである。
つまり、わたしと言っているのは「想念」なのである。
言い換えれば、
わたしとは何かと・・問いつづけるところの、
それ自体・・つまり「想念」であるということだ。
えー、そんなはずはない・・、
わたしはこの体の中にいるではないか、・・と、
いつもそこに戻るのは、見る・聞く・感じるという、
頭部に集中する、身体の知覚感覚によるものであり、
確かに、知覚自体を感じている・・ことがある・・が、
周囲の事物に気付いている、意識していること・・はあるが、
「肉体が私だ・・!」というのは、勝手に付随した「想念」である。
この次元世界の多くの人々がそう思っているからこそ、
いつの間にかそれが当たり前になって、
潜在意識での見えない、太い柱になっているのである。
肉体である自我を、生きている間だけは必死に確保すべく、
物質的富、名誉、地位、身の安全、保身に明け暮れ、
そのためには、・・肉体自我のためには、
いざとなれば他者など犠牲にすることも仕方ないと、
勝手にそう思い込んでまい進する輩も増えるのだ。
今の文明は、その最後の時期に来ていることもわかるだろう。
核で終わるかどうか・・そんなニュースや噂が増えてはいないか?
旧約聖書の予言にある、戦争と戦争の噂を耳にしていないか?
あれこれと不安の増えてきた、外側のことを考えることばかりで、
そのうち何か未来に良いことが起きるはずだと、
それしか夢がないと・・・いう思いに逃げてはいないのか。
あれこれと、
思考、マインドばかりを追いかけまわしてはいないだろうか?
それで、どうかなるのだろうか?
ニュースやTVの中に、そのうち肉体自我にとって良い知らせがあるのだろうか?
・・・
「わたしとは何か?」という問いかけ、思考の先に行くのか、
あるいは、そのまま朽ち果てる肉体自我のままで行くのか?
その最後の問いかけの時期に来ている。
「本当のわたしとは何か?」
「真のわたしとはなにか?」
それをほじくりだし、意識の日の光にさらすまでは、
わたしとは、「物質的肉体に他ならない」という想念形のままであり、
あるいは1個の肉体個人という社会的動物のまま、
あれこれ色々考えている、無意識の羊の群れのように、
いつか、無数にある諸世界の中に、ポつんと生まれては、また死ぬ。
その恩寵のシステム、
輪廻転生の輪のサイクル、繰り返しも仕方がないかもしれない。
あるとき生まれ、ある時死ぬ・・肉体である・・という自己認識、
わたしは肉体であるという・・想念形である限り、
宇宙の時空のどこに行こうが、生まれ変わろうが、同じことである。
真の我、魂、神なるわたし・で在る・までは。
すべては想念を生み出す魂、意識に依っている。
またそれでも、是れもまた好しでもある。
「わたしとは何か?」という「思考」による問いかけは、
結局は、「思考」「マインド」の独り相撲であり、
問われることは実のところ、わたし個人・・を醸し出している・・思考、
つまりテーマは「思考とは何か?」ということである。
そして、思考、マインド、想念・・それって実体?
それが実体か、幻想か・・ということになるだろう。
あなたはもう十分わかっているはずではなかろうか?
こころ、マインドが、ついに・・<自分自身>に’思い当たる’こと。
これは、嫌々ながらも、マインド・思考自身の
1つの「幻想ゲーム」の終わりが近づくということだ。
ところで、その幻想ゲームを演じている、
思考、想念、こころ、マインドである・・
その・・わたしとは・・いったい何だろうか?
われ思う、ゆえに我あり(デカルト)
真我は、「私はあれでもない、これでもない」・・という、
否定を通してしか見いだせない(ラマナ・マハルシ)
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「私とは何か?」と、問うている、その<わたし>とは何か?
と考えること、つまりこれは「思考」である。
次に、その思考によって、
<わたしの知覚する対象は、わたしではない>と仮に定義すると、
この世界のあらゆる事物、現象、そして宇宙の何事も「観察対象」であって、
それらすべて私ではない・・ということになる。
これはきわめて、知的、論理的ではないか?
私はAだとすると、
A≠B、A≠B、A≠F・・・である。
私は・・あれではない、これではない・・だ。
ここで実に面白いことがわかる。
わたしとは何か?と問うている<わたし>は・・
つまり、私は・・実はわかっていない。
にも拘らず・・わたしは○○○ではない!・・としているのだ。
A:わたしが知られていないにもかかわらず、
A≠B、A≠C、A≠F・・・も定義できるわけはないのだ!
・・
一体全体、どうしたことだろうか?
もちろん、わたしはあれだ、これだ・・というのは、
A=B、A=C、A=X・・は、
明らかに間違いであることは直感的に分かる。
つまり、
私は花瓶だ!、私はパソコンだ!になってしまうからだ。
それはあんまりだろう。(笑)
なので、消去法である「わたしは・・ではない」は妥当と思える、
「私は花瓶ではない、私はパソコンではない」・・そりゃそうだ。
しかしながら、
<わたし>が知られていない・・はずなのに、
「それはわたしではない!」と識別できる・・はずもないのである。
(OH、MY GOD!)
これはどういうことだろうか?
古今東西の覚者、聖者、悟った者たちが提唱する、
この「・・はわたしではない」という自問自答プロセスは、
何かの間違いであったのか?
いいや、そうではない。
それはつまり・・・、
何をどう’考えようと’、
決して<わたし>は見つけられない!ということなのだ。
A=Bも・・不成立、
A≠Bも・・不成立・・・
なぜならば、
A=わたし・・は”知られていない”からだ。
私個人、わたし・・我、俺などと言っているそれ、
俺が、俺が・・と世界で騒いでいる個々の人格も含め・・、
突き詰めてゆくと、その<わたし>なるものは、どこにも見つけられない、
あるいは「存在していない」・・と言えるのである。
だって、知りようもない何かが、どこに存在しているといえる?
いやいや、きっとわかるはずだと・・そういう思いだけはあるかもしれない。
だから、また・・「私とは何か?」と問い始めるのである。
永遠に分かりようもないことを、繰り返していることに、
<気付ける>・・まで・・だ!。
言い換えれば、存在しているように見えて、
実際には存在していない・・<私>・・に、
気づくまで・・・だ。
なんだか、わけがわからなくなってきたかもしれない(笑)。
しかし、深く真剣に・・考えて・・ゆくとそうなるのである。
ニサルガダッタ・マハラジも、
「まず、あなたがなんであるか熟考しなさい」と言っている。
私がなんであるか・・熟考した果てにあるのは・・、
わたしはどうしても定義できない、それということになる。
そして、ふと気づけば・・そこには思考のみがある。
わたしは何か、あれかこれか?いいやそれではない、あれでもない・・
<そこにある>のは何かといえば、熟考・・つまり「思考」のみである。
つまり、わたしと言っているのは「想念」なのである。
言い換えれば、
わたしとは何かと・・問いつづけるところの、
それ自体・・つまり「想念」であるということだ。
えー、そんなはずはない・・、
わたしはこの体の中にいるではないか、・・と、
いつもそこに戻るのは、見る・聞く・感じるという、
頭部に集中する、身体の知覚感覚によるものであり、
確かに、知覚自体を感じている・・ことがある・・が、
周囲の事物に気付いている、意識していること・・はあるが、
「肉体が私だ・・!」というのは、勝手に付随した「想念」である。
この次元世界の多くの人々がそう思っているからこそ、
いつの間にかそれが当たり前になって、
潜在意識での見えない、太い柱になっているのである。
肉体である自我を、生きている間だけは必死に確保すべく、
物質的富、名誉、地位、身の安全、保身に明け暮れ、
そのためには、・・肉体自我のためには、
いざとなれば他者など犠牲にすることも仕方ないと、
勝手にそう思い込んでまい進する輩も増えるのだ。
今の文明は、その最後の時期に来ていることもわかるだろう。
核で終わるかどうか・・そんなニュースや噂が増えてはいないか?
旧約聖書の予言にある、戦争と戦争の噂を耳にしていないか?
あれこれと不安の増えてきた、外側のことを考えることばかりで、
そのうち何か未来に良いことが起きるはずだと、
それしか夢がないと・・・いう思いに逃げてはいないのか。
あれこれと、
思考、マインドばかりを追いかけまわしてはいないだろうか?
それで、どうかなるのだろうか?
ニュースやTVの中に、そのうち肉体自我にとって良い知らせがあるのだろうか?
・・・
「わたしとは何か?」という問いかけ、思考の先に行くのか、
あるいは、そのまま朽ち果てる肉体自我のままで行くのか?
その最後の問いかけの時期に来ている。
「本当のわたしとは何か?」
「真のわたしとはなにか?」
それをほじくりだし、意識の日の光にさらすまでは、
わたしとは、「物質的肉体に他ならない」という想念形のままであり、
あるいは1個の肉体個人という社会的動物のまま、
あれこれ色々考えている、無意識の羊の群れのように、
いつか、無数にある諸世界の中に、ポつんと生まれては、また死ぬ。
その恩寵のシステム、
輪廻転生の輪のサイクル、繰り返しも仕方がないかもしれない。
あるとき生まれ、ある時死ぬ・・肉体である・・という自己認識、
わたしは肉体であるという・・想念形である限り、
宇宙の時空のどこに行こうが、生まれ変わろうが、同じことである。
真の我、魂、神なるわたし・で在る・までは。
すべては想念を生み出す魂、意識に依っている。
またそれでも、是れもまた好しでもある。
「わたしとは何か?」という「思考」による問いかけは、
結局は、「思考」「マインド」の独り相撲であり、
問われることは実のところ、わたし個人・・を醸し出している・・思考、
つまりテーマは「思考とは何か?」ということである。
そして、思考、マインド、想念・・それって実体?
それが実体か、幻想か・・ということになるだろう。
あなたはもう十分わかっているはずではなかろうか?
こころ、マインドが、ついに・・<自分自身>に’思い当たる’こと。
これは、嫌々ながらも、マインド・思考自身の
1つの「幻想ゲーム」の終わりが近づくということだ。
ところで、その幻想ゲームを演じている、
思考、想念、こころ、マインドである・・
その・・わたしとは・・いったい何だろうか?