●生と死は同じ現象の別側面
私達は今、生きています。しかし何十年か前はこの世にいませんでした。間違いない事実です。誰しも親がいて産まれてきました。これも間違いない事実です。これは幻想ではありません。そうしているうちに、いつの日にか我々はこの世からいなくなります。これも間違いないことでしょう。我々の身近な人々が、あっという間にいなくなった事実は多くの人が経験していることなのです。じいさん、ばあさん、友人、父さん、母さん、ひょっとしたら恩師。今まで生きていたのに、あんなにやさしかったのに、あんなに厳しかったのに、あんなやつはどうしてやろうかと思っていたのに・・・、今はいないという経験が、私やあなたに限らず全ての人々にあります。
そのときは驚き、悲しみ、感傷にふけったりなのですが、あっというまに再び世間という海に乗り出してゆきます。それが当たり前のように、それはよくあることだと自分に言い聞かせながら。その時に虚しさや疑問を感じたことも、あっという間に忘れてしまいます。そうして世の中の生業(なりわい)や人間関係や生計の方が本来は大事であるという意識に戻って行きます。世間の人々と同じようにしていくのがいいのであると思いながら。
生や死が、なぜにも無視されてしまうのでしょうか。嫌悪すべきことなのでしょうか。産まれたことはまあ、済んだことであると考え、死はまあそのうちくるだろうから、そのときに考えればいいかも知れないという事でいいのでしょうか。忘れてしまうのが当たり前なのでしょうか。
私達が生まれる前のことを覚えていないのは、誰かのせいでなく私達のせいであるのでしょう。その瞬間瞬間を連続して意識していないが故に、いつも断絶があるようです。その瞬間から逃げる、すなわち忘れる意識がある故に、無意識に全てを預けてきたのでしょうか。
あなたも私も生まれて死んでゆく現象をこの地上で学んでいます。その生と死というのはどんなことよりも大切で、何をおいても追求すべきことではないのでしょうか。生と死の間の人生という謎の時間があるのはどういう意味なのでしょうか。
生と死を、しっかり見て、学んでいるその存在は永遠に有り続ける存在であるのです。死は生の終わりではなく、意識存在にとってはそれは新しい生であると考えられます。肉体の死は死を意味せず、着替えのようなものであり、本来のあなたや私にとっては、生も死も等しく体験していくものであるのです。
(続く)