気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

わたしとは・・何か(16) 意識の再認識

2017-04-20 05:15:14 | 意識の拡大
わたしとは何か?・・それを探求してゆくと、
それが思考、想いで創られていることがわかるのである。

わたしは存在しているという確かな感覚・・の上に、
「あーこれが私だ」という、肉体個人の想いが強く付随している・・ということだ。

通常は、その連続する自己感覚の思い、記憶によって、
それが「私だ・・」という感覚を作り出している。

その感覚は主として肉体五感の記憶、習慣によって、
「わたしとはこの肉体である」という実感になっているのだ。

そして「わたしは何か」という問いによって、
あえて答えを探すと・・、
「わたしはこの身体である」となるのである。

そうではないか?


身体の感触、皮膚の感触、手足の動きの触覚、歩く・座るなどでの他の者との接触感覚・・。
目で見える風景、景観、様々な世界の景色。
様々な音が耳を通して聞こえている・・。
食べ物、飲み物を口に入れ、それが口内で醸し出される味わいを感じている。
様々な事物のにおいが鼻口を通して感じることができる。

そして、
それらに関連する様々な想い、イメージ、感情、思考が起きている。
さらにそれらの連続する記憶がある。

これらは、身体機能に付随した「五感の」感覚と、
付随して起きてくる想念、思考、感情などである。
人は皆、毎日毎瞬間、この感覚と思考、想念、感情のただ中にいる。

これらが日常生活のすべてを形作っている。
あなたが会社員でも、主婦でも、何であっても・・。
・・・

しかしながら、
それらの五感感覚は、常に定量、機械的に感じられるわけではなく、
「意識」によって薄められたり、
あるいは強調されたり、無視されたりしていることに気付くはずだ。

・・
何かの作業に没頭しているときには、周りの出来事にほとんど気づかない。
何かを集中して考え、イメージの連鎖に没頭しているときも、
何かに悩み頭を抱え、爪を噛んでいる時も、(笑)
自分の周りに何かがあっても、誰かがいても、そのことに気づかない。
心ここにあらず・・の時は、周りの事象に気づかない場合があるだろう。

つまり、明らかな経験として、
われわれの意識、または注意・・、注視などが、
なにかべつのものに集中していると、
五感による感覚は、薄れたり、ほとんど無くなったりもするわけである。

もっとも、五感情報は常時あるものと思われる・・が、
それを・・それとして、存在感覚として浮かび上がらせている・・のは、
「意識」であることがわかるのである。


例えば、「意識」は水道の蛇口であり、
それを開け閉めすることで、水の量を決めている、
つまり意識によって、
存在感覚そのものを大きく変えているということなのである。


意識、気づいていること、注意集中など・・という
定量的でないもの、物量では計測できないもの、
経済社会では相手にされない(笑)・・意識、

その<意識>の働き・・というものによって、
我々自体の身体感覚や、周囲の状況というものが、
大きく変化するということである。

意識の働きによって、存在状況が大きく変化するということだ。

極端に言えば、事物の存在の有無さえも、関わってくる!
意識の働きによって、事物さえも存在、消滅させることになる、

と、そういう表現をすると、存在させたり消滅させたり・・って?
「そんなわけないじゃん・・!、あるけど見えないだけじゃないか、
そりゃ言い過ぎだよ・・」
となるかもしれない。


存在の感覚・・感覚だけならば、別に・・
どうということもない、と思うだろうが、

感覚、知覚、そして思考による認識、
それらが我々の「世界」を形創っているのである。

物質が勝手に形作っている・・ように、
いつのまにか教わっただろうが・・(笑)、
それは最悪の嘘というより、誤解、無知なのである。

知覚しなければ、それが存在として認識されることはない。
それらすべてを通じているのが、意識、気付きと呼ばれているもの。

そして、想いや想念、イメージはその派生波動と言えるもの、
なぜならば、想いや思考、感情を・・観ている、感じている・・
気付き、意識があるからだ。


思考や感情で動き回っている場合はそれに気づかない、
洗脳催眠状態もそのうちの1形態、思考やイメージに入り込んでしまっている。
ところが、
思考や感情を・・観察できている場合は、気付いている人には、それが分かる。
それというのが、「意識」「気づき」といわれるものだ。

ここには実に大きな重大な、意識次元ギャップ・・のようなものがある。

・・・

わたしたちは、この世界の、小さな小さな、
世界とは関係のない、ついでの「お邪魔虫」ではない。(笑)

例えば、わたしの人間関係、周囲環境世界、
当然ながら、視覚に映ずる無限に遠くの天空の星さえ、
わたしの世界なのであることを忘れてはいけない。

私がいなければ、私の存在感覚でできているそれらはどうやって現れる?


意識、気づいていること、注意集中など・・という
定量的でないもの、物量では計測できない、そういう、
<意識>の働き・・というものによって、

我々自体の身体感覚や、周囲の状況というものが、大きく変化している。

意識して集中して何かを見ることと、
漠然とぼんやり見ることとは、同じではなく、
まったく天と地の違いなのであるが、
すべてが客観的、物理的、計量であるという唯物的観念によって、
この事実が・・見えていない・・ということなのである。

人は皆、共同創造主だ・・などという言い方がある。

「嗚呼・・そうか、何か、どこか、いつかそうなるかも・・」
という漠然とした、ウルウルとした、
気持ちの良さげなイメージを持ったりするかもしれないが、

今すでに、そうだと言っているのである。

今・・意識している・・存在している・・こと、そのもの、
<在る>ことそのもの・・が、すでにそうなのである。

快不快、大量少量、富豪貧乏、満足不満足、女らしさ、男らしさ、
それらの思考や思いに関係なく、

今すでに、そう。
今・・意識している・・存在している・・こと、そのもの、
<在る>ことそのもの・・が、すでに「証拠」なのである。

証拠が大きすぎて、逆に見えず、
あるいはそんな簡単な訳ないと思い込み、
それより、
お金持ち生活や権力者になることはがきっと幸福だと、
そういう経済・社会システムの刷り込み、「印刷思考」に動かされ、
外の物質なるものでできた世界の、
どこか違うところばかり探してきた。

それが今までの3次元世界での生き方?だったろうか。


問題は、意識の表面に・・根強くある歪、
想念、刷り込み、思い込み、マインドの付着振動のようなものだ。

そしてそれが、習慣として根強いからこそ、
すぐに何も変わらないではないか・・・・となるのだ。

したがって、それが、
何十年も、ある意味、何百、何千年ものマインドの習慣であるならば、
真剣に、人生という時間を掛けて、取り払わなければならないのである。

ファイト・一発! リポビタンD・・なわけないやん。(笑)
「お金や思考で・・一発~!」・・で変わるわけもない。


外の世界の、どこか何かの、何か良いことありそうな、
あるいは不都合極まりないはずの・・思い、思考に、
あまりにも・・意識を集中している・・
その愚かさを・・識(し)る時なのである。

自らの意識で作っている・・その自らの世界に、
完全にはまり込んで、あろうことか、苦しみもがいている・・
それはもう十分だということなのだ。

身近なわかりやすい表現でいえば、
意識は存在感覚というものの「水道の蛇口」のようなものであり、
そうであればこそ、
「意識」によって、我々自体の身体感覚や、周囲の状況というものが、
大きく変化するということである。

極端に言えば、事物の存在の有無さえも、関わってくるのだ。
まっとうなスピリチュアル系で、
意識・・、意識・・と表現されるものを、
頭だけで考えているだけでは、その真意は見えない。

実際に、現実の存在として、今ここに「意識」がある!
だからそれにふさわしい世界が出現しているのである。

そして、それは外ではなく、
わたしの意識のうちにある・・ということなのである。


わたしとは何か?と問うているのは、・・誰?

・・少なくとも、その答えとしての、
「私は単に肉体でしかない」という・・考え・・は、
文字通り、それは単に思考、思い込み、想念形でしかない。

そう、いつでもどこでも、世界中で、
俺が、私が・・!と言っている肉体自我は、
「私は単に肉体でしかない」という想念だったのだ。

わたし個人としての我(われ)、自我とは、つまり想念である。


さて、くどいようだが・・、
それでは、本当のわたし、真の我・・とは何だろうか?
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