松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま島根県を探索中。

1月16日(月)のつぶやき

2017-01-17 | つぶやきまとめ

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島根の水彩画普及に尽力した森本香谷

2017-01-16 | 画人伝・島根


文献:島根の美術、島根の美術家-絵画編

明治38年、大下藤次郎、丸山晩霞らが開設した水彩画講習所は、各地で水彩講習会を行ない、全国的に水彩画ブームをひきおこした。明治44年には松江でも大下藤次郎を講師に迎えて水彩画講習会が開催されている。そして大正元年、島根でも水彩画ブームが起こりつつあるなか、長野県飯山中学に教師として赴任し、丸山晩霞とも交友のあった森本香谷(1867-1937)が松江に帰郷する。香谷は、絵画研究グループ「ワカバ会」を結成し、石井柏亭や丸山晩霞らを講師に迎えて水彩画講習会を開催するなど、島根における水彩画の普及に尽くした。この講習会には、のちに創作版画のパイオニアとして活躍する平塚運一(1895-1997)も参加していた。運一は、講習会で石井柏亭に作品を称賛されたことから画家を志し、上京して伊上凡骨に師事し版画の道に進み、当時の創作版画運動の中心となって活躍した。

森本香谷(1867-1937)
慶応3年松江市生まれ。本名は兼之丞。内村鱸香に漢学を学び、16歳の時、横浜より帰郷していた小豆澤碧湖に洋画の技法を学んだ。さらに広島の塩田銕香、京都の望月玉泉に師事して日本画を学んだ。明治19年に松江師範学校を卒業し、県内の小学校、中学校の教員を務め、明治36年には長野県に転出、長野県立飯山中学校の教諭となった。当時は全国的に水彩画隆盛の気運があり、明治39年、飯山中学校の生徒とともに水彩画研究グループ素絢会を結成し、翌年の夏に長野の上林温泉で丸山晩霞が講師をつとめた水彩画講習会に素絢会のメンバーとともに参加した。明治41年に太平洋画会展に出品。明治42年本部より晩霞を迎えて設立された日本水彩画研究所長野支部の会員となり、翌年には自宅に日本水彩画会研究所飯山支部を設立した。大正元年に松江に帰郷し松江高等女学校に勤務した。大正2年日本水彩画会研究所が日本水彩画会に組織変更されると同会に所属し、第1回展より出品、大正5年第3回展で会員に推挙された。また大正2年松江において絵画研究グループワカバ会を結成し、その年の第1回夏期講習会に石井柏亭、第2回には丸山晩霞を迎えて水彩画の講習を行なった。大正末には松江洋画研究所の開設と運営に尽力し、島根の美術振興に貢献した。昭和12年、70歳で死去した。

平塚運一(1895-1997)
明治28年松江市生まれ。生家は宮大工。大正2年松江市で開催された石井柏亭の水彩画講習に参加し、柏亭に作品を称賛されたことから画家を志し上京、柏亭の紹介で伊上凡骨に彫版を学んだ。昭和3年には畦地梅太郎、棟方志功らを同人に迎え、版画と随筆の雑誌『版』を創刊した。昭和5年には国画会会員となり、国画会版画部創立に参加するなど、当時の創作版画運動の中心となって活躍した。昭和20年の東京美術学校版画教室の設立時には木版の講師として指導した。昭和37年に渡米し、平成7年に帰国するまでワシントンで制作を続けた。渡米中は特に裸婦をモチーフに女性像を多く制作した。平成9年、102歳で死去した。


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1月12日(木)のつぶやき

2017-01-13 | つぶやきまとめ

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小豆澤碧湖にはじまる島根洋画

2017-01-12 | 画人伝・島根


文献:島根の美術、島根の美術家-絵画編、出雲ゆかりの芸術家たち

島根の洋画は、横浜で写真と洋画を学んだ小豆澤碧湖(1848-1890頃)によってはじまった。松江の豪商の家に生まれ、はじめ中島来章に日本画を学んだ碧湖は、明治初期に上京し、写真家で洋画も得意とした横山松三郎の塾に入り、写真油絵の技術を受け継ぎ洋画の研究をした。明治15年頃には松江に帰り、島根に洋画を伝えた。島根洋画の普及に大きく寄与したのが、碧湖に洋画の技法を学んだ堀櫟山(1856-1909)である。櫟山は、松江藩士の長男として松江市に生まれ、幼いころから狩野派を学んだ。碧湖が松江に帰ってくると洋画を学び、特に写生に力を注いだ。明治17年には方円学舎と称する洋画の私塾を開設し、良家の子弟や学校の教員などに画法を教え、洋画の普及を試みた。のちに肖像画家として活躍する石橋和訓(1876-1928)が、はじめて洋画の技法を学んだのは櫟山からであり、その後和訓は渡英し、イギリスの伝統的肖像画の画風を身につけた。

小豆澤碧湖(1848-1890頃)
嘉永元年松江生まれ。本名は亮一。松江の豪商・小豆澤浅右衛門の長男。はじめ中島来章について日本画を学び、明治8年に上京して横山松三郎に写真の技術を学んだ。師である松三郎は油彩も得意とし、高橋由一の協力を得て「写真油絵」を完成させた。松三郎の没後は碧湖が受け継ぎ、明治18年に「写真油絵」として印画紙への着色写真の特許を取った。明治15年には帰郷し、島根にはじめて洋画の技法を伝えた。明治23年頃に死去した。



堀櫟山(1856-1909)
安政3年松江生まれ。本名は宗太郎。松江藩士の長男。幼いころから狩野派を学んだ。明治15年頃、小豆澤碧湖が油絵の技法を習得して帰郷した際、碧湖について油絵を学んだ。明治17年、第2回内国絵画共進会に出品、同年方円学舎と称する私立画学校を松江に開設し、絵を教え、島根に洋画を広めた。明治42年、54歳で死去した。



石橋和訓(1876-1928)
明治9年飯石郡反辺村生まれ。本名は倉三郎。幼いころから画才に恵まれ、明治25年に松江に出て師範学校絵画担当の後藤魚州に南画の手ほどきを受け、堀櫟山の方円学舎でも学んだ。明治26年、18歳の時に上京して本多錦吉郎に洋画を学び、南画家の滝和亭の内弟子となり本格的に日本画を学んだ。27歳の時に師の一字をもらい「和訓」と改名した。明治36年にイギリスに渡り、肖像画家のJ.S.サージェントらに学び、明治39年にはロイヤル・アカデミーに入学、イギリスの伝統的肖像画の画風を身につけた。大正12年に帰国するまでにロイヤル・アカデミー展や文展などに出品した。帰国後は、東京にアトリエを構え、肖像画、南画風の花鳥画などを描いた。昭和3年、52歳で死去した。


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1月5日(木)のつぶやき

2017-01-06 | つぶやきまとめ

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橋本明治ら島根出身の現代日本画家

2017-01-05 | 画人伝・島根


文献:島根の美術

昭和期に活躍した島根県出身の現代日本画家としては、まず橋本明治(1904-1991)が挙げられる。太い線描、明快な色彩を用いた橋本様式と呼ばれる独自の作風を展開し、日展で活躍、文化勲章を受章している。また、隠岐島に生まれた松浦満(1908-1998)は、海や港の郷土色豊かな風景や鯉など、水にちなんだ作品を多く描いた。野々内保太郎(1902-1985)は花鳥画を得意とした。保太郎の三人の子、野々内良樹、井上稔、野々内宏はいずれも日本画家となった。日本美術院では、島根の美術団体創成期を率いた和田翠雲の長男・和田悠成(1901-1997)がいる。横山大観夫人の紹介により61歳で堅山南風に師事して院展に出品、島根県日本画協会理事長、島根県展日本画審査員をつとめ、地元の日本画普及に貢献した。創画会の石本正(1920-2015)は、ヨーロッパ中世のフレスコ画に傾倒し、舞妓や裸婦をモチーフに官能美あふれた女性像を描いた。

橋本明治(1904-1991)
明治37年那賀郡浜田町生まれ。大正15年東京美術学校に入学、在学中の昭和4年に帝展に初入選、昭和6年同校日本画科を首席で卒業、研究科に進み松岡映丘に師事した。昭和12年新文展で特選、翌年も特選となった。昭和15年、文部省から中村岳陵、入江波光らとともに法隆寺金堂壁画模写主任に任命され、昭和25年まで模写に携わった。戦後、昭和23年に日本画の新団体創造美術が結成され創立会員となるが、25年に脱退して日展に復帰した。昭和27年芸術選奨文字大臣賞、30年に日本芸術院賞、46年日本芸術院会員、47年日展常務理事、49年文化功労者となり、文化勲章を受章した。平成3年、86歳で死去した。

松浦満(1908-1998)
明治41年隠地郡都万村生まれ。上京し萩出身の松林桂月に入門した。昭和9年帝展に初入選。戦後は日展に出品し、22年日展特選、25年日展白寿賞、26年日展特選となった。審査員もつとめ日展会員となった。特に海や鯉など水にちなんだ作品を得意とし、港で生活する人々の暮らしを多く描いた。平成10年、90歳で死去した。

木村広吉(1912-1990)
明治45年松江市生まれ。呉服問屋を営んでいた十代木村重石衛門の二男。昭和7年京都市立絵画専門学校に入学、卒業後に同校研究科に進んだ。西山英雄に師事し、在学中に文展初入選、昭和21年からは日展に出品、特選、白寿賞を受賞、日展会員となった。平成2年、78歳で死去した。

野々内保太郎(1902-1985)
明治35年八束郡出雲郷村生まれ。農業を営む野々内豊太郎の二男。本名は安太郎。堀江有声、国井応陽、小村大雲らに学んだ後、昭和5年京都市立絵画専門学校に入学し、中村大三郎に師事、在学中に帝展に初入選した。大三郎没後は西山翠嶂に師事し、翠嶂没後は牧人社を結成し西山英雄に師事した。子に野々内良樹、井上稔、野々内宏がいる。昭和60年、82歳で死去した。

河部貞夫(1908-1987)
明治41年邑智郡市木村生まれ。昭和5年東京美術学校に入学、松岡映丘に師事した。在学中に映丘門下の山本丘人、杉山寧らと瑠爽画社を結成した。昭和10年同校日本画科を首席で卒業し、昭和11年から13年まで四日市市立商工学校に勤務した。戦後は昭和22年から瑠爽画社展の継続的グループ・一采社に参加した。創造美術展、新制作展、日展にも出品した。昭和62年、79歳で死去した。

和田悠成(1901-1997)
明治34年松江市生まれ。和田翠雲の長男。本名は成一郎。書道の号は観雪。大正8年に水郷社を結成、松江城山興雲閣で第1回展を開催し、新日本画研究の道に進んだ。昭和6年山陰書道会を設立、松江毛筆授産場を経営し、松江筆の製作指導にあたった。昭和37年横山大観夫人のすすめで、61歳で堅山南風に入門し、昭和41年再興院展に初入選、昭和44年院展院友に推された。島根県日本画協会理事、島根県展日本画審査員をつとめ、地元の日本画普及に大きく貢献した。平成9年、95歳で死去した。

石本正(1920-2015)
大正9年那賀郡岡見村生まれ。農業を営む石本寛一の長男。昭和19年に京都市立絵画専門学校を卒業、昭和22年に日展に初入選し、以後も日展に出品するが、昭和25年創造美術展に出品し初入選、翌年創造美術は新制作派協会と合流して新制作協会日本画部になったため、昭和31年新制作協会日本画部会員となり同展を主に活動するようになる。昭和46年日本芸術大賞および芸術選奨文部大臣賞を受賞した。昭和49年新制作協会日本画部が創画会を結成したため以後は創画会会員として活躍した。京都市立芸術大学と京都造形芸術大学の教授をつとめ、後進の育成にも尽力した。平成27年、95歳で死去した。


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