松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま鳥取県を探索中。

1月30日(月)のつぶやき

2017-01-31 | つぶやきまとめ

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根本幽峨と鳥取の門人

2017-01-30 | 画人伝・鳥取


文献:藩政時代の絵師たち、根本幽峨の伝記と画業、鳥取縣書画百藝名人集

鳥取城下の商家に生まれた根本幽峨(1824-1866)は、江戸に出て沖一峨の門人となり狩野派の画法を修め、藩の御用絵師となった。多数の模本を残すとともに屏風や掛軸など多くの作品を描き、亀井琴嶺(不明-不明)、河田翠涯(1822-1900)、藤岡神山(1825-不明)ら郷土で活躍する絵師を育てた。弟で門人の根本雪峨(1828-1901)は、幽峨の跡を継いで狩野派の画を描き、明治年間には京都府画学校で教鞭をとった。

根本幽峨(1824-1866)
文政7年生まれ。鳥取城下の商家・砂田屋の長男とされる。幼名は重三郎。別号に鷲峯がある。幼いころから画を好み、凧や幟に武者絵を描いて売っていたという。長じて江戸に出て沖一峨の内弟子となった。江戸では一峨のもとで絵画修行に励むとともに藩の御用の絵画制作に従事していた。嘉永7年に絵画修行の年限が満ちたのでいったん帰郷し、後にまた江戸に出た。安政5年に正式に藩の御用絵師となった。元治元年には沖剛介が起こした堀庄次郎暗殺事件のため一時断絶となっていた沖九皐一家を預かり、慶応2年に家名が再興されるまで沖家の世話をした。師の一峨と同様に各画法に通じ、狩野派の伝統手法にのっとった山水図や各派を折衷した作品を残した。幕末から明治に鳥取で活躍した亀井琴嶺、河田翠涯、藤岡神山ら、鳥取で多くの門弟を育てた。慶応2年、43歳で死去した。

亀井琴嶺(不明-不明)
八頭郡米岡の人。根本幽峨の門人。奇人にして雪舟の筆を慕っていたと伝わる。

河田翠涯(1822-1900)
鳥取市馬場町に住んでいた。根本幽峨の門人。山水人物を得意とした。茶もよくした。

藤岡神山(1825-不明)
鳥取市下臺町庚申堂横手に住んでいた。根本幽峨の門人。

根本雪峨(1828-1901)
文政11年生まれ。根本幽峨の弟で門人。幽峨の養子となって跡を継いだ。幽峨のほか、沖一峨や菊田伊洲に学んだ。藩邸新築の際には師とともに制作にあたり、明治2年には因伯隠三州の地図製作に携わった。京都府画学校の教授をつとめた。明治34年、73歳で死去した。


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1月27日(金)のつぶやき

2017-01-28 | つぶやきまとめ

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鳥取藩御用絵師・沖一峨と沖家

2017-01-27 | 画人伝・鳥取


文献:藩政時代の絵師たち、藩絵師沖家にみる近世の狩野派

初代鳥取藩主・池田光仲は、寛文6年に木挽町狩野家の門人だった沖清信を江戸詰絵師として登用した。当時は江戸幕府の体制が整い、政情も落ち着き、各藩も幕府の職制にならって諸職を整備するようになっていた。沖家はその後、二代清友、三代探陸、四代探玉、五代探高、六代探容、七代一峨、八代九皐と鳥取藩御用絵師をつとめ、明治に至るまで続いた。このうち江戸詰だったこともあり、初代から五代までの作品は少なく、その活動もよく知られていない。文政5年に沖家を継いだ六代探容は狩野派の技法を踏まえながらも多様な作風を展開、さらにその養子の七代一峨は、多様な画派からの摂取を試み、粉本主義ゆえに低調となっていた狩野派に新風を送った。一峨は沖家の直系ではないが、累代の中では最も画名が高く、藩からも重用されていた。八代九皐は江戸末期に生まれ、藩絵師としての活動は短く、明治以降は官界に入って活躍した。

沖一峨(1797-1855)
寛政8年江戸深川生まれ。旧名は児玉淵泉。名は貞または貞蔵、字は子仰。はじめ渕泉、のちに探三、一峨と号した。別号に旭庵、静斎などがある。鍛冶橋狩野八代探淵の門人とされる。沖家と親戚関係にあることから、天保8年、42歳で沖家に入り、天保11年家督を相続して江戸詰御用絵師となった。沖家に入る前は、狂歌集の挿絵や千葉県銚子市の圓福寺や成田山新勝寺の絵馬などを制作しており、すでに江戸で一画家として活動していたことが知られる。画境は幅広く、狩野派の技法に加え、やまと絵、琳派、写生派、さらに浮世絵の研究まで手を広げ、これら各派の画法を取り入れた。鳥取藩御用絵師となってからは、精力的に活動し異例の出世を果たした。また、江戸の薬研堀の自宅で書画会を開くなど町絵師としての一面もあり、多面的な活動をした。安政2年、60歳で死去した。

沖探容(不明-1839)
名は守素。鳥取藩江戸詰の御用絵師・沖家六代探高の子。文政5年に家督を相続した。天保6年に探容から探冲に改名した。別号に太良山人がある。父の探高と、鍛冶橋狩野七代の探信守道に師事した。天保10年死去した。

沖九皐(1841-1912)
天保12年江戸生まれ。沖一峨の長男。幼名は鶴、貞一郎、のちに探三、さらに守固と改めた。父に画を学び、漢文を萩原鳳二郎に、萩原没後は大橋順蔵に学んだ。文久元年沖家八代目を継ぎ江戸詰御用絵師となったが、幕末の混乱期に生まれたことから画事に専念する機会に恵まれなかった。明治に入ってからは、神奈川、長崎、滋賀、和歌山、大阪、愛知の知事を歴任、貴族院勅選議員になるなど官界で活躍した。大正元年、72歳で死去した。


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1月25日(水)のつぶやき

2017-01-26 | つぶやきまとめ

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1月24日(火)のつぶやき

2017-01-25 | つぶやきまとめ

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森鴎外と原田直次郎

2017-01-24 | 画人伝・島根


文献:鴎外と画家原田直次郎、鴎外と美術展図録
関連:岡山の近代洋画、松岡寿と原田直次郎


明治の文豪・森鴎外(津和野町生まれ、1862-1922)は、陸軍軍医、小説家、翻訳家など多方面で活躍したが、美術においても大きな足跡を残している。軍医だった鴎外が美術と深く関わるようになったのは、衛生学研究のために留学していたドイツで西洋芸術に触れたことであり、ミュンヘンで生涯の友となる画学生・原田直次郎(1863-1899)と知り合ったことにある。鴎外は原田の奔放な生き方に憧れ、自らも芸術の世界にかかわりたいと文筆を志し、二人は、国際的芸術都市・ミュンヘンで青春を謳歌し、お互いを高めあった。

明治21年、鴎外がドイツから帰国すると、一足先に日本に帰っていた原田の苦境を知ることになる。当時の日本の美術界は、洋画を排斥しようとする国粋的な風潮が高まっており、明治22年に開校した東京美術学校にも西洋科はなかった。それでも原田は日本初の洋画団体・明治美術会の結成に参加するなど洋画普及のため積極的に活動し、さらに本郷に画塾鐘美館を開設して洋画教育につとめた。

明治23年、原田が第3回内国勧業博覧会に出品し、のちに原田の代表作となる「騎馬龍観音」を巡って論争が勃発する。空想的神話世界を迫真的に描いたこの大作は大変な評判になったが、東京帝国大学教授・外山正一が「宗教心のない現代の画家は神仏を描くべきではない」などと酷評したのである。これに激怒した鴎外は、原田の擁護のために「外山正一氏の画論を駁す」という論文を発表、外山に反論した。この一連の批評が鴎外を美術評論家として印象付けるものとなった。

明治24年、東京美術学校の岡倉天心の依頼により鴎外は美術解剖学の講義をはじめる。鴎外はいつかは原田を教授に招くという野心を秘めつつこの依頼を受けたという。しかし、5年後、開明派の文部大臣・西園寺公望が美校改革に手をつけた頃には、原田はすでに病床にあり、明治32年、36歳で死去した。原田に代わって西洋画の指導者として美術学校に招かれたのは黒田清輝だった。

原田の没後も鴎外の美術活動は続き、美術界の重鎮として要職を歴任した。明治40年に文展が開設されると同時に第2部(洋画)の審査員となった。大正6年、55歳の時には帝室博物館の総長兼図書頭に就任。さらに大正8年に帝国美術院の初代総長となった。帝室博物館では、博物館が所蔵する図書に一冊ごとに丁寧な解説と、その著者に関する略伝を執筆した。しかし在任中の大正11年、60歳で死去した。


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1月19日(木)のつぶやき

2017-01-20 | つぶやきまとめ

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松江洋画研究所を設立して島根の美術振興に貢献した草光信成と木村義男

2017-01-19 | 画人伝・島根


文献:島根の美術

森本香谷、草光信成(1892-1970)、木村義男(1899-1985)を中心メンバーとして設立された松江洋画研究所は、大正末から昭和初期にかけて島根の洋画振興に大きな役割を果たした。島根にはすでに森本香谷が結成したワカバ会や、平塚運一、清野耕らが主催する洋画研究所郷土社といった洋画の研究団体があったが、これらの研究会に関わった者たちの活動が次第に松江洋画研究所へと移行していったものと思われる。夏期講習には中央から斎藤与里、大久保作次郎、須田国太郎ら中央画壇を代表する作家たちを講師として招き、モデルも東京、大阪から迎え本格的な裸体画の演習も行なわれた。第二次世界大戦の激化のため研究所は自然閉鎖となったが、島根画壇に大きな足跡を残した。

草光信成(1892-1970)
明治25年出雲市生まれ。明治44年中学を卒業、同年大下藤次郎を迎えて松江で開催された水彩画講習会に参加。大正5年東京美術学校洋画研究科に入学、和田三造に師事した。大正11年帝展に初入選、翌年旧制松江高等学校図工科の嘱託講師となった。昭和2年には和田三造の招きによって再び上京し、同年から3年連続で帝展で特選を受けた。松江洋画研究所の講師として毎年のように夏の講習会には帰郷し、森本香谷、木村義男、青山襄、三谷長博らとともに指導にあたった。昭和18年には戦火をさけて松江に疎開、昭和21年には木村義男、山中徳次らと島根洋画会を結成した。昭和31年には新世紀美術協会の創立委員となり、晩年まで日展とともに出品した。昭和45、78歳で死去した。

木村義男(1899-1985)
明治32年松江市生まれ。大正3年、松江で丸山晩霞を迎えて開催された水彩画講習会に参加。平塚運一、清野耕ら主催の洋画研究所郷土社でも学んだ。大正4年、運一の勧めで上京、川端画学校で藤島武二に師事した。大正5年日本美術院展に初入選。大正7年に帰郷し、その後は制作の拠点を島根に置き、中央画壇と島根とのパイプ役として島根画壇の振興に貢献した。松江洋画研究所の発足にあたっては佐藤喜八郎、桑原羊次郎といった地元の有力者の助力を得て、森本香谷、草光信成らとともに結成に参加、後進の指導にあたった。昭和20年には島根洋画会の創立に参加、会長をつとめた。昭和60年、85歳で死去した。


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1月16日(月)のつぶやき

2017-01-17 | つぶやきまとめ

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島根の水彩画普及に尽力した森本香谷

2017-01-16 | 画人伝・島根


文献:島根の美術、島根の美術家-絵画編

明治38年、大下藤次郎、丸山晩霞らが開設した水彩画講習所は、各地で水彩講習会を行ない、全国的に水彩画ブームをひきおこした。明治44年には松江でも大下藤次郎を講師に迎えて水彩画講習会が開催されている。そして大正元年、島根でも水彩画ブームが起こりつつあるなか、長野県飯山中学に教師として赴任し、丸山晩霞とも交友のあった森本香谷(1867-1937)が松江に帰郷する。香谷は、絵画研究グループ「ワカバ会」を結成し、石井柏亭や丸山晩霞らを講師に迎えて水彩画講習会を開催するなど、島根における水彩画の普及に尽くした。この講習会には、のちに創作版画のパイオニアとして活躍する平塚運一(1895-1997)も参加していた。運一は、講習会で石井柏亭に作品を称賛されたことから画家を志し、上京して伊上凡骨に師事し版画の道に進み、当時の創作版画運動の中心となって活躍した。

森本香谷(1867-1937)
慶応3年松江市生まれ。本名は兼之丞。内村鱸香に漢学を学び、16歳の時、横浜より帰郷していた小豆澤碧湖に洋画の技法を学んだ。さらに広島の塩田銕香、京都の望月玉泉に師事して日本画を学んだ。明治19年に松江師範学校を卒業し、県内の小学校、中学校の教員を務め、明治36年には長野県に転出、長野県立飯山中学校の教諭となった。当時は全国的に水彩画隆盛の気運があり、明治39年、飯山中学校の生徒とともに水彩画研究グループ素絢会を結成し、翌年の夏に長野の上林温泉で丸山晩霞が講師をつとめた水彩画講習会に素絢会のメンバーとともに参加した。明治41年に太平洋画会展に出品。明治42年本部より晩霞を迎えて設立された日本水彩画研究所長野支部の会員となり、翌年には自宅に日本水彩画会研究所飯山支部を設立した。大正元年に松江に帰郷し松江高等女学校に勤務した。大正2年日本水彩画会研究所が日本水彩画会に組織変更されると同会に所属し、第1回展より出品、大正5年第3回展で会員に推挙された。また大正2年松江において絵画研究グループワカバ会を結成し、その年の第1回夏期講習会に石井柏亭、第2回には丸山晩霞を迎えて水彩画の講習を行なった。大正末には松江洋画研究所の開設と運営に尽力し、島根の美術振興に貢献した。昭和12年、70歳で死去した。

平塚運一(1895-1997)
明治28年松江市生まれ。生家は宮大工。大正2年松江市で開催された石井柏亭の水彩画講習に参加し、柏亭に作品を称賛されたことから画家を志し上京、柏亭の紹介で伊上凡骨に彫版を学んだ。昭和3年には畦地梅太郎、棟方志功らを同人に迎え、版画と随筆の雑誌『版』を創刊した。昭和5年には国画会会員となり、国画会版画部創立に参加するなど、当時の創作版画運動の中心となって活躍した。昭和20年の東京美術学校版画教室の設立時には木版の講師として指導した。昭和37年に渡米し、平成7年に帰国するまでワシントンで制作を続けた。渡米中は特に裸婦をモチーフに女性像を多く制作した。平成9年、102歳で死去した。


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1月12日(木)のつぶやき

2017-01-13 | つぶやきまとめ

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小豆澤碧湖にはじまる島根洋画

2017-01-12 | 画人伝・島根


文献:島根の美術、島根の美術家-絵画編、出雲ゆかりの芸術家たち

島根の洋画は、横浜で写真と洋画を学んだ小豆澤碧湖(1848-1890頃)によってはじまった。松江の豪商の家に生まれ、はじめ中島来章に日本画を学んだ碧湖は、明治初期に上京し、写真家で洋画も得意とした横山松三郎の塾に入り、写真油絵の技術を受け継ぎ洋画の研究をした。明治15年頃には松江に帰り、島根に洋画を伝えた。島根洋画の普及に大きく寄与したのが、碧湖に洋画の技法を学んだ堀櫟山(1856-1909)である。櫟山は、松江藩士の長男として松江市に生まれ、幼いころから狩野派を学んだ。碧湖が松江に帰ってくると洋画を学び、特に写生に力を注いだ。明治17年には方円学舎と称する洋画の私塾を開設し、良家の子弟や学校の教員などに画法を教え、洋画の普及を試みた。のちに肖像画家として活躍する石橋和訓(1876-1928)が、はじめて洋画の技法を学んだのは櫟山からであり、その後和訓は渡英し、イギリスの伝統的肖像画の画風を身につけた。

小豆澤碧湖(1848-1890頃)
嘉永元年松江生まれ。本名は亮一。松江の豪商・小豆澤浅右衛門の長男。はじめ中島来章について日本画を学び、明治8年に上京して横山松三郎に写真の技術を学んだ。師である松三郎は油彩も得意とし、高橋由一の協力を得て「写真油絵」を完成させた。松三郎の没後は碧湖が受け継ぎ、明治18年に「写真油絵」として印画紙への着色写真の特許を取った。明治15年には帰郷し、島根にはじめて洋画の技法を伝えた。明治23年頃に死去した。



堀櫟山(1856-1909)
安政3年松江生まれ。本名は宗太郎。松江藩士の長男。幼いころから狩野派を学んだ。明治15年頃、小豆澤碧湖が油絵の技法を習得して帰郷した際、碧湖について油絵を学んだ。明治17年、第2回内国絵画共進会に出品、同年方円学舎と称する私立画学校を松江に開設し、絵を教え、島根に洋画を広めた。明治42年、54歳で死去した。



石橋和訓(1876-1928)
明治9年飯石郡反辺村生まれ。本名は倉三郎。幼いころから画才に恵まれ、明治25年に松江に出て師範学校絵画担当の後藤魚州に南画の手ほどきを受け、堀櫟山の方円学舎でも学んだ。明治26年、18歳の時に上京して本多錦吉郎に洋画を学び、南画家の滝和亭の内弟子となり本格的に日本画を学んだ。27歳の時に師の一字をもらい「和訓」と改名した。明治36年にイギリスに渡り、肖像画家のJ.S.サージェントらに学び、明治39年にはロイヤル・アカデミーに入学、イギリスの伝統的肖像画の画風を身につけた。大正12年に帰国するまでにロイヤル・アカデミー展や文展などに出品した。帰国後は、東京にアトリエを構え、肖像画、南画風の花鳥画などを描いた。昭和3年、52歳で死去した。


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1月5日(木)のつぶやき

2017-01-06 | つぶやきまとめ

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橋本明治ら島根出身の現代日本画家

2017-01-05 | 画人伝・島根


文献:島根の美術

昭和期に活躍した島根県出身の現代日本画家としては、まず橋本明治(1904-1991)が挙げられる。太い線描、明快な色彩を用いた橋本様式と呼ばれる独自の作風を展開し、日展で活躍、文化勲章を受章している。また、隠岐島に生まれた松浦満(1908-1998)は、海や港の郷土色豊かな風景や鯉など、水にちなんだ作品を多く描いた。野々内保太郎(1902-1985)は花鳥画を得意とした。保太郎の三人の子、野々内良樹、井上稔、野々内宏はいずれも日本画家となった。日本美術院では、島根の美術団体創成期を率いた和田翠雲の長男・和田悠成(1901-1997)がいる。横山大観夫人の紹介により61歳で堅山南風に師事して院展に出品、島根県日本画協会理事長、島根県展日本画審査員をつとめ、地元の日本画普及に貢献した。創画会の石本正(1920-2015)は、ヨーロッパ中世のフレスコ画に傾倒し、舞妓や裸婦をモチーフに官能美あふれた女性像を描いた。

橋本明治(1904-1991)
明治37年那賀郡浜田町生まれ。大正15年東京美術学校に入学、在学中の昭和4年に帝展に初入選、昭和6年同校日本画科を首席で卒業、研究科に進み松岡映丘に師事した。昭和12年新文展で特選、翌年も特選となった。昭和15年、文部省から中村岳陵、入江波光らとともに法隆寺金堂壁画模写主任に任命され、昭和25年まで模写に携わった。戦後、昭和23年に日本画の新団体創造美術が結成され創立会員となるが、25年に脱退して日展に復帰した。昭和27年芸術選奨文字大臣賞、30年に日本芸術院賞、46年日本芸術院会員、47年日展常務理事、49年文化功労者となり、文化勲章を受章した。平成3年、86歳で死去した。

松浦満(1908-1998)
明治41年隠地郡都万村生まれ。上京し萩出身の松林桂月に入門した。昭和9年帝展に初入選。戦後は日展に出品し、22年日展特選、25年日展白寿賞、26年日展特選となった。審査員もつとめ日展会員となった。特に海や鯉など水にちなんだ作品を得意とし、港で生活する人々の暮らしを多く描いた。平成10年、90歳で死去した。

木村広吉(1912-1990)
明治45年松江市生まれ。呉服問屋を営んでいた十代木村重石衛門の二男。昭和7年京都市立絵画専門学校に入学、卒業後に同校研究科に進んだ。西山英雄に師事し、在学中に文展初入選、昭和21年からは日展に出品、特選、白寿賞を受賞、日展会員となった。平成2年、78歳で死去した。

野々内保太郎(1902-1985)
明治35年八束郡出雲郷村生まれ。農業を営む野々内豊太郎の二男。本名は安太郎。堀江有声、国井応陽、小村大雲らに学んだ後、昭和5年京都市立絵画専門学校に入学し、中村大三郎に師事、在学中に帝展に初入選した。大三郎没後は西山翠嶂に師事し、翠嶂没後は牧人社を結成し西山英雄に師事した。子に野々内良樹、井上稔、野々内宏がいる。昭和60年、82歳で死去した。

河部貞夫(1908-1987)
明治41年邑智郡市木村生まれ。昭和5年東京美術学校に入学、松岡映丘に師事した。在学中に映丘門下の山本丘人、杉山寧らと瑠爽画社を結成した。昭和10年同校日本画科を首席で卒業し、昭和11年から13年まで四日市市立商工学校に勤務した。戦後は昭和22年から瑠爽画社展の継続的グループ・一采社に参加した。創造美術展、新制作展、日展にも出品した。昭和62年、79歳で死去した。

和田悠成(1901-1997)
明治34年松江市生まれ。和田翠雲の長男。本名は成一郎。書道の号は観雪。大正8年に水郷社を結成、松江城山興雲閣で第1回展を開催し、新日本画研究の道に進んだ。昭和6年山陰書道会を設立、松江毛筆授産場を経営し、松江筆の製作指導にあたった。昭和37年横山大観夫人のすすめで、61歳で堅山南風に入門し、昭和41年再興院展に初入選、昭和44年院展院友に推された。島根県日本画協会理事、島根県展日本画審査員をつとめ、地元の日本画普及に大きく貢献した。平成9年、95歳で死去した。

石本正(1920-2015)
大正9年那賀郡岡見村生まれ。農業を営む石本寛一の長男。昭和19年に京都市立絵画専門学校を卒業、昭和22年に日展に初入選し、以後も日展に出品するが、昭和25年創造美術展に出品し初入選、翌年創造美術は新制作派協会と合流して新制作協会日本画部になったため、昭和31年新制作協会日本画部会員となり同展を主に活動するようになる。昭和46年日本芸術大賞および芸術選奨文部大臣賞を受賞した。昭和49年新制作協会日本画部が創画会を結成したため以後は創画会会員として活躍した。京都市立芸術大学と京都造形芸術大学の教授をつとめ、後進の育成にも尽力した。平成27年、95歳で死去した。


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