松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま鳥取県を探索中。

12月29日(木)のつぶやき

2016-12-30 | つぶやきまとめ

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平田ゆかりの日本画家、小村大雲と落合朗風

2016-12-29 | 画人伝・島根


文献:生誕130年 小村大雲島根の美術、出雲ゆかりの芸術家たち、島根の美術家-絵画編

出雲市平田出身の小村大雲(1883-1938)は、山元春挙の画塾・早苗塾門下生の四天王と称され、帝展委員などをつとめた。作域は広く、山水、人物、動物など多岐に渡ったが、なかでも綿密な時代考証による歴史画を得意とし、自ら甲冑を制作するなど研究に没頭した。父親が平田の出身である落合朗風(1896-1937)は、遠縁にあたる小村大雲に師事したのち、文展、院展、青龍社展などに出品するが、画壇の組織と馴染めず、昭和9年、明朗なる芸術の確立を唱え、明朗美術連盟を設立、毎年展覧会を開催していたが、まもなく病に倒れ急逝した。体制に属さない自由な活動を目指した朗風は、モダンで清新な作風による個性的な作品を残しており、生まれるのが早すぎたとも評されている。

小村大雲(1883-1938)
明治16年楯縫郡平田町生まれ。穀物荒物商を営んでいた小村豊兵衛の長男。本名は権三郎、字は厳坐あるいは子荘。別号に豊花、豊文、碧雲湖畔人、赤松子などがある。明治31年、15歳の時に両親の許しを得ずに単身上京し、橋本雅邦、川端玉章の門をたたくが断られる。その後、広島の宮田英春に師事し、明治33年京都に出て森川曾文、橋本菱華、都路華香に学んだのち、明治36年山元春挙の門に入った。大正元年文展に初入選、翌年より3等賞を3年連続、特選を2年連続で受賞し、大正8年推薦・永久無鑑査となり、大正13年帝展委員に就任した。その後も帝展に出品を続け、久邇宮家の襖絵や明治神宮絵画館の壁画なども制作した。昭和13年、郷里平田市の大雲山荘に帰省した折、病のため58歳で死去した。



落合朗風(1896-1937)
明治29年東京生まれ。島根県平田市出身で写真業を営んでいた落合常市の二男。本名は平次郎。幼いころは平田に住み、本籍は終生平田市にあった。4歳の時に母と死別し、クリスチャンの父に育てられた。大正元年商業学校を卒業し、東京銀座のレコード店に勤めながら川端画学校で学んだ。当時京都にいた遠縁にあたる平田市出身の小村大雲に半年ほど師事し、また菊池契月の画塾にも学んだ。大正5年文展に初入選。大正8年には院展に異国の神話をモチーフにした大作「エバ」を出品して注目され、これが出世作となった。その後も院展に出品したが同人に推挙されることはなく、院友の朝井観波とともに院展を去り京都に転居、当地を題材にした作品を帝展に出品しはじめたが、帝展でも不遇であり、昭和6年には、川端龍子が創設した、会場芸術を唱える青龍社展に大作を出品、青龍賞を受賞した。しかし、画壇の組織とはなかなか馴染めず、昭和9年には明朗なる芸術の確立を唱え、朗風自身が主宰者となって「明朗美術連盟」を設立し、毎年展覧会を開催したが、昭和12年、病のため42歳で死去した。


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12月26日(月)のつぶやき

2016-12-27 | つぶやきまとめ

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島根を代表する近代南画家、西晴雲と木村棲雲

2016-12-26 | 画人伝・島根


文献:島根の美術、出雲ゆかりの芸術家たち、島根の美術家-絵画編

島根を代表する明治期の南画家としては、西晴雲(1881-1963)と木村棲雲(1885-1967)が挙げられる。西晴雲は、上京して吉嗣拝山に南画を学んだが、当時の南画界の動向に不信を抱き、中国画壇に可能性を求めて渡航、上海に移住して上海南画院を創設した。木村棲雲は、上京して小室翠雲に師事し、文展、帝展などに出品するが、やがて展覧会出品を嫌い、全国各地を遊歴、田能村竹田に私淑して研鑽を積み、主に個展を発表の場とした。また、森琴石に師事した嘉本周石(1889-1976)は、日本南画院の出品依頼を固辞し、故郷で南画家らしく無欲枯淡の生涯を送った。

西晴雲(1881-1963)
明治15年安濃郡波根西村生まれ。農業と穀物販売を営んでいた西村幸七の三男。本名は和作。明治35年彫刻を志して奈良に行くが、左目を病んだため絵画に転向する決意をし、上京して吉嗣拝山に師事して南画を学んだ。しかし、当時の南画界の動向に不信を抱き、大正3年、中国に南画の源流を求めて渡航、北京の金清源、斉白石に師事し、書を王源翁に学んだ。昭和2年には上海に移住し、上海画壇の南画の重鎮・呉昌碩らと交友、昭和5年には上海南画院を創設して南画指南をした。この頃雅号を中国名の「西晴雲」と改めた。中国をしばしば訪れていた徳富蘇峰を知り、大徳寺の雪窓とも親交を結んだ。昭和12年には一時帰国し、大阪大丸百貨店で第1回個展を開催。徳富蘇峰・奥田信太郎(毎日新聞社社長)らによる後援会が発足し、蘇峰が序文を寄せた画集も刊行された。昭和20年、戦争が終結すると中国から帰国し、最大の後援者だったサントリー社長・鳥井信治郎邸内のアトリエで制作を続けた。鳥井の没後は郷里大田市に帰り、西晴雲美術館の開館を間近にしながら、大正4年、81歳で死去した。



木村棲雲(栖雲)(1885-1967)
明治18年能義郡安来町生まれ。呉服店を営んでいた原長蔵の二男。本名は蓮三郎。のちに木村家の養子となった。幼いころから画を好み、実家の商売につながる紋描きを行なっていたが、大正元年地元の有志の援助を受けて画業修業のため京都に出て宮崎竹叢に入門し棲雲と号した。その後、東京に出て小室翠雲に入門、大正5年文展に初入選、以後も文展、帝展に入選するが、大正9年より玉川米井山荘に居を構えて画業に専念し、以後は公募展に出品することをやめた。それからは、全国各地を遊歴し、田能村竹田に私淑し研鑽を積んでは個展を開催するという独自の活動を続けた。昭和15年に玉川上野毛不二草廬に転居した。昭和28年には号を「栖雲」と改め、以後しばしば帰郷し安来や松江、出雲などで個展を開催した。昭和42年、83歳で死去した。



嘉本周石(1889-1976)
明治22年出雲市上島町生まれ。本名は亮。島根師範学校卒業後、画家を志し上京し、森琴石に師事した。大正9年帝展に初入選した。また中国盧山や韓国に渡り研鑽を積み、大正11年に大阪で支那周景70点展、昭和9年には東京で挿花の小原光雲との共同展を催した。昭和20年日本南画院無鑑査の推薦を固辞し、大社町円山荘で無欲枯淡の生涯を過ごした。昭和51年、88歳で死去した。


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12月25日(日)のつぶやき

2016-12-26 | つぶやきまとめ

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12月23日(金)のつぶやき

2016-12-24 | つぶやきまとめ

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早世した逸材・中原芳煙と中央画壇を離れた竹田霞村

2016-12-23 | 画人伝・島根


文献:島根の美術、島根の美術家-絵画編、島根県文化人名鑑、島根県人名事典

邑智郡都賀行村(現島根県美郷町)生まれの中原芳煙(1875-1915)は、東京美術学校日本画科を首席で卒業し、将来を嘱望されながらも病を得て帰郷、中央画壇に戻ることを望みながらも39歳で早世した。また、神戸郡下横村(現出雲市下横町)生まれの竹田霞村(1884-1955)も、東京美術学校日本画科で下村観山に学び秀才の誉れ高かったが、当時の日本画壇間の抗争を嫌い、会派に属さず文展などにも出品することはなく、33歳の時に父の病報を受けて帰郷、以後地元に住み中央画壇に出品することはなかった。

中原芳煙(1875-1915)
明治8年邑智郡都賀行村生まれ。鉄山を経営していた中原源吉郎の二男。本名は佐次郎。島根県第二尋常中学校卒業後、明治29年東京美術学校に入学し、川端玉章に師事した。在学期間、明治32年の美術学校生徒成績品展覧会で一等褒状を受賞、明治33年日本絵画協会第9回連合絵画共進会に出品するなど、美術学校在学中から頭角をあらわした。明治34年東京美術学校日本画科を首席で卒業、島根県立中学校教諭ならびに師範学校教諭に任じられたが、病のため辞職。明治35年第12回連合絵画共進会で一等褒状を受けた。明治37年宮内省に奉職し正倉院御物の整理を担当、明治38年から43年まで大村西崖が設立した審美書院に勤務した。明治40年第5回内国勧業博覧会に出品、ほかに巽画会、美術研鑽会、帝国絵画協会などにも出品した。大正3年結核を患って帰郷し静養につとめていたが、翌4年、39歳で死去した。



竹田霞村(1884-1955)
明治17年神戸郡下横村生まれ。竹田門太郎の長男。本名は豊太郎。別号に水鶏舎、悦々、大愚がある。幼いころから画才に恵まれ、杵築中学校に在学中から逸材と評価された。明治37年東京美術学校に入学し、下村観山に学んだ。在学中から校内水彩画展で第一席となるなど秀才の誉れ高かった。卒業後も観山、川端玉章に師事し制作を続けたが、当時の日本画壇内における旧派、新派間の抗争を嫌い会派に属さず、文展などにも出品しなかった。大正5年、33歳のとき、父の病報をうけて帰郷、その後も郷土で制作を続けたが、中央画壇に出品することはなかった。昭和2年頃、霞村を支持する協力者が集まって高松霞村会が結成され、同会が主催となって出雲市今市の片岡で個展が開催された。さらに、昭和6年に松江市の興雲閣で、昭和29年に高松小学校で個展を開いている。昭和30年、72歳で死去した。


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12月21日(水)のつぶやき

2016-12-22 | つぶやきまとめ

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田中頼璋と島根出身で川端玉章に学んだ日本画家

2016-12-21 | 画人伝・島根


文献:島根の美術、島根の美術家-絵画編、島根県文化人名鑑、島根県人名事典

明治期になると、東京に出て学ぶ島根県出身の日本画家も多く出てくる。田中頼璋(1868-1940)は、はじめ萩に出て森寛斎に学んだが、のちに上京して川端玉章に師事した。明治・大正期を中心に活躍し、川端画学校の教授などをつとめた。写実に基づいた温和な色彩で構成された風景画が多く残っている。ほかに島根県出身の玉章門下としては、池田興雲(1876-1962)、田平玉華(1878-1923)、田平玉華(1878-1923)らがいる。次項に出てくる、東京美術学校日本画科を首席で卒業し、将来を嘱望されながらも39歳で早世した中原芳煙(1875-1915)も川端玉章に師事している。

田中頼璋(1868-1940)
慶応2年石見国木村生まれ。庄屋・田中助佐衛門の二男。本名は大治郎。別号に豊文、豊秋、芳州がある。13歳のころから父について漢書を学び、17歳の時に画家を志して萩に出て森寛斎に師事し、明治35年に上京して川端玉章に入門した。日本美術協会展で受賞を重ねる一方、巽画会審査員、日本画会評議員をつとめ、川端画学校の教授となった。明治40年文展が開催されると出品を続け、入賞、特選を重ね、旧派の実力者として活躍した。帝展の委員をつとめた。また、自宅に天然画塾を開くなど後進の指導にも尽力した。関東大震災後は広島に住み悠々自適の生活を送った。昭和15年、73歳で死去した。

池田興雲(1876-1962)
明治9年松江市雑賀町生まれ。本名は弘。松江修道館卒業後上京して川端玉章の画塾に入った。帰郷後、30年間図画教育に携わった。郷土画壇の長老として活躍した。昭和37年、87歳で死去した。

田平玉華(1878-1923)
明治11年大田市生まれ。大谷津三郎の三男。本名は善蔵。20歳の時に長久町延里の田平常二郎の養子となった。明治32年大田尋常高等小学校の教員となったが、翌年画家を志して上京、川端玉章に入門した。その翌年には日本美術協会展で受賞し、その後も各展覧会で受賞を重ねた。雪景を最も得意とした。東京で10年ほど暮らしたのち、健康を害して帰郷、各地を歩きながら制作に励んだ。大正12年、再上京の夢を抱きつつ45歳で死去した。

三浦玉亭(1881-1926)
明治14年松江生まれ。三浦正祐の三男。はじめ狩野派を学んだが、のちに川端玉章に学んでからは山水画を得意とした。大正15年、死去した。

釈台鞍(1881-1959)
明治14年安来市生まれ。繭仲買商・天野宗右衛門の長男。本名は天野熊市。父の宗右衛門の弟・大三郎は陶芸家・河井寛次郎の父。22歳の時に京都の望月玉泉に入門して玉珖と号した。のちに川端玉章に師事した。昭和34年、78歳で死去した。

内藤玉青(1890-1911)
明治13年松江市天神町生まれ。内藤甚蔵の子。川端玉章に学び、のちに東京美術学校に入学したが、卒業前の明治44年、22歳で死去した。


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12月19日(月)のつぶやき

2016-12-20 | つぶやきまとめ

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天野嗽石と松江の門人

2016-12-19 | 画人伝・島根


文献:島根の美術家-絵画編、島根県文化人名鑑、島根県人名事典

松江に住んでいた天野嗽石(1837-不明)は、小田海僊の門人・近藤桃江に師事し、のちに金子雪操に学んだ。京都、山陽、四国、九州などを遊歴し、四国松山にも一時住んだとされるが、没地などは不明である。松江の門人としては、松江の名士である佐藤愛山(1845-1920)や岡崎雲隣(1850-1919)らが壮年になって入門し、南画を学んでいる。

天野嗽石(1837-不明)
天保8年生まれ。松江宇賀明王院の二男。松江灘町に住んでいた。名は静、字は修郷、初号は燕石、別号に松湖、墨魔居士がある。近藤桃江の門に入り、のちに金子雪操に学んだ。花鳥画を得意とし、明治17年、第2回内国絵画共進会に山水、花鳥を出品している。のちに京都、山陽、四国、九州などを遊歴し、四国松山に一時住んだとされるが、没地などは不明である。

近藤桃江(不明-不明)
名は晃、別号に橘僊がある。松江市天神町生まれ。小田海僊に師事した。のちに長崎の熊斐の画風を慕って長崎に行き門人となった。

中野南涯(1822-1890)
文政5年生まれ。通称は惣造。安来市荒島町の人。天野嗽石に師事した。明治23年、69歳で死去した。

佐藤愛山(1845-1920)
弘化2年松江市白潟本町生まれ。通称は喜八郎、諱は長経、字は伯徳。別号に静古堂がある。明治23年頃に出雲地主農談会を創設して会長となり、のちに貴族院議員に任命された。茶事に通じ、壮年になって天野嗽石の門に入って南画を学び、山水梅花を得意とした。晩年は世事を離れ、画業に専念した。大正9年、76歳で死去した。

岡崎雲隣(1850-1919)
嘉永3年松江市生まれ。通称は運兵衛、字は真清。公共事業に尽力し、明治15年には山陰における最初の新聞だった山陰新聞を勝部氏と創刊した。衆議院議員を数回つとめている。壮年になって天野嗽石の門に入って南画を学び、静渚と号し、のちに長田雲堂の来遊に際してその門に入り雲隣と改号した。山水竹石を得意とした。晩年は政界から退き、画業に専念した。大正8年、70歳で死去した。

金山鴎隣(1863-不明)
文久3年生まれ。通称は常太郎。松江の人。天野嗽石に師事したのち、寺西易堂の娘と結婚したがまもなく離婚し帰郷した。のちに米国に渡って絵画を描いて成功したといわれている。

鈴木雪鱸(不明-不明)
松江の人。天野嗽石に師事した。


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12月16日(金)のつぶやき

2016-12-17 | つぶやきまとめ

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備中から移り住み画塾を開いた塩田銕香と出雲の門人

2016-12-16 | 画人伝・島根


文献:出雲ゆかりの芸術家たち、島根の美術家-絵画編、島根県文化人名鑑、島根県人名事典

備中(岡山県)に生まれた塩田銕香(1850-1889)は、26歳の時に出雲を訪れて以来、この地に住み、画塾を開いて画技の指導をした。このため出雲市近辺では絵画に対する眼識を開いた人が多くなったといわれる。また、明治11年に出雲に逗留していた田能村直入に入門して南画を習得した。門人には大津の板倉米頓、高松の増原松湖、平田の伊藤鴎外、大社の北逸斎らがいる。

塩田銕香(1850-1889)
嘉永3年備中生まれ。塩田荘吉の子。名は瓊、字は楳郷。別号に梅郷がある。石川晃山、守山湘帆に学び、花鳥山水を得意とした。明治8年、26歳の時に簸川郡大津村に遊歴して、門人・板倉米頓家の裏に住み、制作に励むかたわら、画塾を開き地元の人たちに画を教えた。また、明治11年頃に下古志村神田に逗留していた田能村直入に入門し南画を習得した。第2回内国絵画共進会で褒賞を受けたのをはじめ、各地の共進会で受賞した。明治22年、40歳で死去した。

中村銕曹(1841-不明)
天保12年生まれ。塩田銕香に師事した。

田部香雲(1854-1930)
安政元年出雲市大津町生まれ。通称は種次郎。山田勝之助の二男で、飯石郡田部長右衛門の分家に婿として入ったが、のちに大津町に戻った。塩田銕香の高弟とされる。別号に鉄操、田美、遙碧楼主人、白梨紅榴園主人、梨雪があり、晩年には南嶺と改めた。昭和5年、77歳で死去した。

伊藤鴎外(1857-不明)
安政4年生まれ。平田の人。通称は猪一郎。塩田銕香に師事した。

松本芝巌(1865-1920)
慶応元年平田町本町生まれ。通称は善次郎。別号に鬼村外史がある。塩田銕香に学び花鳥を得意とした。明治天皇の銀婚式の際に桐樹に菊花と瑞雲を描いて献上した。四条派的色彩をよく取り入れ、花鳥を得意とした。清貧にあまんじ芸道三昧の生活を送ったという。昭和5年、56歳で死去した。

北逸斎(不明-1887)
簸川郡大社町字流れ下の医師。塩田銕香に師事し、花鳥山水の着色画を描いた。明治20年頃死去した。


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12月14日(水)のつぶやき

2016-12-15 | つぶやきまとめ

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出雲地方に南画鑑賞の土壌を培った田能村直入と出雲の門人

2016-12-14 | 画人伝・島根


文献:島根の近世絵画展島根の美術、島根の美術家-絵画編、島根県文化人名鑑、島根県人名事典

江戸後期になると、出雲・石見地方でも文人趣味の機運が起こり、この地を訪れる南画家を歓心を持って迎え、揮毫を依頼したり、漢詩や南画の指導を受けたりした。尾張の南画家・中林竹溪(1816-1867)は、天保年間に大田市の恒町家に一年余り逗留し、恒町家所蔵の絵画を見聞し、また求めに応じて作品を残している。幕末の三筆として知られる貫名海屋(1778-1863)は、弘化3年から翌年にかけ出雲・石見地方を遊歴し、出雲では知井宮の山本家、石見では宅野の古和家、藤間家や大田の恒松家などに逗留し作品を残している。

明治に入ると、田能村直入(1814-1907)が出雲地方を訪れている。直入は、吉田村の田部家、宍道町の木幡家、横田町の絲原家、仁多町の桜井家など、出雲の名家を歴訪し、この間に出雲の名勝、旧蹟を見聞し作品を残した。中央画壇ですでに著名だった直入を、出雲地方の数奇者は歓迎し、競って画法の指導を受けたという。直入の出雲における足跡は大きく、出雲地方に南画鑑賞の土壌を培ったといえる。

田能村直入(1814-1907)
文化11年豊後国直入郡竹田生まれ。岡藩士・三宮利助の三男。幼名は松太、のちに伝太と改名した。名は癡、字は顧絶。別号に小虎、忘斎、幽谷斎、布施庵、花下直入、竹翁居士、笠翁、小虎散人、青湾漁老、青椀、直入山樵、画仙堂などがある。9歳の時に田能村竹田の門に入り、竹田に見込まれて養子となり田能村姓を継いだ。明治元年京都に移り、明治11年の京都府画学校設立に参加、校長をつとめた。明治24年には南宗画学校を設立し、南画家の育成につとめた。明治29年富岡鉄斎らと日本南画協会を設立、近代京都南画壇の重鎮として活躍した。明治40年、94歳で死去した。

室田湖山(1841-1889)
天保12年生まれ。通称は竹次郎。別号に三楽、東崗がある。松江市内中原町に住んでいた。はじめは古市金峨に師事したが、田能村直入が来遊するとその門に入り、南画に転じた。八雲塗の創始者・坂田平一の作品の図案を作り、また下絵も描いた。八雲塗の創作に最も関係の深い画工だった。明治22年、49歳で死去した。

安部枕山(1851-1911)
嘉永4年生まれ。通称は由左衛門、旧姓は松本。八束郡八束町江島の人。はじめ門脇笛斎、浅井柳塘に学んだが、田能村直入が来遊するとその門に入り、直入に随行して畿内、山陰道を遊歴した。山水を得意とした。明治44年、61歳で死去した。

兼本春篁(1856-1926)
安政3年松江市外中原町生まれ。田能村直入が来遊するとすぐにその門に入り、南画を学んだ。のちに京都北町に移り住んだ。大正15年、72歳で死去した。

福本松鄰(1858-1937)
安政5年安来市荒島町久白生まれ。吉村佐平次の二男で、明治6年荒島町の福本家の養子となった。佐々木蕉雨の影響で画に興味を持ち、田能村直入が来遊した際に入門し、随行して京都に出て2、3年修業した。晩年は茶室の一室をアトリエにして作画を行なった。書画骨董の鑑定も行なった。昭和12年、79歳で死去した。

本田直針(不明-不明)
通称は佐五郎。別号に雲溪、岫雲などがある。田能村直入に師事した。



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