松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま佐賀県を探索中。

諸国を遊歴し多くの門人を残した堀江友声

2016-11-29 | 画人伝・島根


文献:島根の美術、島根の美術家-絵画編、島根県文化人名鑑、島根県人名事典、出雲ゆかりの芸術家たち、出雲の藩主とお抱え絵師・職人展

大原郡大東町に生まれた堀江友声(1802-1873)は、14歳の時に松江に住んでいた狩野派の竹内衡山に入門、衡山の没後は京都に出て狩野派の山本探淵に師事した。また、宋・元・明の諸名家の筆法を研究するとともに、四条派の柴田義董に私淑し画技の研鑽に励み、四条派の画風を装飾的に発展させ、独自の地位を築いた。29歳の時に海北友松の末裔・友徳に請われて養子となり、友徳に代わって海北家を継いだが、家督に関して折り合いがつかず、翌年海北家を離れた。各地を遊歴して画事に勤しみ、多くの門人を残している。

堀江友声(1802-1873)
享和2年大原郡大東町生まれ。森山勇兵衛為春の二男。長じて母方の堀江家を継いだ。幼名は森山善三郎で、のちに善之丞と改めた。字は斧厳、名は精一、初名は豊信。別号に雲峰盛伯、遷喬、豈楽斎などがある。文化12年、14歳の時に松江に住んでいた狩野派の竹内衡山に入門したが、翌年衡山が没したため、文化14年、京都に出て狩野派の山本探淵に師事した。また、宋・元・明の諸名家の筆法を研究するとともに、四条派の柴田義董に私淑して研鑽に励んだ。文政2年帰郷したのち、備後の三次、芸州広島、厳島、讃岐などを遊歴、文政3年京都に出て、文政6年には関東を目指して京都を発ち、濃州岐阜で画事に勤しんでいたとき、郷里の大東が大火に見舞われたため帰郷した。帰郷中に、出雲、伯耆の各地を遊歴、文政10年には長州萩に遊んだ。天保元年、29歳の時に、海北友松の末裔・友徳に請われて養子となり、友徳に代わって海北家の画事に従事した。この時から「友声」の画号を用いている。翌年、家督に関して折り合いがつかず、海北家を離れ、美濃、尾張を遊歴、天保3年帰郷し、出雲各地で画事に勤しんだ。嘉永4年、広瀬藩9代藩主・松平直諒のときに、広瀬藩に召抱えられた。明治6年、72歳で死去した。

堀江友節(1841-1876)
天保12年生まれ。松江藩士・上田理左衛門の子。7歳の時に堀江友声の養子となり、画を学んだ。初名は仲、のちに節と改めた。別号に九皐、得真斎がある。広瀬藩に仕え、慶応元年から江戸勤めとなった。明治9年、36歳で死去した。

堀江有声(1859-1922)
安政6年生まれ。堀江友節の長男。通称は善之丞、字は精英。別号に潜竜斎、清軒がある。祖父・友声、父・友節の教えを受け、かたわら山村勉斎に漢学を学んだ。県立師範学校を卒業して教育に従事したこともある。大正11年、64歳で死去した。

堀江和声(1887-1954)
明治20年生まれ。堀江有声の子。名は清。東京美術学校を卒業後、大正2年に広瀬町に帰って画塾を開いた。花鳥を得意とした。昭和29年、66歳で死去した。

島田英雲(1865-1930)
慶応元年能義郡広瀬町生まれ。通称は幸太郎、のちに常右衛門と改めた。堀江友声に師事した。のちに画事をやめ衣紋書を仕事とした。昭和5年、66歳で死去した。

黒田盛山(不明-不明)
出雲市今市町生まれ。堀江友声の門人。

其白(不明-不明)
姓は不明。出雲国今市の人。堀江友声の門人。

鶴原西獄(1810-1879)
文化7年大原郡大東町西阿用生まれ。医師・鶴原兵衛門の子。名は亀齢。堀江友声に学んだ。のちに京都に出て医術と画を学び、帰郷後は医術のかたわら絵筆をとった。明治12年、70歳で死去した。

小西眉山(1806-1854)
文化3年生まれ。初名は魚比呂、または魚彦、のちに眉山と改めた。神職・吉岡十二代目美濃の五男。幼いころから画を好み、堀江友声に学んだ。23歳の時から京都で3年過ごし、その後各地を旅して画技を磨いた。弘化4年に簸川郡大社町杵築の北島国造の近習となり、小西家に入籍して小西中衛と称した。安政5年、49歳で死去した。

横田鬼巌(不明-不明)
飯石郡三刀屋町の人。通称は祥介。別号に雲峯がある。堀江友声の門人。

上代栄白(不明-不明)
大原郡養賀村の人。通称は豊八郎。別号に九容斎がある。堀江友声の門人。

狩野幽谷(不明-不明)
大原郡大東町新庄の人。通称は庄十郎。堀江友声の門人。

木村青籃(不明-不明)
大原郡大東町の人。通称は忠太郎。堀江友声の門人。

佐藤壽山(不明-不明)
大原郡大東町の人。通称は市蔵。堀江友声の門人。

森山壽静(不明-不明)
大原郡大東町の人。通称は豊太郎。堀江友声の門人。

森山精玉(不明-不明)
大原郡大東町の人。堀江友声の甥。友声に師事した。

森山其声(不明-不明)
堀江友声の兄・忠蔵の長男。堀江友声の門人。松江市天神町に住んでいた。

安部掉月(1819-1851)
文政2年生まれ。通称は常四郎。別号に江濶斎がある。元は大原郡加茂町紅屋の息子だったが、のちに能義郡広瀬町布部の安部氏の養子になった。堀江友声に学んだ。嘉永4年、33歳で死去した。

清水撫玉(不明-不明)
通称は金之助。別号に皎々斎がある。片岡撫陵の門人だったが、のちに堀江友声に師事した。松江市茶町に住んでいた。

大野居巌(不明-不明)
出雲市外園町の人。通称は武一郎。堀江友声の門人。

西山松亭(不明-不明)
出雲市荻杼町の人。医師。堀江友声の門人。

鶴聲(1819-1884)
文政2年生まれ。姓は多田氏と思われる。大社町の人。堀江友声の門人。出雲神宮多田源守彦とした落款のものがある。

原田精山(1844-1910)
弘化元年能義郡広瀬町西比田生まれ。名は啓左衛門。堀江友声の門人。明治43年、67歳で死去した。

黒田椿年(不明-不明)
大原郡加茂町の人。通称は勘十郎。堀江友声の門人。

佐伯鶴友(不明-不明)
堀江友声の門人。履歴は不明。

佐伯景幽(不明-1869)
仁多郡横田町の人。通称は歓一。堀江友声の門人で、京阪地方、高野山の院内で修業した。のちに景文の門人となって画技を磨いた。安政4年法橋に叙された。明治2年死去した。

佐藤応声(不明-不明)
大原郡大東町の人。堀江友声の門人。

舟谷處節(不明-不明)
能義郡広瀬町真宗本派勝源寺の住職。堀江友声の門人。

松平玉峯(1817-1861)
広瀬藩主第九世松平直諒の画号。俳号に沾領がある。画を本多玉岡、堀江友声に学び、書は柳田適斎に学んだ。文久元年、45歳で死去した。


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母里藩御用絵師・長塩雪山と安来の門人

2016-11-25 | 画人伝・島根


文献:島根の美術家-絵画編、島根の美術、島根県文化人名鑑、島根県人名事典、出雲の藩主とお抱え絵師・職人展

松江藩の支藩である母里藩の御用絵師をつとめた長塩雪山(1774-1833)は京都に生まれたが、安来の医師・原氏方に寄宿していた父の近江屋太右衛門を慕い安来に移り住んだところ、原氏の推薦で母里藩の御用絵師となり、大塚村(現・安来市大塚町)に住んだ。住居は元大塚村役場で、書院に面して雪舟風の枯山水が作られ、求めに応じて画を描き、指導をしていたという。画風は江戸後期の京都の影響を受け、墨画山水、著色花鳥、風俗画など、画題、技法ともに多岐にわたり、当時の世情、嗜好をよく物語っている。雪山の画流は子の長塩雪虹(1810-1871)、孫の長塩雪塘(1832-1901)と引継ぎ、門人には下吉田の加藤雪溪、大光寺の山田反山、三島雲嶺らがいる。

長塩雪山(1774-1833)
安永3年京都生まれ。名は義明、通称は喜左衛門。別号に季信がある。雪斎季信の落款もある。俳号は洞川。安来の医師・原氏に寄住していた父・近江屋太右衛門を慕い安来に移り、原氏の推薦によ母里藩の御用絵師となり大塚村(現・安来市大塚町)に住んだ。昭和51年に雪山及びその門流の作品60点を集めて大塚で遺作展が開催された。天保4年、60歳で死去した。

長塩雪虹(1810-1871)
文化7年生まれ。長塩雪山の子。通称は庄蔵。雪山に学びその画風を伝えた。明治4年、61歳で死去した。

長塩雪塘(1832-1901)
天保3年生まれ。長塩雪虹の子。通称は甚太郎。安来市大塚町に住んでいた。父に学び、のちに根本幽峨、狩野勝川院雅信らに随行して山陰を遊歴した。慶応元年母里藩に仕え、明治以降は農業をしながら画を描いた。明治34年、70歳で死去した。

三島雲嶺(1828-不明)
文政11年安来市大塚町生まれ。名は藤四郎。長塩雪山に師事した。各地を遊歴しながら人物花鳥を多く描いた。

探水(不明-1868)
能義郡母里生まれ。仁多郡三沢村に住んでいた。長塩雪山に師事し、人物山水を得意とした。

加藤雪溪(不明-1872)
安来市下吉田生まれ。名は泰三郎。 長塩雪山に師事した。城安寺に身を寄せていたこともあり、安来市・能義郡に多くの作品が残っている。門人に近藤雪嶺、田中雪堂がいる。明治5年死去した。

近藤雪嶺(不明-不明)
能義郡の人。加藤雪溪に師事した。

田中雪堂(不明-不明)
能義郡の人。加藤雪溪に師事した。


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木挽町狩野に学んだ雲州狩野派の画人たち

2016-11-17 | 画人伝・島根


文献:島根の美術家-絵画編、島根県文化人名鑑、島根県人名事典、出雲の藩主とお抱え絵師・職人展

出雲の狩野派は、狩野永雲の画系が途絶えたのち、時代が下って木挽町狩野の狩野伊川院栄信に学んだ飯島雲岳(不明-不明)が御用絵師として文化年間に活躍、雲州狩野派屈指の妙手と称された。また、松江西山家四代の西山英眠(1767-1843)は狩野養川院惟信に、西山家五代の西山孟郷斎(1799-1870)は狩野伊川院栄信に学んで御用絵師をつとめた。幕末になると、松原寛泉斎(1819-1888)や陶山勝寂(1828-1877)が江戸に出て狩野勝川院雅信に学び、弟子たちにその画法を伝えている。

飯島雲岳(不明-不明)
松江雑賀町の人。松江藩御用絵師。通称は助九郎、名は養重。狩野伊川院栄信に師事し、雲州狩野派屈指の妙手と称された。門人に松本晩翠、山岡蒼雪がいる。子の華岳は牧松斎と号して父の画法を伝えた。

松本晩翠(1824-不明)
文政7年生まれ。松江の人。通称は歓吾。飯島雲岳に師事した。

山岡蒼雪(不明-不明)
松江市中原町の人。通称は金堂。飯島雲岳、陶山勝寂に師事した。明治15年頃に死去した。

飯島華岳(不明-不明)
松江の人。通称は忠五郎。飯島雲岳の子。父に画法を学んだ。別号に牧松斎がある。

西山英眠(1767-1843)
明和4年松江生まれ。松江西山家四代。名は惟則。惟次、忠次ともいった。幼名は与三之助、喜助、其太。天明4年に江戸に出て狩野養川院惟信に師事した。別号に養珉、梁珉がある。天保14年、77歳で死去した。

西山孟郷斎(1799-1870)
寛政11年松江生まれ。松江西山家五代。松江藩御用絵師。通称は其太。文政元年江戸に出て狩野伊川院栄信に師事した。松平斉斎に仕え鷹の図をよく描いた。天保10年に藩主から幕府へ献上した屏風の画を描いたことで名高い。明治3年、72歳で死去した。

竹内甫記(不明-不明)
松江の人。竹内春山の父。江戸に出て狩野随川甫信に師事した。随春甫記と号し、法橋に叙せられた。

竹内春山(1743-1817)
寛保2年松江雑賀町生まれ。通称は典隆。竹内甫記の子。別号に白鳳翁、白玉斉、雲君子などがある。狩野栄川院典信に師事した。文化14年、75歳で死去した。

松原寛泉斎(1819-1888)
文政2年八束郡八雲村生まれ。通称は金三郎、のちに称と改めた。名は豊美。米田友次の子で、熊野神社の神官。弘化4年江戸に出て、狩野勝川院雅信に師事した。諸国を遊歴し、嘉永4年に帰郷した。明治15年の第1回内国絵画共進会などに出品した。明治21年、73歳で死去した。

陶山勝寂(1828-1877)
文政11年生まれ。松江藩御用絵師。名は雅純。江戸に出て狩野勝川院雅信に学び、橋本雅邦、狩野芳崖と同窓だった。別号に円々亭がある。門人に石村東秀、山岡蒼雪、神庭松嶺らがいる。明治10年、50歳で死去した。

石村東秀(1828-1872)
文政11年生まれ。通称は良七。松江市雑賀町に住み、旧藩の御板前方をしていた。陶山勝寂に画を学び、華道、茶道にも通じた。明治5年、45歳で死去した。

山岡雲峯(不明-不明)
松江市石橋町に住み、堀江友声、陶山勝寂に師事した。

神庭松嶺(不明-不明)
名は雅義。別号に松齢がある。陶山勝寂に師事した。

陶山雅文(不明-不明)
松江の人。陶山勝寂の子。父の画法を継いた。明治10年の日付で描いた「松江城絵図」が残っている。


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出雲松江藩御用絵師・狩野永雲とその画系

2016-11-14 | 画人伝・島根


文献:島根の美術、島根の近世絵画展、出雲ゆかりの芸術家たち

出雲国では、徳川家康の孫にあたる松平直政が寛永15年に松江に入り、松江藩初代藩主となった。松江藩の絵師としては、直政が越前時代に召抱えられたとみられる大田弥兵衛(不明-1659)が、江戸詰めの松江藩御用絵師をつとめ、その子・狩野永雲(不明-1697)が、二代藩主綱隆に仕えて御用絵師を継いだ。永雲は父に画法を学び、のちに江戸中橋の狩野安信に師事、画技が認められ狩野姓を許され、法橋に叙された。永雲の長男・狩野永玄(不明-1730)も江戸に住み御用絵師をつとめたが、孫の狩野永玄(不明-1730)が江戸で乱心自殺をしたため、永雲の画系は途絶えた。

狩野永雲(不明-1697)
出雲生まれ。本姓は大田氏。名は稠信。父の弥兵衛は松江藩祖・松平直政に仕え御用絵師をつとめた。永雲は父から画法を学び、寛永20年には徳川幕府の御用絵師だった江戸中橋の狩野安信に師事し、画技が認められ狩野姓を許された。寛文7年から松江藩二代藩主・綱隆に仕え、翌年法橋に叙せられた。狩野派の伝統を継いだ堅実な画風で、鷹の図、花鳥画を得意とした。作品は松江市平浜八幡宮の「白鷹図絵馬」や、松江市月照寺の「仏涅槃図」などが残っている。元禄10年死去した。

松平綱隆(1631-1675)
寛永8年江戸生まれ。松平直政の長男。幼名は久松丸。狩野永雲を師として画技を学び、歴代藩主の中でも最も絵画に長じ、鷹の画や仏画を得意とした。松江神社、月照寺に作品が残っている。延宝3年、45歳で死去した。

大田弥兵衛(不明-1659)
狩野永雲の父。生国は不明だが、寛永年間に越前大野において採用されたとされ、松平直政の越前時代に召抱えられたと考えられる。その後江戸詰めの松江藩御用絵師となった。万治2年死去した。

狩野永元(不明-1704)
江戸に生まれ。狩野永雲の長男。名は秋信、大田氏三代。松江藩御用絵師として岩本町に住んだ。宝永元年死去した。

狩野永玄(不明-1730)
狩野永雲の孫。宝永元年家督を継いで松江藩御用絵師になった。享保14年、江戸において乱心自殺したため、永雲の画系は途絶えた。


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フォルム画廊を設立した美術評論家・福島繁太郎と香月泰男

2016-11-10 | 画人伝・山口


文献:戦後洋画と福島繁太郎、山口県の美術

福島コレクションで知られる美術評論家で画商の福島繁太郎(1895-1960)は、東京帝国大学を卒業後、パリに渡りエコール・ド・パリの画家たちと交流、彼らの作品をコレクションするとともに、ワルデマル・ジョルジュを主筆として美術雑誌「フォルム」をパリで刊行した。この間幾度も帰国し、日本の美術雑誌にも評論文を執筆、帝展や二科展に対する辛辣な批評を展開した。10年余りのパリ滞在を終えて昭和8年に帰国した福島だが、その頃にはすでに、既存の美術団体に対する体質批判から、個性ある新人を発掘することへと関心は転じていた。パリで収集家として接した画商たちのように、画家を育てながら世に出していくという生き方を選択したのである。

昭和24年、銀座にフォルム画廊を設立した福島は、開設記念展として山口県出身の香月泰男(1911-1974)の個展を開催した。香月と福島との交流は、昭和9年に香月が国画会に出品した作品を責任推薦で初入選させたことから始まり、パトロンと画家の関係とも、師弟関係ともいうべき関係を継続していた。昭和31年、香月は福島の熱心な勧めで渡欧し、カンヌにピカソを訪ねるなど現存の有力画家と接するとともに、ロマネスク、ゴシックの中世彫刻や絵画を研究した。その体験をもとにライフワークとなる「シベリア・シリーズ」の様式を確立し、以後没するまでシリーズ制作を継続した。

また、香月は東京美術学校藤島武二教室の1年後輩だった同郷の松田正平(1913-2004)を福島に紹介、松田は昭和26年にフォルム画廊で初個展を開催し、その後も同画廊で定期的に個展を続けた。福島は、フランスから帰国後の松田の作品をみてスーティン研究を勧めたという。

香月泰男(1911-1974)
明治44年山口県大津郡三隅村生まれ。幼いころに両親と生別した。小学生のころから画家を志し、川端画学校を経て、昭和6年に東京美術学校西洋科に入学、藤島武二教室に学んだ。在学中、国画会第9回展に出品した「雪降りの山陰風景」が福島繁太郎と梅原龍三郎の責任推薦で初入選し、これを機に福島と梅原との知遇を得た。以後も国画会に出品し受賞を重ねるが、昭和18年に教育召集兵として入隊、旧満州国興安北省ハイラル市に動員されたのち、終戦後にシベリアに抑留され、昭和22年に復員した。帰国後は山口で美術教師をつとめながら、国画会に毎回出品を続け、昭和34年、ライフワークとなる「シベリア・シリーズ」の様式を確立、没するまでシリーズ制作を継続し、昭和44年、このシリーズで第1回日本芸術大賞を受賞した。昭和49年、62歳で死去した。

松田正平(1913-2004)
大正2年島根県鹿足郡青原村生まれ。久保田金平の子。のちに山口県宇部市の松田清一の養子となった。昭和7年東京美術学校西洋学科に入学、藤島武二教室に学んだ。在学中に帝展に初入選し、昭和12年の卒業後は渡仏し、パリに住みアカデミー・コラロッシュで学びながら古典の研究をした。昭和14年の大戦勃発とともに大使館から帰国勧告を受けて帰国、昭和16年から国画会を作品発表の場とし、翌年国画奨学賞を受賞するが、太平洋戦争の戦局が深刻化したために帰郷、昭和21年山口県光市に転居して国画会出品を再開した。昭和26年に国画会会員に推挙され、フォルム画廊で初個展を開いたのを機に再び上京、その後も国画会出品とフォルム画廊での個展を続けた。昭和59年第16回日本芸術大賞を受賞。平成16年、91歳で死去した。


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制作と理論の両面で抽象絵画の可能姓を追及した長谷川三郎

2016-11-08 | 画人伝・山口


文献:山口県の美術近代洋画・中四国の画家たち展

下関に生まれ早い時期に神戸に移り住んだ長谷川三郎(1906-1957)は、東京帝国大学美術史学科卒業後にアメリカ、ヨーロッパを遊学、帰国して本格的な画家活動を開始するとともに、美術雑誌に画論や評論文を発表、制作と理論の両面でいち早く抽象絵画の可能姓を追及した。また、戦前の前衛芸術の一翼を担った二科会の前衛グループ「九室会」で活動した桂ゆき(1913-1991)は、東京生まれだが、父親は下関出身の学者で、昭和55年に山口県立美術館で「桂ゆき展」を開催、平成3年の没年には下関市立美術館で回顧展が催された。

長谷川三郎(1906-1957)
明治39年下関市生まれ。明治43年、三井物産門司支店に勤めていた父・銈五郎の転勤にともない一家は神戸に移り、さらに大正7年には芦屋市に転居した。18歳の時に大阪信濃洋画研究所に通い、小出楢重に師事した。同研究所では、仲間と「白象会」を作り、批評会を開き、文集を発行、中央美術展などに出品した。東京帝国大学文学部美学美術史学科在学中にも白象会の活動を続け、卒業論文は「雪舟研究」をテーマとした。卒業後は、アメリカ、ヨーロッパを3年間遊学し、昭和7年に帰国、同年二科展に初入選し、翌年には滞欧作品による個展を開催するなど本格的な画家活動を開始、同時に美術雑誌に画論や評論文を発表した。昭和9年、村井正誠、山口薫らと「新時代洋画展」を結成、昭和12年にはそのメンバーを中心として自由美術協会を創立し、制作と理論の両面で現代美術の先導者の一人として活躍した。戦争末期には東洋の古典の研究に専心、禅や老荘思想を根幹にした抽象的精神性をフロッタージュや墨象で表現した。それはアメリカの戦後美術の一局面とも一致し、昭和28年、47歳の時にニューヨークで個展を開催、同年、アメリカ抽象美術家協会から展覧会参加の招請を受け、山口長男、村井正誠、吉原治良らと「日本アブストラクト・アート・クラブ」を設立、日米両国で活躍した。昭和32年、サンフランシスコにおいて51歳で死去した。

桂ゆき(1913-1991)
大正2年東京生まれ。本名は雪子。下関出身の冶金学者・桂弁三の五女。池上秀畝に日本画を学び、のちに中村研一、岡田三郎助に師事、アヴァンギャルド洋画研究所でも学んだ。二科会では、同会員による前衛グループ「九室会」の結成に吉原治良、山口長男らとともに参加、女流画家協会設立にも参加した。戦前から紙やコルクを用いた実験的な作品を制作し、前衛美術運動の中心的画家の一人として活躍した。平成3年、77歳で死去した。


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層が薄く散発的な長州の初期洋画家

2016-11-04 | 画人伝・山口


文献:山口県立美術館蔵品目録山口県の美術近代洋画・中四国の画家たち展

明治維新に関わった薩摩、肥前からは日本の近代洋画の初期から形成期にかけて多くの重要な洋画家が出ているが、薩摩とともに明治政府を主導した長州からは、主だった洋画家が出ていない。長州で最も早く油彩画に関わったとされる萩藩士・河北道介(1850-1907)は川上冬崖に学んだが、その後の活動はほとんど知られていない。画塾・彰技堂に学んだ飯田俊良(1856-1938)、中丸精十郎の画塾に学んだ森脇英雄(1865-1950)らも残された資料が少なく、どのような意識で学んだかは定かではない。明治末から大正期にかけて、永地秀太(1873-1942)、桑重儀一(1883-1943)が出たが、初期洋画家の層は薄くて散発的といえる。

永地秀太(1873-1942)
明治6年都濃郡末武北村生まれ。有吉三郎太の二男。山口市の永地三郎の娘と結婚して養子となった。徳山中学校を卒業後、叔父をたよって上京し、松岡寿に入門を試みたが、本多錦吉郎の彰技堂を勧められ入塾した。明治31年、25歳の時に陸軍中央幼年学校の助教となり、大正8年に教授となった。明治35年、29歳の時に明治美術会の後身である太平洋画会の創立に参加、同会が研究所を設立する際には指導者の一員となった。明治42年の第3回文展で褒状を、第7回文展では三等賞を受賞、文展を舞台に活躍した。大正9年から11年まで文部省在外研究員としてフランス、イタリアに滞在し、帰国後は東京高等工業学校の教授となった。昭和17年、69歳で死去した。



桑重儀一(1883-1943)
明治16年玖珂郡川下村生まれ。桑重六助の長男。米国のカリフォルニア州立大学美術科を卒業し、その後渡欧してジャン=ポール・ローランスに学んだとされるが、渡米以前とその時期については詳細はわかっていない。大正2年に帰国した後は太平洋画会の会員となった。大正9年に帝展初入選、帝展改組後は新文展に出品した。昭和18年、60歳で死去した。


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近代絵画としての南画の再生に尽力した松林桂月

2016-11-02 | 画人伝・山口


文献:山口県の美術、防長の書画展-藩政時代から昭和前期まで

松林桂月(1876-1963)は、渡辺崋山や椿椿山の系流につながる野口幽谷に師事し、江戸期以来の崋椿系南画の系統を受け継ぎながらも、近代における南画の有り様を模索し続けた。文展開設後は、大会場に見合うスケールを持った雄大な山水画や花鳥画を発表、文展、帝展、日展で受賞を重ね、昭和33年には文化勲章を受章した。その翌年には日本南画院を結成して会長に就任、近代絵画としての南画の再生に尽力した。ほかに文展、帝展、日展に出品した山口出身の日本画家としては、幼くして叔父の河北道介に油画を学び、のちに野口小蘋に師事した兼重暗香(1872-1946)、狩野派や四条派などの折衷的な画風を確立した伊藤響浦(1883-1960)、松林桂月門下で伝統を生かしながら現代感覚を盛り込んだ西野新川(1912-2008)、堂本印象に師事し日展に出品した澤野文臣(1914-2005)らがいる。

松林桂月(1876-1963)
明治9年萩市生まれ。伊藤篤一の二男。本名は篤。白水尋常小学校を卒業後、阿武郡明木村の役場に就職するが、同村出身の貴族院議員・滝口吉良の援助を受けて上京、19歳で野口幽谷の門に入った。漢学の素養を生かした個性的な画風で、大正・昭和の南画壇で活躍した。大正8年帝展の審査委員となり、昭和12年帝国芸術院会員、昭和19年帝室技芸員となった。戦後も南画界の重鎮として活躍、昭和33年文化功労者となり文化勲章を受章、翌年日本南画院を結成して会長に就任した。萩市内の諸事業に多額の私財を投じたほか、母校の白水小学校に講堂建設費や作品などを寄付し、昭和36年萩市の名誉市民に推挙された。昭和38年、88歳で死去した。

兼重暗香(1872-1946)
明治5年山口市生まれ。本名は梅子。はじめ叔父の河北道介や本多錦吉郎に洋画を学び、その後野口小蘋に学び、日本画に転向。文展、帝展などに出品した。昭和21年、75歳で去した。

中倉玉翠(1874-1950)
明治7年生まれ。橋本雅邦に師事した。はじめ国画玉成会に参加、その後は文展に出品した。昭和25年、77歳で死去した。

伊藤響浦(1883-1960)
明治16年下関市生まれ。別号に陽康がある。山内多門、川合玉堂に師事、美術研究精会、巽画会、二葉会に出品、大正初年からは文展に出品した。大正13年南画に転じた。昭和35年、78歳で死去した。

楢崎鉄香(1898-1959)
明治31年生まれ。名は東策。別号に真如洞がある。橋本関雪に師事し、京都に住んだ。大正から昭和にかけての新しい時代表現を意識した制作をし、帝国展に出品した。昭和34年、62歳で死去した。

西野新川(1912-2008)
明治45年宇部市生まれ。21歳の時に上京し松林桂月に師事、桂月没後は児玉希望に学んだ。戦後は日展を活動の場とした。国画水墨院名誉会長などをつとめた。平成20年、96歳で死去した。

澤野文臣(1914-2005)
大正3年徳山市生まれ。京都絵画専門学校卒業。堂本印象に師事。文展、帝展、日展に出品した。平成17年、90歳で死去した。


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