松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま島根県を探索中。

鯉洋画壇を結成した大楽桃白と光市の門人

2016-10-31 | 画人伝・山口


文献:光市史跡探訪第2集、防長の書画展-藩政時代から昭和前期まで

光市にある早長八幡宮で神官をつとめていた大楽桃白(1884-1953)は、定まった師もなく、南画、北画なんでも描くという巧者だった。絵画論に関しても一家言あり、俳句、和歌、古美術、郷土史などにも通じ、弁舌さわやかだったという。早長八幡宮裏の自宅に同志を集め、絵画の結社「鯉洋画壇」を組織し、「鯉洋会展覧会」をたびたび開き、光市の文化向上に貢献した。

大楽桃白(1884-1953)
明治17年玖珂町生まれ。森脇清次郎の五男。室積早長八幡宮の神官大楽家の養子となった。光井、室積の尋常高等小学校で図画を教えていた。特定の師につかず、南画、北画はもちろん、西洋画の様式も取り入れた作品を描き、文展にも出品した。また、みずから画壇を組織して展覧会を開くなど、絵画をもって郷土の文化向上に貢献した。昭和28年、69歳で死去した。

柳井津誠人(1894-1934)
明治27年光井生まれ。旧姓は渡辺。元光井村長の渡辺貞剛の実兄。はじめ大楽桃白に日本画を学び、のちに小室翠雲の門人となって、日本南画院に出品した。南宗画の山水花鳥を得意とした。昭和9年、40歳で死去した。

伊藤青邱(1894-1969)
明治27年光井生まれ。本名は行馬。はじめ大楽桃白に学び、大正2年に画家を志して上京、小茂田青樹、荒木十畝に師事した。戦後は帰郷して制作を続け、日本美術院に出品した。花鳥を得意とした。昭和44年、75歳で死去した。

梅村香暁(1894-1978)
明治27年大島郡生まれ。京都絵画専門学校卒業。大正のころ室積に住んでいて、大楽桃白と交流した。県立萩高等女学校の美術、書道教師、のちに萩女子短期大学の書道講師をつとめた。昭和53年、84歳で死去した。


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10月28日(金)のつぶやき

2016-10-29 | つぶやきまとめ

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竹田系作品鑑定の第一人者・田中柏陰と門人

2016-10-28 | 画人伝・山口


文献:山口県の美術、防長の書画展-藩政時代から昭和前期まで

竹田系作品鑑定の第一人者としても知られた田中柏陰(1866-1934)は、静岡の漆器商の家に生まれ、17歳で京都に出て田能村直入に師事、竹田・直入の画風を受け継ぎ、濃彩の山水画を得意とした。禅にも興味を示し、黄檗禅を修め、詩文を植木斗南に学んだという。34歳の時に山口防府の田中家を継ぎ、姓を田中に改めた。京都と山口に画塾を開き、多くの門人を育成している。主な門人としては、防府の長松秀鳳、藤井華浦、植木華城、大阪の藤原完堂、京都の田能村竹外、田能村直雙、美濃部舟水、片山丹霞、岡山の三宅丹斎、脇本九年、福山の内藤天来、徳山の藤本木田、藤井小陰らで、春風会という毎年恒例の展示会を開催していた。

田中柏陰(1866-1934)
慶応2年静岡県生まれ。本名は啓三郎。のちに画名を馨、字を叔明。別号に静麓、孤立、柏樹子、柏舎主人、空相居士がある。本姓は中川。明治16年、17歳の時に京都に出て田能村直入に師事し、竹田・直入の画風を受け継ぎ、濃彩の山水画を得意とした。師直入は、柏陰の才能を認め、養子としたが、のちに事情があって本姓に戻したという。明治33年、山口県右田村の大崎の田中家の当主幾太郎の長女と結婚し、田中家を継ぎ姓を田中に改めた。明治末から大正期にかけては、山水写生のため越後、信濃、飛騨など全国各地を歴遊し、朝鮮、中国にも渡り写生をした。京都の柳家画肪、山口防府石田の画禅室、及び海北邨舎という画塾を開き多くの門人を育てた。田能村竹田系の作品鑑定の第一人者としても知られる。昭和9年、69歳で死去した。

植木華城(不明-不明)
防府出身で、田中柏陰に師事した。

長松秀鳳(不明-不明)
防府出身で、田中柏陰に師事した。

藤井華浦(不明-不明)
防府出身で、田中柏陰に師事した。

藤井小陰(不明-不明)
大分県出身で、田中柏陰に師事した。徳山市野上町に住んで、有志に絵の指導をした。


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10月26日(水)のつぶやき

2016-10-27 | つぶやきまとめ

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地質学・植物学を導入して描いた高島北海

2016-10-26 | 画人伝・山口


文献:山口県の美術、下関の人物

萩藩医の家に生まれた高島北海(1850-1931)は、幼いころから画を好み、雪舟や渡辺崋山の画法を研究した。また、西欧文化の影響を受けてフランス語の勉強を志し、地理学の研究もはじめた。28歳の時に内務省地理局に就職、34歳の時にフランスのナンシー森林学校に留学して林学士の資格を得た。この時に、当地のアール・ヌーボーの旗手のひとりだったエミール・ガレと交流を持ち、お互いに影響を与え合ったと思われる。公職を退いた後は、妻の故郷である長府に戻っていたが、52歳の時に画家として出発することを決意して上京、横山大観、下村観山らとともに文展の審査員をつとめるなど中央画壇で活躍した。北海は、山水画に地質学を、植物画に植物学を導入しての制作を方法論として確立、その上で自らの美意識や精神を盛り込んで描いた。特に山岳画を得意とし、山口県の長門峡や石柱溪の風景を全国に紹介した功労者でもある。門人を受け入れることを拒否したとされるが、資料によると宝迫虹汀(1884-1911)、藤田隆治(1907-1965)は北海に師事している。

高島北海(1850-1931
嘉永3年萩生まれ。藩医・高島良台の二男。名は得三。父の良治は文雅を好み、詩書画をよくした。父の感化を受け、北海も幼いころから画に興味を持ち、画法を研究した。明治5年工部省鉱山寮に出任して生野鉱山学校に入り、そこで働いていたフランス人コワニエからフランス語、地質学、植物学などを学び、我が国最初の地質図である山口県の地質図を作成した。明治11年、28歳の時に内務省地理局に就職、明治17年、34歳の時に渡欧し、明治21年までフランスに留学、ナンシー森林学校で学んだ。明治21年長府出身の画家・大庭学僊の長女・光子と結婚、翌年再び渡欧し、帰国後は農商務省につとめた。昭和30年に退職したのちは、妻の故郷である長府で生活していたが、明治35年、53歳のときに画家専業を決意して上京、文展の審査員などをつとめた。晩年は石柱渓や青海島・須佐湾など、山口県内の景勝地を紹介することに心血を注いだ。特に阿武郡川上村などにまたがる渓谷を長門峡と名づけて世に広め、その整備と保護に尽力した。著書に『欧州山水奇勝写生要訳』『北海山水百種』などがある。昭和6年、82歳で死去した。

宝迫虹汀(1884-1911)
明治17年生まれ。野村文挙・高島北海に師事。明治39年日本美術協会展に入選し、宮内省御用作品となる。翌年、日本画会展出品作品を東宮殿下に買い上げられ、その後も展覧会に入選したが、明治44年、28歳で死去した。



藤田隆治(1907-1965)
明治40年豊浦郡生まれ。藤田又太郎の長男。一時大工の見習いをしていたが、16歳の時に下関に帰郷していた高島北海に学び、のちに上京して野田九浦に師事した。昭和9年新しい時代を意識した日本画を追求しようと、吉岡堅二、福田豊四郎らと新日本画研究会を結成、昭和13年には新美術人協会の結成に参加した。創造美術展、新制作展にも出品したが、戦後は個展を中心に発表した。昭和40年、57歳で死去した。


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10月24日(月)のつぶやき

2016-10-25 | つぶやきまとめ

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下関岸家三代の祖・江陵岸賢と防長の岸派

2016-10-24 | 画人伝・山口


文献:山口県の美術、下関の人物、防長の書画展-藩政時代から昭和前期まで

江陵岸賢(不明-1825)は、下関出身でもっとも古い画家とされ、岸賢、岸規、岸明と三代続く下関岸家三代の祖として知られる。「岸」を名乗ったのは、京都の岸派を学んだためで、子の岸規、孫の岸明は、それぞれ下関画壇に名を残している。特に子の岸規は、長府藩御用絵師をつとめ、郷土画家の育成にも強い影響力を持っていた。ほかに防長の岸派としては、岸駒に学んだ長八海(1811-1893)、岸龍山(1816-1889)がいる。また、岸明に学んだ金子鴎雨(1848-1884)、富田壺僊(1849-1898)は、後に豊後の帆足杏雨に入門し、南画に転じた。

江陵岸賢(不明-1825)
通称は梅圃。別号に椿溪がある。実家は南部町でかつお問屋を営んでおり、代々主人は茶屋伝三郎を名乗っていた。南部町の永福寺に残る過去帳では、没年は文政8年の1月とされているが、何歳だったかは不明。岸賢が残した自画像には、七十六歳翁と記されているところから、それ以上生きていたと推測できる。

岸規(不明-1864)
江陵岸賢の子。名は規、通称は隣内。家を継ぎ茶屋伝三郎と名乗った。幼いころから父について画を学び、のちに京都に出て岸岱に師事した。下関岸家三代のうち最も評価が高かったという。元治元年死去した。

岸明(不明-1905)
岸規の子。名は粟治。幼いころから父について画を学んだ。明治38年、82歳で死去した。

長八海(1811-1893)
文化8年平生町生まれ。大野毛利家の家臣。はやくから画家を志し、文政12年京都の岸駒、岸岱の門に入り岸派の画法を学んだ。特に虎画を得意とし、「八海の虎」と称された。明治26年、83歳で死去した。

岸龍山(1816-1889)
文化10年玖珂広瀬生まれ。はじめ菅江嶺に学び、のちに京都に出て岸駒に師事した。岸駒の信頼あつく、娘婿となった。明治23年、74歳で死去した。

金子鴎雨(1848-1884)
嘉永元年丸山町生まれ。紺屋金子亀吉の子。名は兵輔。幼いころから画を好み、10代の初めころ、富田壺僊とともに、当時下関の画家として権威のあった岸明に入門し、閑溪と号した。21歳の時に豊後の帆足杏雨に入門し、号を鴎雨と改めた。豊前の村上仏山に入門して詩文も学んだ。明治17年の第2回絵画共進会に出品するため「水中百魚譜」を制作していたが、完成した日に絵筆を握ったまま絶命、36歳で世を去った。遺作は友人の富田壺僊により出品され二等賞を受賞した。

富田壺僊(1849-1898)
嘉永2年観音崎町生まれ。紺屋富田武左衛門の子。名は宗太郎。父も画をたしなんだことから、幼いころから画を好み、金子鴎雨とともに岸明に入門、壺月と号した。さらに鴎雨とともに、帆足杏雨に師事し、村上仏山に詩文を学んだ。明治17年に鴎雨が突然死去したため、その遺作を内国絵画共進会に出品、自身は画業修業のため全国行脚の旅に出た。40歳の時に下関の戻り、行脚の経験をもとに作品を残したが、明治31年、49歳で死去した。


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10月21日(金)のつぶやき

2016-10-22 | つぶやきまとめ

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森寛斎と山口の門人

2016-10-21 | 画人伝・山口


文献:山口県の美術下関市立美術館所蔵品目録Ⅰ

萩藩士の子として生まれた森寛斎(1814-1894)は、幼年期に、四条派や岸派の画風を学んだと思われる画家・大田龍について画を学び、18歳になると、上坂する藩士に随行し、森徹山に入門したが、事情によりまもなく帰郷、25歳で再入門した。その後、徹山の信頼を得て、表向きには徹山の実子として、実際には森一鳳の弟、つまり徹山の養子となった。徹山没後は、しばらく四国・中国地方を遊歴、この時に南宗画法を習得したと伝えられる。備中倉敷に滞在した際には、野呂介石の門人である三宅西浦と親しく交友し「岩石の皴や山峰の脈胳」などの描き方を参考にしたという。幕末には、長州人として同郷の山県有朋や品川弥二郎ら尊皇攘夷派と交わり、幕吏の眼をかわし、京都の事情を長州に伝えるべく、京都と長州の間をしばしば往復した。画家としての身分や表向きには徹山の実子であったことなどが隠れ蓑となったという。この間も、積極的な作画を展開しており、四国琴平の金刀比羅宮表書院の応挙の襖絵を修復し、安政の御所造営の際には杉戸絵揮毫に参加した。また、現在山口県立美術館所蔵の一連の写生画類のほとんどが、この幕末期に描かれたものである。明治維新以降は、「如雲社」の中心人物として活躍、さらに各展で受賞を重ね、帝室技術員制度が発足した際には帝室技室員に推されるなど、京都を代表する画家となった。後進の育成にも尽力し、山元春挙、野村文挙らを育てた。山口の門人としては、巌島虹石、田総百山がいる。

森寛斎(1814-1894)
文化11年萩生まれ。萩藩士・石田傳内道政の三男。幼名は幸吉、諱は公粛、字は子容。別号に桃蹊、晩山、寛仲などがある。幼いころから画を好み、12歳の時に萩の画家・大田龍に入門。18歳の時に大坂に出て円山応挙門下の森徹山に入門したが、事情によりまもなく帰郷、その後本格的に徹山に師事するようになったのは25歳の時だった。わずかな時間で徹山の信用を得て養子となった。幕末は長州の尊皇攘夷派らと交流するかたわら、画業も積極的に展開し、安政2年、御所造営に加わり常御殿西縁座敷南の杉戸に「帰去来」「赤壁」を描き、安政6年には金刀比羅宮表書院の円山応挙の襖絵補修に携わった。明治維新後は、京都在住の画家たちが画塾をこえて集まった画家団体「如雲社」(のちの京都後素協会)の世話役をつとめ、明治10年の塩川文麟の没後は、実質的に寛斎がこの如雲社の中心人物となった。明治14年内国勧業博覧会で三等妙技賞を受賞、明治15年の第1回内国絵画共進会で銀賞で受賞した。明治23年、第3回日本美術協会展で特別を受賞、この年に帝室技術員制度が発足、推されて帝室技室員となった。明治27年、81歳で死去した。

巌島虹石(1869-1903)
明治2年光市島田生まれ。はじめ立野の難波覃庵に南画を学び、のちに京都の森寛斎に師事した。別号に公貫、子敏、乾山、巌州、志芸遠、鶴羽山などがある。絵画共進会や美術展覧会に出品して受賞したが、不慮の事故がもとで病気がちとなり帰郷、明治36年、34歳で死去した。

田総百山(1871-1953)
明治4年萩生まれ。京都の森寛斎に学び、のちに東京に出て橋本雅邦に師事した。その後は、岐阜、三重、萩などで教鞭をとった。昭和28年、83歳で死去した。


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10月19日(水)のつぶやき

2016-10-20 | つぶやきまとめ

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大庭学僊と門人

2016-10-19 | 画人伝・山口


文献:山口県の美術、下関の人物、防長の書画展-藩政時代から昭和前期まで、下関市立美術館所蔵品目録Ⅰ

大庭学僊(1820-1899)は、徳山に生まれ、11歳の時に徳山藩御用絵師・朝倉南陵に師事、18歳の時に京都に出て、下関出身の小田海僊のもとで画技をみがき、海僊の養子となった。学僊は、師の小田海僊がたどった四条派から南画への流れとは逆に、南画から四条派へと進み、さらに浮世絵を含めた諸派を学び、明治になって南北合法を標榜するようになった。明治21年に竣工した明治宮殿の杉戸絵制作では、全国から人選された画家27人の中に、柴田是真、川端玉章、荒木寛畝らとともに選ばれ、「桂花」「花菖蒲」など4点の杉戸絵を描いた。その後も、内国勧業博覧会や日本美術協会展で受賞を重ね、明治日本画壇で活躍した。娘の美津(光子)は高島北海(1850-1931)に嫁いだ。門人の坂原五行(1871-1941)は、下関に移り住み、画会を主宰して後進の指導にあたった。

大庭学僊(1820-1899)
文政3年徳山生まれ。刀鍛冶三吉与次兵衛の二男。三好家は安芸の出身で與次兵衛の代に徳山に移り住んだ。名は百合吉。幼いころから画を好み、11歳で徳山藩絵師・朝倉南陵に学び、南江と号した。この頃、遠石八幡宮に奉納する額絵を、師の南陵に代わって完成したというピソードも残っている。15歳の時に、谷文晁の門人と称する原文暉に師事、18歳になって京都の小田海僊の門に入った。海僊からはその才能を認められ、30歳ごろに養子となったが、のちにこれを辞して徳山に帰った。さらに萩に転居して、洞春寺の寺僧大庭氏の名跡を譲り受け、大庭学僊と名乗った。明治維新後は、活躍の場を東京に求め、明治5年53歳のときに上京した。明治10年と14年の内国勧業博覧会に出品、褒賞を受賞、明治21年に竣工した明治宮殿の杉戸絵制作では、全国から人選された画家27人の中に選ばれるなど、次第に頭角をあらわし、明治画壇で活躍した。生涯を通じて質素な生活を送り、大徳寺管長・是性宗般師とも親しく交友し、淡泊庵無徳とも号して仏の道にも深く帰依した。晩年はほとんで下関の田中町の自宅で過ごし、明治32年、80歳で死去した。

坂原五行(1871-1941)
明治4年田布施生まれ。名は六三郎。高瀬家から坂原家の養子となり下関に移り住んだ。大庭学僊に師事し、画会「五行会」を主宰し後進の指導にあたった。昭和16年、71歳で死去した。

対馬白龍(1904-1984)
明治37年生まれ。近藤樵仙・坂原五行に師事した。昭和30年下関日本画会を設立、下関で日本画の指導にあたった。昭和47年には下関市教育功労賞を受賞した。昭和48年日本表象美術協会の創立に常務理事として参加、昭和54年には日本清興美術協会の創立に参加して会長をつとめた。昭和59年、79歳で死去した。


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10月17日(月)のつぶやき

2016-10-18 | つぶやきまとめ

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小田海僊と防長の門人

2016-10-17 | 画人伝・山口


文献:山口県の美術、防長人物誌、防長の書画展-藩政時代から昭和前期まで

周防国富海に生まれた小田海僊(1785-1862)は、京都に出て四条派の松村呉春に学び、松村景文や岡本豊彦と名声を競ったが、頼山陽から絵に品格がないと指摘されたことから、学問を積み、中国の元・明の古画を独学で研究、南画家として一家をなした。萩藩から一代絵師に召し出され、江戸に出た際には、市河米庵らと親交を結び、米庵所蔵の書画から多くのものを学んだいう。2年後に京都に戻り、同時代の文人、頼山陽、菅茶山、小石元瑞、広瀬旭荘、画家の田能村竹田、浦上春琴らと交友、江戸末期には中林竹洞、貫名海屋らに並ぶ、京都を代表する南画家と称されるようになった。防長の門人としては、大庭学僊、山中月洲、羽様西崖らがいる。

小田海僊(1785-1862)
天明4年佐波郡富海生まれ。下関の新地町で染物屋を営んでいた小田屋仙右衛門の養子。幼名は良平。別号に巨海、南豊、百谷がある。萩藩御用絵師。幼いころから画を好み、22歳の時に下関出身の医師・永富独嘯庵をたよって京都に出て、四条派の松村呉春に学んだのち、頼山陽の影響で、中国の元・明の古画を独学で研究、南画家として一家をなした。京都では多くの文人たちと交友し、特に頼山陽とは、親しく交わり、画の制作のうえでもいろいろな影響を受けた。文政元年、頼山陽らと西遊の旅で出て、日向、薩摩、長崎に滞在、この際に直接中国画を研究したと思われる。文政7年萩藩から一代絵師に召し出され江戸に出た際、市河米庵らと親交を結び、米庵所蔵の書画から多くのものを学んだ。文政9年には藩から京都居住を許され、再び京都で活動、同時代の文人や画家らと交友し、江戸末期の京都を代表する南画家となった。晩年は鴨川の東、聖護院村に画室を構えた。文筆にも優れ『画譜十八描法』『図画題合壁』などの著書がある。文久2年、78歳で死去した。

山中月洲(1826-1896)
文政9年中之町生まれ。畳屋平三郎の子。名は父と同じ平三郎。15歳の時に、当時下関で岸派の画家として名が知られていた江陵岸規について学び、23歳の時に京都に出て、小田海僊に師事した。下関に帰ってからは、北前船問屋などの注文に応じて襖絵などを描いた。明治29年、70歳で死去した。

羽様西崖(1811-1878)
文化8年生まれ。名は師古、字を不欺。萩藩御用絵師。幼いころから画を好み、はじめ出雲の雲鳳に写生を学び、さらに岸派に、そして小田海僊に師事した。山水人物花鳥いずれも得意とした。明治11年、68歳で死去した。

広洞仙(1818-1881)
文政元年生まれ。京都に出て小田海僊に学んだとされる。梅花、鯉の絵を得意とした。明治14年、64歳で死去した。

大野葭洲(不明-1872)
吉敷郡嘉川の人。はじめ菅江嶺に、のちに小田海僊に学んだ。明治5年死去した。


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10月15日(土)のつぶやき

2016-10-16 | つぶやきまとめ

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周防徳山藩御用絵師・朝倉南陵と徳山の画人

2016-10-15 | 画人伝・山口


文献:山口県の美術、防長人物誌、防長の書画展-藩政時代から昭和前期まで

朝倉家は五代続いた周防徳山藩御用絵師の家系で、朝倉南陵(1757-1844)はその四代にあたる。初代繁経は、表具師として徳山藩に召し抱えられ、雲谷派の雲谷等恕に学んで、等収を名乗った。繁経の長男である二代友信は、雲谷等全に学んで等月を名乗り、父を手伝い家督を相続したが、二男の不祥事のため朝倉家は一時断絶した。友信の没後に長男の友明が雲谷等徴に学んで等栄の名を許され、朝倉家を再興させたが、その翌年友明は死去した。友明の没後、親族らによって養子に迎えられたのが朝倉家四代となる朝倉南陵である。南陵が御用絵師をつとめた寛政年間には、伊能忠敬による全国の測量事業が始まっており、南陵は、文化年間にかけて領内絵図の作成に専心するとともに多くの作品を残した。画風は、雲谷派風、円山派風、南画風とさまざまな画派の影響がみられるが、晩年に描いた南蘋風のものに優作が多い。南陵のあとは、三男の朝倉震陵(1798-1871)が継いだ。ほかに徳山の画人としては、田能村竹田系の南画家である上田田単(1830-不明)がこの地に永く住み、多くの作品を残し、津本柳塘(1854-1939)らの門人を育てている。

朝倉南陵(1757-1844)
宝暦6年生まれ。徳山藩御用絵師。徳山藩浪人阿武六郎左衛門晴俊の長男。幼名は喜代槌、通称は銀之丞、のちに湖内。明和4年徳山藩御用絵師朝倉友明家に養子に入り、安永元年、雲谷等徴・等竺に師事して画技の基礎を身に付け、安永3年には雲谷家より等遠(のちに等圭)と号することを許された。その後の10年あまりの消息は明らかでないが、天明5年には江戸に出て雲谷派以外の画風を本格的学ぶ機会を得て、翌年南蘋派の岩井江雲について学び、江雲より「江雪」の号を許された。江戸からの帰郷後、天明8年には、萩の雲谷等竺のもとで画技をみがいた。天保14年、87歳で死去した。

朝倉震陵(1798-1871)
寛政10年生まれ。徳山藩御用絵師。朝倉南陵の三男。名は直逞、通称は三郎、喜作、八代吉、牧太、奇石軒。画を雲谷等徴に学び、のちに江戸に出て谷文晁に師事した。徳山に帰ってからは、父南陵の画業を手伝い、天保2年家督を相続した。天保9年から震陵と名乗り、天保13年雲谷家より等☆(☆は「燐」の「火」を「王」に)の名を許された。元治元年に退隠、明治4年、74歳で死去した。

上田田単(1830-不明
天保元年生まれ。別号に李壮之、北竹山人がある。田能村竹田に師事し、永く徳山に住んでおり、周南地区には多くの作品が残っている。門人に津本柳塘がおり、藤本木田も私淑したとされる。

津本柳塘(1854-1939)
安政元年徳山生まれ。名は庄兵衛。別号に吐墨庵、得山居士などがある。徳山に滞在していた上田田単に師事した。各地を遊歴し、小室翠雲らとも交友した。晩年は徳山に帰った。昭和14年、86歳で死去した。

藤本木田(1895-1987)
明治28年香川生まれ。田中柏陰に師事し、上田田単にも私淑したと伝わる。永く徳山に住み、作画と門弟の指導にあたった。周南地区に師事した者が多い。昭和62年、92歳で死去した。

奥田蘭雪(1832-1893)
天保3年生まれ。徳山藩士。幼いころから画を好み、柳田雲屋に学んだ。江戸邸に勤務の際には、津和野藩士で南画家の山本琴石の指導を受け、花鳥を得意とした。明治26年、62歳で死去した。

伊藤石僊(1862-不明)
文久2年生まれ。周防の南画家として知られ、森琴石の門人と思われる。

中村瑛舟(1890-1952)
明治23年新南陽市福川生まれ。大阪で四条派の深田直城に学び、花鳥を得意とした。昭和12年頃に徳島に移り住んだ。昭和27年、63歳で死去した。


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