松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま島根県を探索中。

9月29日(木)のつぶやき

2016-09-30 | つぶやきまとめ

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靉光と戦前の広島の洋画家

2016-09-29 | 画人伝・広島


文献:近代洋画・中四国の画家たち展、広島洋画の粋

美術文化協会の設立に参加し、昭和10年代の前衛運動を担った靉光(1907-1946)は、戦時下に体制に順応していった美術文化協会を離れ、新しい活動の場として新人画会を結成したが、翌年には召集を受け、終戦後、上海で死去した。靉光とともに広島の印刷所で働いていた野村守夫(1904-1979)は、戦後の二科会の中心人物として活躍、灰谷正夫(1907-1990)は昭和10年帰郷し、山路商(1903-1944)らと広島フォルム美術協会を結成した。広島における前衛美術運動の指導者だった山路は、治安維持法で長期拘束され、終戦の前年に死去、昭和20年広島を襲った原爆では岩岡貞美(1913-1945)が死去した。戦後になると、坊一雄(1890-1948)、宇根元警(1904-1970)らが帰郷、片山公一(1910-1969)、北川実(1908-1957)も復員した。北川は府中造形美術協会を立ち上げ、靉光とともに美術文化協会の創立に参加した柿手春三(1909-1993)は、野村守夫らとともに広島美術家連盟を結成、復興を目指す活動は各地で進んだ。

靉光(1907-1946)
明治40年山県郡壬生町生まれ。本名は石村日郎。野村守夫、灰谷正夫と同じ印刷所で働いた。はじめ大阪に出て天彩画塾で学び、このころから靉川光郎、靉光と名乗るようになった。大正13年東京に出て、太平洋画会研究所で学び、二科展や1930年協会展などに出品した。研究所では松本竣介や麻生三郎との交友が始まった。昭和13年独立展で独立賞受賞。戦局の進展にともない、創立に参加した美術文化協会が体制に順応していったため、昭和18年、新しい活動の場として新人画会を結成したが、翌年には召集を受け、終戦後の昭和21年、上海兵站病院において38歳で死去した。

野村守夫(1904-1979)
明治37年広島市生まれ。靉光、灰谷正夫と同じ印刷所で働いていたが、大正末期になると三人は相前後して上京し、野村は川端画学校で藤島武二に学んだ。昭和2年二科展に初入選、以後も同展で活動、常任理事をつとめた。昭和48年日本芸術院賞恩賜賞を受賞。昭和54年、75歳で死去した。

灰谷正夫(1907-1985)
明治40年高田郡吉田町生まれ。靉光、灰谷正夫とともに勤務していた広島市内の印刷所では、図案工、石版工として働きなから画家を目指し、大正15年に上京した。昭和4年1930年協会展に初入選、昭和6年二科展に初入選、昭和10年に帰郷した。戦後は自由美術展や二科展を中心に発表した。昭和60年、79歳で死去した。

山路商(1903-1944)
明治36年新潟県長岡市生まれ。大正9年広島市に移住。昭和4年二科展に初入選。翌年、写実派洋画連盟を結成。昭和7年広島洋画協会の結成に参加。昭和13年には灰谷正夫らと広島フォルム美術協会を結成し、広島の前衛美術家の主導者として活躍した。昭和19年に特高に検挙。同年、42歳で死去した。

柿手春三(1909-1993)
明治42年双三郡三良坂町生まれ。昭和3年に上京し太平洋画会研究所に学び、その後川端画学校に入った。池袋のアトリエに住み、靉光、井上長三郎、鶴岡政男、寺田政明らと交友した。昭和14年の美術文化協会の創立に参加したが、翌年身体を壊し帰郷した。以後は広島県内で教鞭をとった。昭和30年、広島平和美術展の創立に参加。戦争や核問題、環境問題などをテーマに描いた。平成5年、84歳で死去した。

国盛義篤(1897-1951)
明治30年山県郡千代田町生まれ。大正12年京都絵画専門学校を卒業。まもなく洋画に転向した。大正13年春陽会展に初入選、昭和9年に会員に推挙され以後も同展で活動した。昭和26年、54歳で死去した。

小早川篤四郎(1893-1959)
明治26年広島市生まれ。幼いころに台湾に移住し明治末期に帰国した。大正初期に上京、本郷絵画研究所に入り、岡田三郎助に師事した。大正14年帝展に初入選、以後も同展に出品した。昭和8年第1回東光展に出品、以後同展にも出品した。戦中は従軍画家として上海などをまわった。昭和34年、66歳で死去した。

小林和作(1888-1974)
明治21年山口県倉敷郡生まれ。大正2年京都市立絵画専門学校を卒業。大正期に洋画に転向するため上京、梅原龍三郎、中川一政、林武らに師事した。大正13年春陽会展に出品するが、昭和9年同会を退会して、独立美術協会会員となった。同年尾道に移住、終生中央を離れ尾道で暮らし、自ら民衆画家と称した。昭和28年芸術選奨文部大臣賞を受賞した。昭和49年、86歳で死去した。

小林徳三郎(1884-1949)
明治17年福山市生まれ。幼いころに上京し、明治42年東京美術学校を卒業。大正元年ヒュウザン会の創立に参加。大正12年第1回春陽会展に出品し、大正15年会員に推挙され以後も同展で活動した。昭和20年、箱根・強羅に疎開、昭和24年に帰京したが、同年、66歳で死去した。

岩岡貞美(1913-1945)
大正2年広島市生まれ。昭和10年独立展に初入選、以後も独立展に出品した。将来を嘱望されたが、昭和20年被爆し、33歳で死去した。

池田快造(1911-1944)
明治44年三原市生まれ。昭和6年上京し、東京美術学校に入学、藤島武二の指導を受け、在学中から光風会展に出品した。昭和15年病気療養のため帰郷して制作活動を行なっていたが、昭和19年、33歳で死去した。

坊一雄(1890-1948)
明治23年三原市生まれ。大正6年東京美術学校卒業。昭和2年渡仏し、サロン・ドートンヌなどに出品、昭和3年にはフランスから作品を送り帝展に入選した。昭和5年に帰国、大阪を拠点に活動した。昭和23年、59歳で死去した。

宇根元警(1904-1970)
明治37年呉市生まれ。昭和初期に上京し清水登之に師事、靉光、野村守夫らと交友した。昭和15年に独立展で独立賞を受賞、昭和23年に会員に推挙され、以後も同展に出品しながら呉や広島で活動した。昭和45年、66歳で死去した。

北川実(1908-1957)
明治41年広島県府中市生まれ。大正末期に上京。靉光や鶴岡政男らと交友し、野間仁根に師事した。昭和11年二科展に初入選、以後も同展で活動した。昭和20年帰郷し、府中造形美術協会を結成。昭和27年頃に広島を離れ、昭和32年、50歳で死去した。

片山公一(1910-1969)
明治43年福山市生まれ。昭和6年第1回独立展に出品、翌年上京、中山巍、小林和作、田中佐一郎に師事した。昭和23年独立賞を受賞し、昭和26年に会員に推挙され、その後も独立展で活動した。昭和44年、57歳で死去した。

福井芳郎(1912-1974)
明治45年広島市生まれ。昭和3年帝展に初入選。昭和6年に大阪美術学校を卒業して帰郷、広島洋画研究所を開設した。昭和7年広島洋画協会の結成に参加。昭和11年広島の洋画グループ二紀会の結成に参加。戦後は「ヒロシマの怒り」「黒い雨」など原爆記録画を制作した。昭和32年新協美術会の創立に参加。昭和49年、62歳で死去した。


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9月26日(月)のつぶやき

2016-09-27 | つぶやきまとめ

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広島洋画の先駆者・小林千古

2016-09-26 | 画人伝・広島

文献:近代洋画・中四国の画家たち展、広島洋画の粋

広島に初めて本格的な洋画をもたらした人物として小林千古(1870-1911)があげられる。千古は、出稼ぎ労働者として渡米し、苦学してサンフランシスコの美術学校を卒業、さらにヨーロッパにも遊学し、黒田清輝、岡田三郎助、中村不折らと交友した。帰国後は白馬会展に出品し、注目を集めるが、病のため41歳で死去した。千古の広島での活動は、帰国してから上京するまでの短期間だったが、その間、広島市内に画室を設け、洋画の指導を行なった。この画室からは千古唯一の弟子とされる吉岡満助(1889-1945)が出ている。吉岡は広島で最初の絵画研究所を開き、大正・昭和の広島画壇で活躍した。この吉岡の門からは女性画家の先駆者・中谷ミユキ(1900-1977)らが出ている。また、のちに広島出身の代表画家となる南薫造(1883-1950)も、画学生のころ、師である岡田三郎助の紹介で千古の画室を訪ね影響を受けたという。早世した千古が広島で活動した期間は短いが、のちの広島画壇の洋画家たちに与えた影響は大きなものだった。

小林千古(1870-1911)
明治3年広島県佐伯郡地御前生まれ。名は花吉。明治24年から6年間、カリフォルニア・デザイン学校(のちにマーク・ホプキンス美術学校)に学び、明治29年には同校コンクールの素描の部で優等ブラウン・メダルを獲得、卒業前年には160点の作品により個展を開催した。明治31年に帰郷したが、募る向学心をおさえられず、わずか5カ月の広島滞在で欧州遊学を目指して旅立った。まず、費用を捻出するためにハワイに渡り、肖像画を描きながら渡航費を得て、パリに着いたのは明治33年だった。パリでは、黒田清輝、岡田三郎助、中村不折らと親交をもち、欧州の名画を参考に研鑽に励んだ。明治36年に帰国、2年後の白馬会創立10年記念絵画展に出品、アメリカで学んだとう物珍しさもあり、新聞・雑誌などに取り上げられ注目された。明治40年に東京府勧業博覧会に出品した「誘惑」は、青木繁の「わだつみのいろこの宮」とともに場内最高の値段がつき、評判は高かったが、受賞には至らなかった。明治41年病いのため帰郷、明治44年、41歳で死去した。

中谷ミユキ(1900-1977)
明治33年広島市生まれ。はじめ故郷で吉岡満助に学び、昭和5年帝展に初入選。翌年上京して岡田三郎助に師事した。昭和12年光風会展に初入選。翌年、靉光、宇根元警らと広島芸術協会を結成した。戦後は女流画家協会の創立に参加、同展や二紀展を中心に活動した。昭和52年、78歳で死去した。

南薫造(1883-1950)
明治16年豊田郡安浦町生まれ。明治35年上京して東京美術学校西洋科に入学、フランス留学を終えたばかりの岡田三郎助に学んだ。在学中に師の岡田の紹介で、留学経験のある同郷の小林千古の画室を訪ねている。明治40年東京美術学校を卒業し、イギリスに留学。ロンドンではサウス・ウェスト・ポリテクニックカレッヂに入学、ボロー・ジョンソンに師事し、油絵、水彩画を学んだ。イギリスでは白滝幾之助、富本憲吉、高村光太郎らと交友した。ロンドンで2年過ごし、フランスに移り、イタリア各地をまわり、3年間の留学を終えて、明治43年帰国、同年第4回文展で三等賞を受賞した。以後も文展、帝展、新文展、日展を舞台に活躍、受賞を重ねた。大正2年日本水彩画会の創立に参加、昭和4年帝国美術院会員、昭和19年帝室技芸員となった。戦時中は広島県に疎開したが、再び上京することなく、昭和25年、66歳で死去した。

広島(15)-ネット検索で出てこない画家


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9月25日(日)のつぶやき

2016-09-26 | つぶやきまとめ

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9月24日(土)のつぶやき

2016-09-25 | つぶやきまとめ

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9月23日(金)のつぶやき

2016-09-24 | つぶやきまとめ

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近・現代の中央画壇に大きな影響を与えた広島出身の日本画家

2016-09-23 | 画人伝・広島

文献:広島日本画の系譜

大正・昭和期になると中央画壇で独自の活動をする広島出身の日本画家が出てくる。高田郡生まれの児玉希望(1898-1971)は、写実に基礎をおきつつ、古画や洋画の手法も取り入れ多様な作品を発表、広島で日本画を目指す若者に大きな影響を与えた。希望の遠縁にあたる奥田元宋(1912-2003)は、19歳で希望の門に入り、独自の心象風景を確立、日展の重鎮として活躍した。元宋や広島の洋画家とも交流、異色の活動をした丸木位里(1901-1995)は、「原爆の図」で世界的に名を知られている。また、日展と共に日本画の二大団体である院展では、奥村土牛に師事した塩出英雄(1912-2001)、前田青邨に師事した山中雪人(1920-2003)・水谷愛子(1924-2005)夫妻らが同人として活躍、さらに、東京芸術大学学長、日本美術院理事長を歴任し、文化勲章を受章した、現代日本画壇を代表する日本画家のひとり、平山郁夫(1930-2009)が出る。

児玉希望(1898-1971)
明治31年高田郡来原村生まれ。名は省三。大正7年、上京して川合玉堂に師事、下萌会に所属した。大正10年帝展に初入選。昭和25年、伊東深水らと日月社を結成した。昭和28年日本芸術院賞を受賞、昭和33年日本芸術院会員、昭和36年日展常任理事となった。昭和46年、72歳で死去した。

奥田元宋(1912-2003)
明治45年双三郡八幡村生まれ。名は厳三。昭和5年上京、遠縁にあたる児玉希望の内弟子となった。昭和11年文展監査展で初入選。広島出身の洋画家・靉光らと交流した。昭和25年児玉希望、伊東深水らの画塾生を中心とした日月社に参加。昭和37年新日展で文部大臣賞、昭和38年日本芸術院賞を受賞。昭和48年日本芸術院会員、昭和52年日展理事長、昭和56年文化功労者となり、昭和60年文化勲章を受章した。平成15年、90歳で死去した。

三上巴峡(1913-1985)
大正2年三次市生まれ。名は博。中学卒業後、児玉希望の内弟子となった。昭和11年文展鑑査展で初入選。以後日展に出品、新日展で特選となる。日月社に参加。昭和60年、71歳で死去した。

丸木位里(1901-1995)
明治34年安佐郡飯室村生まれ。大正12年上京して田中頼璋の天然画塾で学ぶが、関東大震災で帰郷。昭和9年再度上京し明朗美術研究所で学び、日本南画院展、青龍社、歴程美術協会展、美術文化展などに出品。昭和20年被爆直後に広島に入り、昭和25年の第3回日本アンデパンダン展に「八月六日(原爆の図第1部幽霊)」(丸木俊と合作)を出品、以後、原爆の図シリーズは完成とともに順次公開した。昭和28年国際平和文化賞ゴールド・マダルを受賞、「原爆の図」は世界を巡回した。平成7年、94歳で死去した。

船田玉樹(1912-1991)
大正元年呉市生まれ。名は信夫。昭和7年、広島洋画研究所で山路商に油彩を学び、同年上京して番衆塾に学んだ。昭和9年速水御舟に師事、御舟没後は小林古径の門に入った。昭和11年院展に初入選。昭和13年日本画の革新を目指して岩橋英遠、山岡良文らと歴程美術協会を結成した。昭和38年院展を離れて新興美術院理事となり、その後退会して無所属となった。平成3年、78歳で死去した。

塩出英雄(1912-2001)
明治45年深安郡福山町生まれ。昭和6年、帝国美術学校で山口蓬春、平福百穂、川崎小虎らに学び、のちに奥村土牛に師事した。昭和12年院展に初入選。院展で受賞を重ね、昭和35年同人に推挙された。平成13年、88歳で死去した。

山中雪人(1920-2003)
大正9年広島市台屋町生まれ。昭和11年上京し、翌年川端画学校に入学、昭和13年に東京美術学校に入学して、結城素明、川崎小虎らに師事した。昭和22年同郷の日本画家・水谷愛子と結婚し、横浜に新居を構え、中島清之に師事、昭和26年からは前田青邨に師事した。昭和31年院展に初入選。以後院展で受賞を重ね、昭和61年同人に推挙された。平成15年、83歳で死去した。

水谷愛子(1924-2005)
大正13年広島市南区生まれ。昭和19年女子美術専門学校卒業、山中雪人と結婚し、夫とともに中島清之、さらに前田青邨に師事した。昭和30年院展初入選。以後院展に出品、日本美術院賞などを受賞し、平成12年同人に推挙された。平成17年、80歳で死去した。

平山郁夫(1930-2009)
昭和5年豊田郡瀬戸田町生まれ。昭和20年学徒動員先で被爆、その後も後遺症に悩まされた。昭和27年東京美術学校を卒業し、前田青邨に師事した。昭和28年院展に初入選。昭和31年院展にのちに出世作と称される「仏教伝来」を出品した。以後院展で受賞を重ねた。平成元年に東京芸術大学学長、平成6年に文化財保護振興財団理事長、平成8年に日本美術院理事長に就任した。平成11年文化功労者となり、平成10年文化勲章を受章した。平成21年、79歳で死去した。

広島(14)-ネット検索で出てこない画家


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9月20日(火)のつぶやき

2016-09-21 | つぶやきまとめ

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広島四条派の系譜、明治・大正期に広島画壇を牽引した里見雲嶺

2016-09-20 | 画人伝・広島

文献:近代・広島画人伝、広島日本画の系譜

江戸後期の山田雪塘から始まる広島の四条派は、雪塘の門人である山県二承、さらに二承の門人・里見雲嶺(1849-1928)と続き、雲嶺は明治・大正期における広島画壇の中心的な画家として活躍した。雲嶺の画法は四条派の正統ともいうべきもので、伝統的な画法による山水画や人物画を得意とした。雲嶺の没後は、旅をしながら画の修行を続け、36歳で京都に出て川端玉章に師事した田中頼璋(1868-1940)が広島画壇で中心的役割を果たした。昭和に入ると、竹内栖鳳に師事した金島桂華(1892-1974)、土田麦僊に学んだ猪原大華(1897-1980)らが文展・帝展・日展などで活躍、日本芸術院賞を受賞した。

里見雲嶺(1849-1928)
嘉永2年広島白島町生まれ。名は熊次郎。はじめ中井泰嶺や山県二承に学び、のちに京都に出て四条派の西山芳園に師事した。四条派の伝統的な画法による山水・人物画をよくし、明治23年、第3回内国勧業博覧会に出品して褒賞を受けた。明治27年には明治天皇大婚25年祝典に際し「旭日遊亀図」を献納した。大正5年に始まった初期県美展で活躍し、広島の日本画界で指導的役割を果たした。昭和3年、80歳で死去した。

田中頼璋(1868-1940)
慶応2年石見邑智郡市木村生まれ。名は大治郎。生家は代々本陣をつとめる庄屋。17歳のころ萩へ出て森寛斎の薫陶を受けた。その後は旅絵師として活動した。明治35年、36歳で京都に出て川端玉章に師事した。関東大震災以後は広島に移住し、広島県美術展覧会に出品を続けるなど、晩年にいたるまで精力的に制作を続けた。門人に橋本明治、丸木位里がいる。昭和15年、74歳で死去した。

熊谷直彦(1828-1913)
文政11年広島生まれ。別号に篤雅がある。幼いころに四条派の岡本茂彦に入門した。のちに諸国を漫遊し、明治37年帝室技芸員になった。大正2年、84歳で死去した。

内畠暁園(1874-1917)
明治7年賀茂郡内海生まれ。通称は穫造。幼いころから画を好み、京都に出て竹内栖鳳に師事した。病弱で一時広島に帰り活動していたが、大正6年、43歳で死去した。

大村廣陽(1891-1983)
明治24年沼隈郡東村生まれ。名は種五郎。明治44年京都市立美術工芸学校を卒業、同年文展に初入選した。大正3年同校を卒業し、竹内栖鳳の画塾・竹杖会に入った。以後、文展・帝展・日展に出品した。昭和58年、91歳で死去した。

金島桂華(1892-1974)
明治25年深安郡神辺町生まれ。名は政太。大阪で西家桂州に学び、桂華の号を得た。明治40年平井直水に師事、明治44年に竹内栖鳳の画塾・竹杖会に入った。大正7年文展に初入選。以後文展・帝展・日展に出品した。昭和28年芸術選奨文部大臣賞、昭和29年日本芸術院賞を受賞、昭和34年日本芸術院会員、昭和44年日展顧問となった。昭和49年、82歳で死去した。

福田恵一(1895-1956)
明治28年福山市神島町生まれ。大正6年に東京美術学校を卒業し、大阪に住んだ。大正12年に京都の西山翠嶂に師事し、画塾・青甲社に入った。翌年帝展に初入選、以後帝展・日展を舞台に活躍した。昭和31年、61歳で死去した。

猪原大華(1897-1980)
明治30年深安郡神辺町生まれ。名は寿。叔父をたよって大阪に出て、同郷の金島桂華の知遇を得る。大正7年京都市立絵画専門学校に入学、大正10年帝展に初入選した。大正12年に京都市立絵画専門学校本科を卒業、同研究科に進み、土田麦僊に師事。昭和12年西村五雲の塾・晨鳥社に入った。以後、文展・日展を舞台に活躍、昭和43年日展評議員となった。昭和46年日展で内閣総理大臣賞、昭和49年日本芸術院賞恩賜賞を受賞した。昭和55年、82歳で死去した。

広島(13)-ネット検索で出てこない画家


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9月19日(月)のつぶやき

2016-09-20 | つぶやきまとめ

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9月18日(日)のつぶやき

2016-09-19 | つぶやきまとめ

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9月16日(金)のつぶやき

2016-09-17 | つぶやきまとめ

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菅茶山・頼山陽の広島の門人

2016-09-16 | 画人伝・広島

文献:菅茶山ゆかりの絵画展、安芸・備後の国絵画展

福山が誇る儒学の大成者・菅茶山は、京坂地方や江戸で与謝蕪村、池大雅ら多くの著名文人と交友し風雅の道を究めたが、その生涯の大半を郷土の神辺で過ごし、私塾などを通して地元の教育に尽力した。また、京都で名をなした頼山陽に影響されて学問を志したものも多い。菅茶山、頼山陽に師事し、画を描いたものとしては、菅茶山に師事した小早川文吾(1782-1880)、頼山陽に師事した関藤藤陰(1807-1876)、江木鰐水(1810-1881)らが余技で絵筆を握って、風雅に富んだ作品を残している。

小早川文吾(1782-1880)
天明2年土生村生まれ。字は景汲、通称は文五郎、文吾。別号に採薇、太平楽々翁、楽々斎などがある。神辺宿七日市の医師・小早川享説の二男。家業を継いで医学を学び、のちに菅茶山の門人となり、頼山陽、藤井暮庵、門田朴斎、古川古松軒、関鳧翁らと交遊した。和歌、絵画、文字学にも秀でており、特に作字が得意だった。茶山の没後に「春秋園」と称する私塾を開き、子弟の教育を行なった。晩年失明したが、それでも講義をやめなかった。著書に『三光史』『教訓古今道しるべ』『奉納梅花千首』などがある。明治13年、99歳で死去した。

関藤藤陰(1807-1876)
文化4年備中国吉浜生まれ。関政信の子。関鳧翁の弟。福山藩儒者。幼名は元五郎、諱は成章、字は君達、通称は淵蔵、五郎、和介、文兵衛など。幼くして両親と親代わりだった伯母を亡くし、備中吉井村の石川順介に引き取られて養子となった。敬業館で小寺清先の薫陶を受け、のちに京都の頼山陽に師事した。福山藩儒者として、藩校「誠之館」の創設、ペリー来航にあたっての浦賀・下田の探索や2度にわたる蝦夷地探査などを行なった。また、幕末動乱期の長州藩による福山城攻撃に際しては「大義滅親論」を唱えて藩論をまとめ和議を成立させ福山城下を戦火から守った。著書に『文章軌範筆記』『詩書筆記』『蝦夷紀行』『観国録』『藤陰舎遺稿』『杜詩偶評説』などがある。明治9年、70歳で死去した。

江木鰐水(1810-1881)
文化7年賀茂郡河内町戸野生まれ。庄屋・福原藤右衛門貞章の三男。福山藩儒者。名ははじめ貞通のち戩、字は晉戈、通称は健哉のち繁太郎。別号に健斎、三鹿斎がある。14歳で福山藩医・五十川義路の子義集に学んだ。のちに義路の娘と結婚し、五十川家の縁戚である江木家を継いだ。1830年京都の頼山陽に師事し、山陽没後は大坂の篠崎小竹に学び、ついで江戸の古賀洞庵に師事した。天保元年福山藩の藩儒として登用され、弘道館で教授し、誠之館の創設に尽力した。藩の兵制を改革し戊辰戦争には参謀として函館まで転戦した。廃藩置県の後は養蚕を奨励し、干拓水利事業の進言、河川を利用した陰陽連絡通路の立案など、県に大きな足跡を残した。明治14年、72歳で死去した。

太田午庵(1753-1808)
宝暦3年生まれ。名は豫、字は子順、通称は権三郎。俳号は呂十。広島藩物頭役をつとめていたが病弱のため退き、あとは風雅に身を置き、平賀白山、飯田篤老と交遊し、頼春水、山陽とも交わった。画を得意とし、俳文にも長じた。文化5年、56歳で死去した。

平賀白山(1745-1805)
延享2年生まれ。名は周蔵、字は子英。剃髪して小川蕉斎とした。別号に獨醒庵がある。古学を唱え詩文に長じた。頼春水、太田午庵らと交遊した。晩年は俳諧も好んだ。文化2年、61歳で死去した。

宮原節庵(1806-1885)
文化3年生まれ。名は士淵、通称ははじめ謙蔵のちに龍。別号に潜叟、易安、栗林がある。尾道の名家・渡橋貞兵衛の五男。のちに父の元の姓、安芸の宮原姓を名乗った。尾道にいく途中に渡橋家を訪れた頼山陽の弟子となり京都に出て、山陽の塾の中心人物となった。特に書においては師を勝るともいわれた。明治18年、80歳で死去した。


広島(12)-ネット検索で出てこない画家


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9月14日(水)のつぶやき

2016-09-15 | つぶやきまとめ

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