松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま鳥取県を探索中。

福山藩の住吉派・村片相覧と藩主・阿部正精

2016-08-31 | 画人伝・広島

文献:広島県先賢傳、福山藩の日本画、福山の日本画展、安芸・備後の国絵画展

福山藩主の阿部氏は代々、学問、文芸、芸術などを積極的に奨励し、藩主自らも風雅を好み、画を描いた。なかでも三代阿部正右(1724-1769)、四代阿部正倫(1745-1805)、五代阿部正精(1774-1826)の作品は多く残っており、特に正精は詩書画に巧みで、棕軒と号して沈南蘋風の画を描いた。正精のお抱え絵師だった江戸詰の村片相覧(1778-1846頃)は寛政12年に村片家に養子として入った住吉派の絵師で、その作品は福山地方の神社に奉納された絵馬に多く見られる。また、広島藩の大和絵派としては、中川墨湖とともに「芸藩通志」の挿画を描いた土佐派の河原南汀(1776-1831)がいる。

村片相覧(1778-1846頃)
安永7年生まれ。福山藩士。名は平蔵、のちに相覧。諱は武邦。松平周防守家中・斎藤彦六郎の弟。代々阿部家に仕えてきた村片家の家督を継ぐために養子となった。住吉派の画をよくし、江戸詰の御用絵師として、藩主・阿部正倫、正精、正寧、正弘の四代に仕えた。文化9年阿部神社創立の御用を勤め六十五俵取りとなった。文政4年の「江戸御家中席順役高并年齢帳」によると、御側絵師と記されており、阿部正精の絵画指導をしたことがうかえる。没年は不明だが、六十九翁と款記された作品が残っているため少なくとも弘化3年(1846)までは生存していたと思われる。没後は子の周覧が家督を継いだ。

阿部正精(1774-1826)
安永3年江戸生まれ。福山藩阿部氏五代藩主。阿部正倫の三男。名は運之助、字は子純、通称は主計。庭前に棕櫚と芭蕉を植えたことから、棕軒、蕉亭と号した。30歳で藩主となった。詩書画に巧みで、画は沈南蘋を愛したという。文政9年、53歳で死去した。

河原南汀(1776-1831)
安永5年生まれ。広島藩御用絵師。名は實秀、通称は勇次郎。土佐派の画をよくした。中川墨湖とともに「芸藩通志」の挿画を描いた。天保2年、56歳で死去した。

広島(7)-ネット検索で出てこない画家


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8月30日(火)のつぶやき

2016-08-31 | つぶやきまとめ

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8月29日(月)のつぶやき

2016-08-30 | つぶやきまとめ

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福山藩を代表する円山四条派の画人・藤井松林と門人

2016-08-29 | 画人伝・広島

文献:広島県先賢傳、福山藩の日本画、福山の日本画展、安芸・備後の国絵画展

藤井松林(1824-1894)は、福山藩士の子として福山城下長者町に生まれ、幼ないころから画才を発揮、14歳で福山藩から絵師の加勢を仰せ付けられ、高田杏塢や吉田東里に画の手ほどきを受けた。のちに京都に出て円山派の中島来章に師事し、福山に戻ってからは阿部正弘の御絵師となり、奥坊主、奥坊主頭、茶道兼役見習などを経て勘定所詰兼御絵師となった。廃藩後も内国勧業博覧会などで名声を得た。若林松谿、羽田桂舟、水野文華、河合文林、藤井松山ら多くの門人がいる。

藤井松林(1824-1894)
文政7年福山城下長者町生まれ。福山藩士。幼名は小助、のちに好文。字は士郁。別号に清遠、百斎がある。福山藩に絵師の加勢を仰せ付けられ、高田杏塢、吉田東里に手ほどきを受け、のちに京都に出て中島来章の門に入り円山派を学んだ。慶応元年帰藩し勘定所假役、絵師兼役を勤め、円山四条派の画人として多くの優品を残した。廃藩後も明治10年内国勧業博覧会で作品が認められ宮内省にも献納しその名を高めた。明治26年、70歳で死去した。

若林松谿(1858-1938)
安政5年福山城下東町生まれ。旧名は岡本松溪。はじめ地元の藤井松林に学び、のちに京都で鈴木松年の門に入った。大阪に住み、画壇の元老として活躍、大阪絵画会幹事、浪花絵画競技会顧問もつとめた。昭和13年、81歳で死去した。

羽田桂舟(1864-1939)
元治元年福山胡町生まれ。名は英松。大分県竹田の南画家・渕野桂僊が福山に在住中に学び、のちに藤井松林に師事した。さらに大阪に行き、京都の鈴木松年にも学び、花鳥画を得意とした。四条派の中川蘆月とも交遊した。明治42年に福山に戻った。昭和14年、76歳で死去した。

下宮竹邨(不明-不明)
名は源五、藩士・下宮祐来の長男。別号に青柳堂がある。藤井松林に学び、のちに長崎で油絵を学んだ。一時期大阪に出てのちに福山に戻り霞町に住んでいたが、尾道に移り住み信明と改名した。明治中期に病死した。

水野文華(1870-1917)
明治3年福山生まれ。妙蓮寺第一世・水野大胤の二男。諱は哲譲。別号に松嶺がある。幼いころに藤井松林の手ほどきを受け、松林没後は諸国を漫遊し、京都でも学んだ。明治36年福山に戻った。大正6年、48歳で死去した。

藤井松山(1880-1967)
明治13年桶屋町生まれ。幼いころに藤井松林に手ほどきを受け、明治32年誠之館中学校を卒業し、翌年京都の鈴木松年の門に入った。大正2年、藤井松林20周年追薦会・遺墨展を羽田桂舟、若林松谿、水野文華らと開催した。昭和9年京都から福島に戻った。昭和42年、88歳で死去した。

広島(6)-ネット検索で出てこない画家


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8月26日(金)のつぶやき

2016-08-27 | つぶやきまとめ

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四条派を学んだ杉野怡雲ら福山藩士

2016-08-26 | 画人伝・広島

文献:広島県先賢傳、福山藩の日本画、福山の日本画展、安芸・備後の国絵画展

福山藩では藩士のなかに四条派を学んだものが多い。杉野怡雲(1791-1865)は家督を弟に譲り、京都に出て松村呉春、岡本豊彦に学んだ。帰郷後は城北丘上に住み、藩士・町人を問わず交遊し、詩酒や茶席があるところには必ず列席し、風流三昧の生活を送った。倉井雪舫(1792-1844)も岡本豊彦に学び、人物画を得意とした。弓術を以って仕え、大目付、郡奉行、町奉行などを歴任した高田杏塢(1806-1889)も松村呉春、柴田義董に学び、山水を得意とした。幕末藩政の枢機に活躍した吉田東里(1813-1891)は、幼いころから画を好み、若くして京都に出て岡本豊彦の門人・田中日華について学んだ。父親の没後に福山に戻り、文武両道に励んだ。また、鞆町の裕福な商家に生まれた鎌田呉陽(1802-1858)は、松村呉春、松村景文に学び、彫刻も巧みで、京都の公家のお抱え絵師になった。

杉野怡雲(1791-1865)
寛政3年生まれ。福山藩士・杉野番九郎の長男。諱は皓、字は十九。幼いころは儒者・菅茶山に学び、長じて風流を好み、家を弟に譲って京都に出て松村呉春に師事、呉春没後は岡本豊彦に学んだ。帰郷後は福山城北の木之庄山上の一草庵を結び、無聲庵と号して、日々詩歌に遊び、画を描いた。藩士・町人を問わず交遊し、詩酒や茶席があるところには必ず列席し、酔って筆をとったという。慶応元年、75歳で死去した。

倉井雪舫(1792-1844)
寛政4年生まれ。福山藩士。名は久太郎、光大のちに茂手木。幼いころから画を好み、岡本豊彦に学び、特に人物画を得意とした。儒者・篠崎小竹と親しく交遊した。文政2年に江戸詰となったが、翌年福山に戻った。大目付触流を経て大目付本役、大坂留守居を歴任した。弘化元年、53歳で死去した。

高田杏塢(1806-1889)
文化3年生まれ。福山藩士で日置流弓術の達人。父は高田又次郎成美。名は槌五郎、のちに段右衛門と改めた。諱は成憲。晩年になり耳が遠くなり聾翁と号した。大目付、郡奉行、町奉行、者頭、元締役などを歴任した。画は松村呉春、柴田義董に学び、山水画や人物画を得意とした。明治22年、84歳で死去した。

吉田東里(1813-1891)
文化10年生まれ。福山藩士・高久荘太郎隆次の二男。幼名は豊蔵、のちに五右衛門。諱は隣悳のちに豊省、東里。別号に喜園、如睡、濤湖がある。天保9年、吉田司馬信光の養子となった。幼いころから画を好み、若くして京都に出て岡本豊彦の門人・田中日華について学んだ。父親の没後に帰郷し、文武両道に励んだ。東海道の風景を愛し、江戸往復の際に名所旧跡を臨写し、『東海餘暇』として数巻にまとめた。弟子に藤井松林がいる。明治24年、79歳で死去した。

鎌田呉陽(1802-1858)
享和2年福山市鞆町生まれ。実家は富裕な商人・あぼし屋。通称は弥三郎、諱は清造。別号に晋、士允、嘯雲がある。幼いころから画を好み、長じて京都に遊学した。松村呉春に入門し、さらにその弟・松村景文に学んだ。彫刻も巧みで、京都の公家のお抱え絵師になった。福山実相寺で一日1000画、韜光寺で1500画を描いたなどの逸話が残っている。安政5年、57歳で死去した。

広島(5)-ネット検索で出てこない画家


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8月24日(水)のつぶやき

2016-08-25 | つぶやきまとめ

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広島藩の四条派・山田雪塘と門人

2016-08-24 | 画人伝・広島

文献:広島県先賢傳、芸藩ゆかりの絵画展、近世広島の絵画展

広島藩の四条派としては、広島白島町に住んでいた町絵師・山田雪塘(不明-不明)が、松村呉春に学び、頼杏坪、菅茶山、飯田篤老ら多くの儒者や文人と交わり、彼らの讃のある作品を残している。山田雪塘の門人としては、藩の絵師で『芸藩通志』の挿画を描いたことでも知られる中川墨湖(不明-1861)、のちに岸駒に学んだ山県二承(1811-1879)、藩の軍務役製図係をつとめた田中鵞群(不明-1876)らがいる。山田雪塘と同時代の町絵師・南陽(不明-不明)も四条派の画人だが、詳細は不明である。また、西白島町で代々酒造を業としていた山田屋の双子の兄・山田来青(1776-1826)と弟・山田雲窓(1776-1825)の兄弟も呉春に師事し、兄は家業を継ぎ、詩・俳諧などの文雅の道にいそしみ、弟は一生独身で兄の家に寄食して画業に精進した。松村景文に学んだ萩出身の中井泰嶺(不明-1865)は、はじめ尾道に住み、のちに広島に移り人物画を得意とした。

山田雪塘(不明-不明)
広島白島の町絵師。名は弼、字は伯諧、通称は良平。別号に墨耕、遠翠楼、山弼がある。京都の松村呉春に学び、四条派の作品を多く残した。文政11年には厳島神社に「鯉魚図」の扁額を奉納している。門人も多い。

南陽(不明-不明)
山田雪塘と同時代の広島の町絵師で、十日町に住んでいたと伝わっている。四条派を学んだと思われ、俳画も残している。庄原市の日吉神社に残る「雨乞い祈祷図」は南陽の作として知られ、当時恵蘇郡の代官だった頼杏坪の注文によって描かれたもので、杏坪の讃がある。

中川墨湖(1789-1861)
天明9年生まれ。広島藩の絵師。名は義喬、通称は彦太郎。はじめ高橋と称したが、のちに中川に改めた。山田雪塘に学んだのち、岸駒に師事した。四条派の画をよくし、蝦を得意とした。頼杏坪が編集した『芸藩通志』の挿絵を描いたことでも知られる。万延2年、73歳で死去した。

山県二承(1811-1879)
文化8年生まれ。通称は虎蔵、のちに書畫介と名乗った。別号に龍耳庵がある。耳が不自由で、再度聞き返すことから「二承」と号した。はじめ山田雪塘に学び、のちに岸駒に学んだ。疎画が巧みだったという。俳諧もよくし、多くの俳画を残している。門人には、明治から大正にかけて広島の日本画壇で指導的な役割を果たした里見雲嶺がいる。明治12年、69歳で死去した。

田中鵞群(不明-1876)
広島の人。通称は孫六。山田雪塘に四条派を学んだ。兄の跡を継ぎ、芸藩軍務役製図係をつとめた。明治5年死去した。

山田来青(1776-1826)
安永4年生まれ。山田雲窓の双子の兄。名は本愛、通称は鶴松、のちに幸蔵とし、さらに吉左衛門と改めた。代々醸酒を業としていた。松村呉春に学んだ。文政9年、52歳で死去した。

山田雲窓(1776-1825)
安永4年生まれ。山田来青の双子の弟。名は恒久、通称は亀松、のちに栄蔵と改めた。松村呉春の学び、一生独身で兄の家に寄食して画業に専念した。文政8年、51歳で死去した。

中井泰嶺(不明-1865)
広島に住んでいた。別号に香遠がある。長州萩の生まれ。松村景文に学び、はじめ尾道に住み、広島に移り住んだ。人物を得意とした。慶応元年死去した。

広島(4)-ネット検索で出てこない画家


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8月22日(月)のつぶやき

2016-08-23 | つぶやきまとめ

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福山藩の狩野派、片山墨随斎守春・索準斎守規父子

2016-08-22 | 画人伝・広島

文献:広島県先賢傳、福山藩の日本画、福山の日本画展

幕府御用絵師の狩野派は、福山藩にも早くからもたらされ、明和・天明の頃に土屋索進斎(不明-不明)が出ている。索進斎は、福山城下深津町鉄屋に生まれ、京都に出て狩野派の鶴沢探鯨・探索に学び、法橋に叙せられた。同門に円山応挙、田中索我らがいる。晩年には福山に戻って藩内に画風を伝えた。芦田郡府中出身の片山墨随斎守春(1720-1794)、片山索準斎守規(1772-1833)父子も狩野派を学び、ともに法橋に叙せられている。また、江戸詰で阿部家の家臣だった吉田蘭香兼貞は、阿部正倫に仕え、天明3年御用絵師となった。、二代・吉田洞佐美保、三代の吉田洞京(不明-1849)と御用絵師は引き継がれ、四代の吉田洞谷(1830-1887頃)は、洞京の娘婿となり、阿部正精、正寧、正弘と三代の藩主に仕えた。

片山墨随斎守春(1720-1794)
享保5年生まれ。別号に素準斎、鯨序斎がある。狩野派の画を学び名声を得た。法橋に叙せられた。寛政6年、75歳で死去した。

片山索準斎守規(1772-1833)
安永元年生まれ。片山守春の五男。別号に墨雲斎がある。狩野派を学び、父と同じく法橋に叙せられた。天保4年、62歳で死去した。

土屋索進斎(不明-不明)
明和・安永・天明期に活躍した。通称は丈右衛門。鉄屋・土屋三右衛門の子。京都で鶴沢探鯨・探索父子に学んだ。同門に円山応挙、田中索我(鴨方)らがいる。備前池田家に招かれ、晩年法橋となり、福山に住んだ。

吉田洞京(不明-1849)
江戸詰の福山藩士・阿部家家臣。諱は春安。吉田家三代。文政8年、阿部正精の御用絵師となった。嘉永2年死去した。

吉田洞谷(1830-1887頃)
天保元年生まれ。名は春良。雅号は蘭英斎洞谷。別号に雲援、松涛軒などがある。江戸小石川大塚の高橋嘉右衛門の三男。吉田洞京に師事し、娘婿となり養子に入った。人物画を得意とした。慶応4年には一家で福山に引っ越し、藤井松林とともに画学小教授心得とななった。廃藩後は東京に戻った。明治20年頃死去した。

平井雪旭(1806-1885)
文化3年生まれ。名は本右衛門、のちに平蔵と改名した。諱は正親。雅号は永進斎雪旭。福山城下本町の宿老格をつとめた。家業は紺屋。狩野派の画を学び、山水、花鳥、人物など多くの下絵粉本を残している。息子・雪正も風流人で俳句をよくした。明治18年、80歳で死去した。

広島(3)-ネット検索で出てこない画家


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8月18日(木)のつぶやき

2016-08-19 | つぶやきまとめ

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広島藩の狩野派・山野峻峰斎

2016-08-18 | 画人伝・広島

文献:広島県先賢傳、芸藩ゆかりの絵画展、近世広島の絵画展

江戸時代も半ばを過ぎると、京都や江戸の画家が藩の御用絵師となって地方に召抱えられるようになり、広島藩においても雲谷派から幕府御用絵師の狩野派へと主流が移っていった。広島藩の狩野派としては、江戸で狩野探信守道に学び、藩の御用絵師をつとめた山野峻峰斎(1784-1852)が、多くの門人を育てるなど大きな足跡を残している。門下には、藩の御用絵師を継いだ小林月峰(1834-1888)をはじめ、橋本峻嶂(1829-1892)や笠間桃園(1813-1892)らがいる。また、広島藩内出身の狩野派の画人としては、豊田郡大長村の大森捜月(1749-1786)が、京都で狩野派の大森捜雲に学んで画業を継ぎ名声を得ている。

山野峻峰斎(1784-1852)
天明5年生まれ。広島の人。名は啓次、のちに守嗣。文政9年、江戸で狩野探信守道の門人となり、一字拝領で「守」の字を許されて峻峰斎守嗣と名乗った。広島藩の御用絵師として活躍し、「厳島図絵」や「芸備学義伝」第三篇拾遺の挿絵を描いた。門人には、小林月峰、橋本峻嶂、笠間桃園らがいる。また、子の峻斎(啓内)が跡目を相続し、御居間坊主のち御茶道方として召抱えられた。嘉永5年、69歳で死去した。

小林月峰(1834-1888)
天保5年生まれ。広島の人。通称は隆助。山野峻峰斎に狩野派の画を学んだ。藩の絵師となって剃髪したが、のちに還俗した。明治21年、55歳で死去した。

橋本峻嶂(1829-1892)
文政12年生まれ。広島の人。通称は元祐。幼いころから山野峻峰斎に師事し、狩野派の画を学んだ。躍鯉群雀の墨画を得意とした。明治25年、64歳で死去した。

笠間桃園(1813-1892)
文化10年生まれ。広島八町堀に住んでいた。通称は庫太。二楽斎桃園とも称した。山野峻峰斎に狩野派の画を学んだ。明治25年、80歳で死去した。

大森捜月(1749-1786)
寛延2年生まれ。豊田郡大長村の人。名は守芳、通称は永蔵。海老屋某の子。幼いころから画を好み、のちに京都に出て大森捜雲に学び、捜雲の娘と結婚して家を継いだ。天明6年、38歳で死去した。

広島(2)-ネット検索で出てこない画家


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8月12日(金)のつぶやき

2016-08-13 | つぶやきまとめ

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近世前期の広島画壇で主流として活躍した雲谷派

2016-08-12 | 画人伝・広島

文献:広島県先賢傳、、岡山の絵画500年-雪舟から国吉まで-

近世前期の広島画壇の主流は、毛利氏・福島氏に仕えた雲谷派だった。雲谷派の祖である雲谷等顔(1547-1618)は、雪舟や雪舟系の作風を学び、雪舟三代を標榜した。文禄2年、毛利輝元の命で雪舟の「山水長巻」を模写、その功績により雪舟ゆかりの「雲谷庵」を得て、雪舟等楊の一字を取り、それ以降雲谷等顔と名乗っている。等顔の子孫の門流は代々、長門、広島に住み、等顔の子・雲谷等屋(1582-1615)は分家して広島藩主・福島正則に仕えた。三谷等哲(不明-1630)とその子・三谷等悦(不明-1675)も雲谷派を守り、福島正則に仕えたが、のちに筑後の久留米に移った。雲谷派は毛利家御抱絵師として萩を本拠に江戸時代末期まで存続した。

雲谷等顔(1547-1618)
天文16年肥前生まれ。小領主原豊後守直家の一族。雲谷派の始祖。名は直治。天正12年、38歳の時に父が肥前有馬の合戦で没し、家は絶えたと伝わっている。それ以前の等顔の青年期については不明な点が多い。家が断絶した前後の天正年間頃から広島城主・毛利輝元に仕えている。雪舟や雪舟系の作風を学び、雪舟様式に形式的整理を加えた水墨山水画に一境地を開き、雪舟三代を標榜した。慶長16年法橋に、元和3年前には法眼に叙せられた。元和4年、72歳で死去した。

雲谷等屋(1582-1615)
天正10年生まれ。雲谷等顔の長男。名は直正、通称は小膳。別号に閑叟がある。等顔の画風を守り、広島藩主・福島正則に仕えた。元和元年、34歳で死去した。

雲谷等益(1591-1644)
天正19年広島生まれ。雲谷等顔の二男。名は元直、のちに治兵衛。宮法師と称し、友雪と号した。父・等顔とともに毛利輝元に仕えた。福島正則に仕えた長兄・等屋が早世したこともあり、元和4年の等顔の死去にともない家督を相続、雲谷派を継承して雪舟四代と称した。周防、長門を中心に活躍し、大徳寺に多数の襖絵を残している。寛永3年に法橋に叙された。正保4年、54歳で死去した。

雲谷等甫(不明-1730)
雲谷等顔の孫・等宅の三男で、長兄・等陸の養子となった。福島家に仕えた。享保15年死去した。

三谷等哲(不明-1630)
雲谷等益の三男。広島藩主・福島正則に仕えた。主家の改易により浪人となり、子の等悦とともに筑後の久留米に移住した。寛永7年死去した。

三谷等悦(不明-1675)
安芸出身。名は信重、通称は徳左衛門。別号に雲沢がある。三谷等哲の子。父とともに筑後久留米に移住し、久留米藩の御用絵師になった。延宝3年死去した。

雲谷等宿(不明-不明)
正保頃の人。雲谷等爾の子。法橋に叙せられた。

 広島(1)-ネット検索で出てこない画家


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8月8日(月)のつぶやき

2016-08-09 | つぶやきまとめ

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