松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま長崎県を探索中。

福山藩の住吉派・村片相覧と藩主・阿部正精

2016-08-31 | 画人伝・広島

文献:広島県先賢傳、福山藩の日本画、福山の日本画展、安芸・備後の国絵画展

福山藩主の阿部氏は代々、学問、文芸、芸術などを積極的に奨励し、藩主自らも風雅を好み、画を描いた。なかでも三代阿部正右(1724-1769)、四代阿部正倫(1745-1805)、五代阿部正精(1774-1826)の作品は多く残っており、特に正精は詩書画に巧みで、棕軒と号して沈南蘋風の画を描いた。正精のお抱え絵師だった江戸詰の村片相覧(1778-1846頃)は寛政12年に村片家に養子として入った住吉派の絵師で、その作品は福山地方の神社に奉納された絵馬に多く見られる。また、広島藩の大和絵派としては、中川墨湖とともに「芸藩通志」の挿画を描いた土佐派の河原南汀(1776-1831)がいる。

村片相覧(1778-1846頃)
安永7年生まれ。福山藩士。名は平蔵、のちに相覧。諱は武邦。松平周防守家中・斎藤彦六郎の弟。代々阿部家に仕えてきた村片家の家督を継ぐために養子となった。住吉派の画をよくし、江戸詰の御用絵師として、藩主・阿部正倫、正精、正寧、正弘の四代に仕えた。文化9年阿部神社創立の御用を勤め六十五俵取りとなった。文政4年の「江戸御家中席順役高并年齢帳」によると、御側絵師と記されており、阿部正精の絵画指導をしたことがうかえる。没年は不明だが、六十九翁と款記された作品が残っているため少なくとも弘化3年(1846)までは生存していたと思われる。没後は子の周覧が家督を継いだ。

阿部正精(1774-1826)
安永3年江戸生まれ。福山藩阿部氏五代藩主。阿部正倫の三男。名は運之助、字は子純、通称は主計。庭前に棕櫚と芭蕉を植えたことから、棕軒、蕉亭と号した。30歳で藩主となった。詩書画に巧みで、画は沈南蘋を愛したという。文政9年、53歳で死去した。

河原南汀(1776-1831)
安永5年生まれ。広島藩御用絵師。名は實秀、通称は勇次郎。土佐派の画をよくした。中川墨湖とともに「芸藩通志」の挿画を描いた。天保2年、56歳で死去した。

広島(7)-ネット検索で出てこない画家


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福山藩を代表する円山四条派の画人・藤井松林と門人

2016-08-29 | 画人伝・広島

文献:広島県先賢傳、福山藩の日本画、福山の日本画展、安芸・備後の国絵画展

藤井松林(1824-1894)は、福山藩士の子として福山城下長者町に生まれ、幼ないころから画才を発揮、14歳で福山藩から絵師の加勢を仰せ付けられ、高田杏塢や吉田東里に画の手ほどきを受けた。のちに京都に出て円山派の中島来章に師事し、福山に戻ってからは阿部正弘の御絵師となり、奥坊主、奥坊主頭、茶道兼役見習などを経て勘定所詰兼御絵師となった。廃藩後も内国勧業博覧会などで名声を得た。若林松谿、羽田桂舟、水野文華、河合文林、藤井松山ら多くの門人がいる。

藤井松林(1824-1894)
文政7年福山城下長者町生まれ。福山藩士。幼名は小助、のちに好文。字は士郁。別号に清遠、百斎がある。福山藩に絵師の加勢を仰せ付けられ、高田杏塢、吉田東里に手ほどきを受け、のちに京都に出て中島来章の門に入り円山派を学んだ。慶応元年帰藩し勘定所假役、絵師兼役を勤め、円山四条派の画人として多くの優品を残した。廃藩後も明治10年内国勧業博覧会で作品が認められ宮内省にも献納しその名を高めた。明治26年、70歳で死去した。

若林松谿(1858-1938)
安政5年福山城下東町生まれ。旧名は岡本松溪。はじめ地元の藤井松林に学び、のちに京都で鈴木松年の門に入った。大阪に住み、画壇の元老として活躍、大阪絵画会幹事、浪花絵画競技会顧問もつとめた。昭和13年、81歳で死去した。

羽田桂舟(1864-1939)
元治元年福山胡町生まれ。名は英松。大分県竹田の南画家・渕野桂僊が福山に在住中に学び、のちに藤井松林に師事した。さらに大阪に行き、京都の鈴木松年にも学び、花鳥画を得意とした。四条派の中川蘆月とも交遊した。明治42年に福山に戻った。昭和14年、76歳で死去した。

下宮竹邨(不明-不明)
名は源五、藩士・下宮祐来の長男。別号に青柳堂がある。藤井松林に学び、のちに長崎で油絵を学んだ。一時期大阪に出てのちに福山に戻り霞町に住んでいたが、尾道に移り住み信明と改名した。明治中期に病死した。

水野文華(1870-1917)
明治3年福山生まれ。妙蓮寺第一世・水野大胤の二男。諱は哲譲。別号に松嶺がある。幼いころに藤井松林の手ほどきを受け、松林没後は諸国を漫遊し、京都でも学んだ。明治36年福山に戻った。大正6年、48歳で死去した。

藤井松山(1880-1967)
明治13年桶屋町生まれ。幼いころに藤井松林に手ほどきを受け、明治32年誠之館中学校を卒業し、翌年京都の鈴木松年の門に入った。大正2年、藤井松林20周年追薦会・遺墨展を羽田桂舟、若林松谿、水野文華らと開催した。昭和9年京都から福島に戻った。昭和42年、88歳で死去した。

広島(6)-ネット検索で出てこない画家


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四条派を学んだ杉野怡雲ら福山藩士

2016-08-26 | 画人伝・広島

文献:広島県先賢傳、福山藩の日本画、福山の日本画展、安芸・備後の国絵画展

福山藩では藩士のなかに四条派を学んだものが多い。杉野怡雲(1791-1865)は家督を弟に譲り、京都に出て松村呉春、岡本豊彦に学んだ。帰郷後は城北丘上に住み、藩士・町人を問わず交遊し、詩酒や茶席があるところには必ず列席し、風流三昧の生活を送った。倉井雪舫(1792-1844)も岡本豊彦に学び、人物画を得意とした。弓術を以って仕え、大目付、郡奉行、町奉行などを歴任した高田杏塢(1806-1889)も松村呉春、柴田義董に学び、山水を得意とした。幕末藩政の枢機に活躍した吉田東里(1813-1891)は、幼いころから画を好み、若くして京都に出て岡本豊彦の門人・田中日華について学んだ。父親の没後に福山に戻り、文武両道に励んだ。また、鞆町の裕福な商家に生まれた鎌田呉陽(1802-1858)は、松村呉春、松村景文に学び、彫刻も巧みで、京都の公家のお抱え絵師になった。

杉野怡雲(1791-1865)
寛政3年生まれ。福山藩士・杉野番九郎の長男。諱は皓、字は十九。幼いころは儒者・菅茶山に学び、長じて風流を好み、家を弟に譲って京都に出て松村呉春に師事、呉春没後は岡本豊彦に学んだ。帰郷後は福山城北の木之庄山上の一草庵を結び、無聲庵と号して、日々詩歌に遊び、画を描いた。藩士・町人を問わず交遊し、詩酒や茶席があるところには必ず列席し、酔って筆をとったという。慶応元年、75歳で死去した。

倉井雪舫(1792-1844)
寛政4年生まれ。福山藩士。名は久太郎、光大のちに茂手木。幼いころから画を好み、岡本豊彦に学び、特に人物画を得意とした。儒者・篠崎小竹と親しく交遊した。文政2年に江戸詰となったが、翌年福山に戻った。大目付触流を経て大目付本役、大坂留守居を歴任した。弘化元年、53歳で死去した。

高田杏塢(1806-1889)
文化3年生まれ。福山藩士で日置流弓術の達人。父は高田又次郎成美。名は槌五郎、のちに段右衛門と改めた。諱は成憲。晩年になり耳が遠くなり聾翁と号した。大目付、郡奉行、町奉行、者頭、元締役などを歴任した。画は松村呉春、柴田義董に学び、山水画や人物画を得意とした。明治22年、84歳で死去した。

吉田東里(1813-1891)
文化10年生まれ。福山藩士・高久荘太郎隆次の二男。幼名は豊蔵、のちに五右衛門。諱は隣悳のちに豊省、東里。別号に喜園、如睡、濤湖がある。天保9年、吉田司馬信光の養子となった。幼いころから画を好み、若くして京都に出て岡本豊彦の門人・田中日華について学んだ。父親の没後に帰郷し、文武両道に励んだ。東海道の風景を愛し、江戸往復の際に名所旧跡を臨写し、『東海餘暇』として数巻にまとめた。弟子に藤井松林がいる。明治24年、79歳で死去した。

鎌田呉陽(1802-1858)
享和2年福山市鞆町生まれ。実家は富裕な商人・あぼし屋。通称は弥三郎、諱は清造。別号に晋、士允、嘯雲がある。幼いころから画を好み、長じて京都に遊学した。松村呉春に入門し、さらにその弟・松村景文に学んだ。彫刻も巧みで、京都の公家のお抱え絵師になった。福山実相寺で一日1000画、韜光寺で1500画を描いたなどの逸話が残っている。安政5年、57歳で死去した。

広島(5)-ネット検索で出てこない画家


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広島藩の四条派・山田雪塘と門人

2016-08-24 | 画人伝・広島

文献:広島県先賢傳、芸藩ゆかりの絵画展、近世広島の絵画展

広島藩の四条派としては、広島白島町に住んでいた町絵師・山田雪塘(不明-不明)が、松村呉春に学び、頼杏坪、菅茶山、飯田篤老ら多くの儒者や文人と交わり、彼らの讃のある作品を残している。山田雪塘の門人としては、藩の絵師で『芸藩通志』の挿画を描いたことでも知られる中川墨湖(不明-1861)、のちに岸駒に学んだ山県二承(1811-1879)、藩の軍務役製図係をつとめた田中鵞群(不明-1876)らがいる。山田雪塘と同時代の町絵師・南陽(不明-不明)も四条派の画人だが、詳細は不明である。また、西白島町で代々酒造を業としていた山田屋の双子の兄・山田来青(1776-1826)と弟・山田雲窓(1776-1825)の兄弟も呉春に師事し、兄は家業を継ぎ、詩・俳諧などの文雅の道にいそしみ、弟は一生独身で兄の家に寄食して画業に精進した。松村景文に学んだ萩出身の中井泰嶺(不明-1865)は、はじめ尾道に住み、のちに広島に移り人物画を得意とした。

山田雪塘(不明-不明)
広島白島の町絵師。名は弼、字は伯諧、通称は良平。別号に墨耕、遠翠楼、山弼がある。京都の松村呉春に学び、四条派の作品を多く残した。文政11年には厳島神社に「鯉魚図」の扁額を奉納している。門人も多い。

南陽(不明-不明)
山田雪塘と同時代の広島の町絵師で、十日町に住んでいたと伝わっている。四条派を学んだと思われ、俳画も残している。庄原市の日吉神社に残る「雨乞い祈祷図」は南陽の作として知られ、当時恵蘇郡の代官だった頼杏坪の注文によって描かれたもので、杏坪の讃がある。

中川墨湖(1789-1861)
天明9年生まれ。広島藩の絵師。名は義喬、通称は彦太郎。はじめ高橋と称したが、のちに中川に改めた。山田雪塘に学んだのち、岸駒に師事した。四条派の画をよくし、蝦を得意とした。頼杏坪が編集した『芸藩通志』の挿絵を描いたことでも知られる。万延2年、73歳で死去した。

山県二承(1811-1879)
文化8年生まれ。通称は虎蔵、のちに書畫介と名乗った。別号に龍耳庵がある。耳が不自由で、再度聞き返すことから「二承」と号した。はじめ山田雪塘に学び、のちに岸駒に学んだ。疎画が巧みだったという。俳諧もよくし、多くの俳画を残している。門人には、明治から大正にかけて広島の日本画壇で指導的な役割を果たした里見雲嶺がいる。明治12年、69歳で死去した。

田中鵞群(不明-1876)
広島の人。通称は孫六。山田雪塘に四条派を学んだ。兄の跡を継ぎ、芸藩軍務役製図係をつとめた。明治5年死去した。

山田来青(1776-1826)
安永4年生まれ。山田雲窓の双子の兄。名は本愛、通称は鶴松、のちに幸蔵とし、さらに吉左衛門と改めた。代々醸酒を業としていた。松村呉春に学んだ。文政9年、52歳で死去した。

山田雲窓(1776-1825)
安永4年生まれ。山田来青の双子の弟。名は恒久、通称は亀松、のちに栄蔵と改めた。松村呉春の学び、一生独身で兄の家に寄食して画業に専念した。文政8年、51歳で死去した。

中井泰嶺(不明-1865)
広島に住んでいた。別号に香遠がある。長州萩の生まれ。松村景文に学び、はじめ尾道に住み、広島に移り住んだ。人物を得意とした。慶応元年死去した。

広島(4)-ネット検索で出てこない画家


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福山藩の狩野派、片山墨随斎守春・索準斎守規父子

2016-08-22 | 画人伝・広島

文献:広島県先賢傳、福山藩の日本画、福山の日本画展

幕府御用絵師の狩野派は、福山藩にも早くからもたらされ、明和・天明の頃に土屋索進斎(不明-不明)が出ている。索進斎は、福山城下深津町鉄屋に生まれ、京都に出て狩野派の鶴沢探鯨・探索に学び、法橋に叙せられた。同門に円山応挙、田中索我らがいる。晩年には福山に戻って藩内に画風を伝えた。芦田郡府中出身の片山墨随斎守春(1720-1794)、片山索準斎守規(1772-1833)父子も狩野派を学び、ともに法橋に叙せられている。また、江戸詰で阿部家の家臣だった吉田蘭香兼貞は、阿部正倫に仕え、天明3年御用絵師となった。、二代・吉田洞佐美保、三代の吉田洞京(不明-1849)と御用絵師は引き継がれ、四代の吉田洞谷(1830-1887頃)は、洞京の娘婿となり、阿部正精、正寧、正弘と三代の藩主に仕えた。

片山墨随斎守春(1720-1794)
享保5年生まれ。別号に素準斎、鯨序斎がある。狩野派の画を学び名声を得た。法橋に叙せられた。寛政6年、75歳で死去した。

片山索準斎守規(1772-1833)
安永元年生まれ。片山守春の五男。別号に墨雲斎がある。狩野派を学び、父と同じく法橋に叙せられた。天保4年、62歳で死去した。

土屋索進斎(不明-不明)
明和・安永・天明期に活躍した。通称は丈右衛門。鉄屋・土屋三右衛門の子。京都で鶴沢探鯨・探索父子に学んだ。同門に円山応挙、田中索我(鴨方)らがいる。備前池田家に招かれ、晩年法橋となり、福山に住んだ。

吉田洞京(不明-1849)
江戸詰の福山藩士・阿部家家臣。諱は春安。吉田家三代。文政8年、阿部正精の御用絵師となった。嘉永2年死去した。

吉田洞谷(1830-1887頃)
天保元年生まれ。名は春良。雅号は蘭英斎洞谷。別号に雲援、松涛軒などがある。江戸小石川大塚の高橋嘉右衛門の三男。吉田洞京に師事し、娘婿となり養子に入った。人物画を得意とした。慶応4年には一家で福山に引っ越し、藤井松林とともに画学小教授心得とななった。廃藩後は東京に戻った。明治20年頃死去した。

平井雪旭(1806-1885)
文化3年生まれ。名は本右衛門、のちに平蔵と改名した。諱は正親。雅号は永進斎雪旭。福山城下本町の宿老格をつとめた。家業は紺屋。狩野派の画を学び、山水、花鳥、人物など多くの下絵粉本を残している。息子・雪正も風流人で俳句をよくした。明治18年、80歳で死去した。

広島(3)-ネット検索で出てこない画家


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広島藩の狩野派・山野峻峰斎

2016-08-18 | 画人伝・広島

文献:広島県先賢傳、芸藩ゆかりの絵画展、近世広島の絵画展

江戸時代も半ばを過ぎると、京都や江戸の画家が藩の御用絵師となって地方に召抱えられるようになり、広島藩においても雲谷派から幕府御用絵師の狩野派へと主流が移っていった。広島藩の狩野派としては、江戸で狩野探信守道に学び、藩の御用絵師をつとめた山野峻峰斎(1784-1852)が、多くの門人を育てるなど大きな足跡を残している。門下には、藩の御用絵師を継いだ小林月峰(1834-1888)をはじめ、橋本峻嶂(1829-1892)や笠間桃園(1813-1892)らがいる。また、広島藩内出身の狩野派の画人としては、豊田郡大長村の大森捜月(1749-1786)が、京都で狩野派の大森捜雲に学んで画業を継ぎ名声を得ている。

山野峻峰斎(1784-1852)
天明5年生まれ。広島の人。名は啓次、のちに守嗣。文政9年、江戸で狩野探信守道の門人となり、一字拝領で「守」の字を許されて峻峰斎守嗣と名乗った。広島藩の御用絵師として活躍し、「厳島図絵」や「芸備学義伝」第三篇拾遺の挿絵を描いた。門人には、小林月峰、橋本峻嶂、笠間桃園らがいる。また、子の峻斎(啓内)が跡目を相続し、御居間坊主のち御茶道方として召抱えられた。嘉永5年、69歳で死去した。

小林月峰(1834-1888)
天保5年生まれ。広島の人。通称は隆助。山野峻峰斎に狩野派の画を学んだ。藩の絵師となって剃髪したが、のちに還俗した。明治21年、55歳で死去した。

橋本峻嶂(1829-1892)
文政12年生まれ。広島の人。通称は元祐。幼いころから山野峻峰斎に師事し、狩野派の画を学んだ。躍鯉群雀の墨画を得意とした。明治25年、64歳で死去した。

笠間桃園(1813-1892)
文化10年生まれ。広島八町堀に住んでいた。通称は庫太。二楽斎桃園とも称した。山野峻峰斎に狩野派の画を学んだ。明治25年、80歳で死去した。

大森捜月(1749-1786)
寛延2年生まれ。豊田郡大長村の人。名は守芳、通称は永蔵。海老屋某の子。幼いころから画を好み、のちに京都に出て大森捜雲に学び、捜雲の娘と結婚して家を継いだ。天明6年、38歳で死去した。

広島(2)-ネット検索で出てこない画家


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近世前期の広島画壇で主流として活躍した雲谷派

2016-08-12 | 画人伝・広島

文献:広島県先賢傳、、岡山の絵画500年-雪舟から国吉まで-

近世前期の広島画壇の主流は、毛利氏・福島氏に仕えた雲谷派だった。雲谷派の祖である雲谷等顔(1547-1618)は、雪舟や雪舟系の作風を学び、雪舟三代を標榜した。文禄2年、毛利輝元の命で雪舟の「山水長巻」を模写、その功績により雪舟ゆかりの「雲谷庵」を得て、雪舟等楊の一字を取り、それ以降雲谷等顔と名乗っている。等顔の子孫の門流は代々、長門、広島に住み、等顔の子・雲谷等屋(1582-1615)は分家して広島藩主・福島正則に仕えた。三谷等哲(不明-1630)とその子・三谷等悦(不明-1675)も雲谷派を守り、福島正則に仕えたが、のちに筑後の久留米に移った。雲谷派は毛利家御抱絵師として萩を本拠に江戸時代末期まで存続した。

雲谷等顔(1547-1618)
天文16年肥前生まれ。小領主原豊後守直家の一族。雲谷派の始祖。名は直治。天正12年、38歳の時に父が肥前有馬の合戦で没し、家は絶えたと伝わっている。それ以前の等顔の青年期については不明な点が多い。家が断絶した前後の天正年間頃から広島城主・毛利輝元に仕えている。雪舟や雪舟系の作風を学び、雪舟様式に形式的整理を加えた水墨山水画に一境地を開き、雪舟三代を標榜した。慶長16年法橋に、元和3年前には法眼に叙せられた。元和4年、72歳で死去した。

雲谷等屋(1582-1615)
天正10年生まれ。雲谷等顔の長男。名は直正、通称は小膳。別号に閑叟がある。等顔の画風を守り、広島藩主・福島正則に仕えた。元和元年、34歳で死去した。

雲谷等益(1591-1644)
天正19年広島生まれ。雲谷等顔の二男。名は元直、のちに治兵衛。宮法師と称し、友雪と号した。父・等顔とともに毛利輝元に仕えた。福島正則に仕えた長兄・等屋が早世したこともあり、元和4年の等顔の死去にともない家督を相続、雲谷派を継承して雪舟四代と称した。周防、長門を中心に活躍し、大徳寺に多数の襖絵を残している。寛永3年に法橋に叙された。正保4年、54歳で死去した。

雲谷等甫(不明-1730)
雲谷等顔の孫・等宅の三男で、長兄・等陸の養子となった。福島家に仕えた。享保15年死去した。

三谷等哲(不明-1630)
広島藩主・福島正則に仕えた。主家の改易により浪人となり、子の等悦とともに筑後の久留米に移住した。寛永7年死去した。

三谷等悦(不明-1675)
安芸出身。名は信重、通称は徳左衛門。別号に雲沢がある。三谷等哲の子。父とともに筑後久留米に移住し、久留米藩の御用絵師になった。延宝3年死去した。

雲谷等宿(不明-不明)
正保頃の人。雲谷等爾の子。法橋に叙せられた。

 広島(1)-ネット検索で出てこない画家


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美人画の竹久夢二と異色の挿絵画家・細木原青起

2016-08-05 | 画人伝・岡山

文献:岡山の美術 近代絵画の系譜岡山の絵画500年-雪舟から国吉まで-岡山の近代日本画 2000

岡山出身の画家をみていくと、室町水墨画の最高峰・雪舟、画才も発揮した剣豪・宮本武蔵、近世南画の巨星・浦上玉堂、現在も続く四条派の源流ともいえる岡本豊彦など、錚々たる重要人物がおり、近代に入っても小野竹喬、池田遙邨らの日本画家を輩出している。洋画に関しては、岡山出身の洋画家の活動を見れば日本洋画史が俯瞰できるほどで、原田直次郎、満谷国四郎、鹿子木孟郎、国吉康雄ら先駆的洋画家たちを多く輩出している。そして、憂愁と叙情をたたえた「美人画」で今なお人気の竹久夢二(1884-1934)もまた岡山出身である。挿絵画家として夢二ほどの名声は得なかったが、細木原青起(1885-1958)も独特の風刺画を雑誌、新聞などに描いている。

竹久夢二(1884-1934)
明治17年邑久郡本庄村生まれ。本名は茂次郎。生家は酒の醸造・販売をしていたが、明治33年に一家は九州の八幡に移った。明治34年、父の反対をおして上京し、早稲田実業学校に入学した。絵画を学ぶため、大下藤次郎の紹介で岡田三郎助に会って東京美術学校入学を希望したところ、三郎助は、学校の絵画教育がかえって夢二の独創的な天分を殺す恐れがあることを説いて、思いとどまられせたという。その後は独学で自分の絵画世界を築いていく。明治38年に読売新聞の日曜文壇に竹久洦子の名で「可愛いお友達」の文章を投稿、同年平民社の機関紙「直言」に、荒畑寒村の推薦でコマ絵を掲載した。明治40年には「平民新聞」に風刺的コマ絵を描くとともに、読売新聞社では時事スケッチを描いた。明治42年に画集『春の巻』を出版、憂愁と叙情をたたえた美人画は人気を博し、その後約50種もの画集や詩画集が出版された。昭和9年、50歳で死去した。

細木原青起(1885-1958)
明治18年勝田郡広野村生まれ。本名は辰江。初号に鳥越静枝がある。早くに父を失くし、岡山市に出て漢学を学び、はじめ草野鷹江に師事し、ついで上京して黒崎修斎に入門し、版画と日本画を学んだ。明治39年ソウルの京城日報社の絵画記者になったが、明治41年、24歳の時に岡山市門田屋敷の細木原家の養子となり、翌年日本に戻って「ホトトギス」「東京パック」「東京日日新聞」「中外商業新聞」「大阪朝日新聞」などにコマ絵や挿絵を描いた。大正3年に岡本一平らと東京漫画会を結成、同会は大正12年に日本漫画会に改称した。大正13年に「日本漫画史」を出版。また、日本画では天草神来に師事して日本美術院会員となり院展に出品、川柳や大津絵の研究も手がけた。昭和20年戦災を避けるため、長男の嫁の実家のある新見に疎開し、当地に多くの作品を残している。昭和33年、74歳で死去した。

岡山(29)-ネット検索で出てこない画家


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日本近代洋画の発展に大きく寄与した岡山の先駆的洋画家たち

2016-08-02 | 画人伝・岡山

文献:岡山の美術 近代絵画の系譜岡山の絵画500年-雪舟から国吉まで-

日本近代洋画の軌跡をたどると、岡山出身の洋画家たちが大きく関与していることがわかる。松岡寿、原田直次郎は日本最初の洋画団体「日本美術会」の結成に参加するなど、黎明期の中央洋画壇で指導者的役割を果たした。松原三五郎は、満谷国四郎(1874-1936)、鹿子木孟郎(1874-1941)らを育て、のちに大阪に出て関西美術会の発起人に名を連ね、大阪画壇の黎明期に活躍、さらに発展期には赤松麟作(1878-1953)が指導者として大きな役割を果たした。京都においては、浅井忠の後を継いで、鹿子木孟郎が関西美術院の院長に就任、教授として寺松国太郎(1876-1943)が指導にあたった。また、大原美術館のコレクションの基礎を作った児島虎次郎(1881-1929)、国際的作家としての地位を築いた国吉康雄(1889-1953)、日本抽象絵画の先駆者である坂田一男(1889-1956)など、多くの先駆的洋画家を輩出している。

満谷国四郎(1874-1936)
明治7年吉備郡総社町門田生まれ。同郷の岡山洋画の先駆者・堀和平とは親戚関係にあった。岡山尋常中学校で松原三五郎に洋画を学ぶが、3年で同校を中退して上京、五姓田芳柳に入門、ついで小山正太郎の不同舎に学んだ。明治33年、鹿子木孟郎、丸山晩霞らと米国を経由して渡仏した。明治35年に中川八郎、吉田博らと太平洋画会を結成、以後同会を中心に活動した。明治40年創設された文展の審査員となり、大正14年帝国美術院会員となった。昭和11年、63歳で死去した。

鹿子木孟郎(1874-1941)
明治7年岡山市生まれ。少年のころ画家を志し、明治21年岡山高等小学校を卒業後、松原三五郎の天彩画塾で2年間学び、松原の大阪転任を機に上京するが病気になり3カ月で帰郷。明治25年に再び上京して小山正太郎の不同舎に入学した。明治33年、満谷国四郎、丸山晩霞らとともに米国を経由して渡仏した。明治37年帰国、京都に鹿子木室町塾を開き、翌年浅井忠らと関西美術院を設立。明治41年には浅井忠の後を継ぎ院長となった。昭和16年、69歳で死去した。

寺松国太郎(1876-1943)
明治9年都窪郡平田町生まれ。洋画を志し岡山県尋常中学校を中退して田中九衛に学んだ。明治33年上京して小山正太郎の不同舎に学んだ後、岡山で図画教師となった。明治39年、浅井忠を慕い京都に出て、開設されたばかりの関西美術院に入り、明治41年には教授に就任した。坦斎と号して日本画も多く描いた。昭和18年、68歳で死去した。

赤松麟作(1878-1953)
明治11年津山市本町生まれ。5歳の時に一家で大阪に出た。明治27年山内愚僊に油絵を学び、明治29年に東京美術学校に西洋画科が設けられると上京して入学、黒田清輝に師事し、在学中から白馬会に出品した。明治37年大阪に戻り大阪朝日新聞社に記者として大正6年までつとめた。明治40年には大阪梅田に赤松洋画塾を開設し、大阪画壇の発展に寄与した。昭和28年、76歳で死去した。

児島虎次郎(1881-1929)
明治14年川上郡下原村生まれ。4歳の時に松原三五郎が画才に驚き、画家になるのを勧めたが、5歳の時に父を失くしたため、家業を手伝いつつデッサンにつとめ、明治34年に上京、白馬会研究所に通った後、翌年東京美術学校に入学した。明治41年大原孫三郎の援助で渡仏、翌年ベルギーのガン市立美術学校に入学して学んだ。大正元年に帰国して倉敷に定住、その後しばしば渡欧し、大原孫三郎の要請によって西洋絵画の蒐集にあたり、これが後の大原美術館の基礎となった。昭和4年、47歳で死去した。

国吉康雄(1889-1953)
明治22年岡山市中出石町生まれ。明治39年県立工業学校染織科を中退し、英語習得を目的に17歳で単身渡米した。肉体労働に従事しながら夜学に通い、やがて本格的な画家を志し、明治43年ニューヨークに移住、種々の美術学校に通ったあと大正5年にアート・スチューデンツ・リーグに入学、ケネス・ヘイズ・ミラーの指導を受けた。以後、米国で制作活動し、戦争中は国籍を越えたヒューマニズムの立場を貫いた。昭和28年、63歳で死去した。

坂田一男(1889-1956)
明治22年岡山市船頭町生まれ。明治41年県立岡山中学校を卒業後、医業を志し高校入試に挑むが失敗を重ね、ノイローゼ気味になり、療養のかたわら絵を習ったことをきっかけに画家の道を進みはじめた。大正3年上京して本郷絵画研究所で岡田三郎助に師事、ついで、川端画学校に移り、藤島武二に師事した。大正10年に渡仏、最初グランド・ショミエールに通い、のちにフェルナン・レジェの研究所に入った。パリでは日本人画家との交際を断ち、西洋的合理精神に基づいた抽象絵画の研究をし、構造的・幾何学的な純粋抽象表現を確立した。昭和31年、66歳で死去した。

岡山(28)-ネット検索で出てこない画家


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