松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま鳥取県を探索中。

7月30日(土)のつぶやき

2016-07-31 | つぶやきまとめ

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岡山の近代洋画、松岡寿と原田直次郎

2016-07-30 | 画人伝・岡山

文献:岡山の美術 近代絵画の系譜岡山の絵画500年-雪舟から国吉まで-

幕末から明治初期にかけて洋画塾が多く開設され、岡山出身の洋画家としては、川上冬崖の聴香読画館で学んだ松岡寿(1862-1944)、高橋由一の天絵学舎で学んだ原田直次郎(1863-1899)、五姓田芳柳の五姓田塾で学んだ松原三五郎(1864-1946)と平木政次(1859-1943)、五姓田義松に学び芳柳の娘と結婚した渡辺文三郎(1853-1936)らがいる。また、ヨーロッパに留学する洋画家も増え、松岡寿(1862-1944)はローマ美術学校に学び、原田直次郎(1863-1899)はミュンヘン美術学校でガブリエル・マックスに師事した。二人は明治20年頃に相次いで帰国したが、この頃の日本は、フェノロサや岡倉天心らによる日本画復興を唱える国粋主義運動が勃興しており、内国絵画共進会では洋画の出品が拒否され、明治20年に設立された東京美術学校には洋画科が除外された。洋画家の不満は募り、明治22年、松岡寿、原田直次郎は、浅井忠、小山正太郎、山本芳翠らとともに日本最初の洋画団体「明治美術会」を結成し、その中心となって活動した。

松岡寿(1862-1944)
文久2年岡山藩山屋敷生まれ。父の松岡隣は岡山藩の洋学研究の先駆者。明治5年父とともに上京し、翌年川上冬崖の聴香読画館に入学して西洋画技法を学び、さらに、明治9年工部美術学校に入学し、イタリアから招聘されたアントニオ・フォンタネージに学んだ。フォンタネージの帰国後は、小山正太郎、浅井忠らとともに退学し、研究組織「十一字会」を結成した。明治13年にローマに留学、明治16年には国立ローマ美術学校に入学して、人物画専門科で本格的な研究を積んだ。明治21年に帰国し、翌年日本最初の洋画団体「明治美術会」を浅井忠、小山正太郎、山本芳翠、原田直次郎らと結成した。明治34年に明治美術会が解散した後は、黒田清輝、岩村透らと国民美術協会を結成し、民間からの美術運動を推進、文展の開設にも尽力した。明治40年から文展の審査員をつとめ、農務省商品陳列館長、特許局審査官、東京美術学校教授、東京高等工芸学校の初代校長などを歴任した。昭和19年、83歳で死去した。

原田直次郎(1863-1899)
文久3年江戸小石川柳町生まれ。父の原田一道は鴨方藩士。明治3年、大阪開成学校で仏語を学び、保田東潜に漢学を習った。3年後に東京に戻り、東京外国語学校フランス語科で学んだ。また、12歳の頃から山岡成章について洋画を学び、明治16年に天絵学舎で高橋由一の指導を受けた。翌年兄・豊吉の勧めでドイツに渡り、ミュンヘン美術学校に入学、ドイツ画派の伝統を守る歴史画の大家ガブリエル・マックスに師事した。ミュンヘン滞在中に森鴎外と交友し、生涯の友となった。明治20年に帰国、明治美術会の結成に参加、また、画塾鐘美館を開き三宅克己、大下藤次郎、和田英作らと指導したが、明治32年、36歳で死去した。

渡辺文三郎(1853-1936)
嘉永6年備中矢掛町生まれ。幼いころから画を好み、四条派の岡本豊彦の門人・種彦に学び、興譲館で漢籍を修めた。明治6年上京し、五姓田義松に洋画を学んだ。明治13年に義松が欧州に留学したため、五姓田塾を預かり門下の指導にあたった。明治22年に明治美術会の結成に参加、明治35年には太平洋画会の創立に参加、以後同展に出品した。初代五姓田芳柳の長女で義松の妹幽香と結婚し、おしどり画家といわれた。晩年は薇山の号で洋画の技法を加味した日本画も描いた。昭和11年、84歳で死去した。

平木政次(1859-1943)
安政6年江戸生まれ。備中松山藩士・平木政徳の長男。一時備中松山に帰るが、明治6年両親とともに横浜の祖父の家に移り、当時横浜にいた五姓田芳柳の内弟子となった。明治10年、芳柳が大阪の陸軍病院勤務となったため、後を追って大阪に行き、京都の田村宗立、神戸の前田吉彦らと交友した。その後、東京に戻り、明治11年、玄々堂印刷会社に入社し、石版色刷の原画を描く画工となった。明治13年から文部省教育博物館に勤務、博物館の標本画を描き、明治23年からは東京帝国大学理科大学の嘱託員として製図室を担当、東京高等師範学校にも嘱託員として勤務。晩年には『明治初期洋画壇回顧』を出版した。昭和18年、85歳で死去した。

松原三五郎(1864-1946)
元治元年岡山生まれ。備中岡山藩の御典医の子。画家を志し中学を中退して上京、五姓田芳柳に師事した。明治17年岡山に戻り、岡山県師範学校と岡山中学の図画教師をつとめながら、画塾天彩舎を開き洋画の指導にあたり、満谷国四郎、鹿子木孟郎、徳永仁臣らを育てた。明治23年、大阪府の要請を受け、大阪師範学校に転任、以後大阪府立中学校、大阪陸軍地方幼年学校にも勤務した。大阪転任と同時に塾も大阪に移し、これが大阪における最初の洋画塾といわれている。明治37年、教職を去った後は、塾を天彩画塾と改称し、大正14年に閉めるまで多くの門人を育てた。明治29年には有志とともに大阪に関西最初の洋画団体「関西美術会」を結成、明治34年には同会を京都に移すなど、関西画壇の重鎮として活躍した。昭和21年 83歳で死去した。

岡山(27)-ネット検索で出てこない画家


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7月28日(木)のつぶやき

2016-07-29 | つぶやきまとめ

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7月27日(水)のつぶやき

2016-07-28 | つぶやきまとめ

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岡山洋画の先駆者、堀和平と前田吉彦

2016-07-27 | 画人伝・岡山

文献:岡山の美術 近代絵画の系譜岡山の絵画500年-雪舟から国吉まで-

明治以降、岡山からは日本の近代洋画史において重要な仕事をした多くの洋画家を輩出している。その中で先駆者とされるのが、堀和平(1841-1892)と前田吉彦(1849-1904)である。菅原道真公を写実的に描いた堀和平の「天神像」は、岡山最初の油絵といわれている。彼らは、高橋由一、川上冬崖、五姓田芳柳といった我が国の初期洋画家たちと同様に、乏しい知識を手掛かりに、暗中模索のなか、見よう見まねで油絵の技法の習得に取り組んだ。堀と接した洋画家には、同じ総社出身の満谷国四郎、吉富朝次郎がおり、鹿子木孟郎も和平の描く油絵を熱心に見ていたという。和平は、鹿子木少年の熱心さに惹かれ、養子にしたいと申し入れたこともあったという。一方の前田は、神戸で美術教育に尽力し、神戸画壇の草分けとなった。

堀和平(1841-1892
天保12年総社西宮本町生まれ。堀和助安忠の四男。本名は和平安郷。実家は志保屋と号して酒店、質屋などを営んでいた。長男安道は病弱のため学問の道に進み、二男と三男は早世したため、和平が家業を継いだ。先進性に優れ、行動的な性格から実業家としても活躍し、仕事の関係でしばしば訪れていた神戸で、外国人から見よう見まねで油絵の技法を学んだという。総社に帰ってから自宅2階を改造し、ペンキを塗って画室を造り本各的な油絵制作を開始した。和平の画業については不明な点が多いが、菅原道真公を写実的に描いた「天神像」が、岡山最初の油絵とされている。洋画のほか、杏邨という号で日本画も描いている。明治24年、貿易商になるため神戸に進出したが、翌年、52歳で死去した。

前田吉彦(1849-1904)
嘉永2年高梁川端町生まれ。備中松山藩士・前田長兵衛の三男。同藩の野間凸渓に日本画を学び、のちに神戸に出た際に長崎から来ていた木村静山の描く洋風画に興味を示し、ほとんど独学で洋画の技法を習得した。明治11年から神戸師範学校で教鞭をとり、主に鉛筆画を教えた。明治14年の第2回内国勧業博覧会に「夕陽の景」と題して油絵を出品、明治33年神戸美術協会によって神港倶楽部で開催された第1回美術品展覧会に金箔の衝立に油絵具で描いた「静の舞」を出品するなど、神戸洋画壇の草分けとして活躍した。明治27年頃に神戸市池田の妙楽寺に入り、蟻然もしくは蟻禅と称するようになった。「画法階梯」「小学用画階梯」「小学用画階梯虫魚之部」「画学臨帖」など多くの図書教科書を著し、美術教育に尽力した。明治37年、56歳で死去した。

岡山(26)-ネット検索で出てこない画家


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7月25日(月)のつぶやき

2016-07-26 | つぶやきまとめ

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東京に出て学んだ岡山の日本画家

2016-07-25 | 画人伝・岡山

文献:岡山の近代日本画 2000

岡山の日本画家は京都で学ぶものが多かったが、伝統的絵画の革新が急速に行なわれた東京に出て学ぶものもいた。富岡永洗、鏑木清方に師事して江戸期の歴史風俗に取材した美人画を多く描いた大林千萬樹(1887-1959)や、小堀鞆音に師事して歴史画を描いた棚田暁山(1878-1959)らもいるが、多くの若者たちが東京美術学校で学んでいる。

大林千萬樹(1887-1959)
明治20年岡山市生まれ。名は頼憲。若くして上京し、富岡永洗に日本画を学び、ついで川合玉堂、鏑木清方に師事した。大正2年第13回巽画会で「胡笳の声」が褒状一等となった。大正3年に再興第1回院展に初入選、2、3、4回展と連続入選し、第9回院展には「紅粧」が入選した。江戸期の歴史風俗に取材した美人画を多く描いた。大正末期より奈良に住み、のちに名古屋に移り、昭和10年代には京都に住むなど、各地を転々とし、昭和34年、熱海において73歳で死去した。

棚田暁山(1878-1959)
明治11年西北条郡津山町元魚町生まれ。名は梅吉。別号に真楯がある。少年期から古画、有識故事への関心が深く、上京して小堀鞆音に入門し、歴史資料や古美術品の収集を手伝いながら歴史画を学び、鞆音門下生で組織された「革丙会」の幹事もつとめた。日本絵画協会展などに出品。安井靫彦らが結成した「紅児会」や鞆音の「歴史風俗画会」などでも研鑽を積んだ。戦時中は津山に疎開したが、戦後は再び上京して女子校の図画習字の教師をつとめた。昭和34年、82歳で死去した。

戸田天波(1880-1961)
明治13年後月郡西江原村生まれ。幼いころから河合栗邨に学び、明治29年京都市美術工芸学校に入り、今尾景年に四条派を学んだ。のちに東京に出て橋本雅邦の塾に入り、翌年東京美術学校に入学、雅邦没後は寺崎広業に指導を受け、明治44年日本画科を卒業。帰郷ののち大阪に出て活動、さらに井原、京都、東京と転居した。昭和36年、82歳で死去した。

綱島静観(1876-1963)
明治9年上房郡有漢村生まれ。名は政治。思想家の綱島梁川は実兄。東京美術学校に入学し、橋本雅邦の指導を受け、筆谷等観、大智勝観らと交友した。卒業後は東京成城中学校の絵画専任講師をつとめた。院展、文展に出品、また、同郷の棚田暁山の後援組織「紅緑会」に参加していたと思われる。有漢小学校、有漢町教育委員会に作品が残っている。昭和38年、88歳で死去した。

御船綱手(1876-1941)
明治9年窪屋郡倉敷村生まれ。名は彦治郎、字は士彦。別号に祥山、百丈、百園主人がある。14歳の時に画家を志し、はじめ円山派の木村応春に、ついで大阪の渡辺祥益に学び、のちに東京に出て川端玉章に師事した。明治29年に東京美術学校に編入、橋本雅邦の指導を受けた。在学中は日本絵画協会などに出品、卒業後は大阪で画業に励んだ。明治43年の日英博覧会に際して西洋美術研究のため、アメリカ、ヨーロッパ各国を訪ねた。晩年は自宅に植物園を造り、直物研究を深め、週刊朝日に「百花画譜」を発表するなどした。昭和16年、66歳で死去した。

小倉魚禾(1876-1957)
明治9年上房郡高梁町生まれ。名は善三郎。別号に嘯風、白菫、壇溪、蘇山、鼠三、望牛山荘主人などがある。東京美術学校に入学して、川端玉章の指導を受け、平福百穂、結城素明らと交友した。卒業後は帰郷し維新高等小学校などにつとめた。明治40年再び上京して画業に励むが、母の死により帰郷。翌年は京都に出て、関西美術院で鹿子木孟郎に洋画を学んだ。明治42年からは再び郷里で教職についた。昭和32年、82歳で死去した。

林皓幹(1894-1923)
明治27年御津郡伊島村生まれ。名は虎雄。東京美術学校を卒業後、日暮里渡辺町に画室を設けて、府立第五中学校の教師をしながら画業に励み、帝展などに出品した。健康に恵まれず、帰郷して静養につとめたが、大正12年、30歳で死去した。

松島白虹(1895-1937)
明治28年岡山市生まれ。東京美術学校で結城素明に学び、帝展、文展に出品したほか、平和記念東京博覧会、パリ日本美術展覧会などでも活躍した。女子美術専門学校の教授をつとめた。昭和12年、43歳で死去した。

岡山(25)-ネット検索で出てこない画家


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7月20日(水)のつぶやき

2016-07-21 | つぶやきまとめ

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京都で学んだ岡山の日本画家

2016-07-20 | 画人伝・岡山

文献:岡山の美術 近代絵画の系譜岡山の近代日本画 2000

小野竹喬(1889-1979)、池田遙邨(1895-1988)に代表される岡山の京都派だが、ほかにも石井金陵に南画を学び、のちに京都に出て山元春挙に師事した高橋秋華(1878-1952)や歴史画を得意とした森安石象(1879-1952)、今尾景年に学び、岡山に京都の新日本画を伝えた喜多村松斎(1867-1934)らがいる。岡山の青年画家たちは、新生日本画に未来を求めて京都を目指し、京都市立絵画専門学校などで京都派の画家に学んだのち、文展、帝展、国画創作協会展などを舞台に活躍した。

高橋秋華(1878-1952)
明治11年邑久郡幸島村生まれ。名は敏太。別号に聴鶯居がある。石井金陵に南画を学び、のちに京都に出て山元春挙に師事した。昭和5年に完成した東京の明治神宮絵画館に「御降誕御産殿図」が残っている。昭和27年、79歳で死去した。

森安石象(1879-1952)
明治12年都窪郡庭瀬町生まれ。名は石蔵。谷口香☆(☆は山+喬)に師事した。歴史画を得意とした。昭和3年に岡山に帰り、門田の三友寺境内に画房を設けた。倉敷市の瀬戸寺に「盛綱先陣図」が残っている。昭和27年、73歳で死去した。

喜多村松斎(1867-1934)
慶応3年広島県福山生まれ。今尾景年につき円山派を学び、岡山に帰り山陽高等女学校の教師をしたほか、自宅でも広く教え、京都の新日本画の傾向を岡山に伝えた。昭和9年、68歳で死去した。

井上蘆仙(1873-1941)
明治6年後月郡井原村新町生まれ。名は専次郎。川上左平の長男、叔父・井上藤七郎の養子となる。大阪の小野晴雲、中川蘆月に学び、さらに京都に出て菊池芳文の門に入った。のちに大阪に戻り、相愛女学校で絵画教師をつとめた。大正13年、招かれて井原興譲館の図画教師となり、かたわら画業に励んだ。昭和16年、69歳で死去した。

丸浜大檣(1876-1960)
明治9年川上郡成羽町生まれ。名は善次郎。別号に光浦、高澄がある。京都に出て菊池芳文に師事、その後菊池契月の門に入った。帝展に出品した。昭和35年、85歳で死去した。

石橋謙吾(1897-1932)
明治30年浅口郡黒崎村生まれ。別号に訪溪、春更、思更がある。大正7年浅口郡徳本尋常高等小学校の教諭となるが、退職して京都に出て小野竹喬の門に入った。国展に出品するが、国画創作協会解散後は、新樹社の設立に参加した。その後、洋画家を目指す弟の博惠とともに東京に出るが、昭和7年、川崎市において、36歳で死去した。

小林華徑(1897-1980)
明治30年小田郡笠岡町生まれ。名は増治。京都市立絵画専門学校卒業。土田麦僊、西村五雲に師事し、福田平八郎の指導も受けた。京都在住の岡山県出身画家の団体「烏城会」の会員になる。帝展に出品したが、昭和19年に帰郷して笠岡の住吉に住んだ。戦後は岡山県美展審査員などをして地元で活動、昭和30年には笠岡美術協会の設立に参加した。昭和55年、84歳で死去した。

村上志郎(1900-1949)
明治33年小田郡笠岡町生まれ。笠岡商業学校を卒業後、大阪の住友銀行に就職。翌年、画家を志し銀行を辞め帰郷。しばらく小野竹喬の指導を受けた。その後、土田麦僊に師事して国画創作協会展に出品、同展解散後は新樹社の設立に参加し、新樹社解散後は笠岡で活動した。昭和24年、50歳で死去した。

木村丈夫(1900-1976)
明治33年都窪郡早島町生まれ。京都市立絵画専門学校研究科修了。菊池契月、川北霞峰に師事した。帝展、新文展に入選を重ね、烏城会の設立に参加した。昭和51年、77歳で死去した。

三木彩光(1900-1936)
明治33年吉備郡総社町生まれ。京都市立絵画専門学校卒業。菊池契月に師事した。昭和11年、37歳で死去した。

岡山(24)-ネット検索で出てこない画家


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7月17日(日)のつぶやき

2016-07-18 | つぶやきまとめ

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浪華の美人画家・上島鳳山

2016-07-17 | 画人伝・岡山

文献:上島鳳山と大阪の画家たち、笠岡画人伝・俳諧史

小田郡笠岡村の辻家に生まれ、大阪の上島家を継いだ上島鳳山(1876-1920)は、円山派の西山完瑛らに師事し、動物画や美人画を得意とした。酒を愛する豪放磊落な性格で、身近にいた北野恒富(1880-1947)によると、かなりのアルコール依存症だったらしく、酒が切れると冷酒をあおって描いたという。能や狂言についての造詣も深かった。繊細で官能的な鳳山の美人画は、関西では竹内栖鳳に迫る人気を得ていたが、45歳で死去したため今は知る人は少ない。

上島鳳山(1875-1920)
明治8年小田郡笠岡村生まれ。本は寿治郎。辻喜平の二男。祖父は辻鳳山。実家は刀鍛冶、のちに理化学器械の製造を家業としていた。画房を鳳鳴画屋と称した。はじめ大阪の円山派の画家・木村貫山に学び、ついで西山完瑛、渡辺祥益に師事した。明治33年に大阪の上島多次郎の長女くに子と結婚して上島姓を継いだ。結婚までは祖父と同姓同名の「辻鳳山」を名乗っていた。明治42年、第3回文展に「緑陰美人遊興之図」を出品するが落選、以後文展に出品した記録はない。大正元年に大阪の青年画家による絵画運動「大正美術会」の設立に北野恒富らと参加、大正4年の第1回大阪美術展覧会では審査員をつとめたが、第4回展では恒富とともに辞退した。大正9年、45歳で死去した。

辻鳳山(1794-1850)
寛政6年生まれ。名は喜平。古手屋・辻徳十郎の子。上島鳳山の祖父。はじめ黒田綾山に学び、のちに円山派の渡辺南岳に師事した。敬業館教授の小寺清先、関鳧翁ら文人と交流し、清先の長男・清之の著書『備中名勝考』の挿絵や、笠岡笠神社の衝立の絵などを描いた。嘉永3年、57歳で死去した。子の辻喜平(2代目)は画家ではなく、理化学研究家だった。二代目の二男の寿治郎が上島鳳山である。

鳳陽(不明-不明)
上島鳳山の弟子。鳳山には実子として2人の男子がいたが、いずれも早世した。鳳陽は昭和4年の時点で、鳳山と同様に井口古今堂と関係があったことがわかっている。

岡山(23)-ネット検索で出てこない画家


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7月15日(金)のつぶやき

2016-07-16 | つぶやきまとめ

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7月14日(木)のつぶやき

2016-07-15 | つぶやきまとめ

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小野竹喬、池田遙邨ら、栖鳳門下の岡山の日本画家たち

2016-07-14 | 画人伝・岡山

文献:岡山の近代日本画 2000

四条派は岡山出身の岡本豊彦の画系を中核に発展した。豊彦の門人である塩川文麟、さらにその門人の幸野楳嶺と続き、楳嶺のあとを受け、明治30年代以降の京都の指導者として君臨したのは楳嶺門下の竹内栖鳳だった。その栖鳳門には多くの岡山出身の日本画家たちが学んでいる。のちに文化勲章を受章する小野竹喬(1889-1979)、池田遙邨(1895-1988)をはじめ、東原方僊、稲葉春生、森谷南人子らが代表的な画家である。

小野竹喬(1889-1979)
明治22年小田郡笠岡村生まれ。祖父は白神澹庵、長兄は小野竹桃。明治36年、京都に出て竹内栖鳳に入門。明治44年京都市立絵画専門学校を卒業。このころ黒猫会や仮面会などの絵画革新運動に参加。大正5年文展で特選、しかし翌年文展に落選したのを機に文展の審査方法に対する不満が高まり、大正7年、土田麦僊、榊原紫峰らと国画創作協会を創立し、以後国展を中心に活動する。国展開催後は帝展に復帰した。昭和22年日本芸術院会員、昭和43年文化功労者、昭和51年文化勲章。昭和54年、89歳で死去した。

池田遙邨(1895-1988)
明治28年生まれ。倉敷市出身。明治43年、大阪に出て洋画家・松原三五郎の天彩画塾に入門、大正2年、小野竹喬と知り合い日本画に関心を持ち独学し、大正3年文展に初入選、大正8年、竹内栖鳳に入門した。大正15年京都市立絵画専門学校研究科卒業、昭和3年帝展で特選、昭和35年日本芸術院賞受賞、昭和51年日本芸術院会員、昭和59年文化功労者、昭和59年文化勲章。昭和63年、92歳で死去した。

小野竹桃(1880-1959)
明治13年小田郡笠岡村生まれ。小野竹喬の長兄。明治33年頃、竹内栖鳳に師事した。明治39年より大阪の俳人・松瀬青々が主宰する「寶松」に俳句や短文を寄稿、明治42年に文芸協会演劇研究所の発足にあたり、第一回生となった。大正8年、帝展に入選し再び日本画家として活動するようになった。また、竹喬らが創立して国展には素描や版画で入選、国展解散後は新樹社設立に参加した。昭和34年、79歳で死去した。

森谷南人子(1889-1981)
明治22年小田郡大井村生まれ。明治27年ころ神戸に移住した。大正4年、京都市立絵画専門学校研究科を修了、在学中に竹内栖鳳を指導を受けた。国展に出品し、国展解散後は、新樹社の結成に参加した。帝展や日本南画院展にも出品した。昭和56年、91歳で死去した。

柴原魏象(1885-1954)
明治18年上房郡高梁町本町生まれ。明治40年、京都市立美術工芸学校専攻科修了。竹内栖鳳に師事し、のちに竹杖会に所属した。文展、帝展のほか日本美術展などに出品した。俳句、俳画、漫画をたしなみ、明治から大正にかけて時事雑誌や俳句雑誌に挿絵を描いた。昭和29年、70歳で死去した。

東原方僊(1886-1972)
明治19年邑久郡福岡村生まれ。小学校卒業後、画家を志し、吉備津・吉備津彦神社の御用絵師・黒住義方に学んだ。明治43年ころ京都に出て、竹内栖鳳の門に入った。大正4年に文展に初入選し、以後は文展、帝展、新文展を舞台に活躍した。京都在住の岡山県出身画家で結成した「烏城会」の中人的存在だった。昭和47年、86歳で死去した。

稲葉春生(1890-1976)
明治23年下道郡新本村生まれ。岡山県師範学校を卒業後、総社や岡山の小学校で指導や校長を歴任、日本画を喜多村松斎に学んだ。大正14年、池田遙邨の紹介で竹内栖鳳に入門、栖鳳が湯河原に転居したのちは、土田麦僊に師事した。帝展、文展などに出品した。帰郷後は、岡山県在住日本画家の研究団体「青岡会」や日本画研修団体「青丘社」を結成するなど、岡山の日本画の振興につとめた。昭和51年、85歳で死去した。

岡山(22)-ネット検索で出てこない画家


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7月13日(水)のつぶやき

2016-07-14 | つぶやきまとめ

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