松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま長崎県を探索中。

幕末の異色の南画家・藤本鉄石

2016-06-30 | 画人伝・岡山

文献:岡山の絵画500年-雪舟から国吉まで-、岡山の美術 近代絵画の系譜 

藤本鉄石(1816-1863)は、備前に生まれ、25歳のときに脱藩して京都に移り住み、やがて尊皇攘夷思想に共鳴し、文久3年、天誅組を組織して総裁となり、大和で倒幕の兵を挙げ、大和十津川で戦死した。一方で、浦上春琴の門人の伊藤花竹について南画を学び、さらに画譜、画論などから独学したとみられる。南紀への旅を振り出しに全国各地を歴遊しており、各地で名画、名筆に触れ、自然の風物に接して画技を磨いたものと思われる。旅の費用の一部は画料だったと推測され、職業的に多作したとも思われる。山水や人物が多く、いかにも武士らしい強い筆致の中に瀟洒な味わいが漂う画風が持ち味である。

藤本鉄石(1816-1863)
文化13年上東郡東川原村生まれ。名は真金、字は鋳公、通称は学治のちに津之助、別号に鉄寒士、柳間契民、海月浪士、採菊老人、都門売菜翁、君山人、吉備中山人など多い。備前藩の小吏片山佐吉の二男で、14歳で父の実兄の藤本重賢の養子となった。16歳の時に藩の倉庫の番人となり、翌年家督を相続した。その頃から浦上春琴の門人で備前藩儒者の伊藤花竹について南画を学びはじめたと思われる。25歳の時に用水番の勤務中に、逃走してそのまま脱藩した。翌年からは京都を本拠地とし、国学や陽明学、天心独明流の剣術や長沼流の軍学を修め、のちに京都伏見奉行の依頼に応じて学校を開くまでになった。その一方で、南紀への旅を振り出しに、関東、北陸、四国、九州と各地を歴遊した。鉄石は自作の漢詩の中で「泉州堺の路傍で画を売ろうとしたが一顧だにされなかった」と告白しており、旅費の一部は画料によって捻出していたものと思われる。やがて尊皇攘夷思想に共鳴し、自ら「天誅組」を組織して総裁となり、大和で倒幕の兵を挙げた。一時は1500人以上の兵力を擁したが、結局敗れ、文久3年、48歳で大和十津川において戦死した。

岡山(12)-ネット検索で出てこない画家


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広重版画にも使われた『日本勝地山水奇観』の著者・淵上旭江

2016-06-29 | 画人伝・岡山

文献:岡山の絵画500年-雪舟から国吉まで-岡山県の絵画-古代から近世まで-、岡山県美術名鑑、備作人名大辞典

備前に生まれ、諸国を歴遊したのち大坂に定住した淵上旭江(1753-1816)は、各地の名勝を描いた画と詩による版画集『日本勝地山水奇観』を寛政11年に刊行した。同書はのちに歌川広重の名勝版画に利用され、また明治の学校教科書の挿図にも採用されたこととなり、一躍その名を知られるようになった。また、旭江と大坂で交友のあった備中出身の宮本君山(不明-1827)も、同じように諸国歴遊ののちに大坂に定住して活躍した。君山に関する資料は少ないが、大坂文人画壇の有力者である岡田半江と同列に扱われた知名人とみられ、南画の入門書『漢画独稽古』などの著書がある。

淵上旭江(1753-1816)
宝暦2年児島郡上山坂村の農家に生まれ、まもなく宮ノ浦に移ったらしい。名は禎、字は白亀、はじめ曲江と号して、のちに旭江と改めた。幼いころから画を好んだとされるが、本格的に学ぶのは明和年間に備前・備中に望月派の大西酔月が来遊した際に、岡鶴汀、その弟・延年、平曼容らとともに師事して以降のことである。20歳頃に故郷を出て20余年にわたり諸国を遊歴した。四国から九州へ渡り、長崎の地に滞留した際に清の画家・沈南蘋の画法をはじめ、明清画の画法を習得したものと思われる。

豊後竹田の岡城下を訪れた際には、田能村竹田の師である淵野真斎らに画技を教授した。竹田の記述によれば、当時の岡城下の絵画界は、狩野派が独占していたため、旭江の出現により人々はいわゆる漢画なるものを知り、旭江の画を求めて殺到したという。42歳の時に、大坂江戸堀に定住し、女性画家・鈴川玉簾と同居、十時梅厓、皆川淇園らと交友した。寛政11年に諸国名勝を写生した画稿に詩を付けた版画集『日本勝地山水奇観』4冊を、続いて享和2年には続編4冊を刊行した。さらに拾遺編、付録を上梓する準備を進めていたが、旭江の死去により未刊に終わった。同書は当時盛んになりつつあった旅行熱に拍車をかけた人気作品であり、のちに歌川広重の名勝錦絵にも利用された。文化13年、64歳で死去した。

宮本君山(不明-1827)
名は瓊、字は伯鳳。別号に峨洋がある。備中中洲、備中上刑部村大井野の人とされるが定かではない。画は『芥子園画伝』などの画譜・画論類により学んだとみられ、人物画から推測すると、伊勢山田寂寺の画僧・月僊に師事した可能姓も認められる。君山については遺作をふくめ、関係資料が少ないが、長崎に遊学したことと、享和年間から少なくとも20年間近く大坂心斎橋瓦町に在住していたことが確認されている。当時の大坂ではかなりの知名人であったことが、『浪華画人組合三幅対』に大坂南画壇の人気画家だった岡田半江らと同列に並んでいることからも推測できる。

長崎遊学の際に豊後竹田を訪れた際のことだと思われるが、田能村竹田が「君山先生が来遊され、文晁・孟熙・成寛らの作品を持参してみせられたが、その結果画道が大いに開けた」という意味のことを『竹田荘師友画録』に記している。文化4年には著書『漢画独稽古』を出版、絵手本のほかに画論、著名画家、用具などに言及した絵画入門書で、人気を博した。また、倉敷の医師・古屋野意春が刊行した『萬国図解説』の挿絵として世界図を描いている。文政10年死去した。

岡山(11)-ネット検索で出てこない画家


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岡山に南画を伝えた讃岐の黒田綾山と肥前の釧雲泉

2016-06-28 | 画人伝・岡山

文献:岡山ゆかりの画人たち-桃山から幕末まで-、岡山県美術名鑑、備作人名大辞典

岡山に本格的な南画を伝えたのは讃岐の黒田綾山(1755-1814)である。綾山は、福原五岳に学び、人物画を得意とした。安永9年ころに備中玉島に遊び、この土地を愛し、天明5に再来して終生玉島に住んだ。西山拙斎、頼春水、菅茶山らと親交があり、備前・備中にわたって南画を指導し、のちに四条派の代表的画人となる岡本豊彦、小野雲鵬らを育てた。また、肥前島原出身の釧雲泉(1759-1811)は、長崎で明清画を研究した後に、各地を遊歴し、岡山には寛政年間のはじめに訪れ、数年間滞在して画作に励んでいる。備前の小橋陶復はこの時期の門人であり、陶復にも多くの門人がいる。また、雲泉は、画人としても知られる庭瀬藩の江戸家老・海野蠖斎とも親しく交流している。

黒田綾山(1755-1814)→関連記事
宝暦5年高松生まれ。名は良、字は亮輔、忠良。別号に起雲、南海山人、石隠、雲翁などがある。福原五岳に学んだ。備中玉島に定住し、多くの門人を育て、岡山南画の普及に貢献した。画域は広いが、とくに人物画を得意とした。文化11年、60歳で死去した。

釧雲泉(1759-1811)
宝暦9年島原生まれ。名は就、字は仲孚、別号に岱岳、六石などがある。長崎に出て明清画を研究した後に、四国、山陽、大坂、江戸と遊歴し、文化8年、越後出雲崎において53歳で死去した。

岡本綾江(1742頃-1823)
寛保2年頃生まれ。名は直、通称は團右衛門。浅口郡黒崎村の人。代々染織を家業としていた。幼いころから画を好み、黒田綾山に師事して高弟となった。歴史画をよくし、特に人物を得意とし、故実にも精通していた。文政6年、82歳で死去した。

守屋中岳(不明-不明)
文政頃の窪屋郡日吉村の人。通称は俊平。黒田綾山に師事した。

小橋陶復(1764-1820)
明和元年生まれ。姓は平、名は貞公、通称は市蔵。別号に平咸、姑射山人などがある。父は和気郡香登の大庄屋で、そのあとを継いだ。幼いころから画を好み、ちょうど備南地方を遊歴中の釧雲泉に師事し、山水、墨竹、墨梅などを学んだ。伊部焼の陶器に竹を描いた風趣を添えることは陶復によってはじめられたとされる。文政3年、57歳で死去した。

佐藤陶崖(1787-1843)
天明7年生まれ。名は信睦、字は子修、通称は次郎吉あるいは左次右衛門、のちに貫一といった。和気郡伊部村の人。医業のかたわら備前焼の陶器をつくり、画を小橋陶復にまなび、書道もよくした。著書に『陶崖画譜』がある。天保14年、57歳で死去した。

小橋香村(1793頃-1859)
寛政5年頃生まれ。名は信衡、通称は源太郎。小橋陶復の長男。和気郡香登の人。画を父の陶復に学び、墨梅を得意とした。伊勢松坂に長く住み、晩年郷里に帰り、安政6年、67歳で死去した。

末藤要造(不明-不明)
画を好み小橋陶復に師事し、のちに寺院を巡歴して僧侶に教えた。明治初年頃、78歳で死去した。

楠原竹堂(不明-不明)
幕末の人。字は正景、通称は富右衛門。小橋香村に画を学び、狂歌もよくした。

海野蠖斎(1748-1833)
寛延元年生まれ。本姓は森岡氏。海野氏を継いで備中庭瀬藩の江戸家老になった。画技に長じ、釧雲泉と親しく交友した。詩文、書もよくした。天保4年、86歳で死去した。

 岡山(10)-ネット検索で出てこない画家


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浮世絵師から津山藩御用絵師になった鍬形蕙斎

2016-06-27 | 画人伝・岡山

文献:美作の美術展作州画人伝

江戸の畳職人の家に生まれた鍬形蕙斎(1764-1824)は、浮世絵北尾派の祖・北尾重政の門に入り、17歳の時から北尾政美の名で浮世絵師として活躍していたが、31歳の時に美作国津山藩松平家に召し抱えられ津山藩の御用絵師となった。近年では、江戸を一望した作品「江戸一目図屏風」が、東京スカイツリーから見た景色に似ていることから、レプリカが第一展望台に展示され、一躍その名を知られるようになった。蕙斎が、津山で暮らしたのは47歳の時の一年足らずで、ほとんどを江戸で過ごしたが、鍬形没後は子の赤子(紹意)、養子の勝永(恵林)が家を継いでおり、鍬形家が津山に残した功績は大きい。

嘉永6年、ペリー率いる黒船が神奈川に現れた際、津山藩は幕府の命令により、3人の艦隊視察者を神奈川に派遣した。その3人は、洋学者の宇田川興斎、箕作秋坪に加え、鍬形の子・鍬形赤子だった。赤子はペリー像をはじめ外国人の肖像や蒸気船、兵器などを描き、それらは貴重な歴史資料として残っている。

鍬形蕙斎(1764-1824)
明和元年江戸生まれ。父は駿河国の出身で江戸に出て畳職人をしていた。俗称は三二郎、「畳屋の三公」と呼ばれた。幼いころから画を好み、13歳のころに浮世絵師の北尾重政に入門し、17歳頃から「北尾政美」と名乗るようになった。寛政6年、31歳のときに美作国津山藩松平家の御用絵師として召し抱えられ、「蕙斎」と改号した。寛政9年、六代藩主・松平康乂の命を受け、奥絵師の狩野養川院惟信に入門、召眞と名乗り、のちに「鍬形」と改姓した。文化7年5月から翌8年3月まで津山に住んだ。文政7年、61歳で死去した。

鍬形恵林(1826-1909)
文政10年生まれ。名は勝永。狩野雅信に師事した。狩野芳崖、橋本雅邦の兄弟子にあたる。鍬形蕙斎の養子となり、松平確堂に仕えて津山藩の絵師となった。廃藩の後に日本美術協会などに出品し銅牌などを受けた。明治42年、83歳で死去した。

岡山(9)-ネット検索で出てこない画家


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美作の南画家、広瀬臺山・飯塚竹斎と門人

2016-06-26 | 画人伝・岡山

文献:美作の美術展岡山の絵画500年-雪舟から国吉まで-作州画人伝

美作の南画家としては、広瀬臺山(1751-1813)が代表的存在である。臺山は、津山藩士の子として同藩大坂屋敷に生まれ、16歳から福原五岳に師事して南画の道に入った。29歳で家督を相続したあとは、京都を経て江戸定府となり、御留守居役や藩主への御手跡指南など君側の重臣として勤めるかたわら、谷文晁、片桐蘭石、増山雪斎ら文人墨客との交流を深めていった。53歳で隠居し、文人生活を満喫していたが、60歳で津山に帰り、故郷に江戸南画を伝えて63歳で病没した。臺山の門下には、同じ津山藩の飯塚竹斎(1796-1861)がいる。竹斎が臺山に直接学んだのは江戸在住時代の青年期だったと思われ、24歳で津山に戻ってからは同地に伝わる臺山画を模写するなどして修業に励んだ。竹斎に続く世代としては井上雲樵(1822-1880)と(1835-1879)がいる。また、津山藩に仕えた儒者・関口雪翁(1753-1834)も南画をよくした。

広瀬臺山(1751-1813)
宝暦元年生まれ。姓は源、諱は清風、字は穆甫、通称ははじめ周蔵でのちに雲太夫。書画斎を白雲窩と称した。作州津山藩士・広瀬義平として津山藩大坂屋敷に生まれた。大坂在住の青年期に、池大雅門下の福原五岳に画法を学んだ。天明元年に江戸定府を命じられ、以後文化8年まで江戸生活が続く。50歳ころから谷文晁、僧雲室、片桐蘭石、増山雪斎、大窪詩仏ら江戸文人と交流を深めた。53歳で隠居し、還暦を迎え故郷に帰ったが、病を得て、文化10年、63歳で死去した。

飯塚竹斎(1796-1861)
寛政8年江戸津山藩下屋敷内の士邸に生まれた。主に江戸詰めの古参、同藩藩士広瀬半助の三男。はじえ漢之丞と名乗ったが、のちに飯塚家に養子に入り、七五三、与作とも称した。名は☆(☆は「者」の下に「羽」)、字君鳳。別号に九如、飛筆将軍、少陽、季秋などがある。文化4年、12歳の時に江戸から津山に帰った。幼い頃から画才を見せ、同藩藩士・小島石梁に手ほどきを受け、16歳の時に広瀬臺山に師事、臺山の紹介で江戸で谷文晁にも師事した。津山を代表する画人で、後進に大きな影響を与えた。文久元年、65歳で死去した。

井上雲樵(1822-1880)
文政5年津山生まれ。幼名は梅吉、のちに大二郎と改めた。諱は履、字は子坦。別号に李淵、看雲がある。宮田喜平治に筆学を学び、斉藤又左衛門に漢字を習った。学問に精を出す一方で画才にも恵まれ、18歳頃に江戸に出て画の師についたとされる。その後長崎で日高鉄翁に師事。のちに豊後日田で広瀬淡窓に、大坂で広瀬旭荘と鼎金城に、津山に戻り大村桐陽に師事した。津山に戻ってからは天保時代からの歴史ある津山藩教諭所の教師となり、明治4年の同校の廃校まで庶民教育に努めるなど、師弟教育にあたった。明治13年、59歳で死去した。

塘雲田(1835-1879)
天保6年生まれ。津山藩城下町魚町の商家嵯峨屋(佐賀屋)の三男。名は芳、字は士蘭、通称は芳蔵で芳造ともいった。別号に香祖亭、与時息斎などがある。幼いころに飯塚竹斎に師事したとされ、のちに下田桂屋に師事した。津山院庄作楽神社創建運動に関与。児島高徳公顕彰運動に参画した。明治12年、45歳で死去した。

関口雪翁(1753-1834)
宝暦3年越後十日町生まれ。名は世植、字は子卿。通称は莞二、恒之進、のちに多仲と改めた。別号に米山、清斎、玄窓などがある。20歳前後で江戸に出て、文化4年に津山藩松平家に儒者として召し抱えられた。江戸では多くの文人と交流し、墨竹を得意とした。天保5年、82歳で死去した。

岡山(8)-ネット検索で出てこない画家


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浦上春琴と岡山の門人

2016-06-25 | 画人伝・岡山

文献:岡山の絵画500年-雪舟から国吉まで-岡山県の絵画-古代から近世まで-、岡山県美術名鑑、備作人名大辞典

父・浦上玉堂が、巧みに描こうとせず、心の動きのままに筆をとり、自らが専門画家であることを恥じて、それを拒否していたのとは対照的に、子の浦上春琴(1779-1846)は、如才のない文人らしからぬ文人だったといえる。父・玉堂がいっさい手を染めなかった花鳥画も、春琴は写実的で技巧的に描き、花鳥画の名手と謳われた。山水においても常識の線を崩さず、気品のある作品を手がけた。そんな春琴を玉堂は「行燈画カキ」と呼び、その画を「針箱画」と酷評していたという。しかし、春琴は玉堂を凌ぐ人気作家となり、頼山陽ら多くの著名文化人と交わり、京都南画壇の成功者のひとりとなった。その人柄は、田能村竹田が「その世に処するや境に随って能く転ず」と記しているように、状況に応じて巧みに物事を処理するタイプだったようである。門人も非常に多く、岡山出身者としては、大森黄谷、鳥越烟村、成田半烟、吉川翠烟、松田翠崖、伊藤花竹、亀山松濤、浦上春圃、青木石圃、片山春潮らがいる。

大森黄谷(1786-1852)
天明6年生まれ。名は武右衛門、字は伯章、通称は盧之助、隠居の後に蔭次郎、蔭輔と称した。別号に岱斐、宣溪翁がある。画を浦上春琴に学び、特に亀を得意とした。書は武元登々庵に学んだ。父の死後は家を弟に譲り、諸国を歴遊し、晩年は三石驛に隠棲した。嘉永5年、67歳で死去した。

鳥越烟村(不明-不明)
備前岡山藩士、名は霖のちに澹、字は澹卿、通称は仙蔵。別号に梅圃がある。風流の人で詩文を好み、画は浦上春琴に師事した。早くに隠居し、氏を梅と改め、中国・九州地方を歩いた。

成田半烟(1795頃-1870)
寛政7年頃生まれ。名は元譲、通称は馬之助。岡山藩士・成田充美の子で、母は浦上玉堂の娘。武術に優れていたが、中年になって叔父の浦上春琴に画を学んだ。明治3年、76歳で死去した。

吉川翠烟(不明-不明)
名は渡。岡山藩士。浦上春琴に学び画をよくした。明治14、5年頃死去した。

松田翠崖(1804頃-1862)
享和4年頃生まれ。名は信義、岡山の人。生坂藩主・池田氏に仕えた。書画を好み、浦上春琴に師事して山水、花鳥をよくした。鳥越烟村と共に春琴門下の二駿足と称された。文久2年、59歳で死去した。

伊藤花竹(1805-1881)
文化2年生まれ。備前岡山藩士で御側御用人、藩校副督学などをつとめた儒者。名は巌二、はじめ采節学人と号し、のちに花竹と改めた。浦上春琴に学び、山水や墨梅をよくした。明治14年、77歳で死去した。

亀山松濤(1818頃-1841)
文化15年頃生まれ。名は總綱、通称は峯次郎。備中八田部の亀山石屏の二男。浦上春琴に師事して画業に精進したが、天保12年、24歳で死去した。

浦上春圃(1820頃-1849)
文政3年頃生まれ。名は駿。浦上春琴の養子。父に学んで画を修めたが、嘉永2年、30歳で死去した。

青木石圃(1830頃-1860)
文政13年頃生まれ。名は條、通称は百五郎。亀山石屏の五男。倉敷の植田武右衛門の養子となり、吉備郡岡田の三宅氏を継ぎ、青木と改めた。漢学を山田方谷に、画を浦上春琴に学んだ。万延元年、31歳で死去した。

片山春潮(1839-1896)
天保10年岡山七軒町生まれ。名は恭元、字は子享、通称は七太郎。別号に帯雨草堂、三操山房などがある。岡山藩士・片山恭明の長男。画を浦上春琴、成田半烟に学んで、花鳥をよくした。茶、華、彫刻にもすぐれていた。明治29年、58歳で死去した。

岡山(7)-ネット検索で出てこない画家


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岡山近世画人として最大の存在・浦上玉堂

2016-06-24 | 画人伝・岡山

文献:岡山の絵画500年-雪舟から国吉まで-岡山県の絵画-古代から近世まで-、岡山県美術名鑑、備作人名大辞典

岡山ゆかりの近世画人として最大の存在は、浦上玉堂(1745-1820)だろう。玉堂は、もともと鴨方藩の武士だったが、風雅の道を求めて50歳になる年に脱藩した。脱藩の理由は諸説あるが、隠逸を好み、書画を愛し、琴を弾じ、詩をたしなみ、ただ好事に浸るという生活態度が藩士に不向きだったと思われる。その後は、七弦琴を抱き、画を描き、酒を友としながら全国各地を放浪し、晩年になって京都に定住した。玉堂の長男・浦上春琴(1779-1846)は、岡山に生まれ、16歳の時に父・玉堂の脱藩に伴って岡山を去り、諸国遍歴ののちに、30代の半ばから京都で画家生活を送った。当時、春琴は玉堂を凌ぐ人気だったという。弟の秋琴(1785-1871)も山水を主とした南画を描いたが、音楽を以って会津藩に仕え、のちに岡山に帰った。

浦上玉堂(1745-1820)
延享2年岡山生まれ。姓は紀、名は弼、字は君輔、通称は兵右衛門。はじめ穆斎と号してのちに玉堂琴士とした。備前岡山藩支封備中鴨方藩士・浦上兵右衛門宗純の長男で、7歳で家督を相続した。師弟関係は明らかではないが、画業は30歳頃に始めたらしく、江戸在勤中に谷文晁らと交流し、また中国画を模写して学んだと思われる。琴への造詣も深く『玉堂琴譜』の著書がある。50歳を迎えた年に、春琴、秋琴の二子を連れて但馬城崎に遊び、そのまま脱藩した。その後は、自由人として諸国を歴遊、67歳以降は京都柳馬場で春琴と同居し、琴、詩、書、画に親しむ悠々自適の生活を送った。自らが画家であることを拒否し、自然のみを対象に、巧みに描こうとする意思もなく、心の動きのままに絵画として仕上げていったという。文政3年、76歳で死去した。

浦上春琴(1779-1846)
安永8年岡山生まれ。浦上玉堂の長男。姓は紀、名は撰、字は伯挙・十干、通称は喜一郎。別号に睡庵、二卿、文鏡亭などがある。寛政6年の父・玉堂の脱藩の際、弟の秋琴と共に同行し、以後京都を拠点に全国を遊歴した。33歳の時に長崎遊学を終えて京都に帰り、柳馬場に居を構えて父と同居した。父とは対照的に写生に基礎をおいた温和な山水や花鳥を描いた。頼山陽、篠崎小竹、柏木如亭ら多くの文人と交流した。弘化3年年、68歳で死去した。

浦上秋琴(1785-1871)
天明5年岡山生まれ。浦上玉堂の二男。姓は紀、名は遜。父に画を学んだ。藤本鉄石、伊藤花竹と親交があった。絲竹を得意とした。明治4年、87歳で死去した。

岡山(6)-ネット検索で出てこない画家


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幕末明治の狩野派、狩野永朝と日置雲外

2016-06-23 | 画人伝・岡山

文献:岡山の絵画500年-雪舟から国吉まで-岡山の絵画、岡山の美術 近代絵画の系譜、岡山県美術名鑑、備作人名大辞典

幕末から明治にかけて狩野派の系譜を継承した岡山の画家としては、狩野永朝(1831-1900)と日置雲外(1829-1918)がいる。狩野永朝は、京狩野九代狩野永岳の養子で、弘化年間に邑久郡虫明を訪れ、虫明焼の絵付けなどを行い、当地にとどまった。御用絵師ではなかったが、幕末から明治にかけて西大寺を本拠に活躍した。県下各所に作品が残っているが、特に住居に近かった池田家の菩提寺曹源寺には、ほぼ70点に及ぶ大量の「列祖像」や「蓬莱山図」などが残っている。日置雲外(1829-1918)は、江戸期の備前藩の家老で、御用絵師の長谷川勝厳に学んだらしく、花鳥画、特に鶴を得意とした。宮内省の技芸官を勤めたこともある。永朝、雲外ともに明清画の影響を強く受けており、純然とした狩野派とは言い難い。狩野派は江戸時代の終焉とともに衰退の一途をたどり、岡山でも二人を継ぐ画人は現れなかった。

狩野永朝(1831-1900)
天保2年京都生まれ。狩野山楽直系の九代狩野永岳の養子。字は白駒、通称は内記。父・永岳について学んだ。弘化年間に備前の伊木三猿斎に招かれて邑久郡虫明に来て虫明焼の絵付けなどをしていたが、安政年間には西大寺村に移り、田中守治治方に寄食して田中山雷と称したが、まもなく岡山に移って狩野姓にもどった。岡山と西大寺で門人を教え、山水、花鳥をよくした。明治33年、70歳で死去した。

日置雲外(1829-1918)
備前藩家老。名は忠尚、字は帯刀。画は長谷川勝厳に学んだと思われる。花鳥を得意とし、特に鶴を描いて評判を得て、「雲外さんの鶴」とよばれるほど有名だった。山水にも本格的な狩野派の作品が残っている。明治維新ののちは小橋町に住み、また東京に出て宮内省の技芸官もつとめた。晩年は吉備郡高松町に住み、悠々と画筆に親しんだ。大正7年、90歳で死去した。

岡山(5)-ネット検索で出てこない画家


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美作津山藩の初代御用絵師・狩野洞学

2016-06-22 | 画人伝・岡山

文献:津山藩狩野派絵師 狩野洞学、備作人名大辞典

美作津山藩松平家においても御用絵師は狩野派の門流だった。津山狩野家の祖とされる狩野洞学(不明-1743)は、延宝5年、津山藩松平宣富に江戸で召し出され、津山に転居、翌年には城絵図の作成などを命じられている。しかし、養子をめぐる問題もあり、津山藩から暇を出され、洞学家は断絶となった。その後津山藩では、かつて洞学の養子だった狩野如林乗信(1711?-1781)を祖とした如林系と、絵師として召し抱えられた後に狩野姓を許された如水系の二つの狩野家が存続した。そのほか備中松山藩の絵師も狩野を名乗り、幕末の絵師には狩野素朴(不明-1911)がいる。

狩野洞学(不明-1743)
洞学に関しては、生前に津山藩から暇を出されたため、他の藩士のような勤書が残されておらず、津山周辺に残された作品も少ないため、活動や履歴が明らかでない部分が多い。洞学の祖父・狩野照政と父親の洞晴幸信はともに越後時代の松平光長に仕えていたが、光長が延宝9年にいわゆる越後騒動によって流罪になったため、父・洞晴の代で浪人となった。その後、洞晴は長府藩毛利綱元に仕えることとなり、洞学も家督を相続して毛利綱元に仕えることができたが、「所存」があるとして毛利家には仕えなかった。そして、享保5年、津山藩松平宣富に召し出され、津山藩御用絵師となった。しかし、養子・兵四郎に関する離縁願いのトラブルから、家は断絶となった。
『古画備考』によると、洞学には富信と察信という息子が二人いた。富信は、甚七郎といい、のちに狩野如林と改めた。察信は、享保17年に狩野免許を得て、のちに長府毛利家に仕えた。この富信の後の系譜に狩野文庫や狩野如泉がつながっているとしている。寛保3年死去した。

狩野如林乗信(1711?-1781)
津山藩家臣花沢久兵衛の二男。名は乗信。難波文庫と称した。かつて洞学の養子で、詳細は不明だが洞学から離縁されていた。狩野洞学家が断絶したため、狩野如林を名乗り、如林系の祖となった。天明元年、71歳で死去した。子の市治は、画才に恵まれず、家業を継ぐことができなかったため、父が名乗っていた難波文庫の名で料理方として家督を相続した。その後は、如泉が継ぎ、如泉の子も如林と名乗った。その後は如春が継いでいる。

狩野如水(不明-不明)
狩野乗信に学んだ。名は由信。本名は池渕卯助。藩の使番として仕官し、のちに狩野を姓とし、初代如水を名乗った。この系譜は如真、如慶、如柳と続いたとされる。

狩野如林宗信(1802-1871)
享和2年生まれ。狩野如泉の子。名は宗信。はじめ如春と号して後に如林と改めた。別号に如山、松甫などがある。13歳の時に江戸に上がり狩野宗家について画を学び、その傍ら軍学も修めた。16年間江戸にいて、津山に戻り小役人や御納屋坊主をしていたが、画才を認められ、藩主から狩野姓を許された。また弟子は200余人にも達したという。明治4年、70歳で死去した。

狩野素朴(不明-1911)
家は代々備中松山藩の画士で、狩野派の画法を得意とした。明治44年死去した。

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備前岡山藩の狩野派

2016-06-19 | 画人伝・岡山

文献:岡山の絵画500年-雪舟から国吉まで-、備作人名大辞典

備前岡山藩の御用絵師は、狩野三徳、狩野自得、長谷川常時の狩野派三家が代々つとめていたされるが、狩野守則、長谷川常時、長谷川常宇らの作品が少数残っているのが確認される程度で、伝わる資料も少ない。それに対し、狩野派の絵師に学んだ池田家歴代藩主の作品は、領内の社寺を中心に比較的多く残っている。池田綱政、池田継政は名手とされ、御用絵師に匹敵する技術だったという。

また、江戸時代に京都の浮世絵師として異色の存在だった西川祐信が、狩野自得と名乗って岡山藩の初代御用絵師をつとめたと記す資料もあるが、定かではない。

池田綱政(1638-1714)
寛永15年生まれ。岡山藩4代藩主。名君といわれた池田光政の長男。能楽、和歌、絵画などを愛好した。画は狩野派に学び、谷文晁の『本朝画纂』にも名手として登場している。残っている作品は、子の継政、孫の治政に比べて少ないが、山水、花鳥のほか、能絵年鑑や仏画まで幅広く手がけている。正徳4年、77歳で死去した。

池田継政(1702-1776)
元禄15年生まれ。岡山藩5代藩主、池田綱政の長男。父の綱政同様に、和歌、絵画、書などを好んだ風流人で、能楽には特に造詣が深かった。狩野派に学び、作品は領内の社寺や旧家で多く残されており、特に父綱政が池田家の菩提寺として建立した曹源寺(岡山市円山)には10余点の作品が伝わっている。技術は御用絵師に匹敵し、岡山きっての狩野派の名手とされる。安永5年、75歳で死去した。

長谷川常時(不明-1726)
岡山藩御用絵師、養辰と号した。紀州徳川の侍医・三慶の二男。狩野養朴常信の門に学び、四天王の一人として名声をはせた。常信の推薦で毎年二回備前藩に来て、藩主・池田綱政の絵画師範をつとめた。享保11年死去した。

長谷川常雄(不明-1757)
岡山藩御用絵師、如辰と号した。長谷川常時の長男。父及び狩野周信に学び、のちに池田継政に仕えた。宝暦7年死去した。

長谷川常宇(不明-1784)
岡山藩御用絵師、幸芳と号した。長谷川常雄の弟。塩見利行の二男・融記を養子にした。天明4年死去した。

長谷川融記(1770?-1844)
狩野融川院の門人。池田氏に仕えた。弘化元年、73歳で死去した。

長谷川勝厳(1829?-1895)
岡山藩御用絵師、狩野勝川院雅信に師事した。池田氏に仕えた。蔓延元年の江戸城改築の際に狩野芳崖、橋本雅邦とともに襖、杉戸に画を揮毫した。明治28年、67歳で死去した。

狩野自得(不明-不明)
岡山藩御用絵師、本名は西川。名は祐信。狩野三徳の子。はじめ画を狩野永訥および土佐光祐に学び、のちに浮世絵の一派をなしたとされる。

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武人画家・宮本武蔵

2016-06-16 | 画人伝・岡山

文献:美作の美術展岡山の絵画500年-雪舟から国吉まで-

二刀流の剣豪として名高い宮本武蔵(1584-1645)も岡山ゆかりの画人である。「二天」と号して画筆をとり、個性豊かな作品を残している。出生地は美作説のほかに播磨説もあるが、近年の研究によると、播磨に生まれ、幼少時から新免無二の養子となって美作国宮本村で過ごしたとする説が有力である。

武蔵の画歴は明らかではないが、画史『画乗要略』には、海北友松(1533-1615)に学んだとある。また、現存する作品のほとんどは、寛永17年に肥後熊本藩主・細川忠利に招かれて熊本に移り住んでから没するまでの約5年間に描かれたものであると推定されている。熊本で執筆した兵法書『五輪書』によると、武蔵が諸国を巡り剣技を磨いていたのは28、9歳の頃までで、それ以降は兵法の道理を極めるために鍛錬を重ね、会得したのは50歳の頃だったという。また、兵法を完成させるためには、諸芸すなわち思想や芸術の分野を学ぶ必要があるとも記されている。

武蔵が描く水墨画の題材は、禅に関する達磨図や布袋図などが多い。また、身近に生息する雀や鵙、翡翠や鳩などにも取り組んでおり、その一瞬の動きをとらえた緊張感のある画面は、剣に生きた武蔵が体得した「観見二眼」(目でみることが見、心でみることが観)に通ずるものがある。

宮本武蔵(1584-1645)
天正12年生まれ。前半生は不明な点が多い。出生地は、美作国宮本村(岡山県英田郡大原町)説と播磨説がある。播磨に生まれ、美作国宮本村で過ごしたとする説が有力である。名は武蔵・玄信、号は二天。慶長17年の佐々木小次郎との巌流島での決闘で知られるように、若い頃から諸国を巡って武芸修業を積み、「二天一流」を創始した。寛永17年から肥後熊本藩主・細川忠利に仕え、この頃から歌、書、茶などに没頭、本格的に画作を始めたものと思われる。画業については不明な点が多いが、中国の梁楷や同じ武人画家の海北友松らに減筆体を学んだものと考えられる。寛永20年に兵法書として著名な『五輪書』を熊本雲巌寺の洞窟にこもって書き始めたという。正保2年、62歳で熊本において死去した。

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室町水墨画の最高峰・雪舟

2016-06-14 | 画人伝・岡山

文献:岡山の絵画500年-雪舟から国吉まで-、備作人名大辞典

岡山の画家として最初に名前が出るのは、室町水墨画壇の最高峰に位置する雪舟等楊(1420-1506)である。狩野永納によって編纂された『本朝画史』によると、雪舟の生誕地は備中赤浜(現在の総社市赤浜)で、京に出て相国寺の春林周藤に禅を学び、天章周文に画を学んだとされる。宝福寺(総社市井山)の小坊主時代に涙でねずみの絵を描いたという有名なエピソードも本書に記載されているが、実話か創作かは定かではない。雪舟の前半生については不明な点が多く、表舞台に出てくるのは、40歳代のはじめに周防国山口に住む画僧「揚雲谷」としてであり、号を「雪舟」に改めたのは45~47歳と推定される。その後、48歳の時に中国に渡り、水墨画を学び50歳で帰国、独自の画風を確立したとされる。画歴に空白の部分が多いため、近年の研究では、経歴不詳の画家「拙宗等揚」が雪舟と同一人物であるという説が有力になっている。

雪舟の弟子としては、等悦、秋月、宗淵、周徳、等春らがいるが、弟子たちの残した作品から推測すると、雪舟は弟子の個性に合った画法・筆法を選択して教えていたとみられる。また、雪舟が活動の拠点としていた山口のアトリエ雲谷庵を引き継いだ雲谷等顔(1547-1618)は、雪舟派の正系として雲谷派を立ち上げ、子の雲谷等益(1591-1644)は雪舟四代を名乗った。長谷川等伯(1539-1610)は、祖父が雪舟の弟子・等春に学んだことから、自らを雪舟五代と称するなど、雪舟は多くの画家に影響を与えている。

『備作人名大辞典』には吉備国の弟子として、等春、等安、雪津が掲載されている。

等春(不明-不明)
永正頃の人。かつて周文が備前に来た際に、牧童が馬を描くのを見ると、その馬は脚が一本欠けていた。周文がその真意を問うと、これは馬の勢いだという。周文は驚き京都につれて帰り画法を教えると大成した。のちに雪舟に師事し益々研鑽に励んだという。

等安(不明-不明)
備中の人。雪舟の門に学び、画をよくした。

雪津(不明-不明)
御野郡金山寺村の人。『本朝画史』によると、筆法を雪舟に学び、花鳥、人物をよく描いたとある。

岡山(1)-ネット検索で出てこない画家

 


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菊池寛と同じ時代を生きた香川の文人

2016-06-10 | 画人伝・讃岐

文献:近代香川の人物譜-菊池寛と同じ時代を生きた人々-

高松を代表する文豪・菊池寛(1888-1948)は、19歳で郷里高松を離れ上京、やがて小説家・劇作家として文壇で活躍する一方、文藝春秋社を設立、実業家としても成功をおさめた。芥川賞、直木賞を創設したことでも知られる。競馬や麻雀などに没頭しその道を究め、衆議院選挙にも立候補するなど、多才な人物だった。

菊池寛と同じ時代を生きた香川の文人としては、沖縄の紅型研究をはじめ型絵染一筋に歩いた型絵染の人間国宝・鎌倉芳太郎(1898-1983)、江戸明治文化研究家で新聞雑誌の収集研究家でもある宮武外骨(1867-1955)、高松張り子人形制作者・宮内フサ(1883-1985)、政治学者で評論家・歌人としても活躍した南原繁(1889-1974)、登山家・紀行文家で浮世絵版画の研究・蒐集家でもある小島烏水(1873-1948)らがいる。

書画をたしなんだ文人としては、中国書画を探求し文人として生きた長尾雨山(1864-1942)、仏教の聖地に壁画を描いた野生司香雪(1885-1973)がいる。

長尾雨山(1864-1942)
元治元年高松生まれ。高松藩士・長尾柏四郎の長男。15歳で父を失い、古高松村の揚硯堂に身を寄せて、揚家の蔵書に目を通した。20歳で上京し、東京文科大学古典科に入って漢書を学んだ。明治21年に卒業すると、学習院、東京美術学校、第五高等学校の教授を歴任した。その後、東京に戻り東京高等師範学校教授のかたわら、文部省図書編纂官をつとめ、東京帝国大学の講師となった。同35年、退職して上海に渡り、商務印書館編訳部員となり、その後、12年間にわたり中国各地を歴遊、昭和16年に日本に帰った。帰国後は京都に住み、著述のかたわら門弟を教えた。人に求められると書画の筆をとり、書画論を講じた。書画、金石などの鑑定にも詳しかった。昭和17年、79歳で死去した。

野生司香雪(1885-1973)
明治18年香川郡檀紙村生まれ。本名は述太。父は浄土真宗の僧侶。香川県工芸高校を卒業後、東京美術学校日本画科に進んだ。大正6年から約1年間インドに滞在し、寺院の壁画模写に参加、その後、共に参加していた桐谷洗鱗の急死をうけて、初転法輪寺に釈迦の一代記を描くため、昭和7年に再びインドに渡った。壁画は11年に完成し、壁画の下絵は同25年、永平寺に献納された。帰国後は、長野善光寺雲上殿や埼玉名栗観音などの壁画を手掛け、郷里高松の法恩寺や、父が役僧をつとめた檀紙村の金乗寺にも襖絵を残している。画壇の表舞台には出ず、長野で文化人や高僧と交わり、文人的生活を送った。生涯インドと日本の交流の架け橋としての役割を担い、昭和48年、仏教協会より仏教美術賞を受け、同年、87歳で死去した。

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香川の近代洋画

2016-06-08 | 画人伝・讃岐

文献:近代洋画・中四国の画家たち展高松市美術館収蔵品図録

讃岐は漆工芸品の産地として古くから知られており、この工芸が根付いた地域であったという事情が、美術の発展、作家の育成に大きく関与している。

明治31年、香川では、熟練した工芸技術者を養成するため、納富介次郎(1844-1918)によって香川県工芸学校が創立された。これは、岡倉天心の構想による美術工業教育の地方拠点のひとつとして計画されたもので、教育のカリキュラムには美術的な基礎を修得する画学や図案が組み込まれていた。卒業生のなかには絵画や彫刻といった創作活動に惹かれ、東京美術学校へ進学するものも多く、彫刻では国方林三、小倉右一郎、池田勇八、矢野誠一、新田藤太郎、藤川勇造、金属工芸では後藤学一、北原千鹿らがいる。

県工芸学校から東京美術学校に進み、のちに洋画家として活躍した画家としては、平井為成(1890-1979)がいる。平井は、在学中に同期生の萬鉄五郎、山下鉄之輔らとともにアブサント会を結成、卒業後は岸田劉生らと合流し、フュウザン会を結成した。その後は、青森県八戸中学を経て松山中学に在職、晩年は香川に帰郷して指導者として美術教育に専念した。

木村忠太(1917-1987)は、昭和5年に県工芸学校に入学、同11年に画家を志して上京した。翌年独立美術協会展に出品、同18年に高畠達四郎の推薦により帝国美術学校に入学、同23年に渡仏し、以後パリに定住した。

山下菊二(1919-1986)は、徳島出身だが、県工芸学校で学び、卒業と同時に福沢一郎の主宰する福沢絵画研究所に入り、その後、前衛美術会と日本美術会の結成に参加している。

県工芸学校卒業生以外の洋画家としては、小林萬吾、猪熊弦一郎らが大きな足跡を残した。

小林萬吾(1870-1911)は、丸亀中学を卒業後上京し、翌年高橋由一の主宰する天絵学舎の塾頭だった安藤仲太郎、原田直次郎に師事した。明治29年に東京美術学校に入学すると同時に黒田清輝の主宰する白馬会の会員となり、同会が解散するまで出品した。明治44年にはヨーロッパに留学、大正7年に東京美術学校の教授となり、昭和16年に帝国芸術員会員となった。

猪熊弦一郎(1902-1993)は、丸亀中学を卒業後上京し、本郷洋画研究所に通った。翌年東京美術学校に入学、大正14年、藤島武二教室に入り師事した。帝展、新文展に出品していたが、小磯良平、佐藤敬らとともに新制作派教会を結成、以後同展に出品した。

他には、彫刻家・藤川勇造の妻である藤川栄子(1903-1983)は、二科会に籍を置き、1930年協会への出品、女流画家協会の創立に参加するなど活発に行動した。森英(1907-1976)、柏原覚太郎(1901-1977)、山尾薫明(1903-1999)らも二科に出品していた。柏原は、昭和20年に起こった二科会の再建運動に際し、戦争終結を契機に新しい理想を掲げた新団体の結成を唱え、向井潤吉ら9人の旧会員とともに柏原の発案による行動美術協会を創立した。

讃岐(16)-ネット検索で出てこない画家


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讃岐漆芸の祖・玉楮象谷

2016-06-06 | 画人伝・讃岐

文献:高松市美術館収蔵品図録描かれし美の世界讃岐画家人物誌

江戸末期の讃岐漆芸の祖・玉楮象谷(1806-1869)は、幼いころから家業である刀の鞘塗りを父に学び、京都に遊学した際には、多くの文人や芸術家と交流、書画はもとより幅広く美術工芸の分野に接し、従来の職人としての技術継承の域を越え、東南アジアなどからの技法輸入や研究、意匠の確立につとめた。その技術は高く評価され、高松藩九代藩主・松平頼恕、十代・頼胤、十一代・頼聰の厚い庇護のもと、宝蔵品の修理とともに種々の漆芸品を献上、今日の讃岐漆芸の基礎を確立していった。その漆工技法は、象谷の継承者によって伝統的に受け継がれていく一方で、明治になり近代化の風潮のなか、実用的な生活用品の制作へと移り変わり、工芸は産業としての役割を担うようになった。

玉楮象谷(1806-1869)
文化3年高松外磨屋町生まれ。本姓は藤川、名は為三、字は子成、通称は敬造。別号に蔵黒、紅花緑葉堂がある。父・藤川理右衛門に鞘塗りを学び、のちに存清・堆朱・蒟醤などの技法を深く研究し、独自の日本的な彫漆法を完成した。余技で蘭竹をよく描いた。明治2年、64歳で死去した。

玉楮拳石(1834頃-1882)
天保5年頃生まれ。名は琢。玉楮象谷の二男。彫刻を得意とし、画もよくした。明治15年、49歳で死去した。

玉楮雪堂(1837-1899)
天保8年高松生まれ。名は有禎、通称は為造。玉楮象谷の三男。別号に三生翁がある。父に漆芸を学び家業とした。きゅう漆・彫刻を得意とし、画もよくした。明治34年、63歳で死去した。

玉楮藤☆(1854頃-1881) ☆は「謝」の「言」を「木」に
安政元年頃生まれ。通称は藤吉郎。別号に九江がある。玉楮象谷の四男。竹木の彫刻を得意とし、画もよくした。明治14年、28歳で死去した。

玉楮蔵谷(1878-1912)
明治11年高松生まれ。本名は倭太。玉楮蔵黒(槐庵)の二男。玉楮象谷の孫。象谷の直系で漆芸を家業とするものは蔵谷で途絶えた。3歳の時に父が死去し、漆芸は叔父の雪堂に学び、後に家督相続人として後を継いだ。讃岐彫りを得意とし、晩年には堆朱、堆黒などの彫漆にも優品を残している。大正元年、35歳で死去した。

石井磬堂(1877-1944)
明治10年高松市北亀井町生まれ。本名は清次。別号に汲古堂がある。幼いころから父に彫刻を学び、玉楮象谷以来の漆芸を研究し、研鑽を積んだ。高松市内町の讃岐彫の店「百花園」の職長格として活躍し、明治末から大正期にかけての讃岐漆芸界のなかでも特に傑出した彫師とされる。木彫を中心とした讃岐彫に多くの作品を残している。弟子には音丸耕堂、鎌田稼堂らがいる。昭和19年、68歳で死去した。

讃岐(15)-ネット検索で出てこない画家


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