松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま島根県を探索中。

5月30日(月)のつぶやき

2016-05-31 | つぶやきまとめ

詩書画をよくした篆刻家・細川林谷とその周辺 goo.gl/ElNI3w


文献『三重の近世絵画-1989年』のトップ画像を長沢蘆雪「涅槃図」にしました。
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詩書画をよくした篆刻家・細川林谷とその周辺

2016-05-30 | 画人伝・讃岐

文献:讃岐画家人物誌、讃岐の文人画展

細川林谷(1780-1843)は、讃岐国寒川町に生まれ、幼いころから阿部良山に篆刻を学んだ。その篆刻は「正雅典則一世に鳴る人皆宇内第一」と称され、頼山陽、篠崎小竹、田能村竹田らが口を極めて賞賛したとされる。また、詩書画をよくし、山水、墨竹を得意とした。旅を好み、30歳前後のころには西遊し、下関から長崎にまで至っている。のちに江戸に出てその技をふるい、この頃に頼山陽らと親交を結んだとされる。子の林斎も江戸で篆刻および画をよくした。高松藩の印刻師をつとめた山本竹雲も林谷に学んだとされる。

細川林谷(1780-1843)
安永9年寒川郡石田村字森弘生まれ。名は潔、字は痩仙・氷壷、通称は春平、のちに俊平といった。別号に、林道人、白髪小兒、有竹、三生翁、天然画仙、不可刻齊、忍冬庵などがある。本姓は、もと廣瀬氏であり廣瀬林谷と記されることもある。篆刻を阿部良山に学び、のちに一家を成した。旅を好み、30歳前後のころには西遊し、のちに江戸に出ている。天保2年に一度讃岐に帰郷したが、再び江戸に戻り、天保14年下谷練塀町の寓居において、65歳で死去した。

阿部良山(1773-1821)
安永2年生まれ。木田郡六條村の人。名は世良、字は良年。良山堂と号した。篆刻家で、詩書画もよくし、墨竹を得意とした。細川林谷の師として知られる。文政4年、49歳で死去した。

阿部絹洲(1793-1862)
寛政5年生まれ。大坂の人。阿部良山の長男。名は温、字は伯玉、または玉清、通称は信次郎、のちに良平。別号に介庵がある。篆刻のほか詩画もよくし、墨竹を得意とした。文久2年、70歳で死去した。

阿部鹿城(不明-不明)
阿部絹洲の二男。山水をよくした。

山本竹雲(1826-1894)
文政9年生まれ。備前味野の人。茶人・篆刻家として知られる。名は戈、字は中立。20歳のころに味野を出て、弘化2年に高松に転居して高松藩の印刻師をつとめた。篆刻は細川林谷に学んだとされる。余技として画をよくした。京都、大阪など各地を流浪したが、高松を第二の故郷としてしばしば訪れ、山田梅村らと交友した。明治27年、69歳で死去した。

讃岐(12)-ネット検索で出てこない画家


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5月29日(日)のつぶやき

2016-05-30 | つぶやきまとめ

文献『三重の画人展』のトップ画像を中村左洲「伊勢参宮図」「瀞峡」にしました。
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5月28日(土)のつぶやき

2016-05-29 | つぶやきまとめ

文献『伊勢の画人 磯部百鱗』のトップ画像を磯部百鱗「春秋小禽図屏風」にしました。
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5月27日(金)のつぶやき

2016-05-28 | つぶやきまとめ

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讃岐の書聖・後藤漆谷とその周辺

2016-05-27 | 画人伝・讃岐

文献:後藤漆谷の書跡とその周辺讃岐画家人物誌

讃岐の歴史の中で「書聖」と称された人物が二人いる。一人は空海であり、もう一人は後藤漆谷(1749-1831)である。漆谷は高松の豪商の家に生まれ、幼いころから学問を好み、深井鶏林、後藤芝山に師事、20歳を過ぎるころには芝山門下の逸材と賞賛されるようになった。漆谷の書は王羲之の正統を継ぎ、元・明の書法を加えて優美であり、名前は全国に知られ、同年代の画人・長町竹石と並び、讃岐文人の双璧と謳われた。人柄は温厚、謙虚で、彼の周りには常に多くの人が集まり、早くから讃岐の風流人の中枢として活躍した。

交流のあった文人としては、大坂の木村蒹葭堂、備後の頼山陽、菅茶山、讃岐人で江戸で活躍した菊池五山をはじめ、細川林谷、皆川淇園らがいる。還暦を過ぎると家業を子の弘基に譲り、老松園を居として悠々自適の生活を送った。それとともに漆谷を慕って訪れる人が益々多くなり、老松園は風雅の道の一大拠点となったという。墓碑銘には山田鹿庭、梶原籃渠、長町竹石、手塚鹿渓、久家暢斎の名があり、他にも芝山門の先輩・柴野栗山、志度の清僧・竹林上人、浄願寺住職・秀峰、素封家・揚分潮らとの交流があった。

漆谷の門人で讃岐の画人としては江口春帆が『讃岐画家人物誌』に掲載されており、春帆と交友した画人としては、山田梅村、向井舟皐らの名がある。

後藤漆谷(1749-1831)
寛延2年生まれ。名は苟簡、字は子易または田夫。通称は勘四郎。はじめ木齋と号し、のちに漆谷とした。高松の豪商・後藤保里の末子。幼くして深井鶏林、後藤芝山に師事した。詩文や書にすぐれ、早くから讃岐の風流人の中枢にあって活躍した。還暦後は、老松園に住み、文人たちと交わり悠々自適の生活を送った。天保2年、83歳で死去した。

大原東野(1771-1840)
明和8年生まれ。名は民聲、字は子楽。大和国奈良の人。浪華に住み、のちに琴平に来て藤棚に住んだ。山水、花鳥、人物と巧みで、特に人物画を得意とし多くの門人がいた。著書に『名数画譜』がある。大原東野が描き、牧野黙庵が賛した「玉蘭精舎祝宴図屏風」は高松市の有形文化財に指定されており、高松藩に儒官として仕えた久家暢斎主催の玉蘭社と称する私塾に集まった文人の会合の様子を描き、後藤漆谷はじめ讃岐における多くの文人の会合を伝えている。天保11年、70歳で死去した。

揚分潮(1765頃-1835)
明和2年頃生まれ。名は元徴、字は献卿、通称は文平。別号に分橋などがある。山田郡古高松村の人。祖先は阿波から讃岐に移り、久保氏を称した。途中、上野氏に改めるが、分潮の時代になって揚氏とした。分潮は若いころ京都などに出て、柴野栗山、皆川淇園らと交流した。書画をよくした。天保6年、71歳で死去した。

江口春帆(1814-1873)
文化11年生まれ。名は洵直、字は仲候、通称は八十郎。高松藩の国史編集館員。後藤漆谷に書法を受けた。画学の書籍を研究し、画徴録、芥子園画伝注釈集などを著した。兒島竹處、山田梅村、向井舟皐らと交友した。明治6年、60歳で死去した。

山田梅村(1816-1881)
文化13年生まれ。名は亥吉、字は乙生、通称は勝次。鹿庭の子。別号に小田園、薔薇園、鉄馬山房などがある。高松藩の儒員。経学詩文で名高く、鉄筆にすぐれ、画は山水、蘭竹をよくした。明治14年、66歳で死去した。

向井舟皐(1820頃-1892)
文政3年頃生まれ。香川郡浅野の人。名は根賢、字は子才、通称は又八郎。文人趣味を持ち、画をはじめ上杉墨水、宮内梧皐に学び、のちに明清の妙蹟を倣い、清澄高雅な山水を描いた。山田梅村、兒島竹處、江口春帆、村尾篁山らと交友した。また、浅野焼(舟岡焼)を興した。明治25年、73歳で死去した。

讃岐(11)-ネット検索で出てこない画家


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5月25日(水)のつぶやき

2016-05-26 | つぶやきまとめ

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京都に出て浦上春琴らに学んだ讃岐の南画家

2016-05-25 | 画人伝・讃岐

文献:讃岐画家人物誌、讃岐の文人画展、描かれし美の世界

京都に出て学んだ讃岐の南画家としては、浦上春琴に学び高弟となった小西松塢をはじめ、春琴門からは、松岡李堂、木村葭郷らが出た。また、田能村竹田に学んだ合葉文山、田能村直入に学び、のちに池田桂仙、河野秋邨らと日本南画院を結成した三井飯山がいる。貫名海屋の門からは三谷石門、中村竹巌、細谷耕雲、細谷立斎らが出ている。

海屋に学んだ細谷立斎の一家は、父の細谷松坡をはじめ、師系は不明だが画をよくした。また、立斎の門人としては『讃岐画家人物誌』に森島松坡、庄司丘霞が掲載されている。

三井飯山(1881-1934)
明治15年生まれ。名は犀二郎。はじめ十市王洋につき、のちに田能村直入に師事し、山水、花鳥をよくした。常に直入に随従し、門人のなかでも最も直入の風致を得たといわれている。池田桂仙、河野秋邨らと日本南画院を結成した。昭和9年、53歳で死去した。

小西松塢(1797頃-1845)
寛政9年頃生まれ。名は貞游、通称は元四郎。三豊郡本山村の人。京都に出て浦上春琴に師事し、高弟とされた。弘化2年、49歳で死去した。

松岡李堂(1787頃-1861)
天明7年頃生まれ。名は正臣、字は伯、通称は衛門。別号に松琴、水莖、残月樓などがある。仲多度郡吉原村の人。幼いころから尾池桐陽の門に学び、のちに京都に遊び、眼医者として名を高めた。浦上春琴に学び、山水をよくした。文久元年、75歳で死去した。

藤井半雲(1825頃-1897)
文政8年頃生まれ。名は香澤、あるいは陳舜香。志度町の人。医業のかたわら浦上春琴に私淑し、花鳥をよくした。明治30年、73歳で死去した。

木村葭郷(不明-不明)
丸亀の人。医業のかたわら浦上春琴に学んだ。

合葉文山(1797頃-1857)
寛政9年頃生まれ。名は秦、通称は直次郎。信州上田の人。のちに琴平に移った。田能村竹田に学び人物、花鳥をよくした。安政4年、61歳で死去した。

藤村墨雨(1797頃-1855)
寛政9年頃生まれ。名は直弘、字は毅順、通称は音九郎。別号に澹齋、今是などがある。三豊郡和田浜の人。古書画を多く所有していた。貫名海屋、上杉墨水と親しく交友した。当時は墨人たちが多く来て逗留していたため、よく知られていた。画をよくし、俳歌も巧みだった。安政2年、59歳で死去した。

三谷石門(1842-1894)
天保13年生まれ。名は遷、字は干喬、通称は清平。別号に如年、恒心山人、城山獵夫、安々主人、三桃亭主人などがある。綾歌郡三谷村の人。貫名海屋の門に学び、山水を得意とした。詩や書もよくした。明治27年、53歳で死去した。

中村竹巌(1815頃-1882)
文化12年頃生まれ。名は登、通称は兼五郎。別号は金門、竹雨がある。春塘の子。画を貫名海屋に学んだ。当時は兒島竹處と並び称された。山水、蘭竹を得意とした。明治15年、68歳で死去した。

細谷耕雲(1830頃-1853)
天保元年頃生まれ。名は博介、字は愛介。細谷松坡の二男。画を父と貫名海屋に学び、山水、花卉をよくした。嘉永6年、24歳で死去した。

細谷立斎(1832頃-1911)
天保3年頃生まれ。名は辰、字は師古、または子星。細谷松坡の三男。別号に三松居士、錦江釣叟、六一山人などがある。はじめ画を父に学び、のちに貫名海屋に六法を受け一家を成した。山水、花卉をよくした。設色法に詳しく、古書画の鑑定もした。明治44年、80歳で死去した。

細谷松坡(1797頃-1868)
寛政9年頃生まれ。名は有芳、通称は成海。医業のかたわら画をよくし、山水、四君子を得意とした。明治元年、72歳で死去した。

細谷玉芝(1809頃-1878)
文化6年頃生まれ。名は壽満。細谷松坡の妻。蘭竹、芝石などをよくした。明治11年、70歳で死去した。

細谷松華(1844頃-1888)
弘化元年頃生まれ。名は為善、字は虚白、通称は多門。細谷松坡の六男。花卉を得意とした。明治21年、45歳で死去した。

森島松坡(1869頃-1901)
明治2年頃生まれ。名は吉、字は吉甫、通称は吉次。細谷立斎の子。山水花卉をよくしたが、大成せずに夭折した。明治34年、33歳で死去した。

庄司丘霞(1839頃-1908)
天保10年頃生まれ。通称は駒之助。三豊郡大野村の人。細谷立斎に学び、花鳥を得意とした。俳歌もよくした。明治41年、70歳で死去した。

讃岐(10)-ネット検索で出てこない画家


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5月24日(火)のつぶやき

2016-05-25 | つぶやきまとめ

文献に『美作の美術展』を追加しました。
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トップ画像は狩野洞学「書画図屏風」 pic.twitter.com/KKOrH9lUSr



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5月23日(月)のつぶやき

2016-05-24 | つぶやきまとめ

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春木南湖と讃岐の門人

2016-05-23 | 画人伝・讃岐

文献:讃岐画家人物誌、讃岐の文人画展、描かれし美の世界

谷文晁(1763-1840)と並び、「天下の二老」と称された春木南湖(1759-1839)は、伊勢国長島藩主・増山雪斎に抱えられ、その援助で京都、大坂、長崎に遊学しており、その折に讃岐に足を運んだものと思われる。市原陶々、鈴木青玉、戸祭雪湖ら、高松の人で南湖に学んだものは多く、南湖の作品も多く残されている。また、南湖の門人である戸祭雪湖も讃岐の地で多くの弟子を育てた。

市原陶々(1798頃-1840)
寛政10年頃生まれ。名は政簡、字は伯敬、通称は太助。春木南湖に師事して六法を受け、特に山水を得意とした。天保11年、43歳で死去した。

鈴木青玉(1780頃-1857)
安永9年頃生まれ。名は美那。春木南湖に師事して花鳥をよくした。梅の花を最も得意とした。安政4年、78歳で死去した。

戸祭雪湖(1808頃-1861)
文化5年頃江戸生まれ。生まれてすぐに高松に移住した。名は静馬、通称は又一郎。高松藩の老臣。春木南湖に師事して山水をよくした。文久元年、54歳で死去した。

山崎阿亭(不明-1832)
名は宗昌。春木南湖に師事し画をよくした。天保3年死去した。

堀田鶴渚(1824-不明)
文政7年頃生まれ。名は正幸。春木南湖に師事し画をよくした。安政年間に死去した。

玉川竹溪(1825頃-1893)
文政8年頃生まれ。名は秀信、戸祭雪湖に学び、山水をよくした。明治26年、69歳で死去した。

荒木雲溪(1826頃-1905)
文政9年頃生まれ。名は養、通称は養三。別号に友竹主人、巣松庵、白雲溪舎などがある。山田梅村、市原梅隣、渡辺有梅と交友した。画は戸祭雪湖に学んだ。明治38年、80歳で死去した。

讃岐(9)-ネット検索で出てこない画家


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5月21日(土)のつぶやき

2016-05-22 | つぶやきまとめ

文献に『岡山県の絵画-古代から近世まで-』を追加しました。
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トップ画像は浦上玉堂「山紅於染図」 pic.twitter.com/BRSV4Gw1M8



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5月20日(金)のつぶやき

2016-05-21 | つぶやきまとめ

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讃岐の南蘋派、三木文柳・亀井東溪・戸塚茗溪

2016-05-20 | 画人伝・讃岐

文献:讃岐画家人物誌、讃岐の文人画展、描かれし美の世界

讃岐の南蘋派画人としては、三木文柳(1716-1799)と亀井東溪(1748-1816)が知られている。文柳は、もと阿波の藩士で、幼いころから画を好み、京都に出て修業し、江戸に出て南蘋派の画人である宋紫石の門人となった。その後、小豆島池田の光明寺に寄宿し、ついで北地に家を持ち永住したとされる。亀井東溪は、高松城下南新町に生まれ、幼いころから画才があり、京都や長崎に学び、沈南蘋に倣い、特に花鳥昆虫に優れ、八代藩主・松平頼儀によって士分にとりたてられた。著書『東溪画譜』は広く世に知られ、その子・竹溪も画に優れていた。門人としては渡辺雲窩や多田溪雲がいる。高松藩留守居寄合として江戸に住み、南画に南蘋派の画風を取り入れ、山水、花鳥を得意とした戸塚茗溪(1809頃-1854)もいる。

ほかに、長崎派の画人としては、木下逸雲に学んだ中條雲堤や、鉄翁祖門・木下逸雲の門人と交友した向井竹斎がいる。

三木文柳(分流)(1716-1799)
享保元年生まれ。小豆島池田に住んでいた。分流とも表記した。別号に宋庵斎がある。宋紫石に師事、平賀源内とも交流があった。動物画を得意とした。寛政11年、84歳で死去した。

亀井東溪(1748-1816)
寛延元年生まれ。高松城下南新町の人。名は載、字は坤臣、通称は平蔵。もともとは小倉姓だったが、亀井に改めた。幼いころから画才があり、長町竹石とともに京都や長崎で学んだ。沈南蘋の画風を慕い、特に花鳥昆虫にすぐれた。高松の絵師として同郷の竹石に並び称された。著書に『東溪画譜』がある。文化13年、69歳で死去した。

戸塚茗溪(1809頃-1854)
文化6年頃生まれ。名は榮之、通称は門吉。別号に片石山房がある。高松藩留守居寄合。江戸に住んで山水、花鳥、人物をよくした。安政元年、46歳で死去した。

亀井竹溪(1784頃-1847)
天明4年頃生まれ。名は暾、字は東白。亀井東溪の子。弘化4年、64歳で死去した。

保井錦江(不明-不明)
大川郡三本松村の人。沈南蘋に私淑して画をよくした。明治初年頃に死去した。

原田玉芝(1792頃-1844)
寛政4年頃生まれ。丸亀の人。通称は鉄吉。別号に有隣がある。沈南蘋の画を描いた。天保15年、53歳で死去した。

中條雲堤(不明-1866頃)
木田郡氷上村の人。名は直。若くして長崎に遊び、木下逸雲に従い画を学んだ。慶応2年、師に従って江戸に遊び、船で帰る途中に強風のため船が転覆、師とともに没したと伝わっている。

向井竹斎(不明-1859)
木田郡庵治村釜野の人。名は照、通称は亀治郎。たびたび長崎に行って、鉄翁祖門、木下逸雲の門人と交友した。安政6年長崎において死去した。

讃岐(8)-ネット検索で出てこない画家


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5月19日(木)のつぶやき

2016-05-20 | つぶやきまとめ

文献に『高松市美術館収蔵品図録 1988』を追加しました。
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トップ画像は小林萬吾「渡舟」 pic.twitter.com/rifHD8mafC



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