松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま福岡県を探索中。

4月29日(金)のつぶやき

2016-04-30 | つぶやきまとめ

正岡子規と周辺の文士や絵師 goo.gl/qviOzF

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正岡子規と周辺の文士や絵師

2016-04-29 | 画人伝・伊予

文献:江戸・明治の絵師たちと正岡子規

愛媛生まれで「俳聖」と称される正岡子規は、単なる俳人としてとらえられる人物ではなかった。新聞記者や雑誌の創刊など多彩な活動をし、絵も描いた。子規のまわりには、おなじ間口の広さを持った文士や画家たちが集まった。子規に俳句の才能を見出され、絵もよく描いた夏目漱石、絵画から書へと筆を持ち替えた中村不折、愛媛洋画の先駆者でありながら子規との出会いにより俳画に転向した下村為山らはみなそうした存在だった。

正岡子規(1867-1902)は、少年時代から絵画に親しみ、北斎の画道独稽古の写本を作ったり、松山藩士の吉田蔵澤の墨竹画に親しむなどしていた。邦画について明確な意見を持ったうえで、中村不折や下村為山ら周囲の画家たちと熱心に美術論を戦わせた。新聞「小日本」では中村不折を挿絵画家に採用、雑誌「ホトトギス」では浅井忠、中村不折、下村為山らにより我が国に装飾美術、商業美術を大きく広める契機を作った。子規は日本における絵画の新しい「場」の形成に深くかかわったといえる。

夏目漱石(1867-1916)の俳句の才能を最初に認めたのは、同い年の子規だった。漱石は元来英語教師であり、子規とその仲間たちと出会わなければ、一介の英語教師で終わっていたかもしれない。漱石は、俳句のみならず何をしても巧みで、絵画においても、南画、水彩、墨画、油絵など、いろいろと試している。四君子などをよく描いたが、竹をもっとも好んで描いた。これは漱石が吉田蔵澤を好んでいたことによるもので、友人の森円月が漱石に蔵澤の墨竹画を贈ったところ、礼状とともに「蔵澤の竹を得てより露の庵」とよんだ短冊が送られてきたという。子規の没後、「ホトトギス」に「吾輩は猫である」「ぼっちゃん」を発表し、文壇での地位を不動のものとした。

中村不折(1866-1943)と子規は、浅井忠の仲介で知り合った。不折は、子規に写生論のヒントを与えた一人とされる。子規が編集していた新聞「小日本」に挿絵画家としてデビューし、以降子規たちとともに雑誌「ホトトギス」などの装丁や挿絵を手掛けた。また図案、表紙絵、挿絵などの募集を「ホトトギス」が行なった時に、選者をつとめ、次世代の主力となる画家を採用した。

下村為山(1865-1949)は愛媛の洋画の先駆者であり、小山正太郎の不同舎で同門の中村不折と並び称されたが、従兄の内藤鳴雪の紹介で正岡子規と出会ってから俳句に熱中し、やがて洋画を離れ、俳画を描くようになった。浅井忠や中村不折とともに「ホトトギス」の図案も手掛けている。

内藤鳴雪(1847-1926)は俳人であり教育家で、「ホトトギス」の選者もつとめた。少年時代に子規に漢詩の指導をしており、子規の創作活動を最も早くから見ている。鳴雪は生涯、子規のよき理解者であり、鳴雪がいなければ子規の活動がどうなったかわからないともいわれる。鳴雪は下村為山の従兄にあたり、絵も達者で、ユーモアのある画賛を多く残している。ペンネームの「鳴雪」は「世事はなりゆきにまかせる」から得たもので、別号の「老梅居」は「狼狽している」から出ているという。皆から「翁」の敬称で呼ばれ、子規派の長老として重きをなしていた。

明月(1727-1797)
享保12年周防国生まれ。書家・真宗円光寺の僧侶。字は曇寧。別号に義道、明逸などがある。15歳で円光寺に入り、のちに京都へ遊学、堺で王羲之や顔真卿風に学んだ。34歳で円光寺に戻り、古文辞学を松山藩儒者の杉山熊台に授け、また詩文を松山藩町奉行・宇佐美淡斎に教えた。52歳で円光寺を退き、博物学的な書物を著した。明月和尚の書は松山の宝と称され、子規には「冬さびぬ蔵澤の竹明月の書」の句があり、明月の書を吉田蔵澤の画とともに大切にしていた。 寛政9年、71歳で死去した。

伊予(20)-ネット検索で出てこない画家

 


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4月28日(木)のつぶやき

2016-04-29 | つぶやきまとめ

文献に『後藤漆谷の書跡とその周辺』を追加しました。
yuagariart.com/artist-labo/li…
トップ画像は、大原東野筆・牧野黙庵賛「玉蘭精舎祝宴図屏風」 pic.twitter.com/n9FvRwb62J



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4月27日(水)のつぶやき

2016-04-28 | つぶやきまとめ

愛媛洋画の先達・下村為山と愛媛出身の洋画家 goo.gl/LUD21v

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文献『江戸・明治の絵師たちと正岡子規』のトップ画像を下村為山「俳句革新記念子規庵句会写生図」にしました。
yuagariart.com/artist-labo/li… pic.twitter.com/vfnE1b8kAB

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愛媛洋画の先達・下村為山と愛媛出身の洋画家

2016-04-27 | 画人伝・伊予

文献:近代洋画・中四国の画家たち展愛媛県美術館所蔵作品選

洋画の黎明期にあって、愛媛出身の洋画の先達としては、下村為山と中川八郎があげられる。当時は、洋画の技法を修得するには上京して画塾などで指導を受けるしかなく、下村為山(1865-1949)も、明治15年に上京し、高知の国沢新九郎が創設して本多錦吉郎が引き継いだ洋画塾・彰技堂に入門した。のちに小山正太郎が開設した不同舎で明治リアリズム絵画を学び、中村不折とともに小山門下の双璧と称された。26歳の時に内国勧業博覧会で褒状を受けるなど将来を嘱望されたが、同郷の正岡子規との出会いにより、俳句に熱中し、やがて洋画を離れ、俳画を描くようになった。為山が洋画家として活動した時期は短いが、愛媛の洋画の先達として特筆される存在である。

中川八郎(1877-1922)は明治から大正にかけて文展、帝展を通して中央で活躍した。大阪で日本画を学んでいたが、油彩画の迫真性に感銘を受けて洋画に転向、松原三五郎の天彩画塾を経て、明治29年に上京して不同舎に入門した。同32年には同門の吉田博と渡米し、展覧会で成功をおさめ、その後はヨーロッパを巡遊して帰国した。太平洋画会の結成に参加するなどしたが、同40年に文展が開設されると同展に出品、リアリズムを追究した風景画で活躍していたが、3度目の渡欧からの帰国直後、48歳で病没した。

牧田嘉一郎(1894-1956)や三好計加(1896-1946)も中央画壇の空気を愛媛に持ち帰った画家である。また、愛媛出身ではないが愛媛の若者たちに大きな影響を与えた画家に、宮崎出身の塩月桃甫と、香川出身の平井為成がいる。二人は東京美術学校で洋画の新しい波を体現し、のちに教育者として松山に赴任した。教え子に、塩月の薫陶を受けて東京美術学校に進んだ藤谷庸夫(1896-1962)や松原一(1896-1965)、平井を通じて岸田劉生への憧れを増大させた重松鶴之助(1903-1938)らがいる。

さらに、渡仏後に国画会会員として活動した馬越舛太郎(1899-1987)、二科展や院展洋画部に出品した水木伸一(1892-1988)、村山知義らとマヴォを結成するなど、プロレタリア美術史に大きな足跡を残した柳瀬正夢(1900-1945)、東京美術学校在学中に二科展に初入選し二科を中心に活躍した野間仁根(1901-1979)、大洲出身で東京美術学校卒業後に渡仏し帰国後に官展を中心に活躍した中野和高(1896-1965)らがいる。

下村為山(1865-1949)
慶応元年温泉郡出淵町生まれ。本名は純孝。呼び名は「為さん」。明治15年、18歳の時に上京し、本多錦吉郎の彰技堂に入り洋画を学び、同20年に不同舎に転じた。同22年第1回明治美術会展に出品、翌年第3回内国勧業博覧会で褒状を受けた。同24年同郷の俳人・正岡子規と出会い日本画にも興味を示し、俳句を学ぶようになり俳号は牛伴と名乗った。同30年松山で俳誌『ほととぎす』が柳原極堂によって刊行されるにあたって題字を書き、挿絵を描き、翌年の子規による東京版『ほととぎす』発刊に際しても、中村不折、浅井忠らとともに同誌の挿絵を描いて、以後俳句的画趣と西欧的写実性をあわせもつ「俳味画」といもいうべき作品を描き、大正期には俳画の大家として『ほととぎす』を背景に活躍した。昭和24年、疎開先の富山県西砺波郡において、84歳で死去した。

中川八郎(1877-1922)
明治10年喜多郡天神村生まれ。中川猪三郎の長男。9歳の時に叔父の中川金三郎を頼って大阪に出た。小学校卒業後に家業の手伝いのために日本画を習うが、のちに洋画に転向し、松原三五郎の天彩画塾に入った。明治29年松原の勧めで上京して小山正太郎の主宰する不同舎に入門した。同32年同門の吉田博とともに渡米、各地で展覧会を成功させ、その資金でヨーロッパを巡り、遅れて渡米してきた同門の満谷国四郎、鹿子木孟郎ら4人の仲間とともに展覧会を成功させて帰国した。翌年、彼らとともに太平洋画会を結成した。同40年年東京勧業博覧会で2等賞、同年第1回文展、続いて2、3回展でも3等賞、第4回展では2等賞を受賞した。翌年から審査員となり、全国各地に取材した風景画を出品した。大正10年に3度目の渡欧をするが、帰国後に病を得て、翌年の大正11年、48歳で死去した。

伊予(19)-ネット検索で出てこない画家


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4月26日(火)のつぶやき

2016-04-27 | つぶやきまとめ

文献『近代洋画・中四国の画家たち展』のトップ画像を下村為山にしました。
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4月25日(月)のつぶやき

2016-04-26 | つぶやきまとめ

日本画革新運動の中での愛媛出身の日本画家 goo.gl/kzjmkA


文献に『讃岐画家人物誌』を追加しました。
yuagariart.com/artist-labo/li…
明暦以後で、本書刊行時点で物故している画家の小伝を集めている。 pic.twitter.com/IRkvWSrQsx

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日本画革新運動の中での愛媛出身の日本画家

2016-04-25 | 画人伝・伊予

文献:伊予の画人愛媛県美術館所蔵作品選

明治も20年代になると、岡倉天心、フェノロサらの提唱により東京美術学校が開設され、日本美術院が創立されるなど、「新日本画」を標榜する革新運動が活発になっていった。京都における諸流派も近代絵画の影響を受け、それぞれに革新機運が盛り上がり、新団体の結成などが盛んになっていった。愛媛出身の日本画家としては、今治生まれの大智勝観が、東京美術学校に学び、横山大観らを中心に日本美術院が再興される際に中心人物として参加した。また、周桑郡庄内村生まれの高橋周桑は、山本丘人らと創造美術会の結成に参加した。

大智勝観(1882-1958)
明治15年今治生まれ。本名は恒一。明治23年に東京美術学校日本画科を卒業後、1年間、志願兵の歩兵少尉として日露戦争に従軍した。大正2年、第7回文展で初入選、3等賞を受賞した。翌年、横山大観を中心とする日本美術院の再興に際して、筆谷等観とともに中心人物として参加、再興第1回院展に出品して、小林古径、前田青邨とともに同人に推挙された。昭和5年、ローマ日本美術展に際し美術使節として横山大観に随行し、速水御舟らとともにイタリアに渡り欧州を遊歴、帰国後に大観との共著で『渡伊スケット集』を出版した。また、同年からは日本美術院経営者となっている。昭和14年新文展の審査員に、戦後は日展参事をつとめた。昭和33年、77歳で死去した。

高橋周桑(1901-1964)
明治34年周桑郡庄内村生まれ。本名は千恵松。代々庄屋の家だったが、父と長兄が事業に失敗したため、小学校に入るころに九州に移住し、小学校卒業後は家業の菜園造りを手伝っていた。18歳の時に速水御舟の「洛北修学院離宮」を画集で見て感銘を受け、22歳で上京し、速水御舟に師事、師から故郷にちなんだ「周桑」の号を受けた。昭和3年、第15回院展に初入選、同5年に日本美術院賞を受賞して院友となった。同18年、文楽の吉田栄三に心酔し新橋演舞場に通い、吉田を描いた作品を院展に発表するようになり、これ以降文楽の舞台衣装や舞台美術を担当するようになった。戦後の昭和23年には山本丘人、吉岡堅二、福田豊四郎、小倉遊亀らと創造美術会を結成、その後創造美術が新制作派教会と合流して新制作協会となったため、同会の会員として晩年まで出品した。昭和39年、63歳で死去した。

伊予(18)-ネット検索で出てこない画家


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4月23日(土)のつぶやき

2016-04-24 | つぶやきまとめ

文献に『描かれし美の世界-讃岐に関る画人・作品を中心に』を追加しました。
yuagariart.com/artist-labo/li…
日本人の美意識を反映した「描かれし美の世界」を寄贈・寄託資料を含めた館収蔵品の中から、讃岐に関る画人や作品、伝来品などを中心に展示。



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4月22日(金)のつぶやき

2016-04-23 | つぶやきまとめ

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伊予の南画、全盛から現代南画へ

2016-04-22 | 画人伝・伊予

文献:伊予の画人、伊予文人墨客略伝

吉田蔵澤(1722-1802)やその門人たちによって確立されていった伊予南画は、しだいに広がりを見せる。小松藩絵師となった森田南濤(1808-1872)は文晁派の春木南湖に学び、その流れは門人の林涛光(1832-1913)によって引き継がれた。伊予の朱子学者・近藤篤山に学んだ長尾慶蔵(1834-1872)も南画をよくした。さらに、伊予南画の双璧と謳われた天野方壺(1824-1895)と続木君樵(1835-1883)の出現により、伊予南画は全盛を迎える。全国的にみると、その後の南画は、幕末から明治初期にかけて衰退していくことになるのだが、伊予の地にあっては、三好藍石(1838-1923)や野田青石(1860-1930)らの活躍は、昭和初期になっても色あせることはなく、現代南画の世界においても、日本南画院の設立に参加した矢野橋村(1890-1965)らへと連綿と続いている。

林涛光(1832-1913)
天保3年生まれ。森田南濤に師事し、文晁派らしい緻密な描写力で伊予の名勝を描いた。今治の国学者・半井梧庵の著書『愛媛面影』に挿絵を担当した。明治初期に描いた真景の掛け軸「石鎚画賛」と「面白滝画賛」には半井梧庵が賛を書いており、両者の親密ぶりが伝わる。大正2年、82歳で死去した。

森田南濤(1808-1872)
文化5年小松生まれ。小松藩士・森田森蔵元利の三男。19歳の時に江戸に出て、春木南湖の門に学んだ。山水花卉を得意とし、38歳で小松藩絵師となった。明治5年、64歳で死去した。

長尾慶蔵(1834-1872)
天保5年宇摩郡関川村上野生まれ。近藤篤山に師事して漢学を学んだ。また、人物画をよくした。明治5年、87歳で死去した。

矢野圭洲(1838-1915)
天保9年壬生川の保内神社に生まれた。本名は矢野治美。京都の南画家・上田公圭に師事し、のちに帰郷して閑居した。人物、花鳥画を得意とした。大正4年、広島において78歳で死去した。

大西黙堂(1851-1921)
嘉永4年川之江町井地生まれ。本名は為一(為市とも書いた)、別号に黙仙、黙遷がある。大西家は質屋をし、サトウキビから製糖もしていた。黙堂は生まれつき言葉が不自由で、幼いころから書画に親しみ、明治の初めころに絵の修業のために京都へ出て、浅井柳塘に師事、水墨画を学び、師匠や画友らと全国をまわってスケッチをした。明治19年東洋絵画共進会で三等賞、同34年全国南画共進会で三等賞、41年関西南画会全国絵画展で二等賞を受賞した。大正10年、71歳で死去した。

鱸亀峰(1857-1902)
安政4年生まれ。名は藤馬。名草逸峰に師事した。人物、花鳥、山水いずれにもすぐれ、将来を嘱望されていたが、明治35年、46歳で死去した。

中神靄外(1859-1941)
安政6年松山生まれ。武智五友に漢学を、名草逸峰、鉄翁祖門、木下逸雲に南宗画を学び、山水を得意とした。昭和16年、83歳で死去した。

野田青石(1860-1930)
万延元年生まれ。八幡浜矢野町の庄屋・野田美陳の孫。名は純太郎。別号に孤雲、如雲居士がある。上甲振洋に経書を学び、父・南山及び荒木鉄操に画法を習い、さらに明治11年に豊後の帆足杏雨について学んだ。京都相国寺の荻野独園に参禅し、さらに帰郷し大法寺の西山禾山に参禅して心眼を養った。また、大阪の藤沢南岳について詩文を学び、時に名山勝地を訪ねて画材を探し、大家と交わって画技を深めた。明治25年、コロンブス世界博覧会に桃源の図を出品して奨励賞を受賞、以来各地の共進会に出品して褒賞を受けた。昭和5年、70歳で死去した。

矢野橋村(1890-1965)
明治23年越智郡波止浜町生まれ。本名は一智。別号に知道人、大来山人、古心庵がある。18歳で大阪に出て、砲兵工場で働いていた時に事故で左手首を失った。20歳で南画家・永松春洋の門に入り、大正3年、25歳の時に文展に初入選、褒賞を受けた。以後も文展に出品、院展が再興されると出品して院友となるが、次第に既成団体から離れていった。大正5年に主潮社を設立、同10年には日本南画院設立に参加し、昭和11年の解散まで出品した。また、大正13年に大阪美術学校を設立、校長となり後進の育成に尽力した。昭和2年から再び帝展に出品、翌年特選となり、同8年には帝展審査員となった。36年には日本芸術院賞を受賞した。古川英治「宮本武蔵」など多くの新聞挿絵を担当している。昭和40年、76歳で死去した。

矢野鉄山(1894-1975)
明治27年越智郡波止浜町生まれ。本名は民雄。矢野橋村の甥。幼いころから画を好み、18歳の時に上京して小室翠雲に師事した。同13年に叔父の橋村が大阪美術学校を開設したため、それを機に大阪に移り、同校で学んだ。大正9年、第2回帝展に初入選し、以後も文展、日展に出品した。大正10年の日本南画院創設にともない、師の翠雲や橋村とともに参加、昭和11年の日本南画院解散の翌年には、橋村、菅楯彦、小松均、中川一政、津田青楓、八百谷冷泉らと墨人会倶楽部を結成した。昭和14年、橋村を中心とした乾坤社を結成、大阪美術学校を拠点に公募展を5回開催した。昭和18年には新文展の審査員をつとめ、戦後も日展審査員をたびたびつとめた。昭和43年、全日本水墨画協会を創立、水墨画の振興に尽力した。昭和50年、81歳で死去した。

伊予(17)-ネット検索で出てこない画家


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4月20日(水)のつぶやき

2016-04-21 | つぶやきまとめ

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伊予南画の全盛・続木君樵と周囲の画人

2016-04-20 | 画人伝・伊予

文献:伊予の画人、伊予文人墨客略伝

天野方壺の登場で全盛を迎える伊予南画だが、伊予画壇において方壺と双璧と謳われたのが続木君樵(1835-1883)である。君樵は庄屋の家系に生まれ、幼いころから書画に親しんだ。土居町を中心として多くの画人と交わったが、地元の村上鏑邨、川之江の三好鉄香、三好藍石らとは年齢もあまり違わず、弟子とも友人ともいえる間柄であった。とくに三好藍石とは親しく、川之江の三好家に出向いて絵を描き、教え、画論を戦わせていたという。

続木君樵(1835-1883)
天保6年宇摩郡野田村生まれ。名は直、通称は宇多三。別号に六宜道人がある。土居町に残る続木家の記録によると、11歳のころから画を学び、15歳で九州へ修業に出た。安政2年には豊後日田で木本橘巣に学び、文久3年から明治元年まで長崎に行き木下逸雲、鉄翁祖門に学んだ。明治2年に土居町に戻り、明治4年から明治6年まで山陰道に渡り雲伯地方に遊んだ。そして明治7年から一年間、中国に渡って研究を深め、中国から帰国後は郷里で塾を開いたが、その後も出雲、土佐などをまわって修業した。明治16年、尾道において49歳で死去した。

村上鏑邨(1822-1893)
文政5年宇摩郡蕪崎村生まれ。村上安之丞春忠の五男。幼いころから書画を学び、17、8歳の頃に京都へ出て中西耕石について学んだ。蕪崎は勤王の士を輩出したところで、鏑邨が成人した頃は維新が風雲急を告げており、のちに天誅組の乱で失敗する藤本鉄石と血盟相許すなどした。鏑邨が勤王画家と呼ばれる所以である。維新後、絵に打ち込み、明治10年頃には画家としてかなり名声を得たようで、当時の名が上った画家にならい諸国を漫遊した。明治26年2月17日旅先の美方郡浜坂町の「たいや旅館」において71歳で病死した。

三好藍石(1838-1923)
天保9年生まれ。宇摩郡川之江の人。名は貞信、通称は旦三、別号に金螺、江翁がある。阿波の池田に生まれ川之江の素封家・三好鉄香の妹婿になった。青年時代から画を好み、野田村の続木君樵、讃岐の兒島竹處、豊後の木本橘巣らに師事、さらに長崎の木下逸雲、鉄翁祖門らに私淑し、画法を研究した。また、讃岐の山田梅村には詩文、京都の貫名海屋には書を学んだ。南画をよくし、山水を最も得意とした。明治35年ころに門人だった手島石泉が松山織物会社の重役として大阪に出張滞在した時、大阪にも藍石ほどの南画家はいないと感じ、藍石に大阪に出ることを勧めたことから、大阪に出て20年居住し、名を高めた。晩年は川之江に戻って悠々自適に画業に専念した。大正12年、86歳で死去した。

三好鉄香(1836-1885)
天保7年生まれ。川之江の人。本名は三好長慶。遠祖は八幡太郎義家の末裔で、阿波の守護職にして勤王家だった。名は範平。別号に愛石、洋雲、聴雨軒、得月庵がある。素封家で、酒造業を営み、大地主として金融を図り、地方産業の功労者だった。画を続木君樵に学び、南画をよく描いた。明治18年、50歳で死去した。

手島石泉(1852-1947)
嘉永5年越智郡大三島町生まれ。名は正誼。警察官、のち郡長をつとめた。三好藍石に師事した。退官後、鉄翁祖門・木下逸雲に師事し南画を描いた。昭和22年、96歳で死去した。

山内幾太郎(不明-1922)
鉄翁祖門・続木君樵に南画を学び、のちに大坂に出て田能村直入に師事し、山水、花鳥画をよくした。大正11年死去した。

伊予(16)-ネット検索で出てこない画家


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4月18日(月)のつぶやき

2016-04-19 | つぶやきまとめ

伊予出身の旅絵師・天野方壺、伊予を訪れ作品を残している富岡鉄斎 goo.gl/Hd9sjo



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伊予出身の旅絵師・天野方壺、伊予を訪れ作品を残している富岡鉄斎

2016-04-18 | 画人伝・伊予

文献:伊予の画人、江戸・明治の絵師たちと正岡子規

幕末から明治初期にかけて活躍した伊予出身の南画家に、天野方壺(1824-1895)がいる。その生涯はほとんど不明確だが、諸々の資料をつなぎ合わせると、はじめ三津の四条派の画人・森田樵眠に学び、のちに京都の中林竹洞の門に入り、翌年には着色法を土佐光孚に、書画法を貫名海屋に学び、それから九州薩摩まで旅に出た。弘化元年に京都に戻って日根対山に南派を学び、さらに江戸に出て椿椿山に南派を学んだ。嘉永2年には函館、江差に渡り、翌年にかけて蝦夷の勝景を写生した。同6年になって江戸に戻り橋本雪蕉に学び、万延元年に長崎に行って木下逸雲に学んだのち、肥後、肥前や周辺各地をまわり、さらには明治3年中国に渡り、胡公寿に南派を学んだ。その後長崎に戻り、九州各地を遊んだのち、京都から東海にかけて旅行するなど「旅絵師」として諸国を歴遊した。遊歴の生活は晩年まで続き、岐阜の地で没したとされる。

富岡鉄斎(1836-1924)は、青年時代に伊予出身の国学者・矢野玄道と交流し、維新後には伊予出身の佐々木春子と結婚したこともあり、伊予松山をたびたび訪れている。その際に三津浜の人々の歓迎を受け、多くの画を描いている。伊予に関する画題を取り上げた作品も多い。伊予で鉄斎に学んだ弟子としては、中川秋星・藤田三友父子がいる。

天野方壺は鉄斎ともっとも交流があった伊予の画人とされていて、残された資料によると、旅から旅の生活をしていた方壺だが、鉄斎宅からそう遠くない場所に居を置いていることがわかる。また、鉄斎から伊予の近藤文太郎にあてた書簡によると、方壺が明治19年頃に松山で豪商の求めに応じて作品を描いたことや、再び京都に戻り旅絵師を続けていたこと、妻がいたこと、そして鉄斎の17歳の長男・謙蔵が竹輪を持って方壺宅を訪れていることなどが分かっている。

天野方壺(1824-1894)
文政11年松山三津浜生まれ。通称は大吉、名は俊。別号に葛竹城、景山山本、雲眠、壷翁、壷山人・白雲外史などがある。三津の四条派の画人・森田樵眠に学び、のちに京都に出て中林竹洞の門に入った。数度中国にも渡り、胡公寿らに師事して画技を磨いたとも伝わっている。富岡鉄斎とも交流があったといわれる。岐阜、仙台、高田など全国を旅して歩き、松山城天主閣蔵の「山水花卉図屏風」をはじめ、各地で多くの作品を残している。岐阜高山で没したという説もあるが、その生涯は不明確である。明治27年、67歳で死去した。

富岡春子(1846~1940)
弘化3年生まれ。富岡鉄斎の妻。父佐々木禎蔵、母イクの三女として長浜に生まれた。佐々木家は代々大洲藩の長浜番所に務めていた。19歳で京都の五条家に奉公に出て、明治5年、26歳の時に富岡鉄斎と結婚した。書や歌をよくし、墨絵を書いたり楽焼を好むなど趣味も広く、長浜で幼な友達、知人との交流も深かった。昭和15年、94歳で死去した。

藤田三友(1869-1947)
松山市湊町でカツラ屋を営む風流画人・中川秋星の二男。請われて藤田家を継ぎ三番町に住んでいた。明治6年、父の秋星は風雅の友、永木竹雨宅で富岡鉄斎と知り合い、以後父子ともに鉄斎の画風を学んだ。愛媛美術工芸展委員として活躍。昭和22年、78歳で死去した。

伊予(15)-ネット検索で出てこない画家


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