松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま福岡県を探索中。

宇和島の画人・三好応山と応岸

2016-03-31 | 画人伝・伊予

文献:伊予文人墨客略伝、人づくり風土記 38 愛媛

宇和島を中心とする南予地方は、松山を中心とする中予地方とは高い山々でへだてられおり、むしろ九州との海上交流のほうが盛んで、県内でも固有の気風・文化をはぐくんできた。さらに、慶長19年からは仙台藩主・伊達政宗の長男秀宗が藩主として宇和島藩を治めることとなり、伊予八藩のなかでも特異な文化圏を形成することとなった。絵画の分野においても、中央からの狩野派ではなく、写生派の三好応山・応岸父子らが活躍した。他にも、猿を得意とした奇人・大内蘚圃(1764-1842)や、宇和島から大分県の杵築に移った孤高の水墨画家・村上天心(1877-1953)、さらには、高畠華宵(1888-1966)、畦地梅太郎(1902-1999)ら個性的な画家が出ている。

三好応山(1792-1849)
寛政4年宇和島本町生まれ。宇和島本町頭取、紺屋頭取。名は三郎兵衛。三好家は代々町頭取と紺屋頭取をつとめた豊かな商家であり、応山は幼いころから画を好み、土佐鉄山の門に入って学んだとされる。京都風の画工を自称し、最も人物画を得意とした。二人の子がいて、長男に家督を譲り、二男の応岸に画技を授けて分家させた。作品は宇和島地方に多く残っている。嘉永10年、58歳で死去した。

三好応岸(1832-1909)
天保3年宇和島本町生まれ。三好応山の二男。名は又八郎。幼いころから画を好み、画を描く父の傍らで描く真似をして楽しみ、長じて父に師事して画技を学び、父の一文字を受け「応岸」と号して分家した。旧藩主伊達宗徳の知遇を得てしばしば用命を受け、なかでも「月下の山犬」は最も称賛を受け、三度も揮毫したという。明治15年、第1回内国絵画共進会の第六区に、写生派の画家として出品。明治17年の第2回内国絵画共進会では、第五区の円山派の画家として出品している。明治42年、78歳で死去した。

伊予(8)-ネット検索で出てこない画家


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伊予松山藩の住吉派絵師、遠藤広古・広実

2016-03-29 | 画人伝・伊予

文献:伊予の画人愛媛の近世画人列伝-伊予近世絵画の流れ-、伊予文人墨客略伝

江戸の狩野派は武家社会に受け入れられ、日本各地で絶大な勢力を誇った。伊予松山藩においても、初代の松本山雪から明治にいたるまで、代々狩野派が御用絵師を引き継いでいたが、その途中で、狩野派ではない大和絵の住吉派の遠藤広古、広実父子二代が藩の絵師に加わっている。遠藤広古・広実親子は、住吉家の絵師として江戸に常府していた。広実には三人の子がおり、三男・広賢は住吉宗家を継いで八代当主となった。また、広実に学んだ好川尚賢は伊予の地に多くの作品を残している。

遠藤広古(1748-1824)
寛政元年江戸生まれ。松山藩絵師。本姓は梅原、のちに遠藤と改めた。幼名は広起。別号に蝸盧がある。住吉派四代・住吉広守について画法を学び、寛政年間に松山藩に招かれ藩絵師となった。それまで藩の御用絵師は狩野派系の画人が独占していたが、それに伝統的なやまと絵の住吉派の画人が加わることとなった。文政7年、77歳で死去した。

遠藤広実(1784-1862)
天明4年江戸生まれ。遠藤広古の子。幼名は古致、通称は伴助。父と同じく江戸の住吉派五代・住吉広行に学び、のちに松山藩の絵師になった。広実の作品は愛媛県内に比較的多く残されている。文久2年、79歳で死去した。

遠藤広宗(1824-不明)
文政7年生まれ。遠藤広実の長男。住吉弘貫に師事した。

遠藤貫周(1829-不明)
文政12年生まれ。遠藤広実の二男。住吉弘貫に師事した。

遠藤広賢(1835-1883)
天保6年生まれ。遠藤広実の三男。幼名は茂三郎、通称は内記。別号に藤廻屋、等塵がある。住吉弘貫に師事し、のちに弘貫の養子となり住吉宗家を継ぎ、幕府の御用絵師をつとめた。維新後はフェノロサと親しく交友した。明治16年、49歳で死去した。

伊予(7)-ネット検索で出てこない画家


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狩野派唯一の「村狩野」・今村道之進

2016-03-25 | 画人伝・伊予

文献:愛媛の近世画人列伝-伊予近世絵画の流れ-、人づくり風土記 38 愛媛

文化文政の頃、東予一帯で活躍した狩野派の画人に今村道之進(1761-1830)がいる。道之進は、宝暦11年宇摩郡中曽根村に生まれ、21歳の時に京都に出て、狩野探幽の流れを汲む京都鶴沢派に学び、27歳で帰郷した。その後は、天保元年に70歳で没するまで、地元の中曽根村にとどまり、大庄屋、庄屋、寺社、商人の求めに応じて多くの絵を描いた。江戸、京都、大坂などの大都市で、幕府や藩に仕えず活動した狩野派の画人を「町狩野」と呼んでいるが、道之進のように生涯農村で活動した狩野派の画人は前例が見られないことから、道之進のことを「村狩野」と呼ぶ研究家もいる。今村家は、道之進の代まで三代にわたって画を描いている。師系は不明だが、地元の寺院に作品を残している今村義広、京都の鶴沢探山に学んだ今村義衡、探山の子・鶴沢探鯨に学んだ今村義比らが資料に残っている。

今村道之進(1761-1830)
宝暦11年宇摩郡中曽根村生まれ。名は義種。天明元年、21歳の時に京都に出て27歳までの長期にわたって江戸狩野の狩野探幽の流れを汲む京都鶴沢派の鶴沢探索の門に入って狩野派の画法を修めた。道之進が京都の画道修業の成果として郷里に持ち帰った粉本や日記類は千点を超すといわれる。道之進は、没するまで中曽根村にとどまり、狩野派の画人として宇摩地方の寺院や近隣の作画依頼に応じて、襖絵、屏風絵、天井画などを描いた。天保元年、70歳で死去した。

今村義広(1653-1726)
承応2年生まれ。今村道之進の曽祖父。今村本家の当主。今治藩の大庄屋をつとめていた。号は松嶺斎。師系は不明だが、仏画を好んで描き、地元の寺院に納めた。作品の一部が地元に伝わっている。享保11年、74歳で死去した。

今村義衡(1691-1738)
元禄4年生まれ。今村道之進の祖父。義広の四男。今村家から分家した。号は幽山斎守義。京都の鶴沢探山に学んび、武者絵を得意とした。今村家に残っている粉本の中に武者絵の絵馬の写しが残っている。元文3年、48歳で死去した。

今村義比(1714-1786)
正徳4年生まれ。今村義広の孫。今村本家の当主。諸芸に通じ、画は鶴沢探鯨に学び、いろいろな寺社に作品を奉納したと伝えられ、今も作品や粉本が残っている。天明6年、73歳で死去した。

伊予(6)-ネット検索で出てこない画家


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西条藩絵師・小林西台と各藩の狩野派

2016-03-22 | 画人伝・伊予

文献:伊予の画人愛媛の近世画人列伝-伊予近世絵画の流れ-、伊予文人墨客略伝

木挽町狩野の流れは伊予の地に急速に広がり、大洲藩にやや遅れて西条藩からは小林西台(1794-1854)が出た。西台は、大洲藩の若宮養徳(1754頃-1834)と同じ木挽町狩野の門に学んだ。40歳ほど年長の養徳に師事したという説もある。伊予八藩の中でも西条藩は別格で、一柳直興の改易後に西条藩藩主となった松平家は、徳川御三家の紀伊徳川家の血筋にあたり、藩主は領地の西条には赴かず、江戸に定府する特別な位置にあった。そのため、西台も藩主と共にほとんどを江戸で過ごしている。西台の子・小林朴宇も画をよくし、父の跡を継いで西条藩絵師となった。ほかに、今治藩では能島邑義・典方父子が藩絵師として活躍した。

小林西台(1794-1854)
寛政6年江戸生まれ。名は良林、字は鳴春、はじめ文熈と称し、岳陽と号した。江戸に出て木挽町狩野の画塾で学んだとされ、若宮養徳の門人という説もある。文化7年、17歳の時に松平頼学の近侍となり、文政12年、36歳の時に藩命により絵御用を専らとするように仰せつかり、翌年剃髪して藩絵師となった。ほとんど江戸に住んでいた西台だが、西条地方を中心に多くの作品が残っている。『西条藩根元帳』によると、天保6年、藩主松平頼学に随行して江戸を離れ、約9か月を西条で過ごしている。この時の様子は「松平頼学入国船行列図」に描かれている。嘉永7年、61歳で死去した。

能島邑義(1710-1775)
宝永7年生まれ。今治藩絵師。藩主松平定基、定卿の二代に仕えた。通称は與市兵衛。絵ははじめ木挽町狩野派の画人・野村常林に学び、のちに狩野邑信の門に入り、師より一字を許され「邑義」と号した。さらに延享4年、狩野晏信の弟子となった。安永4年、65歳で死去した。子の能島典方も狩野典信の門に学び、今治藩の絵師をつとめた。

今城敬慶(1747-1807)
延享4年宇摩郡野村生まれ。名は半蔵。別号に東仰斎がある。天明2年葱尾村今城家の養子になった。狩野派の絵をよくした。晩年は同地の平山に庵を設けて風雅な生活を送った。文化4年、60歳で死去した。

青野桑里(1842-1877)
天保13年周桑郡庄内村生まれ。別号に桑満がある。木挽町狩野の狩野勝川院雅信に入門し学んだ。明治6年に陸軍省出任、印刷局助役となった。印刷機械、写真、版画などの研究をした。明治10年、35歳で死去した。

伊予(5)-ネット検索で出てこない画家


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大洲藩御用絵師・若宮養徳とその門人

2016-03-18 | 画人伝・伊予

文献:伊予の画人愛媛の近世画人列伝-伊予近世絵画の流れ-、伊予文人墨客略伝

加藤泰恒・文麗親子から引き継がれた木挽町狩野の流れは、木挽町狩野七代・狩野養川院惟信に学んだ大洲藩絵師・若宮養徳と、その門人たちによって、伊予大洲の地に伝えられた。かれらの絵画は大洲藩主ゆかりの如法寺、曹渓院、八幡神社などの寺院や藩主たちの邸宅を飾った。養徳の木挽町狩野の画系は、子の晴徳、晴徳の門人でのちに養子になった勝流、勝流の子・勝岳、晴徳の子・勝☆(☆は「毘」+「鳥」)へと引き継がれ、連綿と大洲の地にもたらされていった。なかでも、晴徳は父の養徳に学んだ後、江戸に出て、木挽町狩野八代・狩野伊川院栄信の門に入り、以後、父に代わって大洲藩主泰幹に絵師として仕えた。

若宮養徳(1754頃-1834)
宝暦4年頃に大洲若宮村の紺屋幸右衛門の二男として生まれた。別号に惟正、文流斎がある。無生とも称した。先祖は松山藩の士分だったが、大洲に移り住み染色を業とした。7、8歳の頃、紺屋の門口に貼り付けていた武者絵が六代藩主の目にとまり、城内で揮毫したところたいへんな賞賛を得たことにより、長州藩狩野派の林美彦(文流斎洞玉)について絵を学ぶことになったと伝えられる。その後、十代藩主の御用絵師となり、のちに木挽町狩野の門に入り、七代狩野養川院惟信について学んだ。盤珪禅師が開山した如法寺本堂の28枚からなる大襖群に描かれた「龍図」のほか、大洲地方の寺院に大作を多く残している。本人が作品に自署した行年書きがまちまちで享年が特定できず、生年がはっきりしないが、天保5年、81歳で死去したとする説が有力である。

宿茂稼暁(1798-1851)
寛政10年生まれ。大洲の人。諱は正謙、通称は甚助。別号に樗庵がある。文雅を好み、若宮養徳に画を学んで大洲藩主泰幹に仕え、画では徳隣と号した。晩年は家業を長男に譲り、画業に専念し、文人墨客と交わった。嘉永4年、54歳で死去した。子に稼節、稼月がいる。

大橋文養斎(不明-1870)
大洲藩家老。名は英信。別号に後凋斎がある。若宮養徳の門人で、浮世絵風の画をよく描いた。65歳で五郎村に隠居し、茶道、陶芸、絵画を楽しんだ。明治3年死去した。

若宮勝☆(不明-1907) ☆は「毘」+「鳥」
大洲の人。若宮晴徳の子。若宮三世といわれ、別号に正保、松徳、従容斎などがある。はじめ木挽町狩野に学んだが、橋本雅邦らと交わり画風が一変した。写生を基調とした画を描いた。明治40年死去した。子はなく若宮家は断絶した。

伊予(4)-ネット検索で出てこない画家


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江戸木挽町狩野と伊予大洲藩の文人大名

2016-03-15 | 画人伝・伊予

文献:伊予の画人愛媛の近世画人列伝-伊予近世絵画の流れ-、伊予文人墨客略伝

江戸時代も中頃を過ぎると、伊予の各藩では常任の絵師をおくことが一般化し、藩主自らが絵筆を握る文人大名も現れるようになった。大洲藩三代藩主・加藤泰恒は、江戸木挽町狩野二代・狩野養朴常信の門に入り、「泰常」と号して画技をよくした。その六男である加藤文麗も木挽町狩野三代・狩野如川周信に学んで、画技をみがいた。文麗は江戸画壇でも名高く、谷文晁の最初の師としてもよく知られている。大洲地方には、泰恒・文麗父子とのつながりから、中央画家の名品が多く所蔵されており、のちに出る若宮養徳らは、その模写につとめ、大和絵から漢画風のものまで、幅広い画題に目を向けて作画する環境にあった。

加藤泰恒(1657-1715)
明暦3年江戸生まれ。大洲藩三代藩主。初号は泰経、泰常。別号に遠江守、乗軒、傑山がある。美作守加藤泰義の子で、後年遠江守に命じられ、大洲藩主となった。江戸木挽町狩野二代・狩野養朴常信について狩野派の画技を修めた。当時、天下三百諸侯のうち豊後日出の城主とともに画道の両雄とされ、画のほかにも、武道、禅学、能学、和歌、書、茶道などあらゆる学問に通じた文人大名だった。それらの学芸と見識は、将軍家の接待役をつとめ、宮廷の文化人らとの付き合いによって培われたものと思われる。作品は大洲地方に多く残されている。正徳5年、59で死去した。

加藤文麗(1706-1782)
宝永3年大洲生まれ。加藤泰恒の六男。正徳3年、8歳の時に大叔父泰茂の養子となり、江戸に住んだ。のちに寄合、火事場見廻り、西丸御小姓組番頭となり、従五位下に叙せられ、伊予守に命じられた。画は父と同門の木挽町狩野三代・狩野如川周信について学んだ。宝暦6年、45歳の時に病のため職を辞し、48歳で隠居、入道して「予斎」と号し、上野池之端に画室を構えて画道に専念した。谷文晁の最初の師としても知られており、文晁が10歳を過ぎたばかりの頃に出会い、たいへん可愛がり、絵の手ほどきをしていた。文麗の没後は文晁は渡辺玄対について画技を学び、その後、江戸南画を確立していった。また、文麗は、宗家の大洲藩との付き合いが多く、大洲の地に数多くの作品を残している。その画風を伝えるものとして、門人の岡田文鴻、平山文鏡が著した『文麗画選』には「唯、画を楽しみとし、神境に至った。描くところは山水、草木、花鳥、人物あらゆるものを筆にした。中でも人物を得意とし、その作画態度は、筆をなめ、思を積み、日を重ねて後成るものでなく、すべて一払のもとに絵を成した。これを得る者は玉珠にも比した」とある。大洲藩内には、伊予市稲荷神社の「神狐図」、大洲八幡神社の「曳馬図」など文麗の筆による絵馬が多く残っている。また、京都建仁寺開山堂にも「龍虎図」が残っている。天明2年、77歳で死去した。

木村常房(不明-不明)
正徳頃の人。狩野派の画人。如法寺に「元禄元年庚午藤原狩野常信門人 木村常房謹画」と銘の入った絵馬が掲げられている。

高田円乗(不明-不明)
江戸の人。加藤文麗の門人。名は正和、別号に文庸斎がある。菊池容斎の師として知られる。文麗を描いた肖像画が『近世名家肖像伝』に掲載されている。大洲八幡神社には、常信・周信父子の絵馬や、高田円乗ら木挽町狩野の画系をひく画人たちの絵馬が多く残されている。

伊予(3)-ネット検索で出てこない画家


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江戸浜町狩野と松山藩御用絵師

2016-03-11 | 画人伝・伊予

文献:伊予の画人愛媛の近世画人列伝-伊予近世絵画の流れ-、伊予文人墨客略伝

二代で終わった松本山雪・山月の後を受けて松山藩の御用絵師となったのは、豊田随園、武井周発、豊田随可の三代、三人である。かれらは江戸の浜町狩野家初代・狩野随川岑信、そして二代・随川甫信に学んだ江戸狩野派の流れを汲む画人で、松山藩では松本山雪・山月に代わって豊田随園の藩絵師時代に入ると、それまで中心だった京狩野の画流に代わって、江戸の狩野派の流れが導入された。松山藩御用絵師の狩野派は、豊田随園、武井周発、豊田随可の次に、住吉派の遠藤親子を挟みながら、荻山常山、荻山養弘と引き継がれ、阿倍晴洋が最後の松山藩御用絵師となった。

豊田随園(不明-1732)
松山藩御用絵師。別号に常之がある。『歴俸仕録』によると「はじめ忠八と言う。絵方巧者につき、元禄十年次小姓抱、同十一年、狩野随川(岑信)より免許に依て、剃髪、随園と改め、七十俵側医師格」となったとある。また『古今記聞』には「小児の時は餅など売りて、家中の長屋杯を徘徊して賤しき者なりと、この小児なりし時より画を好みて反古塵紙などを与ふれば、画を書く。其風説凡ならず、其親画をならわし、終に召し出され、狩野家の後見台命を蒙りたる者也。希世の名画というべし。随の字は狩野家にて賜わりし字のよし」とある。また『狩野門人帳』には、「本名米田金七、はじめ讃岐高松家の藩士」とあるなど、不明な点は多い。享保17年、死去した。

武井周発(1694-1770)
元禄7年生まれ。松山藩御用絵師。押川由貞の四男。初め作之丞と称し、のちに半三郎、半蔵、作右衛門と改めた。周発と名乗るまでは常美と呼ばれていた。正徳5年、武井家の養子となって家督を継いだ。幼いことから縁戚関係にある豊田随園のもとで画を手ほどきを受けたと考えられる。その後、江戸へ出て狩野周信や松本隋川に学んだとされる。豊田随園の後を継いで松山藩絵師となってからも、参勤交代の際に藩主のお伴で江戸へのぼったという。愛媛県内に残された周発の作品は多く、署名とともに「伊陽之産周発」「豫陽之産」「清流軒」などの印が押されている。明和7年、77歳で死去した。

豊田随可(不明-1792)
松山藩御用絵師。豊田随園の子。別号常令。武井周発の後をうけて藩絵師となった。『古画備考』によると浜町狩野家の初代と二代に学んだとされる。また『古今記聞』によると、随可が突然家出をし、父・随園は狩野家から「随」の字を返上させられる憂き身にあったとあり、隋可の奇行ぶりはしばしば話題になったとされる。また、『松山分限録』には、「御画師 豊田随可百石六人扶持。画執行豊田千里十五石三人扶持」とあり、歴代の御画師の中で最高の地位にあったことがうかがえる。寛政4年、72歳で死去した。

荻山常山(不明-1821)
松山藩御用絵師。木挽町狩野尚信の子常信に学び、狩野派の絵をよくした。文政4年に死去した。

荻山養弘(不明-1841)
松山藩御用絵師。荻山常山の子。天保3年死去した。

荻山雅広(不明-1876)
荻山養弘の子。木挽町狩野雅信の門人。万延元年作の雄郡神社「社景図」が残っている。明治9年死去した。

阿倍晴洋(不明-1887)
松山藩最後の御用絵師。別号に養年がある。木挽町狩野養信の門人。として多くの作品が残っている。明治20年死去した。この子雅山も画をよくした。

伊予(2)-ネット検索で出てこない画家


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伊予松山藩御用絵師・松本山雪

2016-03-08 | 画人伝・伊予

文献:伊予の画人愛媛の近世画人列伝-伊予近世絵画の流れ-

桃山時代から江戸初期にかけて各地で築城が盛んになり、城内を勇壮に飾り立てる画才を持った絵師の存在が重要になった。伊予の地にはまだそのような絵師が育っておらず、武将たちは京や伏見・大坂の城にかかわった絵師たちに目を向けた。伊予松山藩に最初に迎えられた絵師は、京狩野に学んだとされる松本山雪(不明-1676)で、馬の名手として知られた。寛永12年、松平定行に伴い伊予の地に入った山雪は、伊予松山藩の御用絵師をつとめ、それを養子の山月が引き継いだが、次に続かず、山雪の画系は二代で途絶えている。

松本山雪(不明-1676)
本名は恒則、俗名は山雪。はじめ庄三郎といった。別号に岨巓、心易がある。松平定行に従って松山に入り、御用絵師をつとめた。松山石井郷松本屋敷に住んでいた。画題は山水、人物、走獣、仏画など多彩だが、特に馬の名手として知られた。今治出身説、狩野山雪師事説、藤堂高虎伺候説などがあるが、山雪に関する史料は極めて少なく定かではない。山雪の子孫松本家に伝わる「松本家系図」によると、勅命により上京し、御所で馬の画を描き、その妙なるを絶賛されて「肩の印」御免許の綸旨を下賜され、以後「御免筆」印を捺すとある。また出生地を「近江」としている。生年は不詳だが、同家系図には後世の別筆で「行年九十六歳」とあり、これを信じれば生年は天正9年(1581)となる。延宝4年死去した。

松本山月(1650-1730)
慶安3年生まれ。名は貞則、初め佐次之丞といった。別号に半輪斉がある。松山藩の絵御用を務めた松本山雪の養子となって画技を磨き、山雪の跡を継いだ。延宝4年に山雪は世を去るが、山月は山雪から学んだ画技を発揮し、貞享元年に松山城三の丸藩主宅に「松竹梅図」を描くなどし、その功績により同3年には三人扶持加増あり、八人扶持扱いとなった。近隣の社寺とも大いにかかわり、宝永2年、松山波賀部神社に絵馬を奉納、同7年に南土居万福寺に「大涅槃図」を描き、正徳2年には同寺に「釈迦三尊画」を納めた。画風は山雪の様式や構図を忠実に継承したもので凡庸な作家のイメージがあったが、近年になって山月筆のスケールの大きな作品が続々と確認され、新たな山月像が浮上しはじめている。享保15年、81歳で死去した。

伊予(1)-ネット検索で出てこない画家


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描かれた坂本龍馬、膨大な数の龍馬像を残した公文菊僊

2016-03-03 | 画人伝・土佐

文献:坂本龍馬の時代 幕末明治の土佐の絵師たち

坂本龍馬のブームはたびたび起こっているが、最初の大きなブームは、自由民権運動期の明治16年、坂崎紫瀾が坂本龍馬を主人公にした小説「汗血千里駒」を土陽新聞に連載したことにはじまる。第2次ブームは、明治37年、日露戦争開戦前夜、明治天皇妃の昭憲皇太后が葉山で静養していた折、坂本龍馬を名乗る人物が皇后の夢枕に立って日本海軍の守護神になる覚悟を伝えたという話から起こった。そして第3次ブームとなるのが昭和3年で、この年には、5月27日の海軍記念日に桂浜の「坂本龍馬像」が除幕され、阪東妻三郎主演の映画「坂本龍馬」が封切られ、昭和天皇即位記念に十二代酒井田柿右衛門が有田焼の坂本龍馬の胸像を多数制作した。昭和4年に高知の日本画家・公文菊僊(1873-1945)が描いた龍馬の肖像画は大流行し、第一次頒布で2000部を超えたという。

公文菊僊は、龍馬人気で肖像画を求める多くの人に応じて膨大な数の龍馬像を描いている。他にも高知の日本画家では吉永梅里や谷脇素文が龍馬像を残している。梅里や素文の龍馬像は、菊僊の龍馬像に細部の表現が酷似していることから、菊僊の作品をベースにしたものと思われる。また、高知洋画の先駆者・国沢新九郎も龍馬像を描いている。国沢の龍馬像は龍馬の没後に写真を元に制作されたとされるが、国沢は土佐藩の軍艦・夕顔丸の艦長をつとめており、龍馬と面識があったと思われるため、龍馬のひととなりの一端を伝えているともされる。昭和3年に設置された桂浜の「坂本龍馬像」の作者である彫刻家の本山白雲は、維新の志士たちの彫像をはじめ、多くの銅像を制作し銅像制作の第一人者となった。

公文菊僊(1873-1945)
明治6年高知市街鉄砲町生まれ。本名は時衛。高知県尋常中学校では楠永直枝の指導を受けた。明治25年の卒業後に上京して久保田米僊について四条派を学び、人物画を得意とした。土陽美術会にも参加し、歴史人物画などを描いた。社会教育の立場から坂本龍馬や中岡慎太郎、武市瑞山(半平太)ら維新の志士らの肖像画を多く描くようになった。特に龍馬の肖像画は、昭和3年の桂浜の龍馬像建立からはじまった龍馬人気の高まりの中で、肖像画を求める多くの人に応じて膨大な数を描いている。伯爵・田中光顕の推挙で大正天皇にも坂本龍馬像を献上している。昭和20年、疎開先の千葉県において、72歳で死去した。

吉永梅里(1866-1937)
慶応2年高知県南国市生まれ。家は稲吉屋という旅館兼料理屋を営んでいた。本名は亀太郎。今井小藍に画を学んだ。稲吉屋は父の代までは栄えていたが、梅里は商売を好まず番頭に任せきりで、店はなくなり借家住まいとなった。襖を張って生計をたてていたという。軸や襖絵のほか、絵馬も描いた。島内松南や下司凍月とも交流があり、土陽美術会にも会員として参加した。昭和12年、71歳で死去した。

谷脇素文(1878-1946)
明治11年高知市生まれ。本名は清澄。12歳で小松洞玉に狩野派を学び、のちに四条派の柳本素石に師事して、師の一字をもらい「素文」と号した。同門には島内松南、下司凍月らがいる。一時は高知市高等小学校で図画教師を勤めたが、のちに上京して橋本雅邦に師事し、油彩の勉強もした。帰郷後は新土佐新聞を経て高知新聞社に入社、「ポンチ絵」と呼ばれた痛烈な社会風刺漫画を制作した。その後再度上京して講談社に入社、山田はじめとともに川柳漫画を発表した。風刺と人情味あふれる作品を多く残している。土陽美術会の会員として日本画も制作した。昭和21年、69歳で死去した。

土佐(22)-ネット検索で出てこない画家


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