松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま福岡県を探索中。

土佐美術協会、土陽美術会の発足

2016-02-29 | 画人伝・土佐

文献:坂本龍馬の時代 幕末明治の土佐の絵師たち高知の美術 150年の100人展高知県立美術館館蔵品目録

西欧絵画が広まるなか、明治初期の高知の日本画は、徳弘董斎、河田小龍、種田豊水、名草逸峰らがそれぞれ後進の指導にあたっていた。そしてその流れが、土佐美術協会、土陽美術会の活動へと受け継がれていく。明治25年、柳本素石、南部錦溪、河野棹舟らを中心に、南画家の別役春田が初代会長となり土佐美術協会が結成された。さらに、明治40年には、上京していた高知県出身の美術家たちによって土陽美術会が創設された。土佐美術協会が高知を中心とした会であったのに対し、東京で発足した土陽美術会は、高知県出身者であれば流派や所属団体は問わず、郷土の美術振興と作家同士の親睦を目的とし、多彩なジャンルの作家が集まった。発起人は、日本画家の山岡米華、乾南陽、広瀬東畝、竹村渭川、島内松南、洋画家の石川寅治、彫刻家の本山白雲、図案家の千頭庸哉に美術時報主幹の小原太衛の9名。明治43年には高知の土佐美術協会が土陽美術会と合併して土陽美術会土佐支部として改称され、高知と東京を結ぶ活発な美術活動を展開していくことになる。

山岡米華(1868-1914)
慶応3年高知市生まれ。本名は尚樹、字は子敬、幼名は幸太郎。高知師範学校在学中に名草逸峰の門に入り南画を学んだが、父の反対を押し切って学校を中退、明治21年に上京して川村雨谷に師事し、書を長三洲に学んだ。当時西洋画が流行するなか、南画の勢力は衰えていたが、漱芳画塾を開いて門人を育成した。明治39年には小坂芝田、松林桂月、佐竹永陵らと日本南宗画会を結成した。明治40年には東京勧業博覧会で1等賞を受け、日本美術協会展では2等賞を受賞、同年、土陽美術会の結成に参加した。大正3年、山梨県において45歳で死去した。

乾南陽(1870-1940)
明治3年高知市生まれ。本名は長光。別号に甘寐庵がある。明治25年に東京美術学校絵画科に入学、のちに橋本雅邦、山名貫義や下村観山に学んだ。在学中の明治29年に第1回日本絵画協会展で3等褒状を受賞した。卒業後は中学図書研究会を起こし、図書教科書を編著した。明治40年、土陽美術会の結成に参加。大正5年、第10回文展に入選、11、12回展も連続で入選した。一貫して歴史人物画を描いた。昭和15年、69歳で死去した。

広瀬東畝(1875-1930)
明治8年高知県高岡郡佐川町生まれ。通称は済、字は公美。別号に燕石、木畝、心庵、香雲山房がある。はじめ高知県に来遊中だった南画家・天野痩石に学び、燕石と号した。明治31年に上京して荒木寛畝に師事して南北合派を修めた。種田豊水にも学んでいる。明治37年、セントルイス万博で銀牌を受け、日本美術協会会員になった。明治40年、土陽美術会の結成に参加。明治44年第5回文展に初入選、以後文展、帝展に出品した。花鳥画を最も得意とした。昭和5年、55歳で死去した。

竹村渭川(1877-不明)
明治10年高知市生まれ。名は左人。幼いころから画を好み、小松洞玉門下の中谷一近に手ほどきを受け、ついで種田豊水に学んだ。明治27年上京して滝和亭の門に入り、和亭が没するまで6年間師事した。明治40年、土陽美術会の結成に参加した。

島内松南(1881-1962)
明治14年高知県野市町生まれ。本名は賢蔵。種田豊水、柳本素石に師事した。明治29年から日本美術協会に出品、明治33年には1等褒賞を受けた。明治34年に上京し、山水画を橋本雅邦に、歴史画・人物画を梶田半古に学んだ。明治40年第1回文展で3等賞受賞、同年、土陽美術会の結成に参加した。大正11年に帰郷し、高知の日本画壇の発展に尽くした。昭和37年、81歳で死去した。

石川寅治(1875-1964)
明治8年高知市生まれ。第二中学校で上村昌訓に教えを受け、明治24年に上京し小山正太郎の不同舎に入った。明治26年、第5回明治美術会展に初出品、明治34年に明治美術会の組織改革で新会務委員となった。翌年太平洋画会の結成に参加した。明治35年から37年まで渡欧。明治40年、土陽美術会の結成に参加した。以後も帝展、日展に出品を続けた。昭和22年には太平洋画会を脱会して示現会を結成、代表となった。昭和28年日本芸術院賞恩賜賞を受けた。昭和39年、89歳で死去した。

本山白雲(1871-1952)
明治4年高知県宿毛市生まれ。本名は辰吉。明治21年に上京し、高村光雲の門弟となり彫刻を学んだ。明治27年、東京美術学校彫刻本科を卒業し、同校の講師となった。明治28年、岩村通俊より維新の志士たちの彫像製作をすすめられ、板垣退助や伊藤博文らの銅像を次々と製作して銅像製作の第一人者となった。明治40年、土陽美術会の結成に参加。昭和3年、高知県の桂浜に坂本龍馬像を製作した。昭和27年、80歳で死去した。

土佐(21)-ネット検索で出てこない画家


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2月27日(土)のつぶやき

2016-02-28 | つぶやきまとめ

文献に『江戸・明治の絵師たちと正岡子規』を追加しました。
yuagariart.com/artist-labo/li…
セキ美術館開館10周年を記念した展覧会で、4期に分けて愛媛美術の400年の流れを展覧。第1期となる今展では、江戸時代の各藩の絵師たちの作品と明治期の正岡子規の絵画を展示。

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2月26日(金)のつぶやき

2016-02-27 | つぶやきまとめ

洋画の黎明期、国沢新九郎の出現 goo.gl/4i3XVZ

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洋画の黎明期、国沢新九郎の出現

2016-02-26 | 画人伝・土佐

文献:坂本龍馬の時代 幕末明治の土佐の絵師たち高知の美術 150年の100人展高知県立美術館館蔵品目録、海南先哲画人を語る

幕末から明治期にかけては全国的に西欧絵画が広がっていき、高知においては、国沢新九郎(1848-1877)が西欧絵画の先駆者として登場する。国沢は、高知城下の藩士の長男として生まれ、明治2年に坂本龍馬の海援隊が所持していた夕顔丸の船将として函館戦争に参加した。翌3年には藩留学生としてイギリスに渡り、法律修行にかえて絵画を志し、帰国後に東京で洋画塾・彰技堂を起こした。この画塾では、本多錦吉郎、浅井忠、守住勇魚らが洋画を学んでいる。国沢の没後は本多錦吉郎が引き継ぎ、高知からこの画塾に学んだ者には、のちに「土佐洋画界の父」と称される楠永直枝や、上村昌訓らがいる。国沢はわずか30歳で没したが、彼の出現により土佐の幕末絵画はその質を変えていくことになる。

国沢新九郎(1848-1877)
弘化4年高知市小高坂生まれ。国沢四郎右衛門秦好古の長男。姓は秦、名は好良。幼名は熊太郎、のちに泉。維新後は新九郎と称した。慶応3年、父の死去により土佐藩陸軍第一大隊二番小隊司令となり、翌年に陸軍所指南役などを経て海軍へ転じて海軍局頭取となった。明治2年、土佐藩の軍艦・夕顔丸の船長をつとめ函館戦争に参加した。明治3年、法律の勉強のためにイギリスに留学するが、方向転換してジョン・エドガー・ウィリアムスに西洋画を学んだ。留学中に「西洋婦人像」などを描いたが、大半が太平洋戦争で焼失した。帰国後、東京で画塾・彰技堂を開き、持ち帰った洋画技法書、参考図書、美術標本、画材などを備えて後進を育成、本多錦吉郎、浅井忠らが学んだ。明治8年、彰技堂で我が国初の洋画展覧会を開催、高橋由一、荒木寛畝らにも大きな影響を与えた。明治10年、30歳で死去した。

楠永直枝(1860-1939)
万延元年高知市生まれ。陶冶学校から大阪に出て啓蒙舎で学んだ。明治14年、上京して国沢新九郎の創設した画塾・彰技堂で本多錦吉郎に学んだ。明治18年、文検図書科教員の免許状を得て、高知師範学校三等助教諭、ついで高知尋常中学校へ転任して大正5年まで勤めた。彰技堂での同窓である上村昌訓とともに高知県洋画界の先駆者となり、「土佐洋画界の父」と称された。多くの教え子がおり、山脇信徳、橋田庫次、加賀野井久寿彦、岡崎精郎、西内清顕、中村博、若尾瀾水、公文菊僊、田岡秋邨、山六郎、寺田寅彦らがのちに画家として活躍した。「ライサン」の愛称で親しまれていた。昭和14年、80歳で死去した。

上村昌訓(1865-1925)
慶応元年宿毛市生まれ。翠山と号して毛筆画も描いた。明治13年に上京して彰技堂で楠永直枝とともに本多錦吉郎の指導を受けた。明治20年、帰郷して高知県尋常中学校の図画、地理の助教諭となった。高知では楠永直枝とともに土陽美術会高知支部の会員として洋画振興につとめた。美術教諭として小学生用の図画教育を著している。小学生だった石川寅治を個人的に指導したことでも知られる。大正14年、61歳で死去した。

土佐(20)-ネット検索で出てこない画家


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2月24日(水)のつぶやき

2016-02-25 | つぶやきまとめ

文献に『近代洋画・中四国の画家たち展』を追加しました。
yuagariart.com/artist-labo/li…
西洋画を志して明治の早い時期から関東、関西で活躍し、のちに日本洋画界を支えるようになった中国・四国地方の洋画家18名に焦点をあて画業を紹介。

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2月23日(火)のつぶやき

2016-02-24 | つぶやきまとめ

画人としても早逝を惜しまれた武市瑞山と勤王の志士 goo.gl/3tPPYx



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画人としても早逝を惜しまれた武市瑞山と勤王の志士

2016-02-23 | 画人伝・土佐

文献:歴史と美術-維新の群像-

幕末から明治維新期には新しい日本を目指した勤王の志士たちが多く登場した。彼らは学術、武術を学ぶとともに多くの書画を残している。土佐勤王党の盟主だった武市瑞山(1829-1865)は、徳弘董斎に南画を学び、弘瀬洞意(絵金)にも師事して画才を発揮した。雅号ははじめ吹山、のちに瑞山とし、美人画や獄中で描いた自画像などが残っている。河田小龍の画学塾・墨雲洞では、海援隊で活躍する長岡謙吉(1834-1872)や新宮馬之助(1838-1886)らが学んだ。新宮馬之助は小龍の一字をもらい「小峯」と号して絵馬などを残している。

武市瑞山(1829-1865)
文政12年生まれ。土佐勤王党首領。通称は半平太、名は小楯。土佐藩郷士。文久元年土佐勤王党を組織し、文久2年参政・吉田東洋を暗殺。藩論を攘夷に転換し、諸藩と交渉した。文久3年8月18日の政変後、藩論は公武合体に傾き、投獄、切腹を命じられ、慶応元年、36歳で死去した。

坂本龍馬(1835-1867)
天保6年生まれ。名は直柔。土佐藩郷士。土佐勤王党に加盟。江戸に出て勝海舟に入門し、航海術を学び、長崎に商社を設立した(のちに海援隊に発展)。西郷、小松、木戸らと計り、薩長同盟を策し、大政奉還に尽力した。京都の近江屋で中岡慎太郎と共に幕府見廻組に殺害された。変名は才谷梅太郎。慶応3年、33歳で死去した。

長岡謙吉(1834-1872)
天保5年生まれ。海援隊士。名は敦美、初名は恂。初称は今井純正。父は医師・今井孝順。大坂・江戸で医術と文学を修め、安政6年に長崎に行き西洋医術を学び、シーボルトの子に日本語を教えたという。文久元年にはキリシタン信仰の嫌疑で帰国、一時布師田川以東追放となった。のちに赦免され、長崎に再遊し、慶応3年海援隊に参加し、同年『閑愁録』を刊行した。大政奉還建白書の起草にも参加した。明治元年藤沢南岳を説得して高松藩恭順の道を開き、維新後、塩飽諸島の開発と管理に務めた。三河県知事をはじめ、諸官を経て、明治5年工部省に出仕、同年、39歳で死去した。

間崎滄浪(1834-1863)
天保5年生まれ。土佐勤王党員。名は則弘、字は士毅。通称は哲馬。土佐藩士。江戸の安積艮斎門の塾頭を務め、帰国後は開塾して志士の育成に尽力。文久元年土佐勤王党に加盟した。藩政を尊王攘夷へ転換しようとして、平井収二郎らとともに青蓮院宮(中川宮)から令旨を得て画策したため、山内容堂の怒りを買い、切腹に命じられ、文久3年、30歳で死去した。

中岡慎太郎(1838-1867)
天保9年生まれ。通称は慎太郎。名は道正。号は迂山。詩文をよくし、武術に達し、薩長両藩の提携を計り倒幕に奔走した。また、海援隊を結成した。京都で幕吏らに襲われ、坂本龍馬とともに暗殺された。 慶応3年、30歳で死去した。

新宮馬之助(1838-1886)
天保9年生まれ。旧姓は寺内。名は駿あるいは維駿、字は千里。号は小峯。土佐国香美郡新宮村の小農の子。1853年河田小龍宅に寄宿し、画を学ぶかたわら読書、撃剣、水練を好んだ。本丁二丁目旅籠屋兼焼継商「布屋」の伯母の家を継ごうとして、焼継修行のため上国。この時、新宮次郎と称した。勝海舟に入門後、寺内庄左衛門・民谷某などと隠称し、ついに新宮駟と改称した。 明治19年、49歳で死去した。

土佐(19)-ネット検索で出てこない画家


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2月19日(金)のつぶやき

2016-02-20 | つぶやきまとめ

幕末から明治前期にかけての土佐を代表する画人・河田小龍と門人 goo.gl/EgjL0k



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幕末から明治前期にかけての土佐を代表する画人・河田小龍と門人

2016-02-19 | 画人伝・土佐

文献:土佐画人伝坂本龍馬の時代 幕末明治の土佐の絵師たち高知の美術 150年の100人展高知県立美術館収蔵品目録、海南先哲画人を語る

河田小龍(1824-1898)は、様々な絵画様式や技法を会得して南北合流の画人と呼ばれた。知識人としても広く活躍し、アメリカから帰国したジョン万次郎の取り調べに立ち会い、万次郎の異国での体験を『漂巽紀畧』に著わした。また、坂本龍馬に航海通商策を教えたともいわれる。舶来物の絵の具をはじめ、遠近法や写実的な表現など絵画の面でも新しいものを土佐のもたらした。また多くの後進を育てており、小龍の画学塾・墨雲洞には150人近くの弟子がいたといわれる。主な門人としては、島村小湾、今井小藍、種田豊水、山本昇雲、南部錦溪、そして娘の河田小桃らがいる。また、のちに坂本龍馬の海援隊で活躍する新宮馬之助、長岡謙吉、近藤長次郎らも黒雲洞で画や漢学などを学んでいる。小龍は武市瑞山(半平太)、中岡慎太郎、岩崎弥太郎らとも交流があった。

河田小龍(1824-1898)
文政7年高知蓮池町生まれ。祖父の河田家を継いだ。名は小龍、通称は篤太郎。別号に小梁、松梁、維鶴などがある。幼いころに島本蘭溪に南画の手ほどきを受け、一時弘瀬洞意にも師事した。弘化3年、吉田東洋に従い京坂に遊学、書を篠崎小竹に、南画を中林竹洞、北画を狩野永岳に学び、南北合流の画人と呼ばれた。画学塾・墨雲洞で多くの弟子を育てた。明治31年、75歳で死去した。

島村小湾(1829-1882)
文政12年生まれ。幡多郡下田の人。本名は右馬之助。家は代々染工。明治5年頃から県庁に製図係として勤務した。画を河田小龍に学び、山水画、花鳥画を得意とした。中島敬朝の曽祖父にあたる。明治15年、54歳で死去した。

今井小藍(1859-1922)
安政6年生まれ。長岡郡後免町裏町の人。今井如藍の子。通称は梅太郎。梅梁と号したのちに小藍と改号した。幼いころから紺屋の父・今井如藍に南画の手ほどきを受け、明治4年に河田小龍の門に入り、小龍の次女・小桃とともに絵を学んだ。小龍の高弟として知られ、よく似た画法といわれる。門人に吉永梅里、小川窓月、若尾瀾水らがいる。大正11年、64歳で死去した。

山本昇雲(1870-1965)
明治3年南国市生まれ。本名は茂三郎。別号に小斎、松谷がある。はじめ柳本洞素について学び、ついで河田小龍に師事した。明治19年、大阪に出て陶器の絵付けの仕事についたが、明治21年に東京に出て滝和亭に師事した。雑誌「風俗画報」や「新撰東京名所図会」の挿絵などを手掛け、報道画家として活躍した。土陽美術会の創立会員。昭和40年、96歳で死去した。

南部錦溪(1860-1920)
万延元年高知市本丁筋越戸生まれ。名は駿、一名馬、字は博益、一字千里。父は紙凧を作る職人。幼いころ、近隣の先輩だった横山又吉らに感銘をうけ、早くから徳弘董斎に南画を学び、董斎没後は河田小龍の門に入って人物画、花鳥画を学んだ。南北合流の画人といわれ、明治19年の東洋絵画共進会に花鳥画、人物画を出品。土陽美術会高知支部の創立に参加し幹事となった。当時、高知で花鳥画の名手と称された。大正9年、61歳で死去した。

日比野逸亭(1839-不明)
天保10年生まれ。通称は政起。勤王家・平井善之丞の子で、日比野基次の跡を継いだ。画を河田小龍、徳弘董斎に学び雲石と号した。のちに名草逸峰に師事し、前習を一洗して逸亭と号し逸峰風の山水を描いた。

橋本小湖(1857-1891)
安政4年生まれ。吾川郡弘岡上の村の人。名は勇、字は子健、通称は勇吉。別号に荒倉山樵、積翠堂主人、印癖楼主人、米虫、無画などがある。家は代々染工だった。幼いころから画を志し、橋本小霞、徳弘董斎、河田小龍に師事した。また、鉄筆の手法を河田小龍、尾崎学古斎に学んだ。明治24年、35歳で死去した。

石川晨山(1857-1925)
安政4年生まれ。土佐郡朝倉村米田の人。通称は鹿太郎。別号に米田がある。石川亀次の子。本職は大工。画を好み河田小龍に学んだ。大正14年、69歳で死去した。

伊藤紫山(1859-1917)
安政6年生まれ。初号は紫仙。名は正英。高知市廿代町に住んでいた。伊藤正実の子。明治9年より河田小龍に学び、のちに自己流で一種の画態を描き出し、襖画の仕込物を建具屋に卸す仕事をしていた。大正6年、59歳で死去した。

樋口竹涯(1862-1885)
文久2年生まれ。名は彦馬。明治8年に河田小龍に師事し、同門では麒麟児の目ありと称されたが、明治18年、25歳で死去した。

河田小桃(1864-1919)
元治元年高知市生まれ。河田小龍の次女。本名は甲子。幼いころから父に詩経を習い、画法を学んだ。ついで滝和亭に師事し、特に四君子を得意とした。蟹の絵を得意とし「蟹娘」と称された。郷土では文人墨客と交流し、女性画家としてよく知られた。明治23年、兄・蘭太郎を頼って京都に移住、絵画共進会などに出品し、妹・玉兎とともに競い合った。代々扇子商を営む西山家に嫁いでからは白扇堂と称して家業のかたわら画業にもいそしんだ。大正8年、56歳で死去した。

土佐(18)-ネット検索で出てこない画家


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2月18日(木)のつぶやき

2016-02-19 | つぶやきまとめ

文献に『愛媛県美術館所蔵作品選』を追加しました。
yuagariart.com/artist-labo/li…
1970年の愛媛県立美術館開館後から始まり、1998年11月に愛媛県美術館として再出発するまで収集した1800点近い収蔵品の中から主要作品を掲載。



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2月17日(水)のつぶやき

2016-02-18 | つぶやきまとめ

土佐に来て影響を与えた画人、種田豊水と名草逸峰 goo.gl/L7ZaT4



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土佐に来て影響を与えた画人、種田豊水と名草逸峰

2016-02-17 | 画人伝・土佐

文献:坂本龍馬の時代 幕末明治の土佐の絵師たち高知の美術 150年の100人展高知県立美術館収蔵品目録

土佐の人ではないが、幕末から明治にかけて土佐に来て影響を与えた画人に、種田豊水と
名草逸峰がいる。種田豊水は長門国(現在の山口県)に生まれ、小田海僊に学び旅絵師となり、蒔絵を土佐に伝えた。華やかな花鳥画も名高く、その蒔絵はやがて土佐古代塗の伝統工芸品となった。門人には、小川窓月、下司凍月、山脇信三、若尾瀾水、小栗正気、田村章溪、島内松南、竹村渭川、若尾葭、楠瀬豊山らがいる。紀伊の国に生まれた名草逸峰は、京都で小田海僊や野呂介石に学びながら勤王志士となっていたが、安政の大獄を逃れ旅絵師として諸国を遊歴し、土佐に来て山水画の日本画家として活躍、多くの弟子を育てた。門人には田所松雲、岩井王山、久保田天南、宮地逸斎、山岡米華、菊池魯岳、池内秋峯、日比逸亭、尾崎逸岳らがいる。

種田豊水(1832-1899)
天保3年長門国生まれ。はじめ郷里の大野花渕に学び、のちに京都に出て小田海僊の門に入った。諸国を旅し、名古屋の漆芸家・一国斎から漆芸を学んだ。その後、宇佐青龍寺の住職をしていた叔父を頼って土佐に渡ったといわれ、高知県佐川町の種田家の養子になった。明治維新後は高知で画家として活動、花鳥画を得意とし、島内松南や下司凍月ら多くの後進を育てた。漆芸でも山脇信三らを指導し、土佐古代漆の礎を築いた。明治32年、68歳で死去した。

名草逸峰(1821-1889)
文政4年紀伊国生まれ。本名は芳太郎。小田海僊に画を学び、のちに野呂介石の画法を究め、さらに熊野で画道に精進した。明治10年頃に高知に来て、中央画壇の画法を修得した画家として、山岡米華、岩井王山、久保田天南ら多くの若者が入門した。内国勧業博覧会や内国絵画共進会などに出品、褒状を受けた。水墨山水画を得意とした。晩年は広島に住み、絵の指導をおこなった。明治22年、69歳で死去した。

下司凍月(1880-1980)
明治13年高知市生まれ。14歳で種田豊水に入門し、豊水没後は柳本素石に師事した。島内松南とは兄弟弟子。明治36年に上京し、橋本雅邦、川合玉堂に師事した。襖や陶器の絵付けなどで生活しながら画道に精進した。この頃、砲兵工廠の煙突に痩せた半月がかかっているのを見て、凍える寒風の中に自分の姿を見た思いから「凍月」と号した。土陽美術会の会員としても活躍。戦後は高知県展の発展に尽力した。昭和55年、101歳で死去した。

久保田天南(1875-不明)
明治8年香美市生まれ。本名は良行。名草逸峰、河田小龍に師事した。朝鮮に渡り、南画院を設立して活躍した。土陽美術会にも会員として参加した。没年は不明だが昭和初期まで活躍していたとみられる。

宮地逸斎(1847-1918)
弘化4年生まれ。字は季文。本姓は田中。藩医・田中文仙の三男。高知市北与力町に住んでいた。明治11年、名草逸峰が来遊した際に画法を学んだ。大正7年、72歳で死去した。

土佐(17)-ネット検索で出てこない画家


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2月16日(火)のつぶやき

2016-02-17 | つぶやきまとめ

文献に『愛媛の近世画人列伝-伊予近世絵画の流れ-』を追加しました。
yuagariart.com/artist-labo/li…
伊予にかかわりのある主要な画人を取り上げ、その業績を紹介しながら、先人たちの足跡や時代背景などを通して伊予の近世における絵画史の流れを展望している。



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2月15日(月)のつぶやき

2016-02-16 | つぶやきまとめ

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土佐の印聖・壬生水石と高松小埜

2016-02-15 | 画人伝・土佐

文献:土佐画人伝坂本龍馬の時代 幕末明治の土佐の絵師たち

壬生水石(1790-1871)は、寛政2年城下唐人町に生まれ、大坂や江戸で兵学、儒学などを学び、天保3年には与力職になった。篆刻を本格的に学び全国にその名が知られ、「土佐の印聖」と称された。また、書画、茶道、詩歌、能など諸芸にも通じ、池大雅を私淑して興趣に富んだ南画を描いた。古書画の鑑定にもすぐれ、弘瀬洞意(絵金)の贋作問題でも、業者が洞意の作品に探幽の印を入れて売り出した作品を洞意の筆であることを見破ったことでも知られる。門人には龍馬の義理の兄である高松小埜らがいる。

壬生水石(1790-1871)
寛政2年城下唐人町生まれ。父は彦右衛門正寿、母は水田氏。幼名は銀三郎。15歳で前髪をおろして八十郎と改め、のちにさらに志摩助と称した。姓は壬生、源、王、児玉といった古姓を併称し、自ら「古姓集成村舎主人」と号した。名は正文、あるいは弘文、寛政庚戍の出生を以って長庚、戍、また樸(璞、朴)といい、姓名を縮めて児樸、または王樸と称した。字は無名、子文、文卿、中札、欽古。号は水石を早くから用いていたが、他にも徳弘石門に学んだ際に受けた石坡道人をはじめ、鷹里、写意山人、管豹老人、河内軍師、東山道者など非常に多くの号を使用した。漢字、兵学、武術、有識故実を学び、さらに南画を志し、島本蘭溪、松村蘭台の作品を手本に独学で画を学んだ。のちに徳弘石門に師事し、広瀬臺山、春木南湖の画風を学び、池大雅の小帖で養成を受けた。天保3年、土佐藩12代藩主・山内豊資の参勤に従い、富士山、箱根をはじめ宿駅を写し『東遊詩草』44編をつくった。篆刻は南画以上に優れ、「土佐の印聖」と称された。明治4年、82歳で死去した。

高松小埜(1807-1876)
文化4年生まれ。郷士・高松益之丞の長男。名は順蔵。別号に小埜清素とも称した。坂本龍馬の姉・千鶴の夫。楠瀬大枝に画を、壬生水石に書と篆刻を学び、江戸に出て経書を修めた。長谷川流居合術の達人でもあり、漢字や歴史、歌や画にも優れた文人で、各地を旅して文人や学者と親交を結んだ。和歌もたしなみ、自作を『採樵歌』全4巻にまとめた。門人には中岡慎太郎、石田英吉、安岡直行らがいる。明治9年、70歳で死去した。
長男・高松太郎は海援隊士で、明治に入って龍馬の跡を継ぎ、二男・習吉も龍馬の兄・権平の養子となり自由民権運動で活躍した。

土佐(16)-ネット検索で出てこない画家


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