松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま福岡県を探索中。

土佐美術協会、土陽美術会の発足

2016-02-29 | 画人伝・土佐

文献:坂本龍馬の時代 幕末明治の土佐の絵師たち高知の美術 150年の100人展高知県立美術館館蔵品目録

西欧絵画が広まるなか、明治初期の高知の日本画は、徳弘董斎、河田小龍、種田豊水、名草逸峰らがそれぞれ後進の指導にあたっていた。そしてその流れが、土佐美術協会、土陽美術会の活動へと受け継がれていく。明治25年、柳本素石、南部錦溪、河野棹舟らを中心に、南画家の別役春田が初代会長となり土佐美術協会が結成された。さらに、明治40年には、上京していた高知県出身の美術家たちによって土陽美術会が創設された。土佐美術協会が高知を中心とした会であったのに対し、東京で発足した土陽美術会は、高知県出身者であれば流派や所属団体は問わず、郷土の美術振興と作家同士の親睦を目的とし、多彩なジャンルの作家が集まった。発起人は、日本画家の山岡米華、乾南陽、広瀬東畝、竹村渭川、島内松南、洋画家の石川寅治、彫刻家の本山白雲、図案家の千頭庸哉に美術時報主幹の小原太衛の9名。明治43年には高知の土佐美術協会が土陽美術会と合併して土陽美術会土佐支部として改称され、高知と東京を結ぶ活発な美術活動を展開していくことになる。

山岡米華(1868-1914)
慶応3年高知市生まれ。本名は尚樹、字は子敬、幼名は幸太郎。高知師範学校在学中に名草逸峰の門に入り南画を学んだが、父の反対を押し切って学校を中退、明治21年に上京して川村雨谷に師事し、書を長三洲に学んだ。当時西洋画が流行するなか、南画の勢力は衰えていたが、漱芳画塾を開いて門人を育成した。明治39年には小坂芝田、松林桂月、佐竹永陵らと日本南宗画会を結成した。明治40年には東京勧業博覧会で1等賞を受け、日本美術協会展では2等賞を受賞、同年、土陽美術会の結成に参加した。大正3年、山梨県において45歳で死去した。

乾南陽(1870-1940)
明治3年高知市生まれ。本名は長光。別号に甘寐庵がある。明治25年に東京美術学校絵画科に入学、のちに橋本雅邦、山名貫義や下村観山に学んだ。在学中の明治29年に第1回日本絵画協会展で3等褒状を受賞した。卒業後は中学図書研究会を起こし、図書教科書を編著した。明治40年、土陽美術会の結成に参加。大正5年、第10回文展に入選、11、12回展も連続で入選した。一貫して歴史人物画を描いた。昭和15年、69歳で死去した。

広瀬東畝(1875-1930)
明治8年高知県高岡郡佐川町生まれ。通称は済、字は公美。別号に燕石、木畝、心庵、香雲山房がある。はじめ高知県に来遊中だった南画家・天野痩石に学び、燕石と号した。明治31年に上京して荒木寛畝に師事して南北合派を修めた。種田豊水にも学んでいる。明治37年、セントルイス万博で銀牌を受け、日本美術協会会員になった。明治40年、土陽美術会の結成に参加。明治44年第5回文展に初入選、以後文展、帝展に出品した。花鳥画を最も得意とした。昭和5年、55歳で死去した。

竹村渭川(1877-不明)
明治10年高知市生まれ。名は左人。幼いころから画を好み、小松洞玉門下の中谷一近に手ほどきを受け、ついで種田豊水に学んだ。明治27年上京して滝和亭の門に入り、和亭が没するまで6年間師事した。明治40年、土陽美術会の結成に参加した。

島内松南(1881-1962)
明治14年高知県野市町生まれ。本名は賢蔵。種田豊水、柳本素石に師事した。明治29年から日本美術協会に出品、明治33年には1等褒賞を受けた。明治34年に上京し、山水画を橋本雅邦に、歴史画・人物画を梶田半古に学んだ。明治40年第1回文展で3等賞受賞、同年、土陽美術会の結成に参加した。大正11年に帰郷し、高知の日本画壇の発展に尽くした。昭和37年、81歳で死去した。

石川寅治(1875-1964)
明治8年高知市生まれ。第二中学校で上村昌訓に教えを受け、明治24年に上京し小山正太郎の不同舎に入った。明治26年、第5回明治美術会展に初出品、明治34年に明治美術会の組織改革で新会務委員となった。翌年太平洋画会の結成に参加した。明治35年から37年まで渡欧。明治40年、土陽美術会の結成に参加した。以後も帝展、日展に出品を続けた。昭和22年には太平洋画会を脱会して示現会を結成、代表となった。昭和28年日本芸術院賞恩賜賞を受けた。昭和39年、89歳で死去した。

本山白雲(1871-1952)
明治4年高知県宿毛市生まれ。本名は辰吉。明治21年に上京し、高村光雲の門弟となり彫刻を学んだ。明治27年、東京美術学校彫刻本科を卒業し、同校の講師となった。明治28年、岩村通俊より維新の志士たちの彫像製作をすすめられ、板垣退助や伊藤博文らの銅像を次々と製作して銅像製作の第一人者となった。明治40年、土陽美術会の結成に参加。昭和3年、高知県の桂浜に坂本龍馬像を製作した。昭和27年、80歳で死去した。

土佐(21)-ネット検索で出てこない画家


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洋画の黎明期、国沢新九郎の出現

2016-02-26 | 画人伝・土佐

文献:坂本龍馬の時代 幕末明治の土佐の絵師たち高知の美術 150年の100人展高知県立美術館館蔵品目録、海南先哲画人を語る

幕末から明治期にかけては全国的に西欧絵画が広がっていき、高知においては、国沢新九郎(1848-1877)が西欧絵画の先駆者として登場する。国沢は、高知城下の藩士の長男として生まれ、明治2年に坂本龍馬の海援隊が所持していた夕顔丸の船将として函館戦争に参加した。翌3年には藩留学生としてイギリスに渡り、法律修行にかえて絵画を志し、帰国後に東京で洋画塾・彰技堂を起こした。この画塾では、本多錦吉郎、浅井忠、守住勇魚らが洋画を学んでいる。国沢の没後は本多錦吉郎が引き継ぎ、高知からこの画塾に学んだ者には、のちに「土佐洋画界の父」と称される楠永直枝や、上村昌訓らがいる。国沢はわずか30歳で没したが、彼の出現により土佐の幕末絵画はその質を変えていくことになる。

国沢新九郎(1848-1877)
弘化4年高知市小高坂生まれ。国沢四郎右衛門秦好古の長男。姓は秦、名は好良。幼名は熊太郎、のちに泉。維新後は新九郎と称した。慶応3年、父の死去により土佐藩陸軍第一大隊二番小隊司令となり、翌年に陸軍所指南役などを経て海軍へ転じて海軍局頭取となった。明治2年、土佐藩の軍艦・夕顔丸の船長をつとめ函館戦争に参加した。明治3年、法律の勉強のためにイギリスに留学するが、方向転換してジョン・エドガー・ウィリアムスに西洋画を学んだ。留学中に「西洋婦人像」などを描いたが、大半が太平洋戦争で焼失した。帰国後、東京で画塾・彰技堂を開き、持ち帰った洋画技法書、参考図書、美術標本、画材などを備えて後進を育成、本多錦吉郎、浅井忠らが学んだ。明治8年、彰技堂で我が国初の洋画展覧会を開催、高橋由一、荒木寛畝らにも大きな影響を与えた。明治10年、30歳で死去した。

楠永直枝(1860-1939)
万延元年高知市生まれ。陶冶学校から大阪に出て啓蒙舎で学んだ。明治14年、上京して国沢新九郎の創設した画塾・彰技堂で本多錦吉郎に学んだ。明治18年、文検図書科教員の免許状を得て、高知師範学校三等助教諭、ついで高知尋常中学校へ転任して大正5年まで勤めた。彰技堂での同窓である上村昌訓とともに高知県洋画界の先駆者となり、「土佐洋画界の父」と称された。多くの教え子がおり、山脇信徳、橋田庫次、加賀野井久寿彦、岡崎精郎、西内清顕、中村博、若尾瀾水、公文菊僊、田岡秋邨、山六郎、寺田寅彦らがのちに画家として活躍した。「ライサン」の愛称で親しまれていた。昭和14年、80歳で死去した。

上村昌訓(1865-1925)
慶応元年宿毛市生まれ。翠山と号して毛筆画も描いた。明治13年に上京して彰技堂で楠永直枝とともに本多錦吉郎の指導を受けた。明治20年、帰郷して高知県尋常中学校の図画、地理の助教諭となった。高知では楠永直枝とともに土陽美術会高知支部の会員として洋画振興につとめた。美術教諭として小学生用の図画教育を著している。小学生だった石川寅治を個人的に指導したことでも知られる。大正14年、61歳で死去した。

土佐(20)-ネット検索で出てこない画家


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画人としても早逝を惜しまれた武市瑞山と勤王の志士

2016-02-23 | 画人伝・土佐

文献:歴史と美術-維新の群像-

幕末から明治維新期には新しい日本を目指した勤王の志士たちが多く登場した。彼らは学術、武術を学ぶとともに多くの書画を残している。土佐勤王党の盟主だった武市瑞山(1829-1865)は、徳弘董斎に南画を学び、弘瀬洞意(絵金)にも師事して画才を発揮した。雅号ははじめ吹山、のちに瑞山とし、美人画や獄中で描いた自画像などが残っている。河田小龍の画学塾・墨雲洞では、海援隊で活躍する長岡謙吉(1834-1872)や新宮馬之助(1838-1886)らが学んだ。新宮馬之助は小龍の一字をもらい「小峯」と号して絵馬などを残している。

武市瑞山(1829-1865)
文政12年生まれ。土佐勤王党首領。通称は半平太、名は小楯。土佐藩郷士。文久元年土佐勤王党を組織し、文久2年参政・吉田東洋を暗殺。藩論を攘夷に転換し、諸藩と交渉した。文久3年8月18日の政変後、藩論は公武合体に傾き、投獄、切腹を命じられ、慶応元年、36歳で死去した。

坂本龍馬(1835-1867)
天保6年生まれ。名は直柔。土佐藩郷士。土佐勤王党に加盟。江戸に出て勝海舟に入門し、航海術を学び、長崎に商社を設立した(のちに海援隊に発展)。西郷、小松、木戸らと計り、薩長同盟を策し、大政奉還に尽力した。京都の近江屋で中岡慎太郎と共に幕府見廻組に殺害された。変名は才谷梅太郎。慶応3年、33歳で死去した。

長岡謙吉(1834-1872)
天保5年生まれ。海援隊士。名は敦美、初名は恂。初称は今井純正。父は医師・今井孝順。大坂・江戸で医術と文学を修め、安政6年に長崎に行き西洋医術を学び、シーボルトの子に日本語を教えたという。文久元年にはキリシタン信仰の嫌疑で帰国、一時布師田川以東追放となった。のちに赦免され、長崎に再遊し、慶応3年海援隊に参加し、同年『閑愁録』を刊行した。大政奉還建白書の起草にも参加した。明治元年藤沢南岳を説得して高松藩恭順の道を開き、維新後、塩飽諸島の開発と管理に務めた。三河県知事をはじめ、諸官を経て、明治5年工部省に出仕、同年、39歳で死去した。

間崎滄浪(1834-1863)
天保5年生まれ。土佐勤王党員。名は則弘、字は士毅。通称は哲馬。土佐藩士。江戸の安積艮斎門の塾頭を務め、帰国後は開塾して志士の育成に尽力。文久元年土佐勤王党に加盟した。藩政を尊王攘夷へ転換しようとして、平井収二郎らとともに青蓮院宮(中川宮)から令旨を得て画策したため、山内容堂の怒りを買い、切腹に命じられ、文久3年、30歳で死去した。

中岡慎太郎(1838-1867)
天保9年生まれ。通称は慎太郎。名は道正。号は迂山。詩文をよくし、武術に達し、薩長両藩の提携を計り倒幕に奔走した。また、海援隊を結成した。京都で幕吏らに襲われ、坂本龍馬とともに暗殺された。 慶応3年、30歳で死去した。

新宮馬之助(1838-1886)
天保9年生まれ。旧姓は寺内。名は駿あるいは維駿、字は千里。号は小峯。土佐国香美郡新宮村の小農の子。1853年河田小龍宅に寄宿し、画を学ぶかたわら読書、撃剣、水練を好んだ。本丁二丁目旅籠屋兼焼継商「布屋」の伯母の家を継ごうとして、焼継修行のため上国。この時、新宮次郎と称した。勝海舟に入門後、寺内庄左衛門・民谷某などと隠称し、ついに新宮駟と改称した。 明治19年、49歳で死去した。

土佐(19)-ネット検索で出てこない画家


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幕末から明治前期にかけての土佐を代表する画人・河田小龍と門人

2016-02-19 | 画人伝・土佐

文献:土佐画人伝坂本龍馬の時代 幕末明治の土佐の絵師たち高知の美術 150年の100人展高知県立美術館収蔵品目録、海南先哲画人を語る

河田小龍(1824-1898)は、様々な絵画様式や技法を会得して南北合流の画人と呼ばれた。知識人としても広く活躍し、アメリカから帰国したジョン万次郎の取り調べに立ち会い、万次郎の異国での体験を『漂巽紀畧』に著わした。また、坂本龍馬に航海通商策を教えたともいわれる。舶来物の絵の具をはじめ、遠近法や写実的な表現など絵画の面でも新しいものを土佐のもたらした。また多くの後進を育てており、小龍の画学塾・墨雲洞には150人近くの弟子がいたといわれる。主な門人としては、島村小湾、今井小藍、種田豊水、山本昇雲、南部錦溪、そして娘の河田小桃らがいる。また、のちに坂本龍馬の海援隊で活躍する新宮馬之助、長岡謙吉、近藤長次郎らも黒雲洞で画や漢学などを学んでいる。小龍は武市瑞山(半平太)、中岡慎太郎、岩崎弥太郎らとも交流があった。

河田小龍(1824-1898)
文政7年高知蓮池町生まれ。祖父の河田家を継いだ。名は小龍、通称は篤太郎。別号に小梁、松梁、維鶴などがある。幼いころに島本蘭溪に南画の手ほどきを受け、一時弘瀬洞意にも師事した。弘化3年、吉田東洋に従い京坂に遊学、書を篠崎小竹に、南画を中林竹洞、北画を狩野永岳に学び、南北合流の画人と呼ばれた。画学塾・墨雲洞で多くの弟子を育てた。明治31年、75歳で死去した。

島村小湾(1829-1882)
文政12年生まれ。幡多郡下田の人。本名は右馬之助。家は代々染工。明治5年頃から県庁に製図係として勤務した。画を河田小龍に学び、山水画、花鳥画を得意とした。中島敬朝の曽祖父にあたる。明治15年、54歳で死去した。

今井小藍(1859-1922)
安政6年生まれ。長岡郡後免町裏町の人。今井如藍の子。通称は梅太郎。梅梁と号したのちに小藍と改号した。幼いころから紺屋の父・今井如藍に南画の手ほどきを受け、明治4年に河田小龍の門に入り、小龍の次女・小桃とともに絵を学んだ。小龍の高弟として知られ、よく似た画法といわれる。門人に吉永梅里、小川窓月、若尾瀾水らがいる。大正11年、64歳で死去した。

山本昇雲(1870-1965)
明治3年南国市生まれ。本名は茂三郎。別号に小斎、松谷がある。はじめ柳本洞素について学び、ついで河田小龍に師事した。明治19年、大阪に出て陶器の絵付けの仕事についたが、明治21年に東京に出て滝和亭に師事した。雑誌「風俗画報」や「新撰東京名所図会」の挿絵などを手掛け、報道画家として活躍した。土陽美術会の創立会員。昭和40年、96歳で死去した。

南部錦溪(1860-1920)
万延元年高知市本丁筋越戸生まれ。名は駿、一名馬、字は博益、一字千里。父は紙凧を作る職人。幼いころ、近隣の先輩だった横山又吉らに感銘をうけ、早くから徳弘董斎に南画を学び、董斎没後は河田小龍の門に入って人物画、花鳥画を学んだ。南北合流の画人といわれ、明治19年の東洋絵画共進会に花鳥画、人物画を出品。土陽美術会高知支部の創立に参加し幹事となった。当時、高知で花鳥画の名手と称された。大正9年、61歳で死去した。

日比野逸亭(1839-不明)
天保10年生まれ。通称は政起。勤王家・平井善之丞の子で、日比野基次の跡を継いだ。画を河田小龍、徳弘董斎に学び雲石と号した。のちに名草逸峰に師事し、前習を一洗して逸亭と号し逸峰風の山水を描いた。

橋本小湖(1857-1891)
安政4年生まれ。吾川郡弘岡上の村の人。名は勇、字は子健、通称は勇吉。別号に荒倉山樵、積翠堂主人、印癖楼主人、米虫、無画などがある。家は代々染工だった。幼いころから画を志し、橋本小霞、徳弘董斎、河田小龍に師事した。また、鉄筆の手法を河田小龍、尾崎学古斎に学んだ。明治24年、35歳で死去した。

石川晨山(1857-1925)
安政4年生まれ。土佐郡朝倉村米田の人。通称は鹿太郎。別号に米田がある。石川亀次の子。本職は大工。画を好み河田小龍に学んだ。大正14年、69歳で死去した。

伊藤紫山(1859-1917)
安政6年生まれ。初号は紫仙。名は正英。高知市廿代町に住んでいた。伊藤正実の子。明治9年より河田小龍に学び、のちに自己流で一種の画態を描き出し、襖画の仕込物を建具屋に卸す仕事をしていた。大正6年、59歳で死去した。

樋口竹涯(1862-1885)
文久2年生まれ。名は彦馬。明治8年に河田小龍に師事し、同門では麒麟児の目ありと称されたが、明治18年、25歳で死去した。

河田小桃(1864-1919)
元治元年高知市生まれ。河田小龍の次女。本名は甲子。幼いころから父に詩経を習い、画法を学んだ。ついで滝和亭に師事し、特に四君子を得意とした。蟹の絵を得意とし「蟹娘」と称された。郷土では文人墨客と交流し、女性画家としてよく知られた。明治23年、兄・蘭太郎を頼って京都に移住、絵画共進会などに出品し、妹・玉兎とともに競い合った。代々扇子商を営む西山家に嫁いでからは白扇堂と称して家業のかたわら画業にもいそしんだ。大正8年、56歳で死去した。

土佐(18)-ネット検索で出てこない画家


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土佐に来て影響を与えた画人、種田豊水と名草逸峰

2016-02-17 | 画人伝・土佐

文献:坂本龍馬の時代 幕末明治の土佐の絵師たち高知の美術 150年の100人展高知県立美術館収蔵品目録

土佐の人ではないが、幕末から明治にかけて土佐に来て影響を与えた画人に、種田豊水と
名草逸峰がいる。種田豊水は長門国(現在の山口県)に生まれ、小田海僊に学び旅絵師となり、蒔絵を土佐に伝えた。華やかな花鳥画も名高く、その蒔絵はやがて土佐古代塗の伝統工芸品となった。門人には、小川窓月、下司凍月、山脇信三、若尾瀾水、小栗正気、田村章溪、島内松南、竹村渭川、若尾葭、楠瀬豊山らがいる。紀伊の国に生まれた名草逸峰は、京都で小田海僊や野呂介石に学びながら勤王志士となっていたが、安政の大獄を逃れ旅絵師として諸国を遊歴し、土佐に来て山水画の日本画家として活躍、多くの弟子を育てた。門人には田所松雲、岩井王山、久保田天南、宮地逸斎、山岡米華、菊池魯岳、池内秋峯、日比逸亭、尾崎逸岳らがいる。

種田豊水(1832-1899)
天保3年長門国生まれ。はじめ郷里の大野花渕に学び、のちに京都に出て小田海僊の門に入った。諸国を旅し、名古屋の漆芸家・一国斎から漆芸を学んだ。その後、宇佐青龍寺の住職をしていた叔父を頼って土佐に渡ったといわれ、高知県佐川町の種田家の養子になった。明治維新後は高知で画家として活動、花鳥画を得意とし、島内松南や下司凍月ら多くの後進を育てた。漆芸でも山脇信三らを指導し、土佐古代漆の礎を築いた。明治32年、68歳で死去した。

名草逸峰(1821-1889)
文政4年紀伊国生まれ。本名は芳太郎。小田海僊に画を学び、のちに野呂介石の画法を究め、さらに熊野で画道に精進した。明治10年頃に高知に来て、中央画壇の画法を修得した画家として、山岡米華、岩井王山、久保田天南ら多くの若者が入門した。内国勧業博覧会や内国絵画共進会などに出品、褒状を受けた。水墨山水画を得意とした。晩年は広島に住み、絵の指導をおこなった。明治22年、69歳で死去した。

下司凍月(1880-1980)
明治13年高知市生まれ。14歳で種田豊水に入門し、豊水没後は柳本素石に師事した。島内松南とは兄弟弟子。明治36年に上京し、橋本雅邦、川合玉堂に師事した。襖や陶器の絵付けなどで生活しながら画道に精進した。この頃、砲兵工廠の煙突に痩せた半月がかかっているのを見て、凍える寒風の中に自分の姿を見た思いから「凍月」と号した。土陽美術会の会員としても活躍。戦後は高知県展の発展に尽力した。昭和55年、101歳で死去した。

久保田天南(1875-不明)
明治8年香美市生まれ。本名は良行。名草逸峰、河田小龍に師事した。朝鮮に渡り、南画院を設立して活躍した。土陽美術会にも会員として参加した。没年は不明だが昭和初期まで活躍していたとみられる。

宮地逸斎(1847-1918)
弘化4年生まれ。字は季文。本姓は田中。藩医・田中文仙の三男。高知市北与力町に住んでいた。明治11年、名草逸峰が来遊した際に画法を学んだ。大正7年、72歳で死去した。

土佐(17)-ネット検索で出てこない画家


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土佐の印聖・壬生水石と高松小埜

2016-02-15 | 画人伝・土佐

文献:土佐画人伝坂本龍馬の時代 幕末明治の土佐の絵師たち

壬生水石(1790-1871)は、寛政2年城下唐人町に生まれ、大坂や江戸で兵学、儒学などを学び、天保3年には与力職になった。篆刻を本格的に学び全国にその名が知られ、「土佐の印聖」と称された。また、書画、茶道、詩歌、能など諸芸にも通じ、池大雅を私淑して興趣に富んだ南画を描いた。古書画の鑑定にもすぐれ、弘瀬洞意(絵金)の贋作問題でも、業者が洞意の作品に探幽の印を入れて売り出した作品を洞意の筆であることを見破ったことでも知られる。門人には龍馬の義理の兄である高松小埜らがいる。

壬生水石(1790-1871)
寛政2年城下唐人町生まれ。父は彦右衛門正寿、母は水田氏。幼名は銀三郎。15歳で前髪をおろして八十郎と改め、のちにさらに志摩助と称した。姓は壬生、源、王、児玉といった古姓を併称し、自ら「古姓集成村舎主人」と号した。名は正文、あるいは弘文、寛政庚戍の出生を以って長庚、戍、また樸(璞、朴)といい、姓名を縮めて児樸、または王樸と称した。字は無名、子文、文卿、中札、欽古。号は水石を早くから用いていたが、他にも徳弘石門に学んだ際に受けた石坡道人をはじめ、鷹里、写意山人、管豹老人、河内軍師、東山道者など非常に多くの号を使用した。漢字、兵学、武術、有識故実を学び、さらに南画を志し、島本蘭溪、松村蘭台の作品を手本に独学で画を学んだ。のちに徳弘石門に師事し、広瀬臺山、春木南湖の画風を学び、池大雅の小帖で養成を受けた。天保3年、土佐藩12代藩主・山内豊資の参勤に従い、富士山、箱根をはじめ宿駅を写し『東遊詩草』44編をつくった。篆刻は南画以上に優れ、「土佐の印聖」と称された。明治4年、82歳で死去した。

高松小埜(1807-1876)
文化4年生まれ。郷士・高松益之丞の長男。名は順蔵。別号に小埜清素とも称した。坂本龍馬の姉・千鶴の夫。楠瀬大枝に画を、壬生水石に書と篆刻を学び、江戸に出て経書を修めた。長谷川流居合術の達人でもあり、漢字や歴史、歌や画にも優れた文人で、各地を旅して文人や学者と親交を結んだ。和歌もたしなみ、自作を『採樵歌』全4巻にまとめた。門人には中岡慎太郎、石田英吉、安岡直行らがいる。明治9年、70歳で死去した。
長男・高松太郎は海援隊士で、明治に入って龍馬の跡を継ぎ、二男・習吉も龍馬の兄・権平の養子となり自由民権運動で活躍した。

土佐(16)-ネット検索で出てこない画家


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竹原没後の土佐画壇を支えた橋本小霞と門人

2016-02-12 | 画人伝・土佐

文献:土佐画人伝坂本龍馬の時代 幕末明治の土佐の絵師たち近世土佐の美術、海南先哲画人を語る

橋本小霞(1813-1879)は土佐藩徒士の家に生まれ、父の跡を継いで徒士となり、藩主の参勤に従ってたびたび江戸に上がった。江戸では徳弘董斎と同じく春木南湖に学び、蘭竹画を得意とした。楠瀬大枝のもとで画事を手伝う頃に出会った生涯の画友・徳弘董斎や、篆刻を学んだ壬生水石と親交を重ね、古屋竹原没後の土佐の画壇を董斎とともに支えた。門人には岩井王山、高橋凌雲、高木晴江、池内美顕、長野南山、田所孤雲、別役春田、弘田琢磨、長崎南山らがいる。

橋本小霞(1813-1879)
文化10年生まれ。はじめ喜久治と称し、のちに和太郎、達と改めた。楠瀬大枝に画を学び、和歌、詩文、書を得意とした。また、壬生水石からは篆刻を学んだ。参勤交代に従って江戸に上がった際には、春木南湖、広瀬臺山らに南画を学んだ。明治12年、67歳で死去した。

長野南山(1826-不明)
文政9年生まれ。名は篤、字は子琴、通称は一字得栄または篤二郎。高知市南奉行人町・長野雄平の二男。漆工で塗師篤と呼ばれた。画を橋本小霞に学び、墨梅山水をよくした。

高木晴江(1829-1905)
文政12年生まれ。本名は同じ。高木六蔵の子。高知市南奉行人町に住んでいた。画を徳弘董斎、橋本小霞に学び、熱心で常に書画会に出席していた。明治38年、60歳で死去した。

池内美顕(1835-1885)
天保6年生まれ。池田仲次の子。高知市鉄砲町に住んでいた。橋本小霞に画を学び、山水人物、四君子を得意とした。明治18年、51歳で死去した。

高橋凌雲(1843-1899)
天保14年生まれ。名は恒幸、高橋為之進の子。はじめ画を橋本小霞に学び、のちに川村雨谷に師事した。明治32年、57歳で死去した。

田所孤雲(1846-1910)
弘化3年生まれ。田所久寿保の子。明治9年より橋本小霞に学び、明治19年から古物商を営んでいた。明治43年、65歳で死去した。

別役春田(1855-1910)
安政2年生まれ。名は俊男。別号に好々散人がある。明治9年から橋本小霞に学び、同年東京に出て川村雨谷に師事した。明治43年、56歳で死去した。

土佐(15)-ネット検索で出てこない画家


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龍馬に砲術を教えた南画家・徳弘董斎と門人

2016-02-10 | 画人伝・土佐

文献:土佐画人伝坂本龍馬の時代 幕末明治の土佐の絵師たち近世土佐の美術、海南先哲画人を語る

徳弘董斎(1807-1881)は、御持筒で南画をよくした徳弘石門(1777-1825)の長男として生まれ、土佐藩に西洋流砲術をもたらした。龍馬や龍馬の兄・権平ら多くの門人に砲術を教えている。父の影響で早くから絵筆を持ち、江戸で容堂の下に出入りしていた春木南湖に学んだ。明治になり役を解かれてからは、清香園という風雅な隠居に画処を設けて画を遊んだ。激動の時代のただなかにありながら、その影さえ見えないほどの気品のある山水画を描いた。門人には、吉岡竹澳、浜田墨雲、武市瑞山、依光墨山、岩井王山、南部錦溪、日比野逸亭、一円若蘭、吉井源太、宮崎八矛、今橋自安、松岡用拙、森田皆山、長屋海田、本山茂任らがいる。

徳弘董斎(1807-1881)
文化4年中須賀生まれ。徳弘石門の長男。母は福見氏。通称ははじめ孝太郎、のちに祥吉、賀太夫、孝蔵と改め、維新後には益孝と改称した。字は巽甫、あるいは貞吉。別号に石城、帆影楼、聴松亭、賜硯堂などがある。家は代々砲術を伝える家柄で、文政8年に家督を継いで土佐藩筒持役をつとめた。職務のかたわら狩野派の技法を学んだが、天保年間の末、藩命により江戸に出て、オランダ式砲術を学ぶ一方で、画僧・光明寺雲室の門に入り、画を学び、画人として高い評価を得た。坂本龍馬は砲術の弟子、武市瑞山(武市半平太)は画の弟子である。明治14年、75歳で死去した。

徳弘石門(1777-1825)
安永6年生まれ。名は共、本名は保孝、通称ははじめ直蔵、のちに庄九郎。代々砲術家で城西中須賀に住んでいた。幼いころから画を好み、狩野美信の門人・松崎敬信について学んだ。のちに江戸に出て石里洞秀の教えを受けた。洞秀に「子は専門の徒にあらず画を以て生涯の楽慰とせんには漢画に如かず」と言われ、反省して改めて広瀬臺山、光明寺雲室、春木南湖らの門に出入りして南画を学んだ。文政8年、49歳で死去した。

吉岡竹澳(1817-1892)
文化14年生まれ。通称は与八郎、名は斐。晩年は住々澳翁と称した。徳弘董斎に画を学び、特に山水を得意とした。明治25年、76歳で死去した

浜田墨雲(1824-1892)
文政7年生まれ。釈名は諦鏡、のちに還俗して浜田一策と称した。別号に桃渓、筆、墨闘僊、天竺浪人などがある。浜田徳兵衛の二男。幼くして父母をなくし、勉学ののちに高岡郡須崎町大善寺の住職となった。画は徳弘董斎に学び、山水人物をよくした。また俳句、茶道も好んだ。明治維新後の廃仏毀釈に際して還俗し、須崎に住んで紺屋を業とした。明治25年、70歳で死去した。

土居松鱗(1828-1885)
天保4年生まれ。通称は寅之進、のちに上吉。代々長岡郡十市村字本村に住む郷士で、かたわら農業をしていた。幼いころから画を好み、徳弘董斎の門に入ったが、林洞意(絵金)の人物画を見て大いに感ずるところがあり、嘉永2年洞意の門に転じた。第2回絵画共進会で褒状を受け、晩年も期待されたが病気になり、明治18年、53歳で死去した。

依光墨山(1852-1890)
嘉永5年生まれ。名は甚之丞。安芸郡安芸町の依光作八の子。明治元年岡栄蔵に人物花鳥を学び、明治13年から徳弘董斎に山水を学んだ。明治23年、39歳で死去した。

岩井王山(1859-1933)
安政6年生まれ。名は直、通称は直吉。はじめ徳弘董斎に学び、のちに橋本小霞に師事した。小霞没後は、高知に来ていた名草逸峰につくが、逸峰が去ると現在の山口県に向かい、大庭学僊に入門、人物画を学んだ。学僊没後は、京都の田能村直入に入門しようと高松まで出るが、旅館の主人にすすめられ、明石の細谷立斎に会い、気脈が通じ、私淑して勉学、独自の画業を完成させていった。明治期には土陽美術会で活躍した。昭和8年、75歳で死去した。

土佐(14)-ネット検索で出てこない画家


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土佐南画三名家のひとり・古屋竹原と門人

2016-02-08 | 画人伝・土佐

文献:土佐画人伝坂本龍馬の時代 幕末明治の土佐の絵師たち近世土佐の美術、海南先哲画人を語る

楠瀬大枝門下で、徳弘董斎、橋本小霞とともに南画の三名家と謳われた古屋竹原は、文政から天保にかけて土佐の南画家の中心的存在だった。当時の須崎では、南画をもって聞こえた医者の古屋竹原に、書家の下元西洲と僧の智隆を加えて三先哲と称した。竹原は文政5年に大坂に永住することを決意したが、須崎で船便を待っていたところ、門人らに引き留められたため思いとどまり、以後須崎に住んだという。門人としては、子の古屋紫竹、杉本竹、古屋紫竹の3兄弟をはじめ、今村楮堂、池淀水、岡村竹條、小村桃里、片岡梅園、江口清英、鉛屋雲石らがいる。

古屋竹原(1788-1861)
天明8年高岡郡中土佐町大野見村生まれ。幼名は平次郎、通称は尉助。別号に顧嶽、十畝園主、梅里園などがある。市川芳野の門に入り、漢詩、絵画の手ほどきを受けた。須崎の生まれではないが、縁あって須崎に住んだ。享和元年江戸に出て、広瀬臺山、僧・光明寺雲室に画を学んだ。文化2年に帰郷し、文化4年には大坂に出て医術を学び、3年で帰郷して開業した。文化7年に再び大坂に出て、儒学・医術を学んで帰郷後、漢学塾を開いて多くの門人を育てた。文久元年、74歳で死去した。

今村楮堂(1798-1868)
寛政10年生まれ。通称は嘉伝次、名は嘉。はじめ楠瀬大枝に学び、のちに古屋竹原に師事した。徳弘董斎、橋本小霞とも交流があった。慶応4年、71歳で死去した。

岡村竹條(1817-1880)
文化14年生まれ。岡村久吉の二男。通称は久太郎。古屋竹原に師事し、師の号の一字を受け竹條と号した。画には多く「伴雲楼竹條」と落款した。四君子、花鳥画を得意とした。明治13年、74歳で死去した。

小村桃里(1820-1891)
文政3年生まれ。名は好古、字は信郷、通称は虎吉、維新後は好古と称した。洞里とも号した。高岡郡佐川町の人。父は小村恵助。古屋竹原に師事し、竹原没後は狩野派の画を弘瀬洞意に学び洞里と改号した。晩年は名草逸峰の門に入り、また桃里と号した。明治17年には内国絵画共進会に出品。明治24年、72歳で死去した。

古屋紫竹(1832-1896)
天保3年須崎生まれ。名は薫、姓は菅原。通称ははじめ代吉、のちに造作と改めた。字は南風。はじめ竹軒と号し、のちに紫竹と改号した。別号に鯨庵がある。古屋竹原の長男。画を父に学び、梅竹山水を得意とした。晩年には京坂、四国、九州などを遊歴した。明治29年、65歳で死去した。

杉本竹(1838-1896)
天保9年生まれ。古屋竹原の二男。3歳の時に外祖父で野見浦に住んでいた杉本丹斎の養子となった。名は培。医術を華岡青洲に、画を父の竹原に学んだ。のちに母の生家・杉本友諒の家を継ぎ須崎に住んだ。晩年には東京、大阪を遊歴した。明治29年、59歳で死去した。

古屋竹洲(1840-1877)
天保11年生まれ。通称は作郎。古屋竹原の三男。父に画を学び、墨竹を得意とした。明治10年、38歳で病死した。

土佐(13)-ネット検索で出てこない画家


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土佐化政画壇の中心人物・楠瀬大枝と門人

2016-02-05 | 画人伝・土佐

文献:土佐画人伝坂本龍馬の時代 幕末明治の土佐の絵師たち近世土佐の美術、海南先哲画人を語る

楠瀬南溟の子・楠瀬大枝(1776-1835)は、国学者の道に進んだが、父の門人である松村蘭台を敬慕し、独学で画を研究、土佐の化政画壇の中心人物となった。大枝の門からは三名家と謳われた古屋竹原、徳弘董斎、橋本小霞をはじめ、黒岩金岳、島崎呉江、吉川烏山、山本巴江、町田竹塢、高松小埜、それに女性画家の武藤細鸞、松田翠玉、高野蕊玉が出た。他にも、愛山、志静、今村楮堂、吉井蕉石、植木北江、清水蘭露、竹村菜橋、楠瀬棠原、武市正恒、本田屋竹棠、野村静斎ら多くの門人がいる。

楠瀬大枝(1776-1835)
安永5年生まれ。楠瀬南溟の長男。母は粟井氏。通称は雄太郎、のちに忠八、六太と改めた。名が大枝、号ははじめ東松園、のちに烏浴、棠園棠翁、烏鷺山人、六大山人を用いた。童笑、無昇居士の戯号もある。父の跡を継いで藩吏となった。幼いころから谷真潮らについて学問を学び、国学者の道を進んだ。画は独学であり、松村蘭台を敬慕していた。文化3年から南画家として活躍しはじめ、桜花の画法を得意とした。日記『燧袋』を残している。文化・文政・天保期の土佐画壇の中心人物として知られている。天保6年、60歳で死去した。

志静(1784-1854)
天明4年に越後長岡領古志郡漆山に生まれた。名は徹翁、字は大休、志静道人と号した。文化の末に土佐に来て江口瑞応寺の住職になり、天保5年からは真如寺の住職。楠瀬大枝に画を学んだ。嘉永7年、71歳で死去した。

黒岩金岳(1785-1853)
天明5年生まれ。当時の江の口村に住み、早くから楠瀬大枝の門に入り、詩を作り、画を描いた。嘉永6年、69歳で死去した。

武藤細鸞(1788-1855)
天明8年生まれ。名は里。高知上町福山屋・宮内彦市の娘。17歳で美濃屋武藤忠五郎平道に嫁いだ。和歌を夫・平道に、画を楠瀬大枝に学んだ。安政2年、68歳で死去した。

島崎呉江(1795-1853)
寛政7年生まれ。通称は鹿造、のちに磯六と改めた。字は淑遊、名は之魚。家が楠瀬大枝と隣り合わせだったため、親族同様の付き合いをしており、松村蘭台の門人である島本蘭溪とともに大枝を訪ね、師風を継承した。文政10年、清国漂流者の護送の際に大枝の従者として長崎まで赴いて見聞を広めた。山内家の御用にも関わり、絵のほかに篆刻もよくした。嘉永5年、59歳で死去した。

吉川烏山(不明-不明)
通称は勘三郎、名は茂抱、字は君如。別号に蓄石がある。和歌にもすぐれていた。唐人町に住み、紙細工職人だった。画ははじめ狩野派を学び、のちに楠瀬大枝に師事した。

町田竹塢(1810-1886)
文化7年生まれ。町田丈兵衛。名は清知、字は有年。巣枝園とも称した。楠瀬大枝に学び山水墨竹をよくした。小霞、董斎、晴江らと交遊した。明治19年、77歳で死去した。

土佐(12)-ネット検索で出てこない画家


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土佐南画の流れ、楠瀬南溟から松村蘭台へ

2016-02-03 | 画人伝・土佐

文献:土佐画人伝坂本龍馬の時代 幕末明治の土佐の絵師たち近世土佐の美術、海南先哲画人を語る

中山高陽亡き後の土佐の南画は、大坂に出て木村兼葭堂、福原五岳ら池大雅系の文人たちと交流した楠瀬南溟(1743-1790)にはじまり、門人の松村蘭台、子の楠瀬大枝らがその流れを引き継いだ。松村蘭台は楠瀬南溟に狩野派を学び、師の南溟が福原五岳について画風を改めた際に、師にならい南画に改めた。楠瀬大枝は松村蘭台を敬慕し、国学者の道を進みながら、独学で画法を究め、文化・文政・天保期の土佐画壇の中心人物となった。松村蘭台の門人には島本蘭溪、仁尾鱗江、岡本池陽らがいる。

楠瀬南溟(1743-1790)
寛保3年城東新町生まれ。延享4年、5歳の時に父・六右衛門を失い、母の手で育てられた。初名は兼太郎、ついで重右衛門、さらに六郎左衛門と改めた。字は子樹、実名は安信、正信。狩野派の横山竹林斎に師事し画法を学んだ。また、早くから谷真潮に和漢の学を受けて実践に移し、弓は雪下流、槍は高木流、居合は田宮流などを修め、兵法にすぐれていた。安政5年に長男の雄太郎(大枝)が生まれ、同年大坂に出た。当時大坂の土佐藩邸に親しく出入りしていた人に硯儒豪商の木村兼葭堂がいて、南溟の従弟である来正謙斎はながく大坂に住み兼葭堂の常客だったため、その縁で親しくなったものと思われ、親しく交遊している。南溟は画の基本である芥子園画伝を兼葭堂に習い、その家に出入りしていた大雅同門の福原五岳に南画の筆法を学んだ。天明6年、11年間過ごした大坂を出て土佐に戻るが、藩命によりたびたび江戸に出て、寛政2年、駿府の地で48歳で死去した。

松村蘭台(1760-1820)
宝暦10年、現在の高知市に生まれた。通称は甚四郎、のちに十兵衛。文化11年に名を仲素に改めた。字は玄卿。別号に南洋の釣徒快石叟がある。楠瀬南溟に狩野派を学び、南溟が福原五岳について画風を改めた際に、蘭台も師にならい南画に改めた。享和元年、豊興公に虎の画の数々を献上した。文政2年、山内豊策から書画指出に指名され土佐南画界の第一人者となった。門人に島本蘭溪、仁尾鱗江らがいる。文政3年、61歳で死去した。

島本蘭溪(1772-1855)
安永元年生まれ。通称は九十郎、実名は清江。島本与市の三男。幼いころから学問のかたわら書画をよくし、松村蘭台に師事した。たびたび大坂に出て懐徳書院・中井竹山に師事して儒学を学ぶとともに、福原五岳に画を習い、木村兼葭堂と交遊した。書画と学問の寺子屋を経営していた。安政2年、84歳で死去した。

仁尾鱗江(1774-1833)
安永3年生まれ。通称は順蔵、のちに清大夫と改めた。新市町で紙筆商と薬種商を営んでいた。画を松村蘭台に学んで、人物画をよくした。幼い絵金(弘瀬洞意)に画の手ほどきをし、藩の御用絵師・池添楊斎に師事するようにすすめたとされる。天保4年、60歳で死去した。安政元年、地震で亡くなったという説もある。

岡本池陽(不明-不明)
通称は理右衛門、名は信敬。松村蘭台に師事した。藩政時代に信仰された大黒像を描いて特に著名で、その絵は「理右衛門大黒」と呼ばれ人気だった。

土佐(11)-ネット検索で出てこない画家


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近世土佐を代表する南画家・中山高陽と土佐の門人

2016-02-01 | 画人伝・土佐

文献:土佐画人伝近世土佐の美術、海南先哲画人を語る

近世土佐を代表する南画家として中山高陽(1717-1780)がいる。高陽は日本南画の草創期、京都で彭城百川に画を学んだのち、42歳の時に狩野派が全盛を誇る江戸に出て、詩書画の世界に独自の境地を切り開き、宝暦から安永期の江戸を代表する画人、文人として知られるようになった。画題は人物、山水、花鳥と幅広く取り組み、南宗画のみならず多くの画派から学ぼうとした。こうした高陽の学習態度は、のちに谷文晁によって確立される江戸南画にも大きな影響を与えたと考えられる。土佐では高陽の門にその技を引き継ぐほどの名家は出なかったが、江戸ではその流れを汲む谷文晁を筆頭に、広瀬臺山、雲室、渡辺崋山、春木南湖らの南画家が続々と登場して江戸画壇をにぎわした。土佐の門人としては、甥で後を継いだ中山秀種をはじめ、皆田高渚、岩川西臺、上野江陵、山内南唐、松田生白、中山思愿、馬淵鏡川、北野鞠塢らがいる。

中山高陽(1717-1780)
享保2年生まれ。通称は清右衛門。別号に鎌川、江竹、酔墨山人などがある。画を彭城百川に、書を関鳳岡に学んだ。宝暦9年に江戸に出て、詩書画ともに巧みと評価された。文人墨客との交流も広く、詩人・井上金峨、書家・沢田東江と親交を結び、高陽の画を加えて当時の三絶と称された。安永4年、画論集『画譚鶏助』を刊行し、絵画についての啓蒙書として後の時代にも広く読まれた。安永9年、64歳で死去した。

中山秀種(1745-1808)
延享2年高知堺町生まれ。諱は秀種、字は思愿、幼名は八五郎、のちに利右衛門、七助と改めた。中山高陽の兄・忠七元守の二男。幼いころから画を好み、叔父の高陽に学び、高陽没後は後を継いだ。文化5年、64歳で死去した。

皆田高渚(不明-不明)
名は利布、字は子平、通称は多七。別号に新亭、国香斎などがある。土佐藩士。唐人町に住んでいた。画を中山高陽に学び、師の画法をよく伝えている。

岩川西臺(1753-1795)
姓は源、諱は処和、字は太初、通称は荘助。別号に雲峰がある。画を中山高陽に学んだ。安永2年、43歳で死去した。

上野江陵(不明-不明)
名は亮。土佐藩士。大川筋に住んでいた。詩書画を中山高陽に学んだ。高陽没後は、伊勢の細合半斎を師とし、また大坂の木村蒹葭堂、京都の池大雅とも交友した。

土佐(10)-ネット検索で出てこない画家


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