松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま長崎県を探索中。

宮田洞雪と門人

2016-01-26 | 画人伝・土佐

文献:土佐画人伝坂本龍馬の時代 幕末明治の土佐の絵師たち高知の美術 150年の100人展高知県立美術館収蔵品

駿河台狩野家に学んだ土佐の画人として、柳本洞素と同時代に活躍した宮田洞雪(1828-1897)は、駿河台狩野八代・狩野洞春陽信に師事したのち、諸国を遊歴している。明治17年のパリ万国博覧会には狩野派の高知県代表として出品したことで知られる。門人には、長年「土陽新聞」の挿絵を描いた沖野一秋のほか、河野棹舟、二代北村佐久馬、池内秋峰らがいる。

宮田洞雪(1828-1897)
文政11年、現在の高知市に生まれた。通称は省吾、本名は由之。別号に東雪がある。はじめ横川洞雪と名乗ったときもある。安政5年に江戸に出て、駿河台狩野八代の狩野洞春陽信に師事したのち、東京、大坂、京都、四国各地を歴遊、絵馬や軸物を各地に残している。特に南国市十市の琴平神社にある絵馬「川中島両雄相打ち図」は傑作とされる。明治31年、70歳で死去した。

沖野一秋(1867-1945)
慶応3年、現在の高知県香美市土佐山田町に生まれた。河野棹舟らと宮田洞雪に師事した。明治23年、大阪に出て土陽新聞の挿絵を描いていた藤原信一に師事、帰郷後は18年間土陽新聞の挿絵を描いていた。土陽美術会にも参加した。河野棹舟、小松應春、島内松南、下司凍月らと交遊した。昭和20年、79歳で死去した。

河野棹舟(1868-1945)
明治2年、現在の高知県香美市に生まれた。本名は孝敏。はじめ宮田洞雪に学び、のちに京都に出て菊池芳文に学んだ。明治26年の土佐品評会、27年の奈良博覧会、28年の第4回四国勧業博覧会、29年の日本絵画共進会に出品。帝国絵画協会、土陽美術会にも参加していた。昭和20年、78歳で死去した。

北村佐久馬(2代)(1883-1957)
明治16年高知市生まれ。紺屋を家業とする初代北村佐久馬の長男。幼いころから宮田洞雪、南部錦溪に画を学び、父について染織を学んだ。14歳の時には二代目北村佐久馬を龍名。日露戦争に従軍し、旅順より生還した後は家業に専念した。染織作品には旦雪、日本画には錦陽の号を用いた。昭和32年、75歳で死去した。

土佐(9)-ネット検索で出てこない画家


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柳本洞素と門人

2016-01-22 | 画人伝・土佐

 

文献:土佐画人伝近世土佐の美術坂本龍馬の時代 幕末明治の土佐の絵師たち、海南先哲画人を語る

柳本洞素(1838-1894)は弘瀬洞意(絵金)に学んだ後、江戸に出て駿河台狩野七代・狩野洞白陳信の門に入り、安政4年には土佐藩の御用絵師になった。山内豊範の御居間勤めを明治3年頃までつとめ、以後は町絵師として子の柳本素石、山本昇雲をはじめ、井上素川、石井素堂、稲垣素雪、山本松谷、上森素哲ら多くの門人を育てた。子の素石は四条派の画人として土陽美術会の主要メンバーとして活躍、吉川素竹、石川繁馬、吉岡逸成、谷脇素文、下司凍月、島内松南、上島素水、野村春江らの門人がいる。

柳本洞素(1838-1894)
天保9年生まれ。名は陳春、のちに圭吾と改めた。父は要蔵。幼いころから画をたしなみ、弘瀬洞意に学び、嘉永3年には駿河台狩野七代・狩野洞白陳信に入門、安政4年には20歳にして山内家の絵師に抱えられた。現在の香我美町西川の出身で、洞素の作品はこの地に多く伝わっている。明治27年、57歳で死去した。

井上素川(1864-1926)
元治元年生まれ。長岡郡三和村里改田字立石の人。通称は清、洞水陳政。別号に長泉堂がある。幼いころから画が得意で独学で描き、やや長じて柳本洞素に師事した。画業のほかには俳句を田所水哉に学び、俳号を象水と称した。大正15年、63歳で死去した。

柳本素石(1868-1918)
明治元年高知市生まれ。本名は繁馬。柳本洞素の子。幼いころから父の指導で画を学び、明治22年に京都に出て四条派の国分文友に師事した。松村景文派の画法を学び、諸派の研究につとめた。明治25年に帰郷、明治27年の父の死去以来は郷里を出ず、土佐に四条派を広めた。南部錦溪、河野棹舟らと土佐美術協会を創立、別役春田を会長に美術振興につとめた。明治44年、土陽美術会高知支部発足に際し幹事となり、徒弟的風習を廃した開放的な養成を実施、写実的な近代画を目指す谷脇素文、島内松南、下司凍月、野村春江らが入門した。大正7年、51歳で死去した。

石井素堂(1873-1920)
明治6年高知市浦戸町生まれ。名は徳、字は子英、通称は徳次郎。別号に鯉堂、蘇堂、蘇童、醒泉亭がある。13歳の時に柳本洞素の門に入り狩野派を学び、のちに大阪に出て博物館陳列画を臨写して2年間自修した。鯉魚を専門に描いた。いったん帰郷し、明治27年に東京に出て川端玉章について学んだ。明治34年には京都に行き今尾景年の門に入った。大正9年、48歳で死去した。

吉川素竹(不明-不明)
絵金の弟子だった吉川金太郎の孫。父の馬太郎は紺屋。幼いころから画を好み、祖父の友人・彼末堤馬に学んだのち、柳本素石に師事して「素竹」の号をもらった。紺屋のかたわら日本画を描き、土陽美術会などに出品した。

吉岡逸成(1872-1933)
明治5年生まれ。明治30年高知師範学校卒業。古屋紫竹に南画を、柳本素石に四条派を学んだ。上京後は下村観山に師事し、また梶田半古にも学んだとされる。高知市立第四小学校などの小学校に勤務した。壬生水石の顕彰に尽力し、『壬生水石印譜集』を刊行した。

野村春江(1889-1936)
明治22年高知市生まれ。本名は直政。柳本素石に四条派を学んだ。明治43年林区署の雇員をつとめ、製図などを描いていた。昭和11年には勤続26年の農林大臣表彰を受けている。龍や鷹、鯉を得意とした。土陽美術会にも参加し、島内松南や下司凍月らと親しく交友した。昭和11年、48歳で死去した。

土佐(8)-ネット検索で出てこない画家


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絵金と絵金派

2016-01-19 | 画人伝・土佐

文献:土佐画人伝近世土佐の美術南国土佐の忠臣蔵-絵金が描いた芝居絵屏風-坂本龍馬の時代 幕末明治の土佐の絵師たち

絵金が創出した「芝居絵屏風」は、土佐の各地から集まった弟子や孫弟子たちによって幕末から昭和初期まで描き継がれた。それらは一括して「土佐芝居絵屏風」と呼ばれ、それらを描く弟子たちは各地で「絵金さん」と呼ばれ親しまれた。絵金の弟子たちは墓碑には数百人にのぼるとある。土佐芝居絵屏風は現在でも200点あまりが残されていて、隠し落款などから、そのうち絵金の作品が約20点、河田小龍の作品も8点ほど含まれていると思われる。弟子たちは主に紺屋を業とするものが多く、各地に住み町絵師として絵馬や土佐凧、幟、フラフ、押絵、嫁入り布団などを制作し、神社に奉納される芝居屏風絵を描いた。

彼末堤馬(1842-1926)
天保13年生まれ。高知市五台山の麓に住み、「絵ん馬(えんま)さん」と呼ばれた。昭和元年、85歳で死去した。

吉川金太郎(1836-1901)
天保7年生まれ。堤馬の兄弟子で、紺屋。現在の香南市香我美町岸本に住んでいた。明治34年、66歳で死去した。

小味丑太郎(1847-1913)
弘化4年生まれ。香南市赤岡町に住み、五月幟や凧絵を得意とした。大正2年、67歳で死去した。

久保安悟(1822-1893)
文政5年生まれ。高岡町の米屋「米安」の主人で、絵馬屋となった。明治26年、72歳で死去した。

久保南窓(1848-1917)
嘉永元年生まれ。久保安悟の長男。「米柳」と呼ばれ、絵馬提灯を得意とした。大正6年、70歳で死去した。

古谷洞芸(1828-1872)
文政11年生まれ。高知市須崎の紺屋で絵幟や土佐嫁入り布団が得意だった。明治5年、45歳で死去した。

野口左厳(1836-1910)
天保7年生まれ。香南市赤岡町の西隣の野市に住み、独特の流れるような芝居絵を描き「野市絵金」と呼ばれた。明治43年、75歳で死去した。

広田竹甫(1845-不明)
弘化2年生まれ。奈判利町の紺屋。絵金と「龍虎図」を共作、龍を友竹、虎を竹甫が描いた。

恒石徳治(1853-1912)
嘉永6年生まれ。高知市夜須町の紺屋で、歌舞伎狂言を描いた絵馬が伝わっている。大正元年、60歳で死去した。

島田虎次郎(1858-1915)
安政5年生まれ。高知城下の表具師で、「虎絵」と呼ばれ、地芝居の舞台制作や花台(山車)に欠かせない職人町絵師だった。大正4年、58歳で死去した。

宮田友川斎(1860-不明)
万延元年生まれ。高知県吾川郡春野町生まれで絵金の最晩年の弟子。

辺見藤七(1861-不明)
文久元年生まれ。表具師のかたわら屏風絵を得意とし、「本山絵金」と呼ばれた。

山崎金蔵(不明-不明)
佐川町の町絵師で、観柳斎奉行と号し、風景図絵を得意とし、「佐川絵金」と呼ばれた。

武政勇造(不明-不明)
高知市旭町の彫物細工師。上方で修業したといわれ、花台をよくした。

土佐(7)-ネット検索で出てこない画家


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絵描きの金蔵

2016-01-14 | 画人伝・土佐

文献:土佐画人伝近世土佐の美術坂本龍馬の時代 幕末明治の土佐の絵師たち、海南先哲画人を語る

江戸で駿河台狩野に学ぶ機会を得た、土佐の髪結いの息子・金蔵は、わずか3年で「洞意」の号を得て帰郷し、土佐藩家老桐間家の御用絵師をつとめた。腕もたち、人気にも恵まれた若き狩野派の絵師・金蔵は順調に画業を重ねていくかにみえたが、贋作を制作した疑いをかけられて失脚、身分を失った。町絵師となった金蔵の行動は謎も多いが、10年を越える空白期間を経て、「芝居絵屏風」の「絵金」として蘇った。中央にもない芝居絵の様式を創出した絵金の仕事は、多くの弟子や孫弟子たちによって描き継がれ、「絵金」の名前は広く親しまれるようになった。戦前までの土佐では、「絵金」は「絵描き」そのものを意味する言葉となっていて、子供が絵を描いていると、「絵金になるがや」と語りかけるのが常だったという。

絵金(弘瀬洞意)(1812-1876)
文化9年生まれ。高知城下はりまや橋近くの新市町の髪結いの長男。通称は金蔵。幼いころから画を好み、近所の紙筆商兼薬種商で南画を描いていた仁尾鱗江に画を習い、16歳の時には藩の御用絵師・池添楊斎美雅に入門し「美高」と名乗った。18歳の時に江戸遊学の機会を得て、江戸土佐藩の御用絵師・前村洞和に入門した。さらに、駿河台狩野六代・狩野洞益春信につき、四代・洞春美信の画風に親しんだとされる。わずか3年の修業で「洞意」の号を得て、天保3年には帰郷して家老桐間家の御用絵師となり、藩医の林家の姓を買い「林洞意」と名乗った。

若き狩野派絵師は腕もたち、人気もあった。しかし、順風だった洞意に贋作事件がふってわいた。33歳の頃と思われるが、古物商から依頼され狩野探幽の「蘆雁図」を伝写したところ、業者がこれに落款印章を押して売りに出した。買主から鑑定を依頼された南画家・壬生水石は洞意の作と見破り、洞意は失脚し身分を失うこととなった。

町絵師となった金蔵は、町医師・弘瀬の姓を買い「弘瀬柳栄」と名乗り、号を友竹とした。その後の行動は不明な点も多いが、歌舞伎、浄瑠璃を題材に、芝居絵、屏風、絵馬提灯、奉納絵馬、横幟、絵巻物、凧絵など多彩な制作を行ない、特に二曲一隻屏風に描いた「芝居絵屏風」は、独創的な構図と強烈な色彩で評判となり、絵描きの金蔵を略した「絵金」と呼ばれて親しまれた。

晩年は雀七、雀翁と改号し、ひすら好きな画を描いていたが、明治6年、突然中風症を患い、自由を失った右腕にかえて、左手で描いていた。その後も養生に専念し、右手で描けるくらいに回復したが、明治9年再発し、65歳で死去した。

土佐(6)-ネット検索で出てこない画家


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土佐唯一の土佐派・滝口国成と諸派の画人

2016-01-12 | 画人伝・土佐

文献:土佐画人伝

近世の土佐では、藩の御用絵師は狩野派がつとめ、知識人の間では南画が広まっていた。そのためか、その他の流派はきわめて少ない。記録にある画人としては、土佐光貞に学んだ滝口国成(不明-1848)が唯一の土佐派であり、森狙仙に入門した宮尾流芳斎(不明-不明)、円山応挙に学んだ山本梧嶺(不明-1781)や村田龍亭(不明-不明)がいるばかりである。

滝口国成(不明-1848)
藩の中老・前野大内蔵。主税、玄蕃とも称した。遠祖が使った滝口姓に実名の国成を合わせて画の落款とした。土佐光貞に師事した。光貞との結びつきははっきりとしないが、能茶山の陶器に光貞の絵付がある。また、土佐でも光貞とその子・光孚の作品が残っており、光貞は子の光孚とともに土佐の地を訪れたのではないかとも考えられている。嘉永元年病死した。

宮尾流芳斎(不明-不明)
宇佐村の紺屋に生まれ、幼いころから画を好んでいた。ある時、船便を得た流芳斎は、画の修業のために大坂に出て、森狙仙の塾に入った。しかし師もてこずるほどの不器用さだったらしく、たまりかねた師の狙仙は、流芳斎に国元に戻り、家業か農業、漁業をして暮らしたほうが幸せだと諭した。それから狙仙は、画室に籠り三日がかりで猿の画を仕上げ、その画料で盛大な送別会を開いたという。しかし、流芳斎は国元に帰っても筆を置くことはせずに生涯描き続けたらしい。比較的多くの作品が地元に残っている。

山本梧嶺(不明-1781)
長岡郡大津村の郷士。字は真郷、名は鼎。山本久左衛門の二男で山本宅男と称した。幼いころから画を好み、藩の絵師村上家について学び、のちに京都に出て円山応挙、月湖山人に教えを受け、その後は諸国を放浪し旅絵師となった。晩年になって伊勢の国に行き、外宮の御師・蓬莱雅楽守の家に寓居した。その時に、伊勢の地に師の円山応挙の「墨竹」の画碑を建てるなどした。安永10年、蓬莱家で客死した。

村田龍亭(不明-不明)
通称は勇助、字は潜深、名は鱗龍。代々医師の家に生まれ、町医を業としていたが、画を好み狩野の筆技で描いていた。龍亭は山本梧嶺と同時代の人で、城下で絵を描いたところ注文が多く、これに気をよくして江戸に出たがうまくいかず、京都に行き円山応挙と親しく交友した。

土佐(5)-ネット検索で出てこない画家


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池添楊斎と池添一族

2016-01-07 | 画人伝・土佐

文献:土佐画人伝

土佐藩の御用絵師・池添楊斎(1791-1841)は、弘瀬洞意(絵金)の師匠として知られている。池添家は代々絵を描いており、楊斎の養父・池添美光は江戸に出て駿河台狩野四代・狩野洞春美信の門に学び、藩の絵師をつとめた。美光の末弟・金兵衛(氏助)は町絵師で、絵馬や芝居絵などを描き人気があった。美光の兄・儀七は鋳掛け師をしていたが、絵も描き、奇人として伝わっている。

池添楊斎(1791-1841)
寛政3年生まれ。通称は安蔵、名は美雅。土佐藩のお抱え絵師。池添美光の養子で、本姓は窪田といった。天保3年縫殿助となり、天保5年剃髪して秀輔と改め、絵師職人を支配した。観楊斎と号して城下掛川町に住んでいた。観楊もしくは楊斎と呼ばれ、特に絵金の師匠として知られている。天保5年に潮江の天満宮に奉納した「天満宮砂持ちの実写」で画名を高め、天保7年には君命により「御神祭絵図」を制作、その画は山内家に伝わっている。門人には弘瀬洞意(絵金)のほか、忍斎と号した藩士の尾池敬愛、赤野の高橋紋右衛門光房らがいる。天保12年、51歳で死去した。子の美春は桐斎と号して画業をはじめたが、嘉永元年に22歳で死去した。池添家はその後岡崎健蔵の二男・美秀が継いで水道町に住んでいたが、明治17年に一家をあげて富山県に移住した。

池添美光(1755-1822)
宝暦5年生まれ。池添楊斎の養父。土佐藩の絵師。はじめは中山高陽の門人・林南唐について画を学んだ。のちに南唐と共に江戸に出た際、駿河台狩野四代・狩野洞春美信の門に入って画を学び、設色の法を会得して門下の高弟と称された。文政5年、68歳で死去した。

池添儀七(不明-不明)
池添美光の兄。池添楊斎は甥。鋳掛け師をしていたが、絵も描いた。鋳掛け師とは、壊れた鍋釜などを修理する職人のことで、儀七の鋳掛けは天下一品とされ、特に大物の修繕にかけては土佐で右に出るものはないといわれた。奇人として知られ多くの逸話が残っている。ある時、城下の豆油店が、大釜が少しだけ痛んだので儀七を呼んで修理してもらったところ、修理代は白銀一枚だという。あまりにも高いので、店の番頭が「大破なればともかく、これしきの小痛みに白銀とは法外だ」と抗議した。すると儀七は「儀七という男を知らんか、儀七は金のある大家だから高くとってるんだ。貧しい家なら、ただでも直す。ぐずぐず言いなさんな」と言い放った。それを聞いた主人は感心して望みの金を渡したという。

尾池忍斎(1814-1855)
文化11年生まれ。名は敬愛。前名は弾之助。土佐藩士。歌人・尾池春水の孫。はやくから池添楊斎について画を学び、中西半隠に書を習った。安政2年には日光東照宮の本坊などの修復に加わったが、病により、同年、42歳で死去した。

土佐(4)-ネット検索で出てこない画家


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河鍋暁斎の師・前村洞和と土佐の狩野派

2016-01-05 | 画人伝・土佐

文献:土佐画人伝近世土佐の美術、海南先哲画人を語る、高知県立美術館館蔵品目録

江戸で仕えた土佐藩の絵師のうち、前村洞和と荒木寛畝は土佐の生まれではない。前村洞和(不明-1841)は、江戸に生まれ、駿河台狩野で学び江戸土佐藩の御用絵師をつとめた。江戸で洞和に学んだ土佐の画人としては、池添楊斎、弘瀬洞意(絵金)、小松洞玉らがいる。さらに洞和の子・前村洞泉は土佐で活躍し、門人には、水口温清堂、足達石泉、野村淡泉、北村幽林斎らがいる。土佐の人ではないが、洞和の晩年の門人に河鍋暁斎がいる。洞和は8歳で入門した暁斎の画才を愛し、「画鬼」と呼んでかわいがっていたが、暁斎が11歳の時に病を得て没した。暁斎は素行に難があったが、恩義には厚く、病床にあった洞和を絶えず見舞い、没後は洞和の肖像を描いて掛け軸を作り、忌日ごとに茶湯を供えた。さらに面打師の出目源助に頼んで師の肖像を彫刻してもらい、仏壇に入れて朝夕礼拝したという。

前村洞和(不明-1841)
江戸に生まれ、本郷に住んでいた。名は愛徳。別号に一楽斎、洞和愛徳がある。幼いころから画を好んだが、家が貧しく画を学ぶ余裕はなかった。父親と引火奴を売り歩いて生活する毎日だったが、駿河台狩野家の前を通るたびに門人たちの学ぶ姿を見ていた。ある時、その様子を見た駿河台狩野家五代・狩野洞白愛信が洞和に筆を与えたところ、学んでもいないのに非凡な才能を発揮したという。その後入門を許され「洞和」の名を拝領、推挙されて江戸土佐藩の御用絵師となった。天保12年死去した。

前村洞泉(不明-不明)
元の名は前田泉太郎。土佐藩御用絵師。前村洞和の門人で前村の姓を継ぎ、土佐で活躍した。洞泉知足、または知義、江隣斎と称した。弘瀬洞意の兄弟子にあたる。河田小龍とも親交があり、門人も多い。

小松洞玉(1831-1893)
天保2年生まれ。名は徳信。善内と称した。幼いころから画を好み、江戸に出て前村洞和に狩野派を学び帰郷、出任して牢番役を勤めた。晩年は画を専業とした。明治26年、63歳で死去した。

水口温清堂(1833-1909)
天保4年生まれ。本名は水口千代治。水口助八の子。土佐郡下知村農人町に住んでいた。15歳の時に土方洞甫に狩野派を学び、嘉永3年師の後を継いで山内家の絵師をつとめ、師の没後は前村洞泉の門に入った。明治42年、77歳で死去した。

足達石泉(1836-1923)
天保7年生まれ。本名は覚蔵、字は子貞。別号に小渓がある。11歳の時に前村洞泉に師事して狩野派を学んだ。明治17年には内国絵画共進会で2等賞を受け、明治19年の東洋絵画共進会でも3等の褒状を受けた。晩年は土陽美術会高知支部にも参加して、当時の高知における狩野派の主導者として知られた。大正12年、88歳で死去した。

野村淡泉(1838-1878)
天保9年生まれ。名は知誠、通称は野村修齋。吾川郡弘岡上の村百十二番屋敷平民医師。前村洞泉に狩野派を学び、才能があったが、明治11年、44歳で死去した。

北村幽林斎(1840-1887)
天保11年生まれ。通称は猪久治。家は代々土佐郡久萬村初月村東久万に住み紺屋を営んでいた。嘉永6年、14歳にして前村洞泉の門に入り狩野派の画を学んだ。明治20年、48歳で死去した。

土佐(3)-ネット検索で出てこない画家


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