松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま長崎県を探索中。

駿河台狩野と土佐の狩野派

2015-12-28 | 画人伝・土佐

文献:土佐画人伝近世土佐の美術

土佐藩の御用絵師である村上家は、狩野探幽やその弟子たちに学んできた。近世土佐の狩野派随一の画人と称された近藤洞簫(1653-1693)も、村上家に入門し狩野派を学んだのち、江戸に出て探幽の養子である駿河台狩野家の祖・狩野洞雲益信(1625-1694)に師事した。その後、土佐の画人たちは駿河台狩野家とのつながりを深めていく。橋本雲山、伊藤越川、松崎敬信、箕浦桂林、祖父江洞常らが四代・狩野洞春美信(1747-1797)に学んだ頃の土佐では「床に美信を飾り、襖に高陽を入れるをもって誇りとした」とされるほどの人気を誇っていた。

近藤洞簫(1653-1693)
承応2年生まれ。通称は小平次、のちに半平。名は益喜、益尚、益親。別号に丹静斎、自斎、龍耳がある。父は安芸の近藤吉右衛門、母は池氏。府下唐人町に住んでいた。山内の絵師だった村上家で画を学んだのち、江戸に出て駿河台の祖・の狩野洞雲益信に師事した。元禄6年、41歳で死去した。

松崎敬信(不明-不明)
諱は徳清、未伸軒と号した。土佐藩士。安永年中に江戸藩邸に勤番し、余暇に四代・狩野洞春美信の門に入って学んだ。好んで大黒天の尊像を作った。徳弘石門の最初の師とされる。

箕浦桂林(1779-1813)
明和8年生まれ。名は次太郎。箕浦右源次の長男。江戸に出て四代・狩野洞春美信に師事した。文化10年、35歳で死去した。

橋本雲山(不明-1822)
通称は武左衛門、名は明信。父は甚左衛門。江戸に出て四代・狩野洞春美信に師事した。文政5年死去。

伊藤越川(不明-1836)
通称は清太夫、名は正堯。土佐藩馬廻の藩士。はじめ前野河洲について学び、のちに江戸に出て四代・狩野洞春美信に師事した。天保7年病死。

祖父江洞常(不明-1855)
通称は陶吉、名は勘備、前名は信弥。江戸に出て四代・狩野洞春美信に師事した。安政2年、32歳で死去した。

田中貝峯(1757-1833)
宝暦7年生まれ。通称は初め門太、のちに門蔵。名は知雄。はじめ聞水と号したとされる。別号に幽篁斎、庭遙斎がある。画は壮年になって江戸に官遊の際、駿河台狩野の石里洞秀美章について学び、その画法をよく守った。門下には、岩井三平、徳弘石門、弘瀬洞意らがいる。天保4年、77歳で死去した。

土佐(2)-ネット検索で出てこない画家


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土佐の初期画人

2015-12-25 | 画人伝・土佐

文献:土佐画人伝近世土佐の美術、海南先哲画人を語る、高知県立美術館館蔵品目録

約400年前に竣工された高知城の三の丸内部は、狩野派と長谷川派の絵師たちによって装飾されたことが伝わっている。そのうちの大広間上段や松の間の装飾は、土佐在住の狩野派の画人・高島孫右衛門が手掛けたものとされる。また、土佐の戦国史料のなかでも屈指の文献とされる長宗我部元親の一代記『元親記』を著わしたのも高島孫右衛門の名である。高島は、父子同名のところから『元親記』の著者を父とし、子の孫右衛門を画人とする説もあるが、同一であるとする説もある。また、土佐藩の御用絵師をつとめた村上十兵衛も父子同名で、雅号の読みも紛らわしいことから諸説あるが、『土佐画人伝』では、初代十兵衛了画、二代十兵衛了円、三代十兵衛龍臥(専助守継)、四代十兵衛龍円(専烝守常)の順であろうとしている。他には、狩野派の画人として近森半九郎、横山竹林斎、前野河洲らがいる。

高島孫右衛門(不明-不明)
長宗我部元親に仕えていたが、長宗我部氏滅亡ののちに山内氏に仕えた。画を好み狩野派に学んだ。慶長6年高知城が築営された時に三の丸に障壁画を描いた。寛文頃には存命で、当時無双と称されたという。

村上専助(不明-不明)
通称は十兵衛。旧姓松永。諱は守継。龍臥と号した。二代十兵衛には道全という実子がいたが絵師には向かず、専助が養子となって村上家を継ぎ、藩の御用絵師となって潮江村に住んだ。探幽系・村上家では最高の画人と称された。天和3年、藩主・豊昌が潮江村竹島で鷹狩をした際に大真鶴を捕獲、その時の様子を専助に命じて三の丸の玄関に描かせたという。専助の子が四代専烝守常。

近森半九郎(不明-1724)
名は常好、または常雅。江戸の狩野常信に学び、三湖、または古流と号した。高い技量を誇っていたが、師の絵の贋作の罪に問われ斬首された。ほとんどの作品は没収、焼却され、現在まで残っている作品は少ない。享保9年死去。

横山竹林斎(不明-1781)
名は守寿、通称は弁蔵。高知潮江、三軒屋に住んだ。享保15年足軽に召出され江戸に出て狩野探常の門に学んだ。元文2年に探常から守の一字を許され「守寿」と称した。帰郷後、抜擢されて御用絵師となった。享保大火ののちに延享2年城内二の丸新築の際に桜の間の襖絵を描いた。天明元年病死した。実孫の弥八郎が天保14年に罪を犯し録を没収され家は途絶えた。

前野河洲(不明-1792)
名は久右衛門。若いころから家にあった探幽画に私淑し、江戸詰めの間は常信の孫である狩野典信に学んだ。寛政4年病死。

土佐(1)-ネット検索で出てこない画家


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謎の浮世絵師・東洲斎写楽と阿波藩の関係

2015-12-21 | 画人伝・阿波

文献:東洲斎写楽と役者絵の世界

江戸時代の謎の浮世絵師・東洲斎写楽の正体に関しては、様々な説があるが決定的はものはないのが現状である。ただ、英国ケンブリッジ大学図書館に所蔵されている斎藤月岑自筆本『増補浮世絵類考』に、東洲斎写楽に関しての記述として「俗称斎藤十郎兵衛、居江戸八丁堀に住す、阿波公侯の能役者也」とあり、東洲斎写楽は八丁堀の阿波藩に仕えていた能役者・斎藤十郎兵衛ではないかという説が有力となった。その後の調査で、阿波藩に斎藤十郎兵衛という能役者がいたこと自体は確実視されているが、斎藤十郎兵衛が東洲斎写楽と同一人物であるという確証は得られていない。

東洲斎写楽(不明-不明)
写楽の作画期は、寛政6年5月から翌年の正月までの約10カ月間(閏月を含む)と推定されている。これは写楽の描いた役者が、どの狂言に登場するかを調べて割り出したもので、この期間に140数点の作品を残している。しかし、その中に修業時代のものと思われる早い頃の作品が残っておらず、どのようにして絵を学んだのかも不明である。しかも一度に大量の作品を描き、わずか10カ月で活動をやめている。他の浮世絵師にはみられないことである。

写楽と同時代に活躍した初代歌川豊国は、寛政6年正月から「役者舞台之姿絵」の連作を出し大変な人気を得た。同じ年の5月に出た写楽が10カ月で姿を消したのに対し、豊国はこの成功によって、役者絵の第一人者となった。豊国は、当時の人々が役者絵に求めていたものを理解して作画していたようである。役者の容貌のくせはそれと分る程度に理想化し、全身像では見得を切った姿が歯切れよく描かれており、画面から華やかな舞台の雰囲気が伝わってくる。

それに対して写楽の絵は、役者の容貌は誇張され、けっして美しいとはいえない風貌に描かれており、その人物の内面にまで肉薄するような表現である。当時の人々は華やかで瑞々しい画風の豊国を支持し、写楽は人気を得ることはできなかった。しかし明治に入り、ドイツ人のユリウス・クルトが、その著書『Sharaku』のなかで写楽の素晴らしさを取り上げたことをきっかけに、写楽の浮世絵は、役者の芸質までもとらえた崇高な芸術作品として世界的に評価されるようになったのである。

阿波(番外)-ネット検索で出てこない画家


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日本で最も早くヨーロッパで西洋美術を目にした画家・原鵬雲

2015-12-16 | 画人伝・阿波

文献:近代徳島の美術家列伝

明治維新の前後にいち早く西洋美術と出合った徳島の画家として、原鵬雲、井上辨次郎、守住勇魚がいる。日本の美術はこの時期に欧米の美術と本格的な接触を持つようになり、大きく変貌していった。近代美術の幕開けの時期であり、この3人はその先駆けといえる存在である。原鵬雲(1835-1879)は、江戸末期の文久元年に幕府の遣欧使に随行し、パリのルーブル美術館を訪れた。現地で西洋美術の作品群を目の当たりにした最初の日本人画家とされる。井上辨次郎(1860-1877)は明治6年から9年にかけてイギリスに留学、日本で最も早い時期の美術留学生である。守住勇魚(1854-1927)は住吉派の日本画家・守住貫魚の子だが、早くから洋画を志し、明治9年に開設された工部美術学校で、イタリア人画家・フォンタネージの指導を受けた。この学校は明治政府が作ったもので、西洋美術を体系的に教えた日本で最初の学校で、明治初期の洋画を考えるうえで欠かせない画家の一人である。

また、明治から昭和初期にかけて活躍した徳島を代表する洋画家として、明治30年代中頃から40年代初頭にかけて全国的に流行した水彩画ブームのきかっけを作った三宅克己(1874-1954)、ピカソの新古典主義に学んだ量感ある裸婦像を発表し、昭和初期の洋画壇に一時代を画した伊原宇三郎(1894-1976)らがいる。→三宅克己関連:角筈に住む水彩画家

原鵬雲(1835-1879)

天保6年生まれ。通称は市助、のちに介一、字は子竜。藩の銃卒で徳島富田に住んでいた。守住貫魚について住吉派を学んだ。文久元年、幕府が欧州へ修好使臣を派遣するにあたりこれに随行して、英、仏、和、独、葡などを歴遊、文久3年に帰国した。のちに教育者となり、明治7年より広島師範学校の図画教師となった。明治12年、45歳で死去した。

井上辨次郎(1860-1877)
万延元年静岡県沼津市に生まれ、本家である小松島にあった井上家の養子になった。井上家は徳島を代表する豪商で、代々回船業などを家業としていた。明治6年、維新の時代を乗り切る広い見識を期待した養父の希望で、兄の麟太郎とともにロンドンに留学した。ロンドンに着くとまもなく絵を描くことに興味を示し、やがて本格的な修業に入った。しかし、明治9年には病気のため帰国し、翌年18歳で死去した。

守住勇魚(1854-1927)
安政3年生まれ。名は詮之助。守住貫魚の子。父と違い洋画を志し早くから東京に出て国澤新九郎の彰技堂に学んだ。ついで明治9年工部美術学校に入学、イタリア人画家・フォンタネージの教えを受けた。明治11年、フォンタネージの後任フェレッティの排斥運動を起こして同志とともに退学。この時に行動をともにしたのは、浅井忠、小山正太郎、松岡寿らで、年号にちなんで十一会という会を結成した。のちに京都に出て三高、同志社、京都高等工芸学校などの教師をした。教師としての勤務が長かったせいか小学校用の臨画手本などの著書があるが、画人としての活躍はあまりみられない。性格もやや偏屈なところがあり、門人の沢部清五郎によると、世間から忘れられたものとしてあえて画壇の表面に出ようとする意図は見られなかったという。昭和3年、73歳で死去した。

阿波(20)-ネット検索で出てこない画家


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近代徳島の住吉派、森魚渕・多田藍香・湯浅桑月と門人たち

2015-12-14 | 画人伝・阿波

文献:阿波の画人作品集、阿波の画人作品二集、阿波画人名鑑近代徳島の美術家列伝

阿波の住吉派の第一人者である守住貫魚の門下で最も傑出した画人と称された森魚渕(1830-1909)は、ほとんどを徳島の地で活動し、地元画壇の発展に貢献した。明治20年代にできた徳島絵画協会では中心的な役割を果たし、門弟たちが阿波国雅癖会という美術団体を組織するなど、徳島の美術界において大きな存在感を示した。門下からは、風俗画で知られ「阿波踊り」の名付け親でもある林鼓浪(1887-1965)らが出ている。吉永藍畦に学んだ多田藍香(1858-1928)は、徳島紺屋町に私立徳島絵画学校を開くなど後進を育てるとともに、ビラ絵や行燈の絵を手掛けるなど多彩な活動をした。門下には團藍舟(1873-1935)らがいる。佐香貫古、佐香美古に学び、のちに各派の画人と交友し研鑚を積んだ湯浅桑月(1878-1929)は、明治から大正にかけて活躍し、徳島の地に多くの作品を残し、門人を育てた。

森魚渕(1830-1909)
天保元年生まれ。名は宇吉。徳島古物町に住んでいた。父は森善次。幼いころに孤児となり9歳の時に守住貫魚に託された。はじめ美明と号した。画の修業のため江戸に出ようとしたがちょうど米艦が浦賀に来て江戸が騒然となっていたため中止、以後ほとんど徳島にいた。貫魚門人のなかで最も傑出した画人とされた。明治15年と17年の内国絵画共進会で褒状を受けるなど展覧会での受賞が多く、門人も多く育てた。明治42年、80歳で死去した。

林鼓浪(1887-1965)
明治20年徳島大工町生まれ。名は宜一。森魚渕に師事した。民俗芸能や故実に通じ、若いころ京阪の劇場で演劇の研究にも従事した。徳島の盆踊りを「阿波踊り」と名付けたことで知られる。昭和40年、徳島市の人間文化財に指定された。昭和40年、78歳で死去した。

多田藍香(1858-1928)
安政5年生まれ。徳島富田浦の人。名は仙次郎。父は加一兵衛。はじめ父に学び、次いで吉永藍畦に学んだ。奇人であって東洋亭金波と名乗って講釈師としても活躍した。明治17年に内国絵画共進会に出品、明治22年、徳島紺屋町に私立徳島絵画学校を開いた。弟子に團藍舟がいる。お鯉さんは娘。昭和3年、71歳で死去した。

團藍舟(1873-1935)
明治6年生まれ。本名は伊作。字は士敬。通称は英雄。別号に智章がある。徳島津田段の丁の人。多田藍香の門人だったが、東京に出て川端玉章に入門した。川端画学校創立の時に塾頭となった。また日本美術協会の幹部としても活躍した。昭和10年、63歳で死去した。

湯浅桑月(1878-1929)
明治11年生まれ。本名は茂。徳島大工町の人。佐香貫古、佐香美古に学んだ。初号は茂胤。17歳の時に郷里を出て、各派の画人と交友し研鑚を積んだ。明治37年に帰郷し作画生活に入った。門人が多く、県内に作品が多く残っている。昭和4年、52歳で死去した。

小川芳崖(1866-1952)
慶応2年生まれ。松茂の人。森魚渕に学んだ。弟の苔石も画人。昭和27年、87歳で死去した。

山本守渕(1868-1956)
明治元年生まれ。名は宇蔵。佐古の人。山本岩吉の二男。長谷川姓を名乗っていたこともある。昭和31年、89歳で死去した。

川人穎栗(1871-1862)
明治4年生まれ。本名は栄次郎。徳島矢三町高見の人。別号に墨州、川観子、野草などがある。徳島住吉島の藩士・川人棟四郎の二男。18歳の時に森魚渕に入門、明治24年に東京に出て富岡永洗、結城素明、狩野友信に師事した。明治26年、徳島に戻り、住吉派をはじめ狩野派、浮世絵、新傾向の日本画も学んだため、人物、花鳥、山水すべてを得意とし肖像画もよくした。歌をたしなみ「野草」の著書がある。昭和37年、92歳で死去した。

犬伏真渕(1874-1949)
明治7年生まれ。徳島富田幟の人。森魚渕に学んだ。装飾的な画が多く、雛人形の図などを多く描いた。弟の木村松亭も画人。昭和24年、76歳で死去した。

森魚海(1876-1928)
明治9年生まれ。名は大次郎。森魚渕の二男。父に住吉派を学び、人物画などをよくした。昭和3年、53歳で死去した。

福山明玉(1876-不明)
明治9年生まれ。名は定次。徳島新居の人。森魚渕に師事し、のちに川合玉堂に師事した。山水を得意とした。十数年間教職にあった。

公文芦渕(1876-不明)
明治9年生まれ。本名は鈴木三二。森魚渕に入門し、のちに上京して住吉宗家に入った。

笠谷貫樹(1879-1962)
明治12年生まれ。小松島田野の人。名は宗吉。湯浅桑月に学んだ。山水、仏画を得意とした。若いころ人形座源之丞の背景描きをしていたいう。昭和37年、84歳で死去した。

一楽湖城(1879-1976)
明治12年生まれ。名は藤四郎。那賀郡羽ノ浦町岩脇の人。湯浅桑月に学んだ。能筆で、俳句、茶道、生花、彫刻、表具などにおいても才能を発揮した。昭和51年、98歳で死去した。

奥田芳彦(1880-不明)
明治13年生まれ。徳島市生まれ。本名は光榮。別号に遅牛、黙示庵がある。はじめ森魚渕に学び、のちに上京して橋本雅邦に師事した。

木村松亭(1885-1948)
明治18年生まれ。名は誉。別号に脩古がある。徳島市富田浦幟町の人。犬伏真渕の弟。兄とおなじく森魚渕の門に入り住吉派の画を学び、歴史画、花鳥画を得意とした。一時、香川県大川郡引田町に住み、前田垂穂といった。昭和23年、64歳で死去した。

稲井耕雲(1889-1956)
明治22年生まれ。板野郡御所高尾の人。名は菊次郎。犬伏真渕に師事した。昭和31年、68歳で死去した。

佐和藍田(1890-1977)
明治23年生まれ。小学校在学中から森魚渕に画を学び、のちに上京して團藍舟に師事した。昭和52年、87歳で死去した。

池内観象(1895-1926)
明治28年生まれ。初号は嵩豊。名西郡石井町高原関の人。はじめ湯浅桑月に学び、のちに大阪の上島鳳山に学んだ。美人画を得意とした。中国・朝鮮を歴遊した。大正15年、32歳で死去した。

阿波(19)-ネット検索で出てこない画家


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浅井柳塘と徳島の近代南画家

2015-12-10 | 画人伝・阿波

文献:阿波の画人作品集、阿波の画人作品二集、阿波画人名鑑

徳島ゆかりの近代南画家としては、幕末から明治初頭にかけて、京都で名声を博した浅井柳塘(1842-1907)がいる。生地は京都と徳島の2説がある。百々広年、谷口靄山に南画を学び、貫名海屋にも教えを受けたという。のちに長崎に遊学して木下逸雲、日高鉄翁、清人・徐雨亭に画法を学び、維新前後の京都で南画の名手の一人と目された。京都で柳塘に学んだ徳島の南画家としては、斎藤白渓、安宅白鶴、松浦小坡らがいる。

浅井柳塘(1842-1907)
天保13年生まれ。通称は永吉、名は龍、字は子祥。別号に白山、長白山、小白山人、拝竹道人、白雲山客、雲客蘇雲などがある。白山の雅号は上京区の白山町に住んでいたことから由来する。京都に住み南画家として有名になった。木下逸雲、日高鉄翁の門人。のちに清人・徐雨亭から南画を学んだ。明治6年、京都博覧会に際して開かれた席画会には在京都の主要画家の一人として名を連ねている。明治13年、京都府知事代理が府下の43名の画家を勧業場に招き、画学校の設立の協力を求めた際、柳塘もその席に招かれ、京都府画学校の「出任」に任命された。画学校は東宗、西宗、南宗、北画の4塾からなっていて柳塘は南宗塾に所属していた。明治33年、大阪南宗画会第1回全国南画共進会で2等銀牌を受けた。明治39年に一時徳島に戻り、明治40年、66歳で死去した。

斎藤白渓(1841-1920)
天保12年生まれ。名は吉次。徳島通町の人。酒屋を営んでいた。京都に出て浅井柳塘に南画を学んだ。生花、俳句もたしなんだ。のちに寺島に移り門弟を指導した。大正9年、80歳で死去した。

安宅白鶴(1844-1921)
弘化元年生まれ。本姓は大塚。阿波郡粟島の人。大塚喜八郎の三男。小松島の安宅勇二の家を継いだ。名は貫通、字は奇徹、通称は権一。初号は梅風、別号に南洲、伴清がある。詩文を柴秋邨、佐藤香雪、細川鉄笛に学び、画は後藤田南渓、渡辺小華、佐依篁石について学んだ。さらに明治39年に浅井柳塘が徳島に戻ってきた際にはついて学び、白鶴と改号した。武道、華道などにも長じていた。大正10年、78歳で死去した。

松浦小坡(1883-1950)
明治16年生まれ。幼名は豊五郎、字は忠淳、名は九兵衛、または皐。小松島の人。浅井柳塘に師事した。別号に守拙がある。昭和25年、68歳で死去した。

篠原竹条(1829-1921)
文政12年生まれ。名は慶二郎。徳島東田宮の人。別号に伴雲楼主人がある。壮年の時に東海道諸国を遊歴した。晩年は中風になったため左筆の作がある。大正10年、93歳で死去した。

福田天外(1839-1921)
天保10年生まれ。名は宇中。徳島弓町の人。別号に楽瓢庵がある。元藩士で弓術方だった。岩本贅庵に詩文を学び、詩文、南画に長じていた。のちに神戸に出て新聞記者や旧制中学の教員として勤めた。『阿波先哲小伝』『阿波偉人小伝』『古今復讐日本義烈伝』などの著書がある。大正10年、83歳で死去した。

佐々木無胆(1851-1924)
嘉永4年生まれ。名は栄。撫養の人。本業は高島の医師で、南画をよくした。大正13年、74歳で死去した。

賀島牛山(1853-1931)
嘉永6年生まれ。阿南市富岡の人。詩と南画をよくした。昭和6年、79歳で死去した。

逸堂(1855-1916)
安政2年生まれ。那賀郡今津の信行寺の僧。姓は能仁、名は観玄。南画をよくし、安宅白鶴の画友だったという。 大正5年、62歳で死去した。

吉成聴雨(1855-1927)
安政2年生まれ。名は真佐次。鳴門市撫養町斎田の人。南浜、斎田の戸長を経て、明治22年に撫養町の初代町長になった。南画をよくした。昭和2年、73歳で死去した。

近藤香村(1857-1934)
安政4年生まれ。名は利五郎。麻植郡美郷村の人。元姓は後藤田。阿波郡市場町香美の近藤貞平の養子になった。長崎に行き南画を学んだ。昭和9年、78歳で死去した。

吉成白鵞(1864-1937)
元治元年生まれ。徳島住吉島の人。名は書三郎。南画家で詩、俳句にも長じていた。詩は朝川五竜の門人。湊青古と親交があった。県吏だった。昭和12年、74歳で死去した。

篠原弥次兵衛(1865-1938)
慶応元年生まれ。鳴門高島の人。代々塩業を営んでいた。奇人と伝わっている。洋画家・中山規矩磨の父。碁、花道、俳句、南画に長じていた。隠居後は孫左衛門と称した。県会議員としても活躍した。昭和13年、74歳で死去した。

阿波(18)-ネット検索で出てこない画家


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阿波の四条派・浜口南涯と吉成葭亭

2015-12-07 | 画人伝・阿波

文献:阿波の画人作品集、阿波の画人作品二集、阿波画人名鑑

浜口南涯(1801-1865)と吉成葭亭(1807-1869)は同じ四条派で、画の評判は拮抗していたが、医を業としながら和歌や茶道などもたしなむ南涯に対し、大酒飲みで奇人の葭亭は、お互いにそりが合わなかったようである。葭亭の画風が大衆的で北斎風なところがあったため、南涯は「北斎の画は正法にあらず、画中の妖魔にして切支丹の如し」と言って暗に葭亭を非難していた。

浜口南涯(1801-1865)
享和元年生まれ。名は路輔、別号に無極斎、成秋がある。徳島佐古大裏の人。父は藩士だったが、水利奉行・伊沢滝三郎の悪だくみによって失脚し自刃した。幼いころから画がうまく、京都に出て竹内文郷に入門して医学を学びつつ松村景文に師事して四条派の画を学んだ。また、和歌を湯浅春緒、小倉真坂に、茶を古屋宗申に学んだ。江洲で10年間医を業としていたが、徳島に帰り船場で医を開業、画も描いた。山水、花鳥、人物にすぐていた。慶応元年、65歳で死去した。

吉成葭亭(1807-1869)
文化4年生まれ。名は亀次郎。長興と名乗った。徳島大岡本町の人。父は吉成多記太長則。家は代々藩の陣貝方だったため、葭亭も貝吹きの達人だった。奇行が多く画は速筆で、人物画をよくした。はじめ鈴江孝之助について書、画を学び、その後藩主に従って江戸に行き椿椿山に入門しようとしたが「貴下はすでに一家をなせり」といって断られた。好酒家で鈴江貫中といっしょによく飲んでいたという。代表作に「阿波盆踊図屏風」がある。明治2年、63歳で死去した。

鈴江孝之助(不明-不明)
常三島の人。名は広容。鈴江貫中の父で藩士。手習師匠をしていたが、かたわら画を描いた。吉成葭亭のはじめの師だった。

堀江鉄舟(1825-1899)
文政8年生まれ。名は嘉太郎。別号に梅涯がある。那賀郡今津浦の人。浜口南涯に学び、柴秋邨にも師事した。明治17年の内国絵画共進会に出品した。明治32年、75歳で死去した。

村上南嶺(1836-1916)
天保7年生まれ。名は芳太郎。徳島佐古の人。父は安太郎。浜口南涯に師事した。明治17年の内国絵画共進会に出品した。大正5年、81歳で死去した。

林巨渓(1810-1856)
文化9年生まれ。名は坦太郎、諱は道一。坂野大谷の人。鉄復堂について経史を学び、吉成葭亭について四条派の画を学んだ。安政3年、47歳で死去した。

矢島董文(1830-1881)
天保元年生まれ。徳島住吉島の人。藩の小道具方だった。吉成葭亭の門人。明治14年、52歳で死去した。

矢野寛古(不明-不明)
徳島住吉島の人。吉成葭亭の門人。

阿波(17)-ネット検索で出てこない画家


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阿波の円山・四条派

2015-12-02 | 画人伝・阿波

文献:阿波の画人作品集、阿波の画人作品二集、阿波画人名鑑

藩の御用絵師は狩野派にしても住吉派にしても江戸の系統の画派だったが、町絵師の大部分は、南画家を除くと京都の四条派が多くを占めていた。森狙仙に学び、のちに円山応挙に師事した松浦春挙(1771-1847)、柴田義董に師事した大原呑舟(1792-1857)と安藤止堂(不明-不明)、松村呉春に師事した沢山巾逸(1808-1869)、多くの門人を育てた清久南畝(不明-1876)らがいる。

松浦春挙(1771-1847)
明和8年生まれ。幼名は亀八、のちに宇吉。通称は猪三郎。名は依景、のちに重吉。別号に三桃、舜挙がある。小松島市の藍商に家に生まれた。松浦家第七代。幼いころから画を好み、家が裕福だったため再三京都に出て、画を森狙仙に学び、のちに円山応挙に師事した。師の一字をとって「春挙」と号した。動物に巧みで、特に孔雀にすぐれていた。小松島市西野嘉衛門家所蔵の「孔雀西王母」三幅対はその代表作で、県文化財に指定されている。丈六寺の百川和尚とも親交があり、鶏の衝立を残している。晩年、自分の画室を孔雀堂と称して、孔雀を飼っていた。春挙の孔雀帖には柴野栗山、古賀精里、菅茶山らの賛があり、多彩な人物との交流がうかがえる。『阿波国最近文明史料』(大正4年刊行)に孔雀帖の賛を載せている。弘化4年、京都に滞在中に77歳で死去した。

松浦桃挙(不明-不明)
通称は鶴之助。松浦春挙の養子。はじめ春挙に学び、のちに森狙仙に、さらにその子徹山を招いて師事した。

大原呑舟(1792-1857)
寛政4年生まれ。名は鯤。別号に鯤崘、崑崙などがある。京都の人。大原呑響の養子。画を柴田義董に学び、山水、人物をよくした。阿波の藍商たちとの交流があり、小松島の藍商たちや志摩利右衛門、秋田忠助、大磯次郎兵衛らの屋敷にも長期滞在し、阿波各地に多くの作品を残している。安政4年、66歳で死去した。

安藤止堂(不明-不明)
名は克。初号は松坡、また泉石とも号した。父は藩の銃卒だったが、幼くして父を失い母に養育された。画を好んでいたので母が家を売り京都に上がらせて柴田義董に入門させた。さらに岡本豊彦、浜口南涯にも師事した。四条派を学んだが南画風の作品が多い。奇人で常に四方に周遊した。からわら詩を好み、自分の意にまかせて揮毫し、ひとつの風格をなしていた。当時世人は彼の画のよさがわからず求めるものがまれであった。ある翁が「君の画は前の画法ならば世人が皆好んだ。彩色すればよい画になるから貧乏しなくてもよいのではないか」と言った。止堂は「自分の好きなことをしているので人のために描いているのではない」と答え、自分はどの流派にも属さず「止堂流である」と言ったという。一時、徳島慈光寺に寄寓して泥塑人馬を作って貧乏生活をしていたが、のちに町に出て玩具を商うかたわら揮毫していた。晩年南方の田舎に移り、明治15、6年に死去した。海部郡に作品が多く残っていることから、晩年は海部郡にいたと推測される。

沢山巾逸(1808-1869)
文化5年生まれ。名は嘉兵衛。別号に無適斎がある。勝浦郡中郷の薬商で、屋号を竜香園と称した。松村呉春に師事して四条派を学んだ。明治2年、62歳で死去した。

清久南畝(不明-1876)
名は益郎宗久。佐古大裏町の人。藩の小奉行・清久貞兵衛の子。四条派の画人で門人が多い。明治9年死去。

吉永藍畦(1832-1892)
天保3年生まれ。名は敦太郎。徳島佐古の人。清久南畝について四条派を学び、のちに大原呑舟についた。明治22年、多田藍香が徳島紺屋町で市立徳島絵画学校を開いた時に教授をつとめた。明治25年、61歳で死去した。

仁木凌霄(1832-1911)
天保3年生まれ。本姓は森崎。名は万次郎。初号は竹亭。徳島佐古の仁木昭三郎の養子となった。清久南畝について四条派を学び、のちに南画に転じた。明治44年、80歳で死去した。

近藤泰山(1868-1930)
明治元年生まれ。板野郡大山の人。名は智四郎。川端玉章の門人。昭和5年、64歳で死去した。

湊青古(1875-1945)
明治7年生まれ。徳島前川の湊清太郎の長男。名は晴喜。徳島佐古台所丁に住み四条派の画をよくした。山本守渕と親交があった。昭和20年、71歳で死去した。

高原雅州(1882-1939)
明治15年生まれ。名は邦太。徳島矢三口の人。高原一郎の子。深井豊洲の門人。虎の画を得意とした。昭和14年死去。

新居南湖(1887-1926)
明治20年生まれ。本名は伝。徳島佐古の人。表具材料を商っていたが京都に出て山元春挙に師事、四条派を学んだ。大正15年、40歳で死去した。

阿波(16)-ネット検索で出てこない画家


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