松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま長崎県を探索中。

阿波の岸派・岸八行と三木恒山

2015-11-30 | 画人伝・阿波

文献:阿波の画人作品集、阿波の画人作品二集、阿波画人名鑑

阿波の岸派としては、岸八行(1794-1857)、三木恒山(1811-1891)が京都に出て岸駒に学び、師にならい虎の画を得意とした。二人とも阿波に戻り、郷里で門人を育てている。八行の門からは浄徳寺の僧・鳥羽雲明、さらに雲明の門からは大串芦月、岡本雲晴らが出ている。恒山の門からも、子の春暉、松嶺をはじめ多くの門人が出ている。

岸八行(1794-1857)
寛政6年生まれ。板野郡鍛冶屋原の人。名は六郎。京都に出て岸駒に入門、師より岸姓を許された。旧姓は不明。師にならって虎の画をよく描いた。安政4年、64歳で死去した。

三木恒山(1811-1891)
文化8年生まれ。海部郡牟岐の人。一時徳島富田定普請町に住んだことがあるが、のちに小松島坂野に移り住んだ。名は左源太、または正恒。幹姓も使った。三木道碩の五男。16歳で京都に出て医学を学んだが、天保5年に岸駒に入門、20年間研鑚を積み、医業を廃して画に専念した。駿河、中国地方を遊歴して画技を磨いた。花鳥人物に優れていたが、特に虎の画を得意とし、阿波画壇では「虎の恒山」と称された。岸竹堂、原在泉らと交友があった。明治17年の内国絵画共進会に出品して褒賞を得た。明治24年、81歳で死去した。

阿部北涯(不明-不明)
名は郷三郎。岡田竹涯・三木恒山らの師。安政年間の画人だが経歴は不明。

鳥羽雲明(1818-1880)
文政元年生まれ。僧名は宗肝。板野郡高志の浄徳寺第11世住職。幼い頃から画を好み、鍛冶屋原の岸八行に学び、門下でも特に優れていた。さらに京都に出て霊山別院に寓して技を磨いて大成した。岸派で仏画も優れているが、花鳥、人物も得意だった。讃岐の勝覚寺に画を描きに行き、旅先で没した。明治13年、63歳で死去した。

大串芦月(1825-1887)
文政8年生まれ。名は歓次郎、板野郡吉野町五条本郷の人。馬術を藩の師範・岩田七左衛門に学んだ。また画を好み、鳥羽雲明に入門して岸派を学び、岸連山、岸竹堂、長谷川玉峰らの画風を学んだ。明治20年、63歳で死去した。

岡本雲晴(1850-1896)
嘉永3年生まれ。板野郡鍛冶屋原の人。名は茂与吉。慶応2年より鳥羽雲明に師事、雲明没後は矢野誼軒に学んだ。明治17年の内国絵画共進会に出品。北海道に転出して、のちに奈良県に移った。明治29年、47歳で死去した。

藤岡柳村(1838-不明)
天保9年生まれ。名は益蔵。那賀郡島尻の人。三木恒山、阿部北涯に学んだ。明治17年の内国絵画共進会に出品。

工藤華章(1845-1919)
弘化2年生まれ。徳島富田の人。名は左門太。三木恒山に師事した。大正8年、75歳で死去した。

岡田竹涯(1850-不明)
嘉永3年生まれ。小松島坂野の人。名は浜次郎。三木恒山、阿部北涯に学んだ。明治17年の内国絵画共進会に出品。

三木春暉(1852-不明)
嘉永5年生まれ。海部郡牟岐の人。三木恒山の長男。名は正晴。画を父に学び、京都でも学んでいる。明治17年の内国絵画共進会に出品。

三木松嶺(1854-1922)
安政元年生まれ。三木恒山の娘。名はトラ、または虎子。画を父に学んだ。徳島師範学校に勤務した。明治17年の内国絵画共進会に出品。大正11年に死去した。

梅岡蒿亭(1860-不明)
万延元年生まれ。名は発太郎。徳島住吉島藩士・梅岡為次の子。明治10年より4年間矢島董文に学び、その後三木恒山に学んだ。明治17年の内国絵画共進会に出品。

阿波(15)-ネット検索で出てこない画家


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阿波の住吉派の第一人者・守住貫魚と門人

2015-11-25 | 画人伝・阿波

文献:生誕二百年 守住貫魚-御絵師・好古家・帝室技芸員-、阿波の画人作品集、阿波画人名鑑

守住貫魚(1809-1892)は、同郷の渡辺広輝に学んだのち、住吉広定に師事、住吉派の御用絵師として阿波蜂須賀家に仕えた。また、江戸時代に火がついた歴史ブームのひとつである「好古」に精通し、古物の模写や写生、拓本などに力を注いだ。そのあり方が、伝統的な流派から公募された内国絵画共進会での金賞受賞や、伝統的な日本美術の保護奨励を目指してはじまった帝室技芸員制度での選出にもつながった。森魚渕をはじめ多くの門人を育て、近代徳島画壇においてもその流れを汲む日本画家は多い。

守住貫魚(1809-1892)
文化6年生まれ。姓は清原、字は士済、通称は徳次郎。父は藩の鉄砲方で幸次郎。幼名は伸美。はじめ輝美と号し、のちに定輝と改め、さらに貫魚と改号した。別号に是姓斎、寄生軒などがある。文政8年、16歳の時に江戸にいた徳島藩御用絵師の渡辺広輝に入門、その後、広輝の紹介で住吉広定に入門した。藩の鉄砲方をしながら画の修業をし、弘化元年には藩の御用絵師となった。明治4年の廃藩置県で暇をもらい、翌年、64歳で隠居し、旧城下の富田に住んでいたが、明治14年からは大阪に住んだ。明治17年の第2回内国絵画共進会に、平家物語に取材した「宇治川先登図」と、鯉が竜に変わる故事をあらわした「龍門図」を出品し、金賞を受賞。明治23年、82歳の時に、伝統的な日本美術の保護奨励を目指す宮帝室技芸員制度がはじまり、第一回の帝室技芸員に選ばれた。明治25年、84歳で死去した。

小沢輝興(1807-1852)
天保7年生まれ。名は豊太郎。徳島東富田の医師・小沢玄節の子。守住貫魚について住吉派を学び、のちに渡辺広輝にもついて学んだ。嘉永5年、46歳で死去した。

林半窓(1822-1906)
文政5年生まれ。通称は芳太郎。初号は魚藻。天保7年から10年間、守住貫魚について住吉派を学んだ。元藩の掃除坊主。徳島助任の人。明治17年の内国絵画共進会に出品。晩年は表具屋をしていたという。明治39年、85歳で死去した。

村瀬魚親(1824-不明)
文政7年生まれ。名は貢。別号に授琴斎がある。徳島富田下代丁の人でのちに八百屋町に移った。旧藩士。初号は美名。別号に治親がある。村瀬興国の子。守住貫魚について住吉派を学んだ。明治15年、17年の内国絵画共進会に出品。

岸魚躍(1826-1908)
文政9年生まれ。徳島沖ノ町の人。通称は周蔵。初号は美景。家は代々郡方手代。守住貫魚について住吉派を学んだ。花鳥、人物を得意とした。明治41年、83歳で死去した。

小沢魚興(1836-1888)
天保7年生まれ。徳島藩御用絵師。幼名は熊蔵、ついで惣右門、にちに熊太郎。通称は魚雄記。別号に易雲斎がある。小沢輝興の子。はじめ父・輝興に学び、のちに守住貫魚について住吉派を学んだ。明治17年の内国絵画共進会に出品。明治21年、53歳で死去した。

三好賢古(1839-1919)
天保10年生まれ。板野郡勝瑞の人。別号に竹香、青蓮子がある。14歳で守住貫魚に入門し、住吉広賢に師事した。高野山で仏画の研究にも従事した。指絵にも長じていた。東京生活が長かったが、各地に遊歴し、神戸の須磨寺、京都の南禅寺、徳島の立江寺などの襖絵、また京都八坂神社拝殿の三十六歌仙図を描いた。勝海舟、山岡鉄舟らの師遇を得た。大正8年死去。

上田魚行(1841-1900)
天保12年生まれ。徳島富田の人。藩の弓手・上田権右衛門の長男で、彼も弓術家だった。通称は房之進。守住貫魚について住吉派を学んだ。俳人としても著名だった。俳名は橘滴、喫柯、菊可、禾陽といった。明治33年、59歳で死去した。

守住周魚(1859-1925)
安政6年生まれ。守住貫魚の六女。若くして父とともに大阪に出て、高麗町二丁目に住んでいた。明治中期から大正期の閨秀画人として著名だった。大正14年、67歳で死去した。

阿波(14)-ネット検索で出てこない画家


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阿波の住吉派・渡辺広輝と門下三傑

2015-11-19 | 画人伝・阿波

文献:阿波の近世絵画-画壇をささえた御用絵師たち、阿波画人名鑑

大名の御用絵師といえば狩野派が圧倒的に多かったが、阿波の蜂須賀家では南画家の鈴木芙蓉を登用したり、江戸後期になると好んで住吉派を召し抱えたりした。住吉派は、室町時代に宮廷に仕えたやまと絵の流派・土佐派が江戸のはじめに分かれて誕生した流派で、徳島藩の住吉派としては渡辺広輝が最初の御用絵師となった。後継者としては、広輝の門に学び、のちに住吉広定について住吉派を学んだ守住貫魚(1809-1892)、佐香貫古(1812-1870)、鈴江貫中(1831-1868)らがいて、この三人を広輝門下三傑と称した。

渡辺広輝(1778-1838)
安永7年阿波郡香美生まれ。名は八百次。家は代々勝浦郡本庄村に住み、父親の渡辺伯玄は医師だった。父と共に大坂に出ていたが、叔父が徳島寺町の善福寺で住職だったため少年時代はそこに寄宿して画を学んだ。成立書によると、矢野栄教の推薦で江戸に出て画を学ぶようになったとある。18歳の時に江戸に出て、寛政8年に住吉広行の門に入り、文化6年に正式に土佐流御絵師として召し抱えられた。主として江戸に住み、たびたび帰郷した。文化9年に帰郷して約一年間徳島にいたが、その時に善福寺の襖絵を描いた。また、文化13年には江戸で釈尊入滅の図を描き善福寺に送った。徳島県内に比較的多くの作品が残っている。天保13年、65歳で死去した。

佐香貫古(1812-1870)
文化9年生まれ。徳島幟町の人。徳島藩御用絵師、名は荒蔵。別号に広胤、定賢、恒斎がある。渡辺広輝に入門し、のちに住吉広定について住吉派を学んだ。画技にすぐれ、性格は温良で、酒豪だったと伝わっている。隠居後は、新町刻町、通町、大道などに居を移した。明治3年、59歳で死去した。

佐香美古(1839-1910)
天保10年生まれ。富田浦に住んでいた。佐香貫古の子。名ははじめ竹三郎、のちに壮介。別号に美香がある。はじめ父・貫古について学んだが、17歳の時に江戸に上がり住吉弘貫に入門して学んだ。帰郷後は洋画を研究した。明治43年、72歳で死去した。

鈴江貫中(1831-1868)
天保2年生まれ。徳島常三島の人。徳島藩御用絵師、代々藩士の日帳格だった。名は安太郎、または康介。別号に広風がある。また樸斎、貫中の印で半漁と署名した作品もあるので、時に半漁と号したこともあると考えられる。祖父の章介、父の孝之助ともに手習師匠だったため、幼い頃から画を好んだ。渡辺広輝に入門し、さらに江戸に出て住吉広定の門に入り「定衡」と号し、のちに貫中と改めた。江戸にいる時は幕府は貫中を将軍家の絵師としようとしたが、たまたま兄が病死したため藩主に促されて帰郷、藩の絵師となった。藩主が諸侯に贈る絵の多くは貫中に描かせたという。酒を好み、酔っぱらっている時に画を命じられると、裸になって揮毫したという。明治元年、死去した。

阿波(13)-ネット検索で出てこない画家


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夏は完全な裸で過ごした・藤桃洲

2015-11-11 | 画人伝・阿波

文献:阿波画人作品二集、阿波画人名鑑

麻植郡学島二ツ森に住んでいた藤桃洲(1781-1837)は奇人として知られ、数々の愛すべき逸話を残している。桃洲の師である藤桃斎(1752-1820)は、江戸に遊学して画名をあげ、諸国を遊歴したのち京都に長く住み、当時、貫名海屋と共に阿波人の京都における双璧と称されていた。桃洲はその門人だったが、のちに養子となった。

藤桃斎(1752-1820)
宝暦2年阿波生まれ。名は尚董。字は子正、通称は花屋宇右衛門。美馬郡脇町の人。別号に愛山がある。狩野派の河野栄寿に画を学んだ。のちに江戸に遊学し画名があがったが、諸侯の招聘には応じなかった。諸国を遊歴したが京都に長く住んだ。西本願寺再建の折にその障壁画を描いたという。円山応挙の家に出入りしていたが、応挙が自分の門下に入るように勧めたが応じなかった。文化年間、世情を嘆き、帰郷して優遊の生活を送った。文政3年、69歳で死去した。娘の藤三保も父に学んで人物画をよくした。

藤桃洲(1781-1837)
天明元年阿波生まれ。名は権之助、別号に蟻城、勝董がある。麻植郡学島二ツ森に住んでいた。藤桃斎の門人だったが、その後養子となった。極貧の生活の中、画のほかに尺八、琴を愛した。画風は独自のもので、師の桃斎とは異なり美しい色彩と流麗な墨線で描いた。作品は少なく地元に少数残っているだけである。天保8年、57歳で死去した。

桃洲は奇行で数々の逸話を残している。

人に会うことを嫌って、近所に家がない一軒家に住んでいたが、用があると尺八やホラ貝で一番近い上田屋という店に合図をしていた。無欲で家に一文の蓄えがなくても平気で、琴、尺八を楽しんでいた。米がなくなると尺八を持って出かけ、門付(大道芸の一種)をして米銭を得た。

掃除をしないので部屋は塵埃にまみれ、机の横においてあった筍が芽を出して葉を伸ばした。桃洲は非常に喜んで筍の成長を楽しみにしていた。あまりに汚い格好をしていたので、ある人が絽の着物を贈ったところ、近所の子供が螢籠を作っているのを見て着物を裂いて与えてしまった。破れた着物を見かねた近所の人が絹の着物を贈ったところ、それを肌着にして上にまた破れた着物を羽織っていた。

ある時、桃洲の琴が破れているのをみた近所の人たちがお金を出し合って金一両を贈った。桃洲は非常に喜んで徳島に琴を買いに行ったのだが、手ぶらで帰ってきた。尋ねると、徳島から帰る途中に宿屋で琴を弾いていたら、女中が琴の音をしきりに褒めるので彼女に琴を与えたと言う。吉野川が氾濫して多くの人馬が溺れた時、桃洲の身を案じた近所の人たちが、水がひいた後に駆けつけてみると、桃洲は部屋の中に桟を設け、妻と二人でその上に乗って琴を弾いていた。夏は完全な裸で過ごした。

阿波(12)-ネット検索で出てこない画家


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柴秋邨と周辺の南画家

2015-11-09 | 画人伝・阿波

文献:阿波の画人作品集、阿波画人名鑑 

阿波生まれの儒者・柴秋邨(1830-1871)は、幼くして父を失い、貧乏から身をおこして儒者になった。書も画も達人だったが、大酒飲みで酔余の作が多い。門弟が多くて交友も広く、河野鉄兜、藤井藍田らとも親交があった。貫名海屋が自分の跡継ぎにしようとしたが秋邨のほうから断ったという。また、秋邨と親交のあった滝山霞崖(1826-1875)は、福田半香に師事して南画を学び、さらに霞崖に学んだ僧・雪庵も南画をよくし、その門には近久雪巌、曽木聴松、雪琴らがいる。

柴秋邨(1830-1871)
天保元年生まれ。幼名は卯吉、字は緑野、通称は六郎。初号は繭山、のちに秋邨に改号した。別号に東野、帰樸、紅賓、秋孫などがある。堂号に吹万洞、佩香草堂などがある。徳島新町橋北詰西横町の町人・清左衛門の子。幼くして父を失い母に養育された。はじめ医術を学び、のちに漢学を新居水竹に学んだ。さらに江戸に出て大沼枕山に師事、のちに大坂の広瀬旭荘に入門した。嘉永3年に旭荘から、旭荘の旧号である「秋邨」の号を授かり、塾長となった。のちに蘭学を志したこともあったが、山陽地方、九州に遊び、安政4年豊後日田の咸宜園を訪ね、広瀬淡窓塾の世話役をした。文久元年には藩の儒官に任命された。詩書画に長じ『秋邨遺稿』がある。明治3年の庚午事変に関与して3年の処分をうけたが、明治4年、42歳で死去した。

遠藤秋岳(1846-1911)
弘化4年生まれ。名は蓁。徳島佐古の遠藤磯右衛門の二男。医師。幼いころ柴秋邨について草書と南画を学んだ。明治44年、66歳で死去した。

泉智等(1849-1928)
嘉永2年生まれ。麻植郡鴨島の花桝伊兵衛の六男。号は物外。12歳で僧籍に入った。柴秋邨に学んだ。昭和3年、80歳で死去した。

滝山霞崖(1826-1875)
文政9年生まれ。名は寛輔。藩士。徳島紺屋町に住んでいた。福田半香の門人で、詩および南画を得意とした。古藤半仙、柴秋邨らと交友した。諸国を遊歴、一時は立江の八幡神宮の宮司をした。月琴の名手でもあった。明治8年、50歳で死去した。

阿部雪庵(1823-1879)
文政6年生まれ。名は幢徴。板野郡住吉の福成寺の住職。美濃の武士だったが、18歳のころ河内国延命寺の照遍の弟子となった。画は滝山霞崖に学び、南画と書をよくした。明治12年、57歳で死去した。

雪琴(1843-1893)
天保14年生まれ。名は朝研。板野郡奥野観音院の僧。幼名は伊四郎。藍住町東中富の高橋弥代太の子。福成寺の阿部雪庵について密法と書画を学んだ。明治26年、51歳で死去した。

近久雪巌(1853-1945)
嘉永6年生まれ。名は保子。牛島上浦の人。南画を阿部雪庵に学んだ。女流漢詩人として名を知られた。教育者として20数年教職にあった。明治13年徳島女子師範学校を卒業。馬で通学していたという。昭和20年、93歳で死去した。

曽木聴松(1857-不明)
安政4年生まれ。徳島東富田・曽木幸長の子。名は惟長。幼名は鶴太郎。南佐古に住んでいた。家は藩士。阿部雪庵に山水を、後藤田南渓に花鳥を学んだ。大正2年福岡に移り官途についた。明治17年の内国絵画共進会に出品している。

阿波(11)-ネット検索で出てこない画家


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阿波の儒者・赤松藍州と藤井藍田

2015-11-07 | 画人伝・阿波

文献:阿波画人名鑑 

阿波の儒者・赤松藍州(1787-1858)は京都で頼山陽の父・春水に儒学を、画を中井藍江に学び、阿波に戻って多くの門人を育てた。また、尊攘派の儒者・藤井藍田(1816-1865)は、書を八木巽所に、漢籍を広瀬淡窓に、画を中井藍江と田能村竹田に学んだ。藍田は勤王の志士として吉田松陰らと交わり幕府からの追捕を逃れて帰郷していた際、徳島、撫養などで門弟を教えている。

赤松藍州(1787-1858)
天明7年生まれ。本姓は太田。通称は需三郎、名は関、字は了亨。別号に含垢子がある。儒者・赤松鳩峰の門人。鳩峰の養子となった。のちに鳩峰が姓を小寺と改めたため藍州も小寺を名乗った。頼春水に5年間学び、鳩峰について徳島富田から板野郡奥野に移り多くの門人を育てた。麻植郡児島の大島家が郷土人の教育のため学舎を開いた時に招かれてその師となった。のちに招かれて撫養に移った。南画を中井藍江に学び、山水花鳥にすぐれていた。安政5年、72歳で死去した。

小寺芦屋(1827-1870)
文政10年生まれ。赤松藍州の子。名は貫、字は子道、通称は貫一郎。京都に出て貫名海屋に師事、また山本梅逸にも画を学んだ。儒者としても門人が多い。明治3年、44歳で死去した。

大島梅隠(1825-1892)
文政8年生まれ。麻植郡児島の人。名は辰、字は拱之、通称は嘉兵衛。天保年間に大島家が赤松藍州を招いて塾舎を開いた時に藍州に画を学んだ。後藤田南渓に師事し、のちに南渓と共に京都の山本梅逸につき10年学んだ。書画骨董の収集が多い。中国、九州を歴遊し五岳、石田とも交友した。柴秋邨、渡辺桂城、林玄庵、小川守黒らとも親交があった。古画の鑑定にすぐれ、廃藩の時に藩命で藩所蔵の書画の鑑識にあたったという。明治25年、68歳で死去した。

豊原南塘(不明-不明)
板野郡南浜の人。名は謙太郎。父は菊蔵。安政2年より2年間、赤松藍州に学び、のちの9年間、後藤田南渓に学んだ。明治17年の内国絵画共進会に出品した。

三木菁里(1832-1861)
天保3年生まれ。幼名は宗太郎、のちに正貢。字は子親。別号に藍廬、森斎、幹斎、芳桂などがある。赤松藍州に学び、のちに小寺芦屋に学んだ。板野郡松茂の三木家三代。文久元年、30歳で死去した。

古藤半仙(1834-1892)
天保5年生まれ。撫養黒崎の人。通称は江戸屋伝五郎。酒醸業。赤松藍州に師事し、山水、四君子を得意とした。藤井藍田、重春塘らと交友した。明治25年、59歳で死去した。

西暢実(1840-1906)
天保11年生まれ。撫養町斎田西福寺の僧。梅屋と号した。晩年には梅翁、または楳翁と号した。父は瑞音。嘉永2年より5年間赤松藍州について学んだ。明治39年、69歳で死去した。

井後楳雪(1837-1907)
天保8年生まれ。阿波郡香美の人。名は哲五郎。佐藤家に生まれたが、井後道五郎の養子となった。学を佐藤香雪、阿部椋亭、柴秋邨に、画を赤松藍州、後藤田南渓に学んだ。子に新野楳窓、矢部楳斎、加藤楳村がいる。剣道も得意だった。明治40年、71歳で死去した。

新野楳窓(1877-1945)
明治10年生まれ。井後楳雪の子。阿波郡柿原の井後家に生まれ、板野郡板野町の新野家を継いだ。昭和20年、69歳で死去した。

矢部楳斎(1880-1963)
明治13年生まれ。名は祐信。井後楳雪の子。父について書、画、詩を学んだ。のちに土成の矢部家を継いだ。農を業とした。昭和38年、84歳で死去した。

森対石(1848-1919)
嘉永元年生まれ。名は忠次郎、はじめ円石と号した。撫養町南浜の人。父は吉三郎。万延元年より4年間赤松藍州に学んだ。明治17年の内国絵画共進会に出品した。元来豪農の家だったが、財産をすべて画のためにつかってしまったという。大正8年、72歳で死去した。

藤井藍田(1816-1865)
文政13年大坂生まれ。名は徳、通称は平輔、卯右衛門、平左衛門。幼名は平三郎、字は伯恭。別号に独鶴、鸞鈿子、玉生堂主人、梅軒などがある。麻植郡牛島の人・藤井卯右衛門の子。南画を中井藍江、田能村竹田に、書を八木巽所、漢籍を広瀬淡窓に学んだ。安政の頃、勤王の志士として吉田松陰らと交わり幕府からの追捕を逃れて帰郷、牛島の西覚寺に一時滞在した。また、徳島、撫養などにも滞在し門弟を教えている。柴秋邨、新居水竹、橋本晩翠らとも交友があった。慶応元年大坂に帰り、佐幕の浪士に襲われ西奉行の獄中で50歳で死去した。

四宮藍園(1850-1926)
嘉永3年生まれ。名は竜蔵。板野郡木津の人。四宮幸吉の長男。藤井藍田に学んだ。大阪、淡路、讃岐、岡山、豊後、福岡、長崎などを遊歴、家で漢字の塾を開いた。明治17年の内国絵画共進会に出品した。大正15年、77歳で死去した。

四宮藍英(1852-1912)
嘉永5年生まれ。名は栄。板野郡木津の人。四宮幸吉の二男。藤井藍田に学んだ。京阪、伊勢、紀州、淡路、伊予、讃岐、安芸、岡山などを遊歴した。明治17年の内国絵画共進会に出品した。明治45年、61歳で死去した。

阿波(10)-ネット検索で出てこない画家


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中林竹洞の門人・藤重春山

2015-11-06 | 画人伝・阿波

文献:阿波画人名鑑 
関連:尾張南画の全盛、中林竹洞・山本梅逸の登場

中林竹洞に学んだ阿波ゆかりの画人としては、京都在住の藩士の家に生まれた藤重春山(1828-1895)がいる。春山は阿波の蜂須賀家に出入りしていた御用町人で、笛の名手として宮中の儀式に招かれたこともあった。明治維新のころ徳島に移住し、多くの門人を育てた。作品はあまり見つかっていないが、阿波の名勝を描いたものとして、現在の阿南市長生町の石門公園あたりを描いた「津峰石門図」や海部郡海陽町平井にある滝を描いた「轟滝図」が徳島県立博物館に収蔵されている。

藤重春山(1828-1895)
文政11年京都生まれ。家は京都在住の藩士。名は常師。はじめ左衛門、のちに与四郎と称した。別号に後素亭がある。画を中林竹洞に学んだ。横笛の名手でもあり、宮中の儀式に招かれたこともあった。明治2年に徳島東佐古に帰って多くの門人を育てた。明治17年の第2回内国絵画共進会に出品している。祖先は樽井姓で三代樽井与四郎藤重は塗師の名人だった。その藤重をとって以後姓とした。四代藤重与四郎より藩に仕えた。明治28年、68歳で死去した。

岡部春谿(1836-不明)
天保7年生まれ。徳島佐古の人。名は厚平。岡部嘉一郎の子。藤重春山に師事して南画を学んだ。明治17年第2回内国絵画共進会に出品した。

小沢春雷(1846-不明)
嘉永元年生まれ。徳島富田浦の人。名は四方。小沢奇嶂の子。藤重春山に師事して南画を学んだ。明治17年第2回内国絵画共進会に出品した。

小寺春翠(1866-1918)
慶応2年生まれ。徳島中通町の人。名は義太郎。藤重春山に師事して南画を学んだ。古画臨模をよくした。大正11年、53歳で死去した。

木内春園(1869-不明)
明治2年生まれ。名はシケル。佐古の人・木内屯の娘。藤重春山に師事して南画を学んだ。明治17年第2回内国絵画共進会に出品した。

阿波(9)-ネット検索で出てこない画家


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山本梅逸門下の阿波の画人

2015-11-05 | 画人伝・阿波

文献:阿波画人名鑑 
関連:尾張南画の全盛、中林竹洞・山本梅逸の登場

尾張南画の全盛期を牽引した中林竹洞(1776-1853)と山本梅逸(1783-1856)は、ともに京都に出て、阿波の貫名海屋をはじめ多彩な文化人たちと交遊し、多くの門人を育てた。山本梅逸門下の阿波ゆかりの画人としては、奇人で人気があったといわれる後藤田南渓をはじめ、梅逸の門に入り浦上春琴、貫名海屋にも学んだ浜口煮海、中島来章の門に入り山本梅逸、貫名海屋にも学んだ前田半田らがいる。阿波出身の儒者・赤松藍州の子である小寺芦屋も、山本梅逸と貫名海屋に画を学んだ。藍州の門人である大島梅隠は、後藤田南渓に師事したのちに、師の南渓と共に山本梅逸について学んでいる。

後藤田南渓(1807-1866)
文化4年生まれ。麻植郡桑村の人。名は嘉徳、通称は儀十郎、または誼十郎。字は則古。家は藍商の地主だった。24、5歳の時に単身で京都に出て山本梅逸に学び、梅遷と号した。性潔白なところがあり奇行があって人気があったという。師梅逸の愛妾と結婚して南渓と改号した。京都では樵木町に住んでいて、文久の末ごろに兵火にあって帰郷した。『阿波画人名鑑』によると、ある時、商人が明の陳竿の画を売りに来て、南渓は衣服家財を売って300両でこれを買った。火事の時にはただこの一軸だけを抱えて三条河原で平然としていたという。京都復旧後に再遊を図ったが、病気のため慶応2年、60歳で死去した。

片山菊渓(1833-1887)
天保4年生まれ。阿波郡谷島の製藍業吉田屋の末男。名は亀三郎。別号に半酔、菊花隠居がある。村に菊里谷という渓流があり、これからとって菊渓と号した。京都に出て後藤田南渓について学び、さらに嘉永5、6年頃には長崎に出て鉄翁について学んだ。清人・江稼圃とも交流があった。四君子、特に竹を得意とした。明治以降家業が衰退したので山梨県に出て藍作りの教師をした。柴秋邨、大島梅隠とも交流があった。明治20年、55歳で死去した。妻の少香も画をよくした。

野口南海(1826-1902)
文政9年生まれ。名は郁三郎。麻植郡児島野口武蔵の子。天保13年から後藤田南渓について学んだ。兄は蘭法医。南海も医が本業だったが、多能の人で画、書、武道に長じ、裁縫の技術も師匠をしていたほどだった。明治17年の内国絵画共進会に出品。日清戦争の
ころ広島に移住した。韓国にもたびたび旅行していたという。学島の公民館に作品が収蔵されている。明治35年、77歳で死去した。

浜口煮海(1809-1888)
文政6年生まれ。通称は富次郎。撫養桑島の人。父は富右衛門。初号は春坡。京都に出て山本梅逸に入門。また浦上春琴、貫名海屋に師事した。明治17年の内国絵画共進会に出品。明治21年、80歳で死去した。

前田半田(1817-1878)
文政14年京都生まれ。名は碩、通称は春太郎、字は子果。別号に青牛、暢堂がある。美馬郡半田の医師・前田養拙の子。中島来章に入門後、貫名海屋、山本梅逸に師事した。しばしば郷里に戻った。京都では画名高く、梅逸の子・梅所が筆を捨てたのも半田にかなわなかったからだという。明治11年、62歳で死去した。

橋本漁山(1828-1905)
文政11年生まれ。名は二郎。藩の中老稲田筑後の家臣だった。徳島助任槍屋浜の人。前田半田について南画を学んだ。彫刻も巧みだった。明治38年、78歳で死去した。

前田荷香(1833-1905)
天保4年生まれ。前田半田の子。明治13年6月京都府立画学校設立の時、出仕教官となった。明治30年の日本南画協会発会の時の発起会員のひとり。明治38年、73歳で死去した。

阿波(8)-ネット検索で出てこない画家


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幕末の三筆・貫名海屋

2015-11-03 | 画人伝・阿波

文献:近世日本の書聖 貫名海屋阿波画人名鑑

市河米庵・巻菱湖とともに幕末の三筆にかぞえられる貫名海屋(菘翁)は、阿波徳島藩の旧家で藤原鎌足以来の系譜を持つ小笠原流の礼方家であった吉井家の二代目当主・直好と藩御用絵師・矢野常博の娘との間に二男として生まれ、幼い頃は母の弟である矢野栄教から狩野派を学んだ。のちに明の画人銭穀の作である「真景山水図」を観る機会を得て南画に転じたという。書は中国北宋の書家米元章の筆意を得ていた西宣行について学び、儒学については木村蘭皐、ついで高橋赤水に学んだ。しかし、17歳の時に武士の家を捨て、母の末の弟である僧霊瑞を頼って高野山に入り、空海の書に心酔してその筆意の修得に努めた。儒者、詩人として著名だった海屋は、同時に書家・南画家としての評判も高く、様々な文人たちと交流した。そのメンバーは、当時の文化人サロンの中心的存在だった頼山陽(1780-1832)をはじめ、四条派の岡本豊彦(1773-1845)、浦上玉堂の子・浦上春琴(1779-1846)、尾張の中林竹洞(1776-1853)、山本梅逸(1783-1856)、大垣の江馬細香(1787-1861)、梁川星巌(1789-1858)らで、春琴、竹洞、梅逸には多くの阿波の画人が門人として学んでいる。

貫名海屋(1778-1863)
安永7年生まれ。徳島弓町藩の礼法家・吉井永助(直好敬堂)の二男。兄は直道永蔵。幼名は政三郎、のちに苞、または直知、直友ともいった。字は子善、または君茂。通称は省吾、または泰次郎。最初の号を東城といった。のちに海客、海賓、海叟、海屋、海玉、客林、晩年には摘菘翁、方竹山人、嘉永子、菘叟、須静堂主人、三緘主人など多くの別号を用いた。貫名姓は祖先が遠江の貫名郷の出であったためそれをとったといわれる。はじめ叔父の矢野栄教につき狩野派の画を学び、のちに南画に転じた。高野山で空海の書を見て書に執着、ついに書家として一家をなした。西宣行に米元章の書を学び、長崎に赴いて鉄翁にも学んだという。大坂を経て文化5、6年ごろに京都に居を定め、はじめ聖護院に住み、のちに下加茂に移った。文久3年、86歳で死去した。

貫名天蓼(1843-1902)
天保14年生まれ。名は均蔵、はじめ野本金蔵といった。別号に貫均がある。徳島市富田浦町の人。藩士で海屋の甥・吉井三作の二男。貫名硯城の弟。10歳ころに京都に出て、海屋の家に寄宿して画を学んだ。のちに貫名姓を名乗った。約20年間大和に居たのちに妻とともに帰郷、徳島富田に住んだ。『阿波国最近文明史料』によれば「風采容儀が人受けが悪かったためか世人賞するもの少ないのは惜しい」とある。明治35年、60歳で死去した。

三宅舞村(1833-1907)
名は高達、字は玄達。美馬郡舞中島の人。家は代々医者。15歳の時に岩本贅庵に師事した。大阪に出て広瀬旭荘らに学び、のちに長崎に遊び、日田の広瀬淡窓の門に入った。京阪に帰ってからは医を学ぶかたわら貫名海屋、梁川星巌について詩書を学んだ。父の死によって帰郷、脇町郷校、のちに長久館の寮員となった。詩文に巧みで、古書画、器什、刀剣に造詣が深かった。明治40年、75歳で死去した。

阿波(7)-ネット検索で出てこない画家


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