松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま島根県を探索中。

10月30日(金)のつぶやき

2015-10-31 | つぶやきまとめ

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村瀬栲亭と阿波ゆかりの南画家

2015-10-30 | 画人伝・阿波

文献:阿波画人名鑑

藩の御用絵師となった南画家は、鈴木芙蓉・鳴門の鈴木家のみだったが、同時代に活躍した阿波ゆかりの南画家としては、京都で学び秋田藩に招かれて儒官となった村瀬栲亭(1744-1819)らがいる。栲亭は晩年には京都で多くの門人を育て、門下からは田能村竹田らが出ている。代々藩士の家の出である岡田墨樵(1742-1810)は、大坂に生まれ、片山北海に師事し、頼山陽の父・頼春水らと交友、のちに藩の教育に従事した。ほかには、京都に住んで画を業としていたが、のちに江戸に出た井川鳴門、詩書画にすぐれた師禅僧・閑々子らがいる。

村瀬栲亭(1744-1819)
延享元年生まれ。阿波郡市場町香美の人。名は之煕、または小華陽、字は君績、嘉右衛門と称した。別号に神州がある。京都に出て武田梅竜について儒学を修めた。秋田藩に招かれて儒官となり佐竹義和の改革を助けて実績をあげた。詩文に長じ、書は草書、画は蘭竹にすぐれていた。のちに姓を妻の旧姓である「土岐」に改めて土岐仲書と称した。晩年は京都に住み多くの門人を育てた。門下からは田能村竹田らが出ている。揮毫をする時は前日から居室を掃除し起居をつつしんで、若い女性に墨をすらせたという。「墨を磨るのは女性の繊細な手でなければならない」と人に語ったという。当日は早朝から書き始めて終日休まず、最後に得意の蘭竹などを描いたという。文政元年、75歳で死去した。

岡田墨樵(1742-1810)
寛保2年大坂生まれ。家は代々藩士。名は豹、字は君章、別号に寧処、南山、清白主人、静所、古処、折庵などがある。片山北海に学び、詩文、書、画にすぐれていた。頼春水と交友があった。安永6年、藩主治和に従って徳島に移り、寛政5年、藩の教育に従事した。漢詩集に『半間園遺稿』がある。文化7年、69歳で死去した。

井川鳴門(1751-1805)
宝暦元年生まれ。名は貢、字は君錫、通称は源兵衛。別号に雪下園、淑慎斎がある。画だけでなく、武芸、俳諧などにも優れていた。『近世逸人画史』によると、はじめ京都に住んで画を業としていたが、のちに江戸に出たとある。二軒屋実相寺にある墓記には江戸で没したとあるが、名古屋にも住んでいたとみえ「尾府門人眉岳謹識之」とあり、『近世逸人画史』には「名古屋で没す」とある。伊川姓で記した書籍もあり、墓記によると島田姓もあったらしい。江戸では神田左古間町に住んでいた。文化2年、55歳で死去した。

露木石門(不明-不明)
文化頃の徳島の画人。名は珍。字は子潜、または子洗。京都に出て学んだという。井川鳴門の師(一説には鳴門の門人)。姓を「露城」と刻印したものもある。肖像画などの作品が残っているが経歴は不明。

閑々子(1752-1827)
宝暦2年生まれ。三好郡箸蔵村州津の人。幼名は八重八、諱は天如、字は峻山。別号に閑々山人、換水和尚、南方松林子、松林老人などがある。来代禎左衛門の二男。徳島城下勢見の観音寺の快観上人に入門し、のちに備中の井山宝福寺の大雲禅師を訪ね、ついで南都奈良に出て東大寺など諸寺を歴訪して修行、さらに河州葛城山高貴寺の慈雲律師について数年学び、文化8年に徳島に戻った。博学で詩、書、画にすぐれていた。文政10年、76歳で死去した。

多田撃壤子(1773-1827)
安永2年生まれ。小松島の豪農多田家の八代助右衛門。南画をよくした。閑々人が晩年小松島中田に閑居したときに庇護して親交を結んだ。閑々人に南画を教えたとされる。別号に八不居士がある。文政10年、55歳で死去した。

阿波(6)-ネット検索で出てこない画家


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10月24日(土)のつぶやき

2015-10-25 | つぶやきまとめ

文献に『近世日本の書聖 貫名海屋』を追加しました。
yuagariart.com/artist-labo/li…
幕末の三筆にかぞえられ、日本の書壇に大きな影響を与えるとともに、南画家としても活躍した貫名海屋の没後130年を記念した展覧会。



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10月23日(金)のつぶやき

2015-10-24 | つぶやきまとめ

最古の阿波おどり図を描いた御用絵師・鈴木芙蓉 goo.gl/gZfdVT

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最古の阿波おどり図を描いた御用絵師・鈴木芙蓉

2015-10-23 | 画人伝・阿波

文献:忘れられた文人画家 鈴木芙蓉とその周辺、阿波の近世絵画-画壇をささえた御用絵師たち、阿波画人名鑑

藩の絵師は通常幕府にならって狩野派か住吉派から召し抱えられていたが、11代藩主蜂須賀治和は、儒者であり南画家の鈴木芙蓉とその養子・鳴門を徳島藩御用絵師とした。南画は民間において非常に流行していたが、徳島藩のお抱え絵師となった南画家は鈴木家だけである。芙蓉の主な活動の場は江戸だったが、御用絵師に抱えられた寛政8年、その年の5月5日に江戸を出て、12月17日に江戸に帰るまでの約7ケ月間、国元に在番を命じられ、藩主の参勤交代の阿波入国のお供で阿波に滞在している。この間に藩命により、芙蓉の記念碑的代表作に位置づけられる「鳴門十二勝真景図巻」を描いた。また8月の盆踊り(現在の阿波おどり)を見学し、酒に酔った勢いで描いた「阿波盆踊りの図」(個人蔵)は、阿波おどりを描いた最古の絵画作品として徳島市の文化財に指定されている。

鈴木芙蓉(1749-1816)
宝暦2年信濃国伊那郡北方村生まれ。伊賀良の百姓木下勘平の二男。前半生については不明な点が多く、鈴木家の養子になった経緯も不明。名は雍、字は文煕、別号に老蓮がある。若くして江戸に出て、天明年間に林家に入り儒学を学んだ。ここで元徳島藩儒の柴野栗山と出会い、寛政8年、栗山の紹介により徳島藩御用絵師として招かれることになる。画の師としては池大雅、黒川亀玉に学んだとする資料もあるが、同郷の僧雲室の記述や芙蓉の賛から渡辺湊水・玄対に学んだものと考えられる。画風は、南宗画と北宗画を取り入れた中国絵画だったが、それにあわせて南蘋派、長崎派、琳派、やまと絵、円山四条派も学び、特に文化4年頃には雪舟の作品に傾倒し、室町水墨画も取り入れているなど、さまざまな流派の筆法を取り入れ、折衷画様式ともいえる新興画派の形成に大きな役割を果たした。この画派がその後、後輩の谷文晁らによって江戸南画として大流行していくことになる。文化13年、68歳で死去した。

鈴木小蓮(1779-1803)
安永8年生まれ。芙蓉の実子。名は恭、字は遠耻。幼い頃から読書を好み、経書に通じ、文は三代、両漢、唐宋八家を慕い、詩は漢詩を好み、詩文をよくした。書画にも通じ、江戸より京都に出て皆川淇園に学んだ。しかし京都から帰って間もない享和3年、麻疹にかかり25歳の若さで死去した。父芙蓉はその年に『小蓮残香集』を刊行している。寛政9年には京都東山書会に父とともに作品を出品している。

鈴木鳴門(不明-1840)
名清次郎、のちに積、字は一善、通称は源兵衛。別号に淡墨斎がある。生年は不明だが、那賀郡黒地村の生まれ。父と兄直助が徳島城下の中通町で指物屋を営んでいたので、それを手伝っていたが、絵師を志し、江戸に出て芙蓉に師事した。天明年間は茅場町に住んでいたが、芙蓉の子・小蓮が死去したため、文化4年、芙蓉の養子となり、同6年、芙蓉の願いにより家督を相続し、ついで藩の「唐画流御画師」となり、三田の徳島藩邸内に住んだ。天保7年には江戸の八丁堀に住居を構えていたという。天保11年死去。

遠藤萃雅(1789-1821)
寛政元年生まれ。名は乙蔵、石井の遠藤春正の子。春足の弟。鈴木芙蓉、谷文晁に10年学び、各地を遊歴した。文政4年、33歳で死去した。

竹重鳴春(1792-1847)
寛政4年生まれ。名は新之丞、別号に梅窩、栄窟主人がある。鈴木鳴門の門人。弘化4年、56歳で死去した。

梶旗山(不明-不明)
幼名は信次、通称は真悦、名は利長。別号に英山がある。藩士忠次の子。奥坊主、茶道役。画を鈴木芙蓉に学んだ。小原春造の著書『阿波淡路両国物産志』の図譜を、子の英朴と共に完成した。

阿波(5)-ネット検索で出てこない画家


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10月21日(水)のつぶやき

2015-10-22 | つぶやきまとめ

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徳島藩船絵師・森崎家と資料

2015-10-21 | 画人伝・阿波

文献:阿波の近世絵画-画壇をささえた御用絵師たち、阿波画人名鑑

森崎家は、徳島藩蜂須賀家に仕えた狩野派の絵師だったが、森崎桃春・春潮父子の時に、蜂須賀斉昌の意向で住吉派に転向した。その森崎家が伝えてきた粉本類が、徳島県立博物館に「森崎家資料」として収蔵されており、森崎家だけでなく、佐々木家、矢野家、河野家など徳島藩の御用絵師に関する資料が含まれている。森崎家は現在も続いているが、各絵師に関しては不明な点も多いが、森崎春潮(1849-1897)が第2回内国絵画共進会に出品した際の履歴書の写し、同家の永代過去帖、作品などが残っており、そこから各絵師の活動をうかがい知ることができる。

森崎常福(不明-1798)
徳島沖洲の人。藩船関係の絵師で、森崎家の最も古い存在。森崎春潮の履歴書によると、「四世祖ハ号常福ト學フ狩野派ヲ世々此流ヲ不変」とあり、常福が絵師としての祖であり狩野派に学んだとされている。寛政10年死去。

森崎春旦(不明-1840)
名は清九郎。藩の絵師。常福の子。秀応と称した。森崎家資料の中に「花鳥座敷地取」(文化6年)がある。「浪に鷹図」(徳島市立徳島城博物館蔵)には、春旦の落款をいれ「秀応」の印を捺している。天保11年死去。

森崎桃春(1814-1887)
文化11年生まれ。名は辰次郎。春旦の子。父・春旦に狩野派の画を学んだが、のちに藩の絵師・守住貫魚について住吉派を学んだ。明治17年の内国絵画共進会に出品。明治20年、74歳で死去した。

森崎春潮(1849-1897)
嘉永2年生まれ。名は東太郎。桃春の子。はじめ父・桃春について狩野派を学んだが、途中で守住貫魚に入門して住吉派を学んだ。藩船参勤図の大作がある。のちにまた狩野派に転じ、明治17年の内国絵画共進会には狩野派として「琴棋書画図」「龍頭観音図」を出品している。明治30年、50歳で死去した。

阿波(4)-ネット検索で出てこない画家


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10月19日(月)のつぶやき

2015-10-20 | つぶやきまとめ

文献に『忘れられた文人画家 鈴木芙蓉とその周辺』を追加しました。
yuagariart.com/artist-labo/li…
徳島藩御用絵師・鈴木芙蓉の作品を中心に、谷文晁ら江戸南画の作品、芙蓉の養子・鈴木鳴門の作品を一堂に展示。また、芙蓉をめぐる文人たちとの交流にも触れている。



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10月17日(土)のつぶやき

2015-10-18 | つぶやきまとめ

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木挽町狩野家と徳島藩の画人

2015-10-17 | 画人伝・阿波

文献:狩野栄川院と徳島藩の画人たち、阿波の近世絵画-画壇をささえた御用絵師たち、阿波画人名鑑

徳島藩御用絵師では、佐々木家の佐々木養郭をはじめ、矢野栄教、河野栄寿らは、幕府御用絵師の狩野派のうち最も繁栄したとされる木挽町狩野家の当主・狩野栄川院典信に学んだ。またその後も、記録でわかる限りすべての徳島藩の御用絵師は木挽町狩野家に弟子入りしている。御用絵師の系譜は、佐々木家をはじめ、矢野家、河野家、中山家と続いた。

矢野常博(不明-1756)
矢野家は、代々料理方を勤める下級藩士の家柄だったが、常博が絵が得意だったため、作品をたびたび蜂須賀家に献上していた。6代目栄教から正式に御用絵師を命じられた。

矢野栄教(1730-1799)
享保15年生まれ。常博の嫡子。幼名は九郎三郎。明和元年に、木挽町狩野家6代目・栄川院典信に入門し、明和4年、河野栄寿とともに御用絵師に任じられ、号を典信から一字もらい「栄橋」にし、その後「栄教」と改めた。藩主の重喜の絵の稽古相手をつとめ、重喜の娘、載と寿代にも絵を教えた。寛政3年には嫡子の伊籍を養川院惟信に弟子入りさせている。寛政11年、死去した。

矢野伊籍(1777-1811)
安永6年生まれ。栄教の嫡子。幼名は歓竹。寛政3年に木挽町狩野家7代目・養川院惟信に入門し、寛政4年に「歓良」と改名し、寛政8年には8代目・伊川院栄信から一字もらい「伊籍」と改めた。寛政11年に父が没したため、23歳で矢野家の跡目を継いだ。藩主の御前で席画をつとめたりしたが、帰国中の文化2年に病気になり、絵の修業を中断して療養した。文化5年に弟を養子にし、翌年木挽町狩野家8代目・伊川院栄信に入門させた。文化8年、35歳で死去した。

矢野伊章(1785-1840)
天明5年生まれ。幼名は富之助、のちに玄適関。伊籍の弟だが、絵師を継ぐため養子になり、文化6年、木挽町狩野家8代目・伊川院栄信に入門した。文化9年に伊川院より字もらい「伊章」と改めた。江戸で絵の御用を勤めながら、阿波でも御川船の杉戸絵や屏風絵を描いた。天保11年に病死した。

矢野章三郎(不明-不明)
伊章の後を継ぐため、木挽町狩野家9代目・晴川院養信に入門したが、後を継がないまま退身し出奔してしまう。矢野家は、伊章の没後、二男の冨之助が後を継いだが、絵の修業をしなかったため御用絵師御免となった。

河野栄寿(不明-不明)
河野家は、奥坊主や茶道方などを勤めた家柄で、栄寿は、佑筆を勤めていた3代河野平右衛門の四男。名は典雄。幼少の頃から画を好み、それを伝え聞いた峰須賀重喜から、明和元年、木挽町狩野家6代目・栄川院典信への入門を命じられ、明和4年、矢野栄教とともに御用絵師に任じられた。しばしば栄教と共同で仕事をしている。栄寿はいつからか阿波探幽と称されるようになった。享和2年、嗣子の河野伊雪(不明-不明)も絵師として仕えたと考えられるが、文化14年に江戸で出奔し、河野家は二代で断絶した。

中山養福(1805-1849)
文化2年生まれ。名は鍮次、別号に竹窓がある。江戸留守居役中山百助一誠の二男で、母は斎藤氏だが、福岡黒田家の家臣の娘で、その妹が木挽町狩野家8代目・伊川院栄信に嫁いでいる。養福は狩野家の血縁者として、若くして木挽町狩野家に入門した。栄信は養福について、若齢だが後々恐るべき筆意がある、と語ったという。伊川院の没後は、引き続き9代目・晴川院養信、10代目・勝川院雅信のもとで絵を学んだ。阿波の絵師のなかで最も本格的に江戸狩野様式を修得したとされる。嘉永2年、45歳で死去した。

阿波(3)-ネット検索で出てこない画家


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10月15日(木)のつぶやき

2015-10-16 | つぶやきまとめ

文献に『狩野栄川院と徳島藩の画人たち』を追加しました。
yuagariart.com/artist-labo/li…
江戸狩野のなかでも最も繁栄したとされる木挽町狩野家の当主・狩野栄川院典信の画業と、その門下の阿波徳島藩の狩野派絵師たちを紹介。

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10月14日(水)のつぶやき

2015-10-15 | つぶやきまとめ

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徳島藩御用絵師の系譜・佐々木家

2015-10-14 | 画人伝・阿波

文献:阿波の近世絵画-画壇をささえた御用絵師たち、阿波画人名鑑

江戸時代になると世情も落ち着き、町絵師も多く出たが、徳島藩・蜂須賀家は将軍家にならい狩野派の画人を御用絵師とした。御用絵師の家系で最も古いのは佐々木家で、元禄頃に始まったとみられる。佐々木家については成立書は残っていないが、作品や分限帳などから、断片的に名前が知られており、徳島県立博物館に収蔵されている森崎家資料には、佐々木家の絵師名を記した粉本が多数含まれている。しかし、各絵師についての詳細は不明な点が多く、同一人物が重複している可能性もある。

佐々木信之丞(不明-不明)
兵庫県三原郡の観音寺に延宝6年の涅槃図、徳島市丈六寺に元禄8年の曳馬図絵馬を残している。これらの作品は町絵師的な画風を示しており、御用絵師であったという記録も今のところ見当たらない。

佐々木定之丞(不明-不明)
森崎家資料に、柿の木に猿図の粉本(元禄8年)を残しているが、詳細は不明。

佐々木信照(不明-不明)
森崎家資料の粉本の中に、十六羅漢図(元禄10年)、探幽筆写名所山水図(元禄16年)、花鳥図(享保11年)などを残している。花鳥図屏風の粉本には、修理大夫様(蜂須賀吉武)から仰せ付けられ、御茶道中より承ったと記されており、徳島藩御用絵師であったことが分かる。

佐々木作之丞(不明-不明)
平嶋組絵図(享保15年)に佐々木信照とともに名前がみえる。

佐々木玄仲(中)寿信(1714-不明)
森崎家資料の粉本中に涅槃図(享保18年)を残している。正徳4年生まれ。

佐々木由仙常照(不明-不明)
森崎家資料に、狩野安信筆三夕図の粉本(明和7年)を残している。

佐々木典照(不明-不明)
寛政2年に建立された栄川院典信筆塚の「碑陰門人姓名」に名前がある。また、森崎家資料中に「南天ニ ひよ鳥 典照下図」と記された粉本がある。

佐々木養郭惟照(不明-不明)
森崎家資料の中に、伝夏珪筆山水図などの複写(天明4年)を残している。また、栄川院典信筆塚の「碑陰門人姓名」に名前がある。作品に「関羽図」(徳島城博物館蔵)があり、「澤龍斎養郭藤原惟照図」の落款がある。天明・寛政期の人とみられ、矢野伊章と同時代に徳島冨田に住んでいたと伝わる。天保8年の伊川の富士を写したものが森崎家にあり、信照の家系と思われるが不明。般若院に涅槃像があったが昭和20年の戦災で焼失したという。

佐々木唯照(不明-不明)
森崎家資料中、「大和人形」の粉本を入れる袋(文化12年)の表に名前が記されている。

佐々木晴造(不明-不明)
藩の分限帳『徳島分無足以下分限帳』(文政11年)に、「三人絵師 佐々木晴造」とある。

佐々木忠兵衛信照(不明-不明)
森崎家資料の粉本に、狩野典信筆毘沙門像(天保8年)、狩野栄信筆松に富士・竹に雀・柳に燕図三幅対(天保8年)などを残している。

佐々木忠兵衛寿照(不明-不明)
森崎家資料の粉本中に、狩野古信筆鶏図(天保8年)、狩野養信筆寿老人図(天保9年)、紅葉山台徳院霊屋本殿天井の探幽筆飛天図(弘化2年)などを残している。

阿波(2)-ネット検索で出てこない画家


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10月10日(土)のつぶやき

2015-10-11 | つぶやきまとめ

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阿波で最も古い画人

2015-10-10 | 画人伝・阿波

文献:阿波画人名鑑

記録的に阿波で最も古い画人は、臨済宗の僧・周崇(1345-1423)である。破墨山水や人物画に優れていたという。また、阿波細川家当主の細川成之(1434-1511)も画人として名を残している。雪舟の門人・等春はその細川成之に扶持されていたという説もある。さらに時代が下ると、禅宗黄檗派の僧・鉄崖(1626-1703)や禅宗曹洞派の僧・天桂伝尊(1648-1735)らが出てくる。藩の御用絵師でありながら蒔絵師として名を馳せた「谷田蒔絵」の谷田忠兵衛も同時代に活躍した画人である。

周崇(1345-1423)
貞和元年・興国6年生まれ。阿波の上八万の人。俗姓は一宮、字は大岳、臥遊道人、徳斎、全愚道人と号した。幼い頃から阿波郡土成の補陀寺に入り黙翁妙誡(1311-1384)について学び、黙翁が京都の臨川寺に移る時に従って剃髪した。学を好み、相州金沢文庫まで行って書を読んだ。諸寺の名匠に学び、京都に帰って春相国寺の住職となり、ついで嵯峨天竜寺に移った。将軍の足利義満は周崇を深く尊信し、金襴の袈裟を贈った。次いで南禅寺に移り、さらに鹿苑院に移って僧録司となったが、晩年また天竜寺に戻った。画は中国の顔輝によって雄大雅趣に富み、破墨山水や人物画に優れていたという。応永30年、79歳で死去した。

細川成之(1434-1511)
永享6年生まれ。細川阿波屋形七代。前名は久之。細川教祐の子で持常の養子となった。京に出て京屋形細川管領家を補佐、応仁の乱には細川勝元の東軍の主力として活躍した武将だったが、晩年剃髪し、道空と号した。詩歌および画に優れていて、『本朝画史』、『万宝全書』、『皇朝名画拾彙』などで画人としてあげられている。『等伯画説』では阿波讃州とある。『本朝画史』では雪舟に学ぶとある。永正8年、78歳で死去した。

等春(不明-不明)
永正年間の人。雪舟の門人で有数の画人とされるが経歴は不明な点が多い。一般的には備前の人で牧童だったが、周文に見出されて京都に出て雪舟についたとされる。『等伯画説』によると奈良の番匠童子であったという。また、阿波の細川成之に扶持されていたともされている。丈六寺の成之象は等春の筆であるという説もある。

鉄崖(1626-1703)
寛永3年仙台生まれ。禅宗黄檗派の僧。前名は守貞、号は鉄牛。江戸小谷の城主・浅井長政の曾孫とされる。12歳の時に阿波の富田瑞巌寺の慶岳禅師について剃髪、31歳の時に佐古大安寺の住職となった。明暦年間に黄檗木庵の渡来を聞き長崎に行って入門、名を鉄崖と改めた。阿波に戻ってから下八万に唐風の寺竹林院を建てて移った。書画に長じ
「楊柳観音図」が残っている。元禄16年、78歳で死去した。

天桂伝尊(1648-1735)
慶安元年生まれ。作州の人。禅宗曹洞派の僧。鈴木姓、別号に滅宗、螺合老人、米虫老などがある。元禄9年、藩主の要請により丈六寺十四代として阿波に来て10年間住んでいた。狩野派の画をよくした。享保20年死去。

谷田忠兵衛(不明-1733)
元京都・京極若狭守の浪人。名は定茂、本姓は藤原氏。江戸に出て延宝6年3月、蜂須賀綱通に抱えられ藩の御用絵師となった。谷田家の成立書によれば忠兵衛は絵師としてかかえられたが、子孫は代々藩に仕え御納戸役となり、忠兵衛の仕事を継いでいない。忠兵衛は絵師としてよりも蒔絵師として知られている。荒目の砂子を雲のようにぼかして表現した独特の色漆絵は、現在でも「谷田蒔絵」と呼ばれ珍重されているが、その技法は伝わっていない。享保18年死去。

阿波(1)-ネット検索で出てこない画家


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