松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま福岡県を探索中。

紀伊の円山・四条派

2015-09-30 | 画人伝・紀伊

文献:紀州郷土藝術家小傳

紀伊の円山・四条派としては、松村景文の門人である鎌田景麟(1808-1864)、景麟に学んだ塩谷景山(不明-不明)、挿図を多く描いた塩路鶴堂らがいる。また、月僊の門に学んだ森月航(不明-1814)も、円山派から出た一種の風格を門人たちに伝え、和歌山の画壇をにぎわした。

鎌田景麟(1808-1864)
文化5年生まれ。名は方至、字は子炳、通称は惣平。和歌山城下の北の新地の茶屋青棲の主人。京都の四条派である松村景文の門に学び、出藍の誉れとうたわれ、当時大坂の西山芳園らと共に景文門下の秀才とされた。茶屋を営んでいたことから、幕末の志士とも親交があったようで、大坂の会合に行った際に襲われて殺害されたとも伝えられる。画は景文の作風を伝え、花鳥画を得意とした。元治元年、57歳で死去した。

塩谷景山(不明-不明)
和歌山北新西仲間町の表具師。鎌田景麟に師事し、円山派の画をよくした。専ら仕入れの襖絵を描いた。

塩路鶴堂(不明-不明)
天保嘉永の頃の円山派の画家。名は義明、字は思。本草学者・小原良直の著書『桃洞遺筆』に多く挿図を描いている。他に自著として『鶴堂畫譜』がある。

森月航(不明-1814)
名は行貞、字は子暉、本姓は清原氏。豊後岡の出身だが、紀伊に永住していた。画僧・月僊の門人で、月僊の画風を伝えて人物画を得意とした。当時は野呂介石や崖熊野ら南宗画の大家が門戸を開いて庶民の子弟を教育していたが、月航はこれに対して門人を育て、円山派から出た一種の風格を伝えて、寛政文化の頃の和歌山の画壇をにぎわした。文化11年死去。文化6年刊行の「南紀若山新書画展展覧会目録」の中に奥田明斎、成田白圭、松廣月澗、木下月洲が、森月航の門人として掲載されているが詳細は不明。また、「名数画譜」の中に竹林七賢の図がある中村圭峰も月航の門人とされるが詳細は不明。

片山蘆雪(不明-不明)
安政文久頃の人。和歌山岡林泉寺町に住んでいた。円山派の画家で、よく風俗人物を描いた。谷井蘆岳の師。

谷井蘆岳(不明-1907)
通称は種八郎。別号に雙葉庵がある。片山蘆雪の門人。明治40年、59歳で死去した。

水嶋春水(1869-1894)
明治2年和歌山本町生まれ。名は秀穂、幼名は幾三郎。はじめは春汀と号し、のちに春水と改めた。父は藩の御用医師。幼い頃から早熟で、4歳で書を芳山石雨に、5歳で画を筑紫翠雲に学び、ともに出藍の誉れをうたわれた。明治21年、感ずるところあって南宗の筆を捨て、京都に出て幸野楳嶺の画塾に入り、塾長の菊池芳文について学んだが、体が弱く、明治27年、26歳で死去した。

岡崎秀巴(不明-不明)
名は信之助、別号に晴山、桂仙などがある。はじめ榎本遊谷に師事し、のちに京都で竹内栖鳳に学んだ。帰郷して画に専念したが、広隆、玉洲、白雪、介石らの偽物を作り名声が落ちたという。

中島南英(不明-1932)
名は貫一、別号に観月がある。和歌山市の人。京都絵画専門学校を卒業し、和歌山市第一・第二高等女学校で教鞭をとり、修徳学校も兼務した。京都の土田麦僊に師事し、四条派の画をよくした。和歌山黒鳥社の同人。昭和7年、33歳で死去した。

紀伊(13)-ネット検索で出てこない画家


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紀伊の大和絵師・岩瀬広隆

2015-09-24 | 画人伝・紀伊

文献:岩瀬広隆-知られざる紀州の大和絵師-紀州郷土藝術家小傳

岩瀬広隆は京都で生まれ、20代前半には「菱川清春」の名で、菱川師宣五代目を自称し、多くの版本挿画を手掛ける浮世絵師として京都で活躍した。若くして才能を開花させた広隆は、天保年間に『紀伊国名所図会』の挿絵画家として紀伊に招かれ、これをきっかけに名を菱川清春から小野広隆、岩瀬広隆などに変え、制作活動の拠点も京都から紀伊へと移した。紀伊藩10代藩主・徳川治宝のもとでは、復古大和絵派の浮田一や冷泉為恭らとともに『春日権現験記絵巻』の模写なども行ない、のちに紀伊藩のお抱え絵師となって生涯紀伊の地で活躍した。古典に取材した大和絵や風俗画の優品を多く残し、また、様々なジャンルや画題に挑戦し、多種多彩な表現を試みている。

岩瀬広隆(1808-1877)
文化5年京都生まれ。出自についてはほとんで分かっていない。名は広隆、のちに可隆、字は文可、通称は俊蔵または彦三郎とされる。若い頃は俳優の群に身を投じていたが、のちに画を志したとされる。改姓を繰り返し、多くの画号を用いている。『紀州郷土藝術家小傳』によると画号には、曄齋、清晴、清春、青陽齋、雪艇、広隆、仲昭、昭年、海響、櫻塢、琴泉、文可、鞠園、春窓、崖、菊園、延年、文峰、碧田、可隆、谷、梅軒、松溪、琴屋、琴谷、黄萃、汀梅、雨山、鉄鑾、鐵幹、董庵、林屋、風外、竹石、白雲、米年、半夢などがある。晩年は沙門鉄翁に私淑し南画を描き、林屋、白雲、竹石、米年などの号を用いた。最後の号は「半夢」だといわれる。居を水鏡山房と称し、のちに東郊楠右衛門小路に移ってからは松竹山房、黄心居などと称した。明治10年、70歳で死去した。

玉置邦山(不明-1890)
名は豫、字は萬年、通称は次郎平。居を鏡花水月居と称した。別号に萬齢がある。家号を亀屋と呼んだ。和歌山萬町の造酢家で、岩瀬半夢に学んで南宗画を修めた。詩文を好み、また滑稽洒脱の文を書いた。戯号を酢荷擔幽人と称した。『三名家略年譜』(一名墨林清芬)の著書がある。明治23年、64歳で死去した。

山沢与平(1813-不明)
文化10年生まれ。紀伊藩江戸定府の武士。遠藤広実の門人で、大和絵の名手と称された。紀伊藩10代藩主の徳川治宝の命を受け、古典を題材にした大和絵を描き、古い絵巻の模写なども行なった。

彦坂虎山(1837-1899)
通称は平次郎。別号に虎寒子、嘯仙子がある。幼い頃から書を好み、6歳の時に藩主の前で大書を揮毫したといわれる。維新の頃、岩瀬広隆と同居して画を学び、のちに藤本鉄石について南宗画の画法を修めた。明治32年、62歳で死去した。

福井石叟(不明-不明)
通称は善平。もとは黒江の蒔絵師で、はじめ鎌倉景麟に学んで麟山と号し、のちに岩瀬広隆に師事した。明治初年には中西耕石の門に入って南画に転じ、石叟と号した。明治19年頃には大阪に住み、時世の風潮に従い南画を捨て、再び写生派に戻った。明治30数年に同地で死去した。

栗本梅谷(不明-1919)
名は諦念、幼名は房五郎。貴志久大夫の三男。梅原の徳号寺に婿に入り、学を修め住職となった。風雅を愛好し、画を岩瀬広隆に、書を芳山石雨に学び、いずれも巧みだった。特に梅を得意とし、和歌も好んだ。大正8年、70歳で死去した。

古谷深翠(不明-不明)
海草郡貴志村生まれ。名は周平、字は寛。医師の家だったが、岩瀬広隆の門に入って南画をよくした。中年になって越後に住んだが、晩年になって帰郷し画に専念した。

金原白玉齋(不明-1826)
名は文禮、字は内記、通称は彌三郎。別号に露性齋がある。住吉派の画をよくし、肖像を描くのが得意だった。文政9年、42歳で死去した。

畠山菊處(不明-不明)
名は義孝。岩瀬広隆の門に入り画道を修めた。

紀伊(12)-ネット検索で出てこない画家


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紀伊の南画家たち

2015-09-16 | 画人伝・紀伊

文献:紀州郷土藝術家小傳

紀州三大南画家である祇園南海、桑山玉洲、野呂介石を輩出した紀伊には、その門人の他にもさまざまな師系の南画家が活躍した。大江龍眠の実弟で小田海僊に師事した大江霞岳、本草学者で南画をよくした坂本浩雪、『小梅日記』で知られ、当時の和歌山における女性画家の第一人者と称された川合小梅、山本梅逸風の南宗画を描いた岡本緑邨をはじめ、諏訪鵞湖、崖熊野ら多彩な南画家がいる。

大江霞岳(不明-1850)
名は一郎。大江龍眠の実弟。南画をよくし、小田海僊に師事した。嘉永3年死去。

井爪丹岳(1832-1900)
天保3年有田郡生石村生まれ。名は脩祐、字は敬肅、通称は與次兵衛。別号に晩茶翁がある。井爪與次兵衛の子。幼い頃から学問や画を好み、はじめ田辺の大江霞岳について学び、のちに京都に出て小田海僊の門に入った。研究熱心で、南北合法を以って新機軸を打ち立てた。師の海僊も丹岳を養子に迎えたいと願ったが、家業を継ぐために成らなかったという。しかし丹岳は公事の傍ら終生画を描いた。明治33年、69歳で死去した。

東山琴堂(不明-1912)
椒村光明寺の住職。名は義賢。幼い頃から画を好み、井爪丹岳に師事して南画を学んだ。四君子を得意とした。大正元年、65歳で死去した。

坂本浩雪(1800-1853)
寛政12年生まれ。名は直大、字は櫻宇、通称は浩然。別号として香村、永齋、寫蘭、櫻香などがある。紀伊藩江戸詰の医師・坂本順庵甫道の長男。父から医学を学び、かたわら本草の学問を研究、余暇に筆をとって画を研究した。天保15年45歳の時に医業を廃し、画道に精進し、草木花卉などの写生に専念した。桜の花に力を入れ、『浩雪櫻譜』を著している。また、諸国を歴遊し、奇木異草や多数の菌類も写生し、『菌譜』2巻を著した。ほかにも『百卉存眞圖』『百花圖纂』など多くの著書がある。嘉永6年、54歳で死去した。

川合小梅(1804-1889)
文化元年生まれ。羅浮洞仙と号した。藩儒の川合豹蔵梅處の妻。野際白雪に師事したとされ、南画をよくした。特に花鳥、美人画を得意とした。当時の和歌山における女性画家の第一人者と称された。身辺の雑事を記した『小梅日記』でも知られる。明治22年、86歳で死去した。

岡本緑邨(1811-1881)
文化8年生まれ。紀伊出身だと思われる。名は邦直、字は子温。山本梅逸風の南画をよくした。画域が広く紀伊各地に作品が残っている。明治14年、71歳で死去した。

諏訪鵞湖(1764-1849)
名は維、通称は兼次郎。岡本小平太道率の二男に生まれ、江戸の諏訪新左衛門親次の養子となり、明和8年に跡を継いだ。武官の職にあって画をよくした。10代藩主・徳川治宝に同行して紀州へ行った際、熊野を遊歴し、那智滝を模写した。また、公命で富士山に登り、その真景を写生して藩主に献上した。嘉永2年、86歳で死去した。

崖熊野(1734-1813)
享保19年熊野生まれ。紀伊藩の儒学者。名は弘毅、字は剛煥、はじめ順助と称し、のちに權兵衛と改めた。学問を好み、画をよくした。紀伊藩に仕えて文学となり『仁井田好古紀伊続風土記』の編纂をした。文化10年、80歳で死去した。熊野に子はなく明の崖南☆を養子とし、南☆は養父の業を継いで書画をよくした。南☆の子・蘭☆、その子・雲☆と続いた。また、文化6年刊行の『南紀若山新書画展展覧会目録』のなかに中村翠宇は岸熊野の門人とあるが詳細は不明。(☆はすべて「山」+「喬」)

中田熊峰(不明-1886)
田辺の人。名は確、通称は泰平。別号に一簑、孤山などがある。幼い頃から読書を好み、書画もよくした。泉州の日根野対山に師事して南画の画法を学び、山水を得意とした。門人に小山雲泉がいる。明治19年、72歳で死去した。

小山雲泉(不明-不明)
田辺の人。名は袁榮、字は秀水、通称は要助。別号に芝石道人がある。明治11年に同地の中田熊峰に学んで南画を修めた。のちに大坂に出て堀江に住み、烟草業のかたわら筆をとった。其間、琴石、玉江、竹外らの先輩と交遊して研究に励んだ。また余技に篆刻を学び『千字文百顆印譜』を著した。赤松雲嶺はこの門から出た。

水野花陰(1850-1887)
嘉永3年生まれ。名は子、別号に華仙がある。三州田原藩主三宅泰直の三女。幼い頃に渡辺崋山の妻たかめ守役として仕え、長じて紀州新宮藩主の水野家に嫁いだ。画を好み、椿椿山、渡辺小華に学び、明治20年に小華の没後は滝和亭に師事した。大正9年、71歳で死去した。

酒井梅斎(不明-不明)
字は子文。戯れに鳥巣閣主人と称した。尾張の山本梅逸の門を出て、巧みに師の画風を伝えた。和歌山山本町に住んで絵筆をとった。明治12年頃に神戸に行き、海外輸出の陶器画の筆をとった。

堀田霞岳(不明-1931)
海草郡内海町の人。名は重蔵、別号に醉山荘主がある。15歳頃に青木梅岳の門に入り、さらに小室翠雲の門に入って学んだ。帰郷してからは藤白山麓に住んで醉山荘主と称した。昭和6年、35歳で死去した。

諏訪醉古(不明-不明)
紀州伊都郡九度山の人。名は寛。若い頃から画を好み、郷里を離れて田能村直入の門に入って学んだ。明治10年頃に死去した。

松韻(不明-不明)
日高郡御坊町島の人。画を志して京都に遊び、田能村直入の門に入って学んだ。画技は巧みだったが夭折して名を残せなかった。

吉田南涯(不明-不明)
明治年間の人。名は直、字は子和、通称は庄太郎。旧和歌山藩御勘定方の武士。畑屋敷榎丁に住んでいた。京都の南画家・重春塘について南画を学んだ。山水を得意とした。

竹中南渓(不明-不明)
和歌山米屋町の商人。中西耕石について南画を学び、米法山水を得意とした。明治12、3年頃病死した。

神保江村(不明-不明)
名は市右衛門。南紀古座中湊の人。代々醤油醸造を業としていた。風雅を好み、山下蕉雨に南画を学び、花鳥を得意とした。

依岡三交(不明-1901)
有田郡石垣村生まれ。和歌山藩の町与力。名は道義、字は子徳、通称は豫十郎。住居を碧梧翠竹草房と称した。師系は定かでないが南画をよくし、四君子、山水を得意とした。明治34年、62歳で死去した。

田崎藍涯(不明-不明)
牟婁郡の人。通称は伊兵衛。師系は定かでないが南画をよくし、山水を得意とした。明治15年の内国絵画共進会に那智瀑布の図と富岳の図を出品している。

沼野棠宇(不明-1778)
名は国幹、字は子禮。和歌山の沼野家八代の孫で、南画をよくした。安永7年死去。

今川了所(不明-不明)
文化年中の人。名は忠懿、字は君美。南画をよくした。

富松蘭溪(不明-不明)
文化年中の和歌山の人。名は長辰。南画をよくした。名数画譜の幽詩7月のうち「猗彼女桑」の図を描いた。

多賀春泉(不明-不明)
和歌山吹屋丁般若院の住職。名は良潭。南画をよくし、花鳥を得意とした。

的場南岳(不明-不明)
寛政文化の人。和歌山中の島に住んでいて南画をよくした。

藤江石鼎(不明-不明)
名は椿、字は八千。文化文政期の和歌山に住んでいた。名数画譜の中に五岳嵩山の図がある。

塩路五水(不明-不明)
名は久雄、字は徳善、通称は彦右衛門。日高郡島村の人。南画の山水をよくした。

千本碧龍(不明-不明)
和歌山藩士で本町御門番の頭役。通称は左門八。余技で南宗画を修め、山水を得意とした。明治10年頃、鳴神村に移って悠々自適に過ごした。

快處(不明-不明)
名は法潤。日高郡御坊町浄国寺の第九世。安政6年より13年間同寺に住んでいた。仏事の傍ら南宗画の山水をよくした。

水野巨海(不明-不明)
通称は澣二郎。新宮藩主土佐守の弟。椿山と交友があり、沈南蘋風をよくした。

紀伊(11)-ネット検索で出てこない画家


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野際白雪と門人たち

2015-09-12 | 画人伝・紀伊

文献:紀州郷土藝術家小傳

野呂介石の高弟で、紀伊藩のお抱え絵師を務めた野際白雪(1773-1849)は、介石に学びながらも、南画だけでなく、狩野派や四条派風の花鳥画も学んだようで、研究熱心で画域が広かった。また、多くの門人を育てており、その門には紀伊藩士の鈴木景福、鍵野石耕、谷口南洲らが学んでいる。

野際白雪(1773-1849)
安永2年生まれ。紀伊藩のお抱え絵師。名は徴、字は伯亀。別号に石湖がある。居を群玉齋と称した。父は紀伊藩御先手の同心でのちに浪人となった。野呂介石に師事し、高弟と称された。はじめ表具屋を営んでいたため、壮年になってからも古画名蹟に接する機会があるごとに、それを自らの研究の良材に画域を広げていったという。師である介石の死後、介石が生前に語った内容を『介石画話』にまとめた。嘉永2年、77歳で死去した。

野際蔡眞(不明-1871)
名は眞。別号に石居、石湖、白鴎山人がある。本姓の松田氏を出て野際家を継ぎ、白雪の次女と結婚した。養父の後を受けて紀伊藩の絵師となった。明治4年、53歳で死去した。

野際蔡春(不明-不明)
名は春、字は白亀。野際蔡眞の子。画法を父に学び、出藍の誉れの声もあったが、父に先だって夭折し、後を継ぐものはいなかった。

野際小鶴(不明-不明)
野際白雪の妻。夫に師事した。

野際梅亭(不明-不明)
野際白雪の娘か、蔡眞の妻とみられる。父・野際白雪に師事した。

鈴木景福(不明-不明)
通称は治右衛門。紀伊藩士で御留守居番を勤めた。風雅を愛し、野際白雪に師事して花鳥などを描いた。白雪の画風をよく伝えている。

鍵野石耕(不明-不明)
名は長純、通称は幸左衛門。紀伊藩士。野際白雪に師事して、余技に画を描いた。

谷口南洲(不明-不明)
通称は房之助。紀伊藩士。野際白雪に師事して、余技に画を描いた。

久保田矮松(不明-不明)
通称は彌左衛門。紀伊藩に仕え表御右筆組頭を勤めた。野際白雪に師事した。元寺町に住んで余技に画をよくした。

畔柳孤峰(不明-不明)
通称は甚左衛門。紀伊藩に仕えて小普請支配役を勤めた。風雅を愛し、野際白雪に師事して、余技に画を描いた。

石本雪溪(不明-不明)
明治の人。名は芳隆、初号は溪樵。野際白雪に師事した。和歌山西紺屋町の表具師。津田香の著書『木國名勝詩誌』に挿絵を描いている。

瀬本石梁(不明-不明)
天保頃の人。石梁山人と号した。野際白雪の門に学んで山水をよくした。

岩橋鷺洲(不明-不明)
名は藤蔵、岩橋屋と称した。野際白雪に師事して山水を描いた。

池部絢霞(不明-不明)
通称は熊太郎。野際白雪に師事して山水を描いた。師の画風に似ていた。

稲生松林(不明-不明)
名は要人、通称は加兵衛。野際白雪に師事して山水を描いた。

富田翠霞(不明-不明)
通称は與兵衛。野際白雪に師事して山水を描いた。

朝陽(不明-不明)
本姓は不明。通称は次郎四郎。新通に住んで紋書を業とした。野際白雪に師事した。

小川恒貞(不明-不明)
天保時代の人。名は秀平。野際白雪に師事した。

橘翠徑(不明-不明)
名は為綱。野際白雪に師事した。

中村素行(不明-不明)
名は玄同。野際白雪に師事した。

中筋東川(不明-不明)
海草郡禰宜中筋の人。野際白雪に師事した。

中川石峰(不明-不明)
名は正是。野際白雪に師事して、墨竹などをよくした。

中井石雄(不明-不明)
名は與市。野際白雪に師事した。

福富皐松(不明-不明)
字は石眞、通称は半左衛門。野際白雪に師事した。

紀伊(10)-ネット検索で出てこない画家


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野呂介石の門人たち

2015-09-07 | 画人伝・紀伊

文献:紀州郷土藝術家小傳

池大雅の高弟として全国的に名前を知られるようになった野呂介石のもとには、各地から多くの文人たちが訪れてきた。その中には田能村竹田や頼山陽など次世代の南画壇を担う画家たちも含まれていた。また、紀伊でも多くの弟子たちが介石の門に入り、野際白雪、前田有竹、愛石ら多くの南画家が育っている。

前田有竹(不明-不明)
文化文政の人。名は世美、字は子濟、俗称は山田屋總十郎。野呂介石に師事した。介石の高弟とされ、介石と行動を共にすることが多かったとみられる。山水を得意とした。

前田紫石(不明-不明)
前田有竹の妻。夫とともに野呂介石の門に学び、よく師の画風を修得したという。

愛石(1764-不明)
明和元年生まれ。名は直瑞。紀伊の画僧。幼い頃から画を好み、野呂介石に師事し、のちに元明の遺蹟や本朝の先哲の画風を研究して技術が進み、ついに一家をなした。野呂介石と、讃岐の長町竹石(1757-1806)とともに、南画の三石と呼ばれる。

馬上清江(不明-1842)
名は徳五郎、有田郡湯浅の人。通称は馬徳。野呂介石の門に入り、平林無方や浜口灌圃らとともに画を学んだ。天保13年死去。

平林無方(1782-1837)
天明2年有田郡湯浅町生まれ。名は瑞宝。有田郡湯浅の福蔵寺の住職。浜口灌圃らとともに野呂介石の門に学んだ。天保8年、56歳で死去した。

浜口灌圃(1778-1837)
安永7年生まれ。有田郡広村出身の町人。字は恭、幼名は儀三郎、通称は儀兵衛。浜口教表の長男。その居を風信亭と呼んだ。幼い頃から画を好み、平林無方らとともに野呂介石の門に学んだ。天保8年死去。

阪上漱雪(1765-1847)
明和2年生まれ。名は正巳、字は立禮または楽中、通称は傳兵衛といい、田平と表記することもあった。家号は岡崎屋と称した。野呂介石の門人。弘化4年、83歳で死去した。

阪上梅圃(不明-不明)
名は謙、字は皆吉、通称は岡崎屋吉左衛門。別号に熈春齋がある。野呂介石の門人。漱雪の子とみられる。

阪上淇澳(不明-不明)
名は正行。漱雪、梅圃と同じく岡崎屋の出で、野呂介石の門人。特に竹の画を得意としたとされる。

阪上素玉(不明-不明)
名は淑充。淇澳の妻。夫と共に野呂介石に師事した。

薗部屋東渠(不明-不明)
名は久敬、通称は薗部屋百助。別号に清静がある。画を好み野呂介石の門に学んだ。

雲嶺(不明-1839)
名は俊應。寺町護念寺二十世住職。画を好み檀家の野呂介石に師事した。天保10年、68歳で死去した。

小山渭泉(不明-不明)
文化頃の人。名は萬年、字は玄鶴、通称は笹屋孫右衛門。野呂介石の門人。

内田九山(不明-不明)
別号に紀九山人がある。紀州伊都郡高野下九度山の人で、それにちなんで号を「九山」とした。医業のかたわら野呂介石に学び画をよくした。

直川屋梅亭(不明-不明)
名は亦章、通称は次左衛門。家号は直川屋と呼んだ。画を好み野呂介石に師事した。

前田蕉庵(不明-不明)
名は寛、字は襄平、通称は山口屋。野呂介石に師事した。

貞玄(不明-不明)
浄心寺の住職。別号に禹洲がある。野呂介石に師事した。

渥美白濱(不明-不明)
名は政要、字は伯善、通称は甚五郎。別号に雲松斎がある。野呂介石に師事した。

三宅看雲(不明-不明)
西浦と称した。備前の人だが、紀伊に住み野呂介石に師事した。

紀伊(9)-ネット検索で出てこない画家


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最も古い赤富士図を描いた画家・野呂介石

2015-09-02 | 画人伝・紀伊

文献:野呂介石-紀州の豊かな山水を描く-、日本の美Ⅴ 富士山、阿波画人名鑑

紀州三大南画家のひとりである野呂介石(1747-1828)は、鶴亭と池大雅に学び、木村兼葭堂ら関西の文人たちと交流して才能を開花させていった。同じ紀州三大南画家のひとりである一歳年長の桑山玉洲(1746-1799)とは、教えを受けたという説もあるが、お互いに影響しあい高めあう関係だったようである。独学で学び、常に作品に創意を盛り込もうとした玉洲に比べ、介石は真面目で几帳面な性格だったようで、画や画題に多くの情報を書き込んでいる。画に漢詩を引用すればその詩人の名前を記し、中国のスタイルにならった作品にはその画家の名前を冠した。また、名勝を訪れた際には、生で景観を見た時の感動なども丁寧につづっている。日本で最も古い赤富士図を描いた画家とされる介石だが、その「赤富士図」を描いた経緯も、画の中の「賛」に書き込んでいる。

野呂介石(1747-1828)
延享4年和歌山城下生まれ。父は町人である野呂方紹。名は隆、俗称は九一郎、幼名は弥助、字は松齢。別号に斑石(班石)、休逸、第五隆、徴湖、十友、矮梅、台岳樵者、四碧斎などがある。若い頃から学問を好み、紀伊藩の儒者・伊藤蘭嵎に学んだ。本格的に画を学ぶようになったのは、14歳で京都に出てからで、『介石画話』などによると、墨竹を好み、中国の絵を見て練習したものの上達しなかったため、黄檗宗の僧・鶴亭に画を学んだとされる。その後、21歳の時に、池大雅に師事した。安永5年に大雅が死去すると、京都や大坂を往来して、木村兼葭堂ら関西の文人たちと交流を重ね、さまざまな影響を受けながら才能を開花させていった。

47歳の時に紀伊藩士となったが、お抱え絵師のような立場ではなかったため、職務の傍ら画を描いた。寛政5年に公務で江戸を訪れる際、その途中ではじめて見た富士山に感銘を受け、さまざまな場所からみた富士山を描いている。享和元年、再び江戸を訪れる機会があり、その際に昇る前の朝日を受けた紅色の富士山をみた。大変感動した介石だったが、はじめてみる現象のためうまく表現できず、江戸に着いてから友人の儒者・柴野栗山(1736-1807)や菅茶山(1748-1827)らにこの景色のことを尋ねた。すると、彼らはすでにこの現象を知っていて、「紅玉芙蓉」と名付けていた人もいたという。

それから20年ほど経った文政4年、介石はその経緯を賛に記して「紅玉芙蓉峰図」と題した赤富士を描いている。この赤富士図は、天保2年頃に描かれた葛飾北斎の赤富士よりも10年ほど早い。また、近年ではさらに5年ほど早く描かれた介石の赤富士図も発見されている。

野呂介于(1777-1855)
安永6年生まれ。名は隆忠、字は周輔。野呂隆基の子。野呂介石に学び、のちに介石の養子となった。特に山水を得意とした。安政2年、79歳で死去した。

野呂松盧(不明-不明)
『阿波画人名鑑』によると野呂介石の孫という。名は饒蔵。美馬郡半田町に住み、門人を教えていたらしい。伝記ははっきりしないが、介石が丈六寺の百川の師匠として阿波に来たと考えられるので、その縁によって松盧が徳島に住むようになったのではないかとされている。

紀伊(8)-ネット検索で出てこない画家


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