松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま福岡県を探索中。

伊勢の南画

2015-07-06 | 画人伝・伊勢

文献:三重県の画人伝三重先賢傳・続三重先賢傳、伊勢市史第三巻近世編

伊勢地方の南画家としては、尾張の山本梅逸に師事した笠松梅西(1798-1871)、藤本鉄石と交遊し竹中文輔の門に学んだ奥山金陵(1807-1866)、谷口靄山に師事した橋村並子(1816-1884)と橋村香圃(1831-不明)親子、はじめ岸派を学びのちに田能村直入らに師事して南画に転じた有馬百鞭(1835-1905)らがいる。豊受大神宮神楽職で書画・篆刻で名をなした小俣蠖庵(1765-1837)も南画派の画を描いた。また、近江水口の神主でのちに伊勢に移った山口五水(不明-1831)の門からは、久志本博石(1864-不明)、奥村耕烟(1852-1923)、秋田九水(1860-1924)、森岡顕道(1852-1925)、松葉鶴荘(1861-1916)らが出て、伊勢における南画の普及に貢献した。

奥山金陵(1795-1866)
寛政7年伊勢山田生まれ。名は家憲、字は叔章、通称は中書。別号に桃蔭、閑窩がある。
京都に遊び竹中文輔の門に入って治瘍及痘科の学問を専攻した。また松本愚山に経史を、広瀬旭荘に詩法を問んで帰郷した。慶応2年、72歳で死去した。

橋村並子(1816-1884)
文化13年生まれ。橋村主膳正立の妻。名は萬須。画を好み、京都の谷口靄山に学んで南画をよくした。また、足代弘訓に歌を学び、和歌が巧みだった。明治17年、69歳で死去した。

橋村香圃(1831-1875)
天保2年山田上中の郷町生まれ。名は正克、字は禮卿、幼名は壽丸、通称は宰記肥前大夫。橋本並子の子。幼いころから画を好み、母と同じく京都の谷口靄山に学んで南画をよくし、足代弘訓に歌を学んだ。茶は小川流を修めた。また、著名な文人と交遊し、特に貫名海屋とは常に交流していた。明治8年、45歳で死去した。

有馬百鞭(1835-1905)
天保6年鳥羽町生まれ。幼名は麿助、字は希駿。別号に醉漁、醒仙がある。鳥羽藩士・有馬千里の子。18歳の時に藩主に命じられて久井藩の高井某について山鹿流の兵法を学んだ。のちに江戸に遊び小濱大海の門に入り、大海の没後は安井息軒の門に転じて経学・文学を修めた。幼い頃から詩を好み、鷹羽雲淙に師事した。他にも多芸で書画、詩文、和歌、茶、花、謡曲などにも優れていた。画は父の有馬千里に学び、次いで父の師である岸駒の高弟である馬外翁に学んだが、のちに魚住荊石と田能村直入について学び画風が一変、南宗画を主とするようになった。明治39年、72歳で死去した。

小俣蠖庵(1765-1837)
明和2年山田上中之郷生まれ。名は孟寛、のちに孟彝、字は子猛、のちに名六、通称は七代茂四郎。別号に栗斎がある。父は六代茂四郎孟箇、母は五代茂四郎の娘で名は薗明。
代々豊受大神宮神楽職で、家は代々味噌屋を営んでいたが、のちに家が衰えて享和2年には山田八日市場町に移り住み、書画、篆刻に専念し名声を得た。中山精舎で書画会を開催した際には古森厚保も同席していた。「蠖庵」は晩年の号で、主として書画に用い、篆刻には「栗斎」の号を用いた。天保8年、73歳で死去した。

福井端隱(1801-1885)
享和元年山田上中之郷町生まれ。名は末彰、字は孔彰、幼名は武熈皆千代造酒、通称は帯刀後權亮大弼。荒木田姓にして榎倉勘解由武繁の三男。福井帯刀の家を継ぎ山田一志久保町に住んだ。学問をだれに学んだかは定かではないが、常に蘇東坡を信じ研鑚に励んだ。書画・篆刻は小俣蠖庵に学び、特に鉄筆を得意とした。また、茶道は藪内流を修めた。鑑定にも巧みだったという。明治18年、85歳で死去した。

孫福梅知(1829-1889)
文政12年伊勢山田の足代家に生まれ孫福家に入った。幼名は鐵次郎、通称は公好。文雅風流を好み、国学を足代弘訓に学び、また南画ははじめ高木聞泉に学び、のちに日根野対山に学んだ。明治22年、62歳で死去した。

森岡顕道(1852-1886)
嘉永5年尾張知多郡生まれ。のちに伊勢山田に移り住んだ。幼いころから中山弘斎について漢学を学び、石橋知空について国学を、村田梅邨に詩を、横井藻誉に書道を習い、山口五水に師事して南宗画を修めた。もっとも画を得意とし、常に研鑚を怠らず、神都雅人の重鎮といわれた。明治19年死去。

服部小瓶(1840-1951)
天保11年伊勢山田古市町生まれ。津藩儒・土井ゴウ牙について経史・詩文を学び、晩年は江村香巌について南画を修めた。明治26年、55歳で死去した。

江川近情(1852-1921)
嘉永5年伊勢山田生まれ。名は成之、字は士信。別号に夜春房、両日庵、月心、春雲などがある。幼い頃から家学を受け、長じて三井戴星について書道を学び、のちに龍三瓦について漢学を修めた。大正10年、70歳で死去した。

三重(11)-ネット検索で出てこない画家

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