松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま鳥取県を探索中。

狩野派から南画へ・笹川遊原と門人たち

2015-08-12 | 画人伝・紀伊

文献:紀州郷土藝術家小傳

狩野派の画人の中には、諸派の画風を取り入れながら画技を模索するものも出てきた。養父である二代笹川遊泉の後を継ぎ、紀伊藩の御絵師をつとめた笹川遊原(1828-1881)は、壮年の頃は純然とした狩野派だったが、その後、俵屋宗達の画風を慕い、さらに南宗画の筆法を学んだ。遊原の門から出た筑紫翠雲も、諸派の長所を取り入れながら研鑚にはげみ、ついに南画で一家をなした。

笹川遊原(1828-1881)
文政11年生まれ。名は昌信、通称は蕭々齋、別号に瑟がある。祖先は丹波笹山で、養父遊泉の後を受けて紀伊藩の御絵師となった。壮年の頃は純然とした狩野派だったが、中年になるとおおいに感じるところがあって、光琳派に着眼し、俵屋宗達の画風を慕い、没骨の用墨法を研究して取り入れた。また、元治慶應の頃からは、南宗画の筆法を学び、意の欲するままに縦横に筆を運び描いた。筑紫翠雲、榎本遊谷、岡本遊汀らはこの門から出た。明治14年、54歳で死去した。

筑紫翠雲(1837-1905)
天保8年和歌山生まれ。名は廣寧、通称は熊次郎。別号に遊岱、霞谷などがある。伊藤周峰の門に遊び、経史を修め、堀端養恒について狩野派の画法を学んだ。のちに笹川遊原について更に画法を学び、それより諸派の長所を取り入れながら、岩瀬半夢、諏訪蕉雨らと研鑚にはげみ、ついに南画で一家をなした。明治38年死去。

榎本遊谷(1848-1923)
嘉永元年和歌山生まれ。名は信敬、字は士行、通称は貫一。別号に醒石がある。少年の頃に笹川遊原について狩野派を学び、のちについにこれをもって身を立てた。大正12年、76歳で死去した。

岡本遊汀(1854-1914)
安政元年和歌山生まれ。名は支樹、字は黄白、通称は季四郎。別号に煙嶺、不識庵などがある。紀伊藩士・岡本一郎の四男。笹川遊原、筑紫翠雲に師事して南宗画をよくした。のちに大阪博物場に勤めた。大正3年、61歳で死去した。

松廣松琴(不明-1891)
名は禎。幼少の頃から画を好み、明治14、5年に筑紫翠雲に師事した。明治24年、21歳で死去した。

田中五峰(1861-1929)
文久元年生まれ。名は又一郎。田中芳助の子。若くして筑紫翠雲に学んだ。昭和4年、59歳で死去した。

紀伊(5)-ネット検索で出てこない画家

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