松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま島根県を探索中。

河鍋暁斎の師・前村洞和と土佐の狩野派

2016-01-05 | 画人伝・土佐

文献:土佐画人伝近世土佐の美術、海南先哲画人を語る、高知県立美術館館蔵品目録

江戸で仕えた土佐藩の絵師のうち、前村洞和と荒木寛畝は土佐の生まれではない。前村洞和(不明-1841)は、江戸に生まれ、駿河台狩野で学び江戸土佐藩の御用絵師をつとめた。江戸で洞和に学んだ土佐の画人としては、池添楊斎、弘瀬洞意(絵金)、小松洞玉らがいる。さらに洞和の子・前村洞泉は土佐で活躍し、門人には、水口温清堂、足達石泉、野村淡泉、北村幽林斎らがいる。土佐の人ではないが、洞和の晩年の門人に河鍋暁斎がいる。洞和は8歳で入門した暁斎の画才を愛し、「画鬼」と呼んでかわいがっていたが、暁斎が11歳の時に病を得て没した。暁斎は素行に難があったが、恩義には厚く、病床にあった洞和を絶えず見舞い、没後は洞和の肖像を描いて掛け軸を作り、忌日ごとに茶湯を供えた。さらに面打師の出目源助に頼んで師の肖像を彫刻してもらい、仏壇に入れて朝夕礼拝したという。

前村洞和(不明-1841)
江戸に生まれ、本郷に住んでいた。名は愛徳。別号に一楽斎、洞和愛徳がある。幼いころから画を好んだが、家が貧しく画を学ぶ余裕はなかった。父親と引火奴を売り歩いて生活する毎日だったが、駿河台狩野家の前を通るたびに門人たちの学ぶ姿を見ていた。ある時、その様子を見た駿河台狩野家五代・狩野洞白愛信が洞和に筆を与えたところ、学んでもいないのに非凡な才能を発揮したという。その後入門を許され「洞和」の名を拝領、推挙されて江戸土佐藩の御用絵師となった。天保12年死去した。

前村洞泉(不明-不明)
元の名は前田泉太郎。土佐藩御用絵師。前村洞和の門人で前村の姓を継ぎ、土佐で活躍した。洞泉知足、または知義、江隣斎と称した。弘瀬洞意の兄弟子にあたる。河田小龍とも親交があり、門人も多い。

小松洞玉(1831-1893)
天保2年生まれ。名は徳信。善内と称した。幼いころから画を好み、江戸に出て前村洞和に狩野派を学び帰郷、出任して牢番役を勤めた。晩年は画を専業とした。明治26年、63歳で死去した。

水口温清堂(1833-1909)
天保4年生まれ。本名は水口千代治。水口助八の子。土佐郡下知村農人町に住んでいた。15歳の時に土方洞甫に狩野派を学び、嘉永3年師の後を継いで山内家の絵師をつとめ、師の没後は前村洞泉の門に入った。明治42年、77歳で死去した。

足達石泉(1836-1923)
天保7年生まれ。本名は覚蔵、字は子貞。別号に小渓がある。11歳の時に前村洞泉に師事して狩野派を学んだ。明治17年には内国絵画共進会で2等賞を受け、明治19年の東洋絵画共進会でも3等の褒状を受けた。晩年は土陽美術会高知支部にも参加して、当時の高知における狩野派の主導者として知られた。大正12年、88歳で死去した。

野村淡泉(1838-1878)
天保9年生まれ。名は知誠、通称は野村修齋。吾川郡弘岡上の村百十二番屋敷平民医師。前村洞泉に狩野派を学び、才能があったが、明治11年、44歳で死去した。

北村幽林斎(1840-1887)
天保11年生まれ。通称は猪久治。家は代々土佐郡久萬村初月村東久万に住み紺屋を営んでいた。嘉永6年、14歳にして前村洞泉の門に入り狩野派の画を学んだ。明治20年、48歳で死去した。

土佐(3)-ネット検索で出てこない画家

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