松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま福岡県を探索中。

福原五岳と尾道の画人

2016-09-06 | 画人伝・広島

文献:広島県先賢傳、芸藩ゆかりの絵画展、近世広島の絵画展

京都で池大雅に学び、大坂で多くの門人を育て画壇に大きな影響を及ぼした南画家・福原五岳(1730-1799)は、生まれ故郷である尾道にしばしば帰郷し、絵画の指導にあたった。尾道の豪商・福岡屋の平田五峯(1759-1806)も弟子の一人で、五峯の二女・平田玉蘊(1787-1855)、三女の玉葆も五岳に師事した。その後、玉蘊は四条派の八田古秀に学び、菅茶山、頼山陽、田能村竹田らと交遊、美貌の女性画家として名声を得た。亀山士綱の娘・万女や将来を嘱望されながら早世した宮地十三郎も五岳の薫陶を受けている。ほかに尾道では豪商・泉屋の松本緑玉も京都に出て岸駒に学び、帰郷後もたびたび岸駒を招いて指導を受け画業に専念している。浦上春琴も亀山家に招かれ、豪商たちに画の手ほどきをした。尾道済法寺住職で勤王僧として知られる物外(1795-1867)も飄々とした俳画を残している。

福原五岳(1730-1799)
享保10年尾道生まれ。名は玄素のちに元素、字は子絢、通称は太助。別号に玉峰、楽聖堂などがある。京都に出て池大雅に学んだ。特に人物画に優れ、のちに大坂に住んで多くの門人を指導し画壇に大きな影響を及ぼした。片山北海をはじめ葛子琴や混沌社の人々、中井竹山、木村蒹葭堂など広く多方面の人々と交遊した。しばしば尾道に帰郷し、豪商の平田五峰や亀山士綱の娘・万女らを指導した。寛政11年、70歳で死去した。

平田玉蘊(1787-1855)
天明7年生まれ。名は豊子または章。尾道の豪商・木綿屋福岡屋の平田新太郎の二女。父は五峯と号して福原五岳に画を学んだ。玉蘊ははじめ父に学び、のちに福原五岳に師事し、ついで円山派の八田古秀に師事した。詩歌を頼春風に学び、菅茶山、頼春水、頼杏坪、頼山陽、田能村竹田らと交遊、頼山陽との悲恋の物語が伝わっている。妹の玉葆、養子とした玉圃(玉葆の長男)も画をよくした。父亡き後は画人として絵筆をもって母を養い、平田家を守ったいう。安政2年、68歳で死去した。

物外(1795-1867)
寛政7年伊予松山生まれ。名は不僊。幼くして広島曹洞宗伝福寺円瑞に従い得度して国泰寺に入り仏典を修め、かたわら剣も習った。諸国を歴遊し、修行を重ね、無相無我の境地に至り、19歳の頃に広島に帰り、のちに尾道済法寺に住んだ。武芸に通じ、拳骨和尚ともいわれる。俳句もよくし、また勤王の志士とも交遊した。慶応3年、73歳で死去した。

馬場竹琴(1801-不明)
享保元年生まれ。別号に嘯庵などがある。尾道の浄土寺上道に住んでいたとされる。尾道県立美術館に四季花鳥図屏風が収蔵されている。没年は不明だが、粉本で明治8年竹琴75歳とあるものがある。

宮地敬之(1734頃-1791)
享保19年頃生まれ。尾道の人。字は世恭、名は敬之、通称は彦五郎、幼名は辨之助。常に文雅の道を好み、頼春水、菅茶山らに学び、画もよくした。寛政3年、58歳で死去した。

広島(9)-ネット検索で出てこない画家

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