松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま鳥取県を探索中。

美作津山藩の初代御用絵師・狩野洞学

2016-06-22 | 画人伝・岡山

文献:津山藩狩野派絵師 狩野洞学、備作人名大辞典

美作津山藩松平家においても御用絵師は狩野派の門流だった。津山狩野家の祖とされる狩野洞学(不明-1743)は、延宝5年、津山藩松平宣富に江戸で召し出され、津山に転居、翌年には城絵図の作成などを命じられている。しかし、養子をめぐる問題もあり、津山藩から暇を出され、洞学家は断絶となった。その後津山藩では、かつて洞学の養子だった狩野如林乗信(1711?-1781)を祖とした如林系と、絵師として召し抱えられた後に狩野姓を許された如水系の二つの狩野家が存続した。そのほか備中松山藩の絵師も狩野を名乗り、幕末の絵師には狩野素朴(不明-1911)がいる。

狩野洞学(不明-1743)
洞学に関しては、生前に津山藩から暇を出されたため、他の藩士のような勤書が残されておらず、津山周辺に残された作品も少ないため、活動や履歴が明らかでない部分が多い。洞学の祖父・狩野照政と父親の洞晴幸信はともに越後時代の松平光長に仕えていたが、光長が延宝9年にいわゆる越後騒動によって流罪になったため、父・洞晴の代で浪人となった。その後、洞晴は長府藩毛利綱元に仕えることとなり、洞学も家督を相続して毛利綱元に仕えることができたが、「所存」があるとして毛利家には仕えなかった。そして、享保5年、津山藩松平宣富に召し出され、津山藩御用絵師となった。しかし、養子・兵四郎に関する離縁願いのトラブルから、家は断絶となった。
『古画備考』によると、洞学には富信と察信という息子が二人いた。富信は、甚七郎といい、のちに狩野如林と改めた。察信は、享保17年に狩野免許を得て、のちに長府毛利家に仕えた。この富信の後の系譜に狩野文庫や狩野如泉がつながっているとしている。寛保3年死去した。

狩野如林乗信(1711?-1781)
津山藩家臣花沢久兵衛の二男。名は乗信。難波文庫と称した。かつて洞学の養子で、詳細は不明だが洞学から離縁されていた。狩野洞学家が断絶したため、狩野如林を名乗り、如林系の祖となった。天明元年、71歳で死去した。子の市治は、画才に恵まれず、家業を継ぐことができなかったため、父が名乗っていた難波文庫の名で料理方として家督を相続した。その後は、如泉が継ぎ、如泉の子も如林と名乗った。その後は如春が継いでいる。

狩野如水(不明-不明)
狩野乗信に学んだ。名は由信。本名は池渕卯助。藩の使番として仕官し、のちに狩野を姓とし、初代如水を名乗った。この系譜は如真、如慶、如柳と続いたとされる。

狩野如林宗信(1802-1871)
享和2年生まれ。狩野如泉の子。名は宗信。はじめ如春と号して後に如林と改めた。別号に如山、松甫などがある。13歳の時に江戸に上がり狩野宗家について画を学び、その傍ら軍学も修めた。16年間江戸にいて、津山に戻り小役人や御納屋坊主をしていたが、画才を認められ、藩主から狩野姓を許された。また弟子は200余人にも達したという。明治4年、70歳で死去した。

狩野素朴(不明-1911)
家は代々備中松山藩の画士で、狩野派の画法を得意とした。明治44年死去した。

 岡山(4)-ネット検索で出てこない画家

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