松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま島根県を探索中。

明治期の美濃の南画家

2015-04-21 | 画人伝・美濃、飛騨

文献:美濃の南画岐阜県日本画 郷土画家・画人名簿

明治に入っても南画の流行はやまず、第一世代の子や弟子を含め多くの南画家たちが活躍した。明治15年に東京で開かれた絵画共進会には中国南宗派として岐阜県からも多くの入選者を出している。しかし、全国的傾向として、次第に豪放さだけを追い求める形がかりのものとなり、南画は「つくね芋山水」などと揶揄されながら衰退していくことになる。

稲葉五雲
文化13年揖斐郡本郷村生まれ。名は道教。別号に若水がある。光慶寺二十四世住職。父は二十三世道水。20歳の時に広瀬淡窓に学び、帰郷後は本山学寮で学び、貫名海屋に画を学んだ。光慶寺境内に皆山楼を開き、多くの塾生を育てた。明治27年、79歳で死去した。

稲葉香雨
文政5年揖斐郡本郷村生まれ。名は道貫。光慶寺二十五世住職。五雲の実弟。広瀬淡窓に学び、貫名海屋に画を学んだ。兄とともに皆山楼で塾生を教えた。明治29年、75歳で死去した。

小寺霞峰
文化5年生まれ。名は敬忠。大垣藩別勘定奉行。日野霞山に師事し、余暇に画を楽しんだ。

武山霞岳
文政7年羽島郡竹ケ鼻生まれ。名は倉之助。日野霞山に師事した。明治24年、67歳で死去した。

佐久間石居
天保12年不破郡荒崎村長松生まれ。名は佳又。別号に鶴蔭がある。漢詩を宇野南村、南画を日野霞山に学び、霞山没後は大坂の魚住荊石を師とした。長松村明主や同村戸長などを歴任し、明治30年に村長を辞してからは公務に就かず、詩と画に明け暮れた。明治期の美濃南画家の名筆の一人に数えられる。大熊秀斎、和田瓢仙、仁林聾仙、奥富宝年、大橋万峯、坂井藍涯ら多くの画人との交流があった。大正14年、85歳で死去した。

石川柳城
弘化4年尾州佐屋生まれ。本姓は伊東、名は戈足、通称は金三郎、字は子渕。父は旧尾張藩士で、石川氏の養子となった。中野水竹、吉田稼雲に師事した。岐阜県庁に務め、退職後は東京に出て日本南宗画会を組織し、のちに名古屋に帰り千種に住んだ。明治2年、81歳で死去した。

日野文窓
嘉永3年生まれ。名は泰順。別号に眠鶴がある。養老郡直江の蓮光寺の住職。高橋杭水に師事した。大正3年、70歳で死去した。

和田瓢仙
万延元年生まれ。名は義之。北村石樵、天野方壺に師事した。昭和12年、78歳で死去した。

馬渕香外
文久元年本巣郡本田生まれ。名は武治。別号に金華堂がある。村田香谷、山岡米華に師事した。

原松蔭
文久元年揖斐郡池田町東野生まれ。田能村直入に師事した。大正13年、84歳で死去した。

成木星洲
文久3年恵那郡中津生まれ。京都に出て田能村直入に師事し10余年学んだのちに帰郷した。直入はたびたび星洲のもとを訪れ共に写生に行ったという。のちに名古屋西新町に住んだ。昭和10年死去。成木雨峯と同一人物と思われる。

高味石田
慶応3年中島郡石田村生まれ。与右衛門の子。名は友三郎、別号に仙雅、一味庵がある。幼少の頃から学問を好んだ。明治26年から鉄道保線事務官となり名古屋に住んだ。この頃から書画、篆刻を学び、文人墨客と広く交遊した。南画を田能村直入に、俳諧を十六世虚白に師事した。昭和14年死去。

三浦雪峰
文久元年岐阜生まれ。名は元衡。田能村直入の門人・林白水に師事した。

斎藤梅園
慶応元年丹後生まれ。名は梢。羽島郡竹ケ鼻に住んでいた。斎藤畸庵に師事した。

間島竹荘
嘉永2年海津郡高須生まれ。名は養雄。神保木石、山本梅荘に師事した。名古屋鍛治屋町に住んでいた。

井上雲景
明治4年尾州中島郡毛受生まれ。名は観淳。本巣郡穂積町観音院住職。山本梅荘、森半景に師事した。昭和24年、79歳で死去した。

牧村木南
明治10年大垣市生まれ。幼名は彦太郎、父の死により彦左衛門を襲名、家業の欧米雑貨商を継いだ。40代で大野百錬より書、唐詩、作詩を学び、50代で南画を始め、画友の塚越三岳、槌谷素竹と共に愛知県半田の山本石荘を招いて画を学んだ。60代以後になって養老玉泉寺住職の傍島弘宣を中心に、矢橋三郎、矢橋龍吉らと文人趣味を楽しんだ。昭和34年、82歳で死去した。

田辺東洲
明治13年大垣市生まれ。名は伝六。眼科医師。書を大野百錬に、画を山本石荘に学んだ。達磨を得意とした。昭和24年、70歳で死去した。

岐阜(9)-ネット検索で出てこない画家

『岐阜県』 ジャンルのランキング
この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 4月20日(月)のつぶやき | トップ | 4月21日(火)のつぶやき »
最近の画像もっと見る

あわせて読む