松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま福岡県を探索中。

伊勢に円山・四条派を広めた岡村鳳水と門人たち

2015-07-17 | 画人伝・伊勢

文献:三重県の画人伝三重先賢傳・続三重先賢傳、伊勢市史第三巻近世編

岡村鳳水の主な門人である上部斎、榎倉杉斎、荘門為斎の門からも優れた画家たちを輩出した。とくに上部斎の門から出た林棕林(1814-1898)は、江戸に出て谷文晁や渡辺崋山らと交遊し名声を高めた。さらに棕林の門からは磯部百鱗らが出て、伊勢における円山・四条派の系譜が確立していった。

林棕林(1814-1898)
文化11年生まれ。名は維幸、字は善卿、通称は刑部。神職・松田幸益の子で、神職・林直信の養子となった。13歳で上部斎の門に入った。それ以来、昼夜をたがわず、天地間に存在する森羅万象、大は山嶽河海から小は鳥獣蟲魚に至るまで写生し、その写生帳は30余巻に及び、すべてがいい出来だったという。天保7年に彦根の城主・井伊直亮が大老の職につくと、棕林は祈祷師として江戸に上がり、谷文晁、渡辺崋山、春木南湖、鏑木雲潭、椿椿山、大窪詩仏、菊池五山、市川米庵ら多くの文人と交流し、名を高めた。江戸から戻ったのちも、諸国を漫遊し各地の文人たちと交遊した。門人は200人を下らず、その中から磯部百鱗、中野素梅、為田秋齋、溝口春塘らが出た。明治31年、85歳で死去した。

山口耕雪(1810-1849)
文化7年生まれ。山田浦口町に住み、幼い頃から画を好み、荘門為斎の門人となって画をよくした。嘉永2年、40歳で死去した。

廣田篁齋(1818-1881)
文政元年度会郡大湊生まれ。名は正陽、別名は範恒常陵、通称は筑後、幼名は丑三郎。大湊八幡の神主・中須左近治興の二男。廣田正方の養子となった。はじめ上部斎に学び、のちに京都の横山清暉の門に入った。明治14年、64歳で死去した。

飯田素亭(1821-1871)
文政4年山田上中之郷町生まれ。名は和義、幼名は為四郎、諱は御船、俗称は久太夫、のちに久平、公利ともいった。河崎清厚の四男で、飯田家の養子となった。画を好み、上部斎について学び「素亭」と号し、のちに横山清暉の門に入って「竹外」と号した。常に囲碁を好んだ。明治4年、51歳で死去した。

林連舟(不明-不明)
山田中之郷の人。名は周防。幼い頃から画を好み、荘門為斎の門に入って修業し、のちに狩野派風の画を描いた。丹後国で死去した。

三重(14)-ネット検索で出てこない画家

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