松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま島根県を探索中。

東三河における小華門(1)

2014-11-22 | 画人伝・東三河

文献:東三画人伝

明治7年に渡辺小華が豊橋に移り住み、従来の石峰・文笠一門であった画家たちも南画一色となり、小華門は最盛期を迎える。小華門下では、遠江の山下青、豊橋の深井清華、大河戸晩翠、稲田耕山、鈴木梅巌、田原の井上華陵、鏑木華国らが名声を高めた。

深井清華
名は諌雄。深井家は代々吉田藩主大河内家の家老職で、廃藩当時は御中老だった。明治初期に写真家で画家の下岡連杖に師事し、はじめて豊橋に写真術を移入、大手に深井写真館を開業した。渡辺小華が豊橋に来たのを機に、小華について画を学んだ。明治21年、62歳で死去した。

大平小洲
信州飯田の人で、小華を慕い豊橋に来て小華門に入った。豊橋と飯田の間を往来していたが、のちに飯田に定住し、門人も多く育てた。作品は豊橋地方に散見される。

関根痴堂
本名は録三郎、字は美意または美柔、別号に致堂がある。長兄は関根杏村。藩校時習館教授。小華とは交友が深く、文人画を余技として描いた。明治23年9月21日、51歳で死去した。

稲田耕山
渥美郡堀切の名門、藤波平太夫の子。稲田文笠の養女の配偶として養嗣となった。各地の小学校で教鞭をとるかたわら、小華に画を学んだ。明治27年2月25日、42歳で死去した。

長尾清江
吉田藩の経士。小華に師事し、墨竹を専門に学び、竹以外は描かなかった。別号に聽竹がある。明治44年死去。

森田緑雲
名は光文。渥美郡牟呂村の牟呂八幡社世襲の神主である森田光尋の子で、父光尋についで神職となった。明治9年から小華に学び、崋椿系南画を受け継ぎ、小華なきあとは、晩翠、衣洲らとともに三河における小華門を盛り上げた。多くの展覧会に出品しており、明治17年の第2回内国絵画共進会には、原田圭岳、長尾華陽、深井清華、稲田耕山、鈴木拳山らとともに出品。明治17年には、三ツ相栄昌寺観音堂天井画作成に大河内晩翠、植田衣洲らと小華一門として参加。明治23年には第3回内国勧業博覧会で褒状、明治24年に日本青年絵画共進会で一等を受けている。大正2年8月25日、61歳で死去した。

小野杜堂
天保11年8月29日生まれ。本町の酒造家久兵衛の子。幼名は柳三郎、通称は久六で、のちに道平と改めた。諱は正爾。画は百花園に通って小華に師事し、号は掃石。俳画をよくした。明治25年に豊橋町の三代目町長となったが、39年の市制施行後の市長選にやぶれ、その後はいっさいの俗事をのがれ、俳諧書画の世界に遊んだ。大正4年10月14日、76歳で死去した。

鈴木梅巌
天保7年花園町生まれ。名は五平次。本家に子がなく、本家に入って鈴木吉兵衛を襲名した。本町の大山梧平とともに上京し、梧平は表具師を、梅巌は画家を志し塩川文麟に四條派を学んだ。帰郷後まもなく明治の時代となり、四條派から南画へと嗜好が移りゆくなか、梅巌も明治7年に小華が豊橋に来たのを機に、小華について文人画を学んだ。書も能筆で、書画の鑑定にもすぐれ、崋椿一派はもちろん、故人の書画鑑定にも信頼があったという。大正7年、83歳で死去した。

村田小圃
三ツ相生まれ。名は周作。最初は文笠に画を学び、表具師となって船町に住んだ。小華が豊橋に住むようになって、小華の門に出入りするようになり、自然に小華の影響を受けるようになった。大正10年死去。

加藤玉壺
名は皆蔵。船町で表具屋をしていて、小華が豊橋に来たのちに親近の間柄となり、画を学んだ。花道で高名で、松月堂古流の日本総会頭だった。大正8年6月3日、91歳で死去した。

東三河(5)-ネット検索で出てこない画家

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