松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま島根県を探索中。

紀伊の狩野派・岩井泉流

2015-07-31 | 画人伝・紀伊

文献:紀州郷土藝術家小傳

岩井泉流は、江戸で活躍した紀伊藩の狩野派の画家で、師系は定かではないが、江戸木挽町に関わりがあったとみられる。紀伊藩のお抱え絵師だったが、解雇され、大坂の堺での町絵師を経て、また紀伊藩に戻ったという経歴がある。資料によると、画技は確かだったが、酒を好み、身を持ち崩していたらしい。泉流の作品は、和歌山県内の寺社などに比較的多く残っており、丹生都比売神社「繋馬図絵馬」や、紀三井寺本堂の天井画「龍図」などが知られている。

岩井泉流(1714-1772)
正徳4年生まれ。名は貞行、のちに久宗と改めた。江戸の具足師の子。師系は定かではないが狩野派の画をよくした。紀伊藩六代藩主の徳川宗直に御絵師に登用され、のちに御針医並となるが、一時解雇される。のちに再び御針医並となり、さらに御近習にもなった。一時解雇になった経緯は不明だが、この間に大坂の堺へ行き、町絵師として活躍していたという。明和9年、59歳で死去した。

『紀州郷土藝術家小傳』によると、泉流は酒を好み酒代に窮することが多く、その為に鹿画を濫作して小銭を得たりして、酷評され名声を失墜させたこともあったという。島津家が新屋を造営する際には壁画の制作を依頼され、新築の大広間三面に一面荒縄を縦横に描き、ところどころに鳴子を配し、すみずみに少しばかしの稲と5、6羽の雀を描き上げた。その出来栄えはまた格別で、多くの報酬を得たが、そのことにより驕り、度を過ぎた贅沢に溺れ、身を持ち崩したという。泉流の一派とされる画家が『紀州郷土藝術家小傳』に数名掲載されている。

岩井養月(不明-不明)
紀伊の人。岩井泉流の一派と考えられる。南紀徳川史に名前が記されている。

岩井宗泉(不明-不明)
岩井泉流を継ぐもので、堀端養恒、笹川遊原らとともに紀伊藩の絵師だった。

岩井宗雪(不明-不明)
名は芳昌。岩井宗泉の後継者とみられる。

岩井宗繁(不明-1876)
泉流の末裔で、岩井宗雪の子。代々藩の御絵師。明治9年死去。

紀伊(2)-ネット検索で出てこない画家

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