松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま鳥取県を探索中。

絵描きの金蔵

2016-01-14 | 画人伝・土佐

文献:土佐画人伝近世土佐の美術坂本龍馬の時代 幕末明治の土佐の絵師たち、海南先哲画人を語る

江戸で駿河台狩野に学ぶ機会を得た、土佐の髪結いの息子・金蔵は、わずか3年で「洞意」の号を得て帰郷し、土佐藩家老桐間家の御用絵師をつとめた。腕もたち、人気にも恵まれた若き狩野派の絵師・金蔵は順調に画業を重ねていくかにみえたが、贋作を制作した疑いをかけられて失脚、身分を失った。町絵師となった金蔵の行動は謎も多いが、10年を越える空白期間を経て、「芝居絵屏風」の「絵金」として蘇った。中央にもない芝居絵の様式を創出した絵金の仕事は、多くの弟子や孫弟子たちによって描き継がれ、「絵金」の名前は広く親しまれるようになった。戦前までの土佐では、「絵金」は「絵描き」そのものを意味する言葉となっていて、子供が絵を描いていると、「絵金になるがや」と語りかけるのが常だったという。

絵金(弘瀬洞意)(1812-1876)
文化9年生まれ。高知城下はりまや橋近くの新市町の髪結いの長男。通称は金蔵。幼いころから画を好み、近所の紙筆商兼薬種商で南画を描いていた仁尾鱗江に画を習い、16歳の時には藩の御用絵師・池添楊斎美雅に入門し「美高」と名乗った。18歳の時に江戸遊学の機会を得て、江戸土佐藩の御用絵師・前村洞和に入門した。さらに、駿河台狩野六代・狩野洞益春信につき、四代・洞春美信の画風に親しんだとされる。わずか3年の修業で「洞意」の号を得て、天保3年には帰郷して家老桐間家の御用絵師となり、藩医の林家の姓を買い「林洞意」と名乗った。

若き狩野派絵師は腕もたち、人気もあった。しかし、順風だった洞意に贋作事件がふってわいた。33歳の頃と思われるが、古物商から依頼され狩野探幽の「蘆雁図」を伝写したところ、業者がこれに落款印章を押して売りに出した。買主から鑑定を依頼された南画家・壬生水石は洞意の作と見破り、洞意は失脚し身分を失うこととなった。

町絵師となった金蔵は、町医師・弘瀬の姓を買い「弘瀬柳栄」と名乗り、号を友竹とした。その後の行動は不明な点も多いが、歌舞伎、浄瑠璃を題材に、芝居絵、屏風、絵馬提灯、奉納絵馬、横幟、絵巻物、凧絵など多彩な制作を行ない、特に二曲一隻屏風に描いた「芝居絵屏風」は、独創的な構図と強烈な色彩で評判となり、絵描きの金蔵を略した「絵金」と呼ばれて親しまれた。

晩年は雀七、雀翁と改号し、ひすら好きな画を描いていたが、明治6年、突然中風症を患い、自由を失った右腕にかえて、左手で描いていた。その後も養生に専念し、右手で描けるくらいに回復したが、明治9年再発し、65歳で死去した。

土佐(6)-ネット検索で出てこない画家

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