松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま福岡県を探索中。

岡山近世画人として最大の存在・浦上玉堂

2016-06-24 | 画人伝・岡山

文献:岡山の絵画500年-雪舟から国吉まで-岡山県の絵画-古代から近世まで-、岡山県美術名鑑、備作人名大辞典

岡山ゆかりの近世画人として最大の存在は、浦上玉堂(1745-1820)だろう。玉堂は、もともと鴨方藩の武士だったが、風雅の道を求めて50歳になる年に脱藩した。脱藩の理由は諸説あるが、隠逸を好み、書画を愛し、琴を弾じ、詩をたしなみ、ただ好事に浸るという生活態度が藩士に不向きだったと思われる。その後は、七弦琴を抱き、画を描き、酒を友としながら全国各地を放浪し、晩年になって京都に定住した。玉堂の長男・浦上春琴(1779-1846)は、岡山に生まれ、16歳の時に父・玉堂の脱藩に伴って岡山を去り、諸国遍歴ののちに、30代の半ばから京都で画家生活を送った。当時、春琴は玉堂を凌ぐ人気だったという。弟の秋琴(1785-1871)も山水を主とした南画を描いたが、音楽を以って会津藩に仕え、のちに岡山に帰った。

浦上玉堂(1745-1820)
延享2年岡山生まれ。姓は紀、名は弼、字は君輔、通称は兵右衛門。はじめ穆斎と号してのちに玉堂琴士とした。備前岡山藩支封備中鴨方藩士・浦上兵右衛門宗純の長男で、7歳で家督を相続した。師弟関係は明らかではないが、画業は30歳頃に始めたらしく、江戸在勤中に谷文晁らと交流し、また中国画を模写して学んだと思われる。琴への造詣も深く『玉堂琴譜』の著書がある。50歳を迎えた年に、春琴、秋琴の二子を連れて但馬城崎に遊び、そのまま脱藩した。その後は、自由人として諸国を歴遊、67歳以降は京都柳馬場で春琴と同居し、琴、詩、書、画に親しむ悠々自適の生活を送った。自らが画家であることを拒否し、自然のみを対象に、巧みに描こうとする意思もなく、心の動きのままに絵画として仕上げていったという。文政3年、76歳で死去した。

浦上春琴(1779-1846)
安永8年岡山生まれ。浦上玉堂の長男。姓は紀、名は撰、字は伯挙・十干、通称は喜一郎。別号に睡庵、二卿、文鏡亭などがある。寛政6年の父・玉堂の脱藩の際、弟の秋琴と共に同行し、以後京都を拠点に全国を遊歴した。33歳の時に長崎遊学を終えて京都に帰り、柳馬場に居を構えて父と同居した。父とは対照的に写生に基礎をおいた温和な山水や花鳥を描いた。頼山陽、篠崎小竹、柏木如亭ら多くの文人と交流した。弘化3年年、68歳で死去した。

浦上秋琴(1785-1871)
天明5年岡山生まれ。浦上玉堂の二男。姓は紀、名は遜。父に画を学んだ。藤本鉄石、伊藤花竹と親交があった。絲竹を得意とした。明治4年、87歳で死去した。

岡山(6)-ネット検索で出てこない画家

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