松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま福岡県を探索中。

伊予出身の旅絵師・天野方壺、伊予を訪れ作品を残している富岡鉄斎

2016-04-18 | 画人伝・伊予

文献:伊予の画人、江戸・明治の絵師たちと正岡子規

幕末から明治初期にかけて活躍した伊予出身の南画家に、天野方壺(1824-1895)がいる。その生涯はほとんど不明確だが、諸々の資料をつなぎ合わせると、はじめ三津の四条派の画人・森田樵眠に学び、のちに京都の中林竹洞の門に入り、翌年には着色法を土佐光孚に、書画法を貫名海屋に学び、それから九州薩摩まで旅に出た。弘化元年に京都に戻って日根対山に南派を学び、さらに江戸に出て椿椿山に南派を学んだ。嘉永2年には函館、江差に渡り、翌年にかけて蝦夷の勝景を写生した。同6年になって江戸に戻り橋本雪蕉に学び、万延元年に長崎に行って木下逸雲に学んだのち、肥後、肥前や周辺各地をまわり、さらには明治3年中国に渡り、胡公寿に南派を学んだ。その後長崎に戻り、九州各地を遊んだのち、京都から東海にかけて旅行するなど「旅絵師」として諸国を歴遊した。遊歴の生活は晩年まで続き、岐阜の地で没したとされる。

富岡鉄斎(1836-1924)は、青年時代に伊予出身の国学者・矢野玄道と交流し、維新後には伊予出身の佐々木春子と結婚したこともあり、伊予松山をたびたび訪れている。その際に三津浜の人々の歓迎を受け、多くの画を描いている。伊予に関する画題を取り上げた作品も多い。伊予で鉄斎に学んだ弟子としては、中川秋星・藤田三友父子がいる。

天野方壺は鉄斎ともっとも交流があった伊予の画人とされていて、残された資料によると、旅から旅の生活をしていた方壺だが、鉄斎宅からそう遠くない場所に居を置いていることがわかる。また、鉄斎から伊予の近藤文太郎にあてた書簡によると、方壺が明治19年頃に松山で豪商の求めに応じて作品を描いたことや、再び京都に戻り旅絵師を続けていたこと、妻がいたこと、そして鉄斎の17歳の長男・謙蔵が竹輪を持って方壺宅を訪れていることなどが分かっている。

天野方壺(1824-1894)
文政11年松山三津浜生まれ。通称は大吉、名は俊。別号に葛竹城、景山山本、雲眠、壷翁、壷山人・白雲外史などがある。三津の四条派の画人・森田樵眠に学び、のちに京都に出て中林竹洞の門に入った。数度中国にも渡り、胡公寿らに師事して画技を磨いたとも伝わっている。富岡鉄斎とも交流があったといわれる。岐阜、仙台、高田など全国を旅して歩き、松山城天主閣蔵の「山水花卉図屏風」をはじめ、各地で多くの作品を残している。岐阜高山で没したという説もあるが、その生涯は不明確である。明治27年、67歳で死去した。

富岡春子(1846~1940)
弘化3年生まれ。富岡鉄斎の妻。父佐々木禎蔵、母イクの三女として長浜に生まれた。佐々木家は代々大洲藩の長浜番所に務めていた。19歳で京都の五条家に奉公に出て、明治5年、26歳の時に富岡鉄斎と結婚した。書や歌をよくし、墨絵を書いたり楽焼を好むなど趣味も広く、長浜で幼な友達、知人との交流も深かった。昭和15年、94歳で死去した。

藤田三友(1869-1947)
松山市湊町でカツラ屋を営む風流画人・中川秋星の二男。請われて藤田家を継ぎ三番町に住んでいた。明治6年、父の秋星は風雅の友、永木竹雨宅で富岡鉄斎と知り合い、以後父子ともに鉄斎の画風を学んだ。愛媛美術工芸展委員として活躍。昭和22年、78歳で死去した。

伊予(15)-ネット検索で出てこない画家

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